卓上ゲーム板作品スレ 保管庫

第02話

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天へと捧げる一刀・後編



 十数分後、トレーニングルームの中央となるフロアで二人は向き合っていた。
 足元は滑りにくく摩擦のかかった、されど無機質な金属にも鉱物にも似た材質の床。
 そこで柊は屈伸をしながら、長い海中生活で痺れて手足に熱を与えていく。
 対する安藤は目して動かず、既に候補生との指導でほぐれた体の熱を吐き出し、呼吸を整えながら疲労を抜き、集中力を高めていた。
 高まる空気の圧迫感。
 見守る見物客達の視線が少しわずわらしいが、戦闘に没頭すればそんなことは消え失せると確信していた。

「最初はどうする?」

 柊はストレッチをしながら、安藤に尋ねる。
 その周囲で見守るエリスやくれは、その他もろもろの視線がくすぐったが、出来るだけ気にしないことにした。

「無論、主は魔剣を使え。私も神罰刀を抜く」
「いいのかよ」

 柊が目を見開く。
 どうせ木剣程度で打ち合う程度だと思っていた。
 相手になどされないと諦めていた分嬉しい誤算だった。

「ああ、だから――」

 ストレッチを終えた柊を見据える安藤の瞳は鋭く冷たい。
 小指から緩やかに指を折り曲げて、鷲爪のような手の平の形を作り出す、まるで柄を握り締めるかのような手の動き。
 そして、構える。
 安藤が構えて、息吹を発した。
 無音なる息、しかしそれに乗って声が聞こえたのだ。

 ――一太刀で終わらせるな。

 そう安藤の瞳は、気配は、息吹は語っていた。
 ぞくぞくと全身の肌が泡立つような剣気、剥き出しの闘気、これが安藤 来栖の気配か。
 柊は己の全身に流れる血液がドライアイスにでもなったかのような冷たく焼かれるような錯覚を覚えた。指先が痺れて、爪先が強張り、全身の肌が固められたかのように強張るのを感じた。
 怖がっているのか。
 恐れているのか。
 魔王と対峙した時とはまた異なる鋭く、どう踏み込んでも首を刎ねられる幻覚しか見えない、斬撃の死神の姿が見える。
 武者震いなどではなく、正真正銘恐怖からの震えを柊 蓮司という魔剣使いは体感し――

(いや、だからこそ)

 一つの意思と可能性を見出し、柊は目をカッと見開いた。
 同時に両手を握り締め、嵌めたフィンガーグローブがぎぎぎと強張った音を立てて、軋みを上げる。

「む?」

 安藤はその様子に僅かに細めた瞳を広げて、和紙の向こう側に墨が滲み出るかのように喜色の念を浮かべてみせた。
 なるほど、やはりこの程度の剣気で怯みもしないか。
 ならばこそ、剣を抜く価値がある。

「構えよ」
「応」

 共に月衣(かぐや)を展開。
 虚空に柄が浮かぶ。
 安藤の横脇には日本刀を思わせる絹糸の柄を。
 柊の側面には西洋剣を思わせる錬鉄の柄を。

 ――引き抜く。

 瞬間、安藤の手に握られたのは麗しき刀身を兼ね備えた一振りの太刀。
 見よ、名工の手によって打ち出された現代の魔刀の姿を。
 その星流れる隕鉄を混ぜ込み、神すらも切り裂くために刃にはマリーアントワネットの血を啜った断頭台の刃を、清正を切った村正を、靖国たたらの玉鋼を持って造り上げられた最高の一振り。

 仇なす凶魔に神罰下し 荒ぶる神にも罰下す
 抜けば焔立ち 振るわば(ほしなが)星流る
 神剣名刀切り裂き候 妖刀魔刀神罰刀

 その刃を向けられし魔は怯え、神は震え、あらゆる全てを切り伏せる背筋すらも怖気立つ銘刀。
 抜けば玉散る壮絶至極極めの一刀。
 安藤が振るいし、その神斬の太刀は如何なる障害をも退けるだろう。
 その煌めきに、その凄絶なる気に、篭められし名工の執念が、握り締めた安藤の剣気が、心地よい気温に設定されたはずの大気を凍りつかせる。
 それに抗うかのように、柊の手に引き抜かれたのは一振りの西洋剣。
 巨大なる刀身、全長あわせて身の丈ほどもある剣。その柄には宝玉が埋め込まれ、その鍔はまるで飛竜が翼を広げたかのごとき形。
 誰もが知る、誰もが知らない。
 それは幾多の邪悪を切り裂き、一人の世界を滅ぼした魔神を傷つけ、神をも喰らった魔を葬り、三体の神を殺しせしめた神殺しの刃。
 伊耶冠命神の自殺の引き金、己を殺すために埋め込まれた神殺しの呪。
 その呪により金色の魔王と讃えられし裏界第一位の魔王にして古代神を引き裂いた。
 さらには世界に絶望した神の分身をも葬った。
 古来より伝わる伝説の一振り。
 星の巫女の守護者、七本のうちの一振り、その内でも魔王の欠片たるヒルコを喰らいて進化し続ける魔剣。
 それが柊の剣。
 共に神をも殺せる資格を、存在を、魔王すらも恐れさせる魔剣の担い手たちに握り締められ、この世界に姿を現す。
 誰かが怯えた気配を見せた。
 誰かが息を飲む気配があった。
 だが、知らぬ。
 そんなものはどうでもいい。
 その手に魔剣の感触があり、対峙すべき相手がいるのだから、他のことになど目を向ける余裕などありはしない。

「相変わらず……化け物じみた魔剣だよなぁ」

 柊が軽口を叩く。
 かつて数秒だけ借りた魔剣。
 しかし、振るい終わった後に柊はその手を握り締め続けて、エリスや他の皆には伝えなかった事実がある。
 手が焼かれたのだ。
 例え魔剣の振るい手が認めようとも、魔剣が認めるのはただ一人。
 その拒絶反応は確かにあった。
 だがしかし、それ以上に神罰刀、それが秘める凶気なる力に柊の手が悲鳴を上げた。
 並みの人間が握り締めれば瞬く間にその力に溺れるか、それとも手が千切れ飛ぶか。
 それほどの魔剣であり魔器。
 神剣名刀すらも切り裂くとはよく言ったものだと柊は思う。

「なに、老骨の手にはいささか重いが、大したことは無い」

 そう告げる安藤の瞳には自惚れも力に対する酔いなど微塵もなかった。
 かつて強大なる七徳の宝玉の一つを封じ続けた魔剣、それは役目を終えて、魔剣使い安藤 来栖の手に戻ったのだ。
 知る者が知れば絶叫すべき事態。
 そして、柊はそれに挑みかかろうとしている。
 腰を落としながら、じわりと吹き出す汗を抑えられるとは思えなかった。

(やべえ。下手に攻め込んだら――どう足掻いても斬られる)

 脳裏に浮かぶ一刀の元に切り伏せられる自分の死に様。
 何十種類と考える攻め打ちを思考するが、どれも失敗のイメージしか浮かばない。
 じりじりと爪先で進む、間合いを計る、普段にはない行動。
 そんな柊に薄く笑みを浮かべて、安藤は告げる。

「来るがいい。慣れぬ行為は無理となるぞ」
「っ」

 安藤はあえて誘うかのように足を踏み出した。
 とんっと恐ろしくあっけない踏み込み、されどそれは確かに互いの間合いを埋めて、そして柊には巨大地震の如く偉大なる一踏みに思えたのだ。
 怯めば負け、立ち止まれば負ける。
 ならば――進むしかないだろう。

「ぉ」

 喉を鳴らす。
 全身の細胞に気合を発し、柊は吼え叫びながら、ただ真っ直ぐに前進する。

「ぉおおおおおお!!」

 それは室内全てが震えるような巨大なる声。
 同時に柊の姿がほぼ全ての人間の目から消える。
 プラーナを解放、足腰に叩き込み、音速を超える踏み込みを行った。
 纏う月衣が音響の壁を相殺し、どこまでも無抵抗な待機の中を一足の元に詰めて。

「遅い」

 振り上げられた旋風の如き一太刀を、雷光の如く放たれた一閃の斬撃が弾いて、散らした。
 火花が散る、二振りの魔剣の初撃に、流星のごとく、落雷の如き火花と轟音が鳴り響く。

「うわ!」
「すごい」

 ギャラリーの声が語り紡がれるよりも早く、二人の剣士の行動は次の次の次の手順まで終えていた。
 初撃は弾かれた。その反動を無理に殺さず、柊は爪先のみで軸を返すと、その切り返しだけでブーメランのように舞い戻る斬撃を打ち放つ。
 その一撃に安藤は僅かに神罰刀の尖端を揺らすと、ゆらりと亜音速で迫る剣撃を受け止め、インパクトの刹那に捻じ曲げた刀身の揺らぎのみで捌いてみせる。
 完全に見切られている、舌打ちを洩らしたい気持ちを押さえ込み、柊は流されかける手の動き。
 それを握り締めたもう片方の手で柄に掌打を打ち込み、無理やりに体勢を整えて見せた。追撃に迫る斬首の一刀、それを弾き上げて、柊は風に飛び去るように僅かに間合いを広げる。
 安藤の眉が歪む、ほんのぴくりとした反応、完璧な動きの乱れのはずだった。
 それに反応し、立て直したのは幾多の経験が故にか。

「なるほど」

 得心するかのような一言。

「なんだ?」
「いや、気にするな。ただの独り言だ」

 しかし、意味のある独り言だった。
 今度はこちらからと告げるかのように、安藤が間合いを狭める。
 ほんの僅か、されど柊が気付かないうちに――一足一刀の距離に潰されている。

「っ!?」

 誰が気付こうか、注目などしない、その足元。
 安藤は足袋を履いていた、さらに長い裾のある作務衣を着ていた。
 これこそが不可思議な現象の秘密。
 裾を持って足首を隠し、指先を持って進むすり足が技法。
 人は人の動作を見て、その距離感を把握する。
 まったく姿勢が変わらずに進む直線エレベーターの人間を見て、パッと見で距離感を図ろうとして失敗した経験は無いか。
 上半身の体勢が変わらずに進むそれは間合いを狂わせる魔法のような動作。
 そして、既にそれは互いの領域だった。

「チェストォ!」

 苛烈なる声。あえて叫んだのは柊に反応を齎すためか。
 振り抜く軌跡は流星の如く煌めきに満ちた神罰刀が一刀。
 その太刀を、音速を超える斬撃を反応したのはもはや無意識。
 動体視力では追えぬ、脳の思考では追いつけぬ、ならば肉体に刻まれた反応でしかあるまい。
 故に無意識に、或いは意図的に、柊と安藤は斬撃を繰り出し始める。
 金属音を響かせ、落雷の如き火花を鳴らし、轟風となる衝撃破を撒き散らしながら、斬る、斬る、斬る。
 ようやくエンジンが掛かったとばかりに互いの速度が高まり、縦横無尽、変幻自在と軌跡が刻まれ、描かれていく。
 その凄まじき光景は壮観の一言に尽きた。
 候補生達は激しい攻防に目を白黒させて。
 エリスは互いに致命傷に至るだろう剣撃の応酬に胸をはらはらさせて。
 くれははわーと驚愕に顔を歪めながらも、息を呑み。
 コイズミは出来うる限り冷静に二人の戦いを見続けようと考え。
 マユリはついていけないとばかりに考えながらもその強さに胸を高鳴らせ。
 アンゼロットはあらあらと楽しげに笑みを浮かべる。

「ぉおおお!」

 言葉が行き交い、鋼鉄の爪がぶつかり合い、斬光が空間中を埋め尽くす。
 己の圏内を全て埋め尽くすような斬撃剣撃一閃の刃が、柊のあらゆる角度から打ち出され。

「むぅう!!」

 それを返すかのように、安藤の周囲全てを切り砕くかのような銀閃の輝きが空に瞬く流星雨のように煌めき、金属音を奏でながらその全てを弾き返す。
 その応酬に柊は顔を歪め、安藤はにやりと僅かに頬を吊り上げた。
 その事実に気付いたものはいない。
 何故柊が顔を歪めたのか、安藤は笑ったのか。
 それは打ち出される剣撃が弾き返されたことにか? 否、それだけならばいい。
 問題なのはその角度、弾き返された刃の立つ角度だった。
 如何なる魔技か、柊の振り抜いた刀身、その微妙に異なる角度、その方角、その全てを鏡写しのように安藤は打ち返したのだ。
 僅かな0.000000ミリのズレもなく、針の先程の厚みしかない刀身のそれを一度合わせるだけでも数学者からすれば偶然の一言で片付けるしかるまい事象を数十、数百、数千回と繰り返す。
 剣の極み、薩摩流剣術を学びし安藤の刃は五十年の修練を重ねて神の領域に到達しているのか。
 柊は汗を止めることが出来ず、安藤はただ静かに刃を交えるのみ。
 勝てないのか。
 力量の差は打ち合えば打ち合うほどに広がっていくのが分かる。
 けれど、それでも――

「やる! やってみせる!!」

 このままでは“あの背中には届かない”。
 そう叫ぶかのように柊は高速のステップをさらに踏み変えて、速度のギアを上げた。

「む!?」

 ぐんっとキレの上がった柊の動き、それに安藤が活目し――瞬間、脇腹に迫った刃を打ち払う。
 がぁんと金属音が済んだ音を立て……それよりも早く、次なる一撃が安藤の頭頂部を叩き割らんと迫っていた。
 それを躱す、さらに追撃、それを捌く、さらに叩き込む、それを弾く、さらに繰り出す。
 終わらない、とまらない、息することすらも忘れた亜音速から遷音速へと速度のギアを変えて斬舞が踊り抜かれる。
 如何なる無茶か、爆発的な速度の上昇に安藤は噴き上げるプラーナの輝きに、そして柊の握った魔剣の息吹を感じ取る。
 感応。
 それをさらに高めたか。

「ならば」

 その瞬間、初めて安藤がプラーナを発した。
 清浄にして鮮烈なる存在力の活性化、骨が軋み、肉が脈立ち、全身の血流が強まり、言葉に出来ぬ恍惚にも似た違和感を感じる感覚。
 それを用いて四肢を強化し、安藤は降り注ぐ斬光の雨を切り凌ぐ。
 捌き、払い、叩き、受け止め、流し、躱す。
 そうして回避しながらも、安藤は手を緩めず、隙を見て斬撃を放ち、柊もまたそれを受け止めながら荒ぶる風のように渦巻き、追撃の刃を奔らせる。
 踏み踊られる剣士たちの舞踏に、強固なる床が悲鳴を上げていた。
 体重を乗せた剣士達の踏み込みは空手家の正拳突きにも匹敵する衝撃を与えて、それが隙間無く叩き込まれ続けるのだ。
 頑強なる床が軋みを上げる、まるで人外魔剣の領域に達した二人への喝采のように。

「柊!」

 何千回合目か、憶える暇もなく、興味もなく数えない一刀の果てに安藤は告げた。

「お前は私の背後に何を見る」
「っ!」

 安藤は気付いていた。
 柊が己を秤として、誰かを見据えていると。
 強く、強くならんとする見る見る間に成長をし続けるこの若き魔剣使いが辿り付かんとする相手が気になった。

「決着をつけていない奴がいる。それだけだ」

 それは一人の騎士。
 かつて星降る夜の魔王と名づけられた最強最悪の魔王。
 その魂と化した一人の少年を救えぬことを悔いた騎士がいた。
 かつて柊の前に現れ、くれはの魂を奪った騎士がいた。
 そして、和解の果てに共に旅を潜り抜け、最後には柊を、そしてある少女と女性を先に行かせるために大魔王に一人で挑みかかった騎士。
 大魔王を一人で葬る異界屈指の騎士、女垂らしの男だった、どこか人格として問題もあった、けれども悪い奴ではなかった。
 大魔王と交戦した後の彼の消息を柊は知らない。
 けれども信じている。
 奴は死んでいないと、どこかで暢気に剣を振るっていると。
 決着を誓ったのだ。
 再戦を約束したのだ。
 そして、未だに柊は彼に勝てる気がしない。
 その日の約束を果たし、今度こそ勝つと己を高め続ける。

「だかららぁあああああ!!」

 吼える、獅子の如く。
 貫く、どこまでも。
 切り開く、己が未来を。
 魔剣の感応をひたすらに高め、握る手すらも解けて混じり合うかのような錯覚を覚えながら、さらにさらにさらに速度を跳ね上げ、力を膨れ上がらせていく。
 その一刀は魔斬神滅の一振り。
 神殺しの刃、それはどこまで強大なのか。
 並みの武具ならば受け止めることすらも許されない一撃、だがしかし、それを受け止めるのが神罰刀ならば?
 神すらも切り伏せるための刃、現代に造り上げられた銘刀の一振り。
 そして、忘れるな。
 それを振るうのはこの世界最強の魔剣使いであることを。

「ならば!」

 安藤は迫り行く一撃、それを真正面から挑みかかり、否挑戦を許可し、踏み込んだ。
 老骨ならざる力強い踏み込み、まるで追い風にでも吹かされた木の葉のように軽やかに、されど振るう刃の重みは巨人の一振りか。
 神殺しの剣と神すら仇なす刀が噛み付きあう。
 衝撃がじぃいんと唸り声のように刀身を震わせて、音は漏れでない。
 大した衝撃ではなかったのか? 否、その真逆である。
 前へと叩き込まれた衝撃は他への露出を許さず、二人の剣気そのものを形作るかのようにその威力の全てを一振りの刃に押さえ込んでいた。

「見事」

 剣気そのものを刃と成した柊の技量、気迫、その全てを安藤は褒め称えた。

「ありがとよ」

 柊は短く礼を告げる。
 その間にも数千回にも及ぶ攻防があった。
 魔剣の尖端を、峰を、力加減を、幾度も幾度も変化させ、突き進まんとする創意工夫の応酬。
 まるで激しく体をうねらせる性交の如き淫靡さ、美しさ、二振りの刃が憎悪とも言える愛を囁き、相手を蹂躙しようと唸りを上げる。

「――殻は剥がれたか」
「?」
「息吹は発したということだ。そして、私もまだよちよち歩きのひよこに過ぎん」

 安藤から見れば、否、剣の道から見れば柊など所詮卵から生まれでて、ようやく殻を剥がしたばかりのひよこも同然だった。
 そして、安藤もまたよちよち歩きのひよこのようなものだった。
 途方もなく高みにある剣の極み。
 それを極めるには才が足りぬ、時間が足りぬ、振り抜いた刃の数が足りぬ、築き上げた骸の数が足りぬ。
 外道鬼人の類ならば狂いながら骸を築き上げ、未知なる剣の頂点へと達するための積み上げ続けるだろう。
 剣に生きたものならば、その生涯を剣によって成り立たせ、振るい抜いた刃の一振りを持って天に届くほどの刃を生み出すことを生涯の理由と変えるだろう。
 未知なる、届かぬ、途方もない剣の道。
 如何なる魔王を殺そうが、それに何ら価値はない。
 裏界の魔王が聞けば屈辱に喚き散らすだろうが、かの者如きは剣の道には要らぬのだ。

 人は何故強い?
 知恵があるからだ。
 そして、道具があるからだ。
 原初の人が生まれたときには石を持ち、或いは棒を持ち、己が欲望のために打ち殺しただろう。
 それが始まり。
 一つの棒、それを振るうやり方を考えて、それに殺傷力を持たすための鋭く尖った石を括りつけた。
 鋭く尖った石斧は次第にその刃先に尖った刃先を造り上げ、槍と変えた。
 そして、石そのものを鋭い棒に変えて、幅広い刃を手に入れた。
 それが始まり。
 試行錯誤の果てに生み出されし無骨なる剣。
 それをもっと上手く使いこなそうと考えるのが人だった。
 そんなたった一つの道具に、未知なる道を見出し、溺れるのが人の性だった。
 分からぬか。
 分からないだろう。
 たった一振りの刃、それを振るう意味を、それを握る人生を、それのみに捧げる信仰者の如き人生を。
 世界最強の魔剣使いは断じる。
 私はまだ未熟だと、剣の桃源郷に足を踏み入れてはいるものの、その先は険しくどこまでも遠い。

「極めきれるか。そして、たどり着けるか、柊 蓮司」

 己が生涯の半分以上をつぎ込んでもなお届かぬ、先すらも見えぬ無限の高み。
 果ては無いかもしれない。
 終わりなどないかもしれない。
 されど、誰もが求めるのだ。
 たった一振り、神ではなく、魔ではなく、世界すらも、己が心すらも酔いしれるたった一振りの刃を求めて研鑽を重ね続けるのだ。

「――さあな」

 そんなのは分からない。
 剣の使い手、剣士としての喜びは在る。
 ないとは言わない、己の生き方に誇りすらも混じっている。
 けれども、未だに柊は力を求める理由を他者に依存している。
 無欲なのだ。
 誰かを護り、約束を果たし、それが出来るだけの力があればいいと謙虚なる心。
 求道者に必要不可欠な欲望が彼には無い。
 だがしかし、しかしだ。
 他者を護る、その力がどれほど難しいのか、彼は気付いていない。
 果てのない、究極なる力だと気付いていない。

 他者を護る?
 それが世界すらも滅ぼす魔王だったのならば?
 それが世界を闇へと陥れる冥魔ならば。
 それをすらも退けると、退ける力が欲しいと願わんとするのはまさしく最強を求める欲求ではないか。

「なるほど。柊、お前の理念は理解した」
「そうか」
「ならば、今のなる剣、その全てを叩き込んで来い」

 何を語る。
 先ほどまでの一撃、その全てが柊の全身全霊を篭めた斬撃だった。
 安藤はそれを見切れなかったのだろうか?
 否、見切ってはいる、それが柊の全身全霊の刃だと知っている。
 されど、果てではないのだ。
 その言葉を肯定するかのように、同時に刀身を弾き上げ、腰を捻り、手首を返し、腕を曲げて放たれた一刀。
 それは壮絶なる絶刀だった。
 神罰刀、それを握った安藤でなければ瞬く間に首が刎ね飛ばされるだろう刃。
 それを回避し、安藤は笑みを深める。
 薩摩流剣技、蜻蛉の構えを即座に浮かべて、薙ぎ払うかのように柊に襲い掛かるのは巨人の如き鉄槌斬打。
 受けれるか? かつて侯爵級魔王でさえも止められなかった超弩級の斬撃、その一打を柊は受けれるか。
 二の太刀いらず、初撃にして必殺、下手な真剣ならへし折れ、そうでなくとも押し切られる気が狂ったと称される孤剣の一振りを。
 そうだ、受け止める。
 刀身の脇に片手を添えて、世界すらも震撼するだろう斬撃を受け止める。
 衝撃が迸る、大気に浸透する、風が唸り、一瞬誰もがアンゼロット宮殿が揺れたと勘違いをした。
 この爪先の下には母なる大地はない。
 地球でなければその衝撃を受け入れられないというのか、星をも振るわせる一撃だったのか。
 それを受け止める柊の全身は一瞬砕けたと錯覚し、されどそれは幻覚だと、己は生きていると瞬く間に再起動し、痺れの残る手を奮い立たせて、弾き払う。
 だがしかし、さらに繰り出される三連撃。
 雲耀(うんよう)、五行、左剣。
 蜻蛉を合わせて奥義の四連、常人ならば四度は死にいたる絶技の数々。
 全てが殺す、全てで討ち取る、その気迫が混じった刃の数々。
 音速すらも突破、超音速の刃の応酬。
 もはや見えぬ、もはや捉えられぬ、それを理解した柊は――目を閉じた。

「柊!?」
「先輩!」

 二人の少女の叫び声、自殺行為と思しき行動に悲鳴が聞こえる。
 されど、安藤は喜びに満ちた。
 剣に焦がれ続けた孤独なる刃の使い手のみが、その意味を理解する。
 一秒が一時間に、一瞬が一秒に、一刹那が一瞬に、六徳(りっとく)が一刹那に、虚空の時間すらも捉え切る。
 加速された空間の中で柊は迫る白刃の殺意を視た。
 故に、柊はそれを弾き払う。
 魔剣を信じて、己の相棒を信じて、その雲耀の一撃を切り払う。全てを瞬く暇に捌いて、弾いてみせた。

 金属音は響かない――音よりも早いから。
 火花は散らない――散るよりも早く刃が離れるから。
 衝撃破は撒き散らされない――風よりも早いから。
 奥義四連、全てを凌ぎきる。
 それも目を閉じて、視界を封じたままの漆黒の闇。
 その反応を何とすればいい。光速か、それとも神速か。
 全身の筋肉が悲鳴を上げて、骨身が汚物を吐き散らすかのように痙攣を繰り返し、全身に刻まれた浅傷から血が流れるも、その感覚は彼にはない。
 森羅万象。
 心眼の極み、その疑似に至る。
 魔剣使いに許された感覚、己以外の知覚部を頼り、それに没頭し、無意識の領域に陥る。
 疑似森羅万象の極みというべきか。
 正式な剣など学ばず、実戦経験のみで身につけ、磨き続けた野生の如き剣、それは途方もなく広い大河の如き剣の道を突き進み、その先にある剣の桃源郷に足を踏み入れる。
 感覚がさらに削ぎ落とされて、映るのは己の剣、対峙する安藤の剣、それのみに視界狭窄に陥っていく。

「見えるか、それが魔剣使い、その初歩にして王道だ」

 柊に、そして見つめる全ての存在に告げるかのように安藤は静かに言葉を続ける。

「入ったか、柊 蓮司。剣の道に、今ようやく」
「ああ」

 目を見開く。
 視界は晴れ、されど感覚は残り続ける。
 虚ろなる瞳、それは遠くを見渡し、そして何かを掴まんとする若き獅子の震えか。

「ならば、来い。そして、私を最強と思うな。未だに先は多く、途方もない道のりだ」

 彼は知る。
 彼らは知らぬ。
 二人の魔剣の使い手、それを同格にして、それを越える剣技の持ち主を。
 安藤を越える剣の使い手、異世界ラース=フェリアに存在する剣聖クリシュ=ハーゲン。
 彼女ならば安藤の剣を見て、涼やかに唇を綻ばせ、対峙するだろう。
 氷魔騎士団団長バロック=ロストール。
 神速の剣の使い手、その極みを確かめんと刃を交えるかもしれない。
 そして、不凍湖の騎士にして柱の騎士すらも勤めた騎士、柊が宿敵たるザーフィ。
 その大魔王すらも切り伏せる刃は未だに成長を止めぬ、大剣士。
 千年、気の遠くなるような永劫の時より月の冥魔を封じ続けた勇者の系譜、月代一臣。
 もはや役目を終えて、消え去った彼の剣技は如何なるものだったのか、知るものは既に少ない。
 そしてそれを越える理不尽たる魔王、冥魔王、その中にはさらなる敵がいる。
 安藤すらも太刀打ちできぬ猛者たちがいる。
 そして、柊。
 彼は知る。
 彼が知り、知らぬ可能性もある。
 青き惑星の守護、太古の昔より転生を繰り返し、偉大なる聖剣を携えた少年がいる。
 今は闇に閉ざされた世界、けれどもきっと生きていると信じる森炎の騎士の愛娘である魔王殺しの剣を担う少女がいる。
 月の守護者、その後継に選ばれし焔の遺産を用いた少女がいる。
 剣を極め続けるもの、新たなる可能性を携えしもの、存在する剣の世界。
 喜びに打ち震えるべきか。
 否、狂うべきだ。
 狂乱にゆがみ、酔いしれ、世界の残酷なる美しさに恍惚なるべきだ。

「越えて見せろ。そして、たどり着け。見果てぬ剣の先をぉ!」

 安藤が吼える。
 この日一番の気合声が大気を震撼させた。
 室内全ての人間が肌を泡立たせ、その魂を震わせただろう爆雷の如き雄叫び。
 そこから振り翳されるのは鍛錬を重ね、研磨を重ね、思いを重ね、年月を重ねた超重量の一太刀。
 如何なるものですら逃げられぬだろう。
 その一太刀、柊は怯むことを考える、けれども肉体は、魂は吼えるのだ。
 進めと。
 退くことは許されぬと。

「越えてみせる!」

 魔剣を振り抜き、鮮烈なる刃が、重厚なる刀身が火花を散らし、魂すらも震わせていく。
 登る時だ。極める時だ。
 速度を上げていく、未知なる神速の領域へ。
 互いに高め合い、加速し続け、さらに相手を凌駕しようと強くなる。
 未だにこの老骨に振り絞れるだけの才気があったのか。安藤は喜びに狂いながら、剣撃を繰り出し。
 柊は痺れの残り続ける衝撃に歯を食いしばり、頬を切り裂かれる刃の鋭さに恐れを感じ、その偉大さを噛み締める。
 届かぬ、遠い、どこまでも距離がある。
 だからこそ、走れ、走りぬけ。
 前のめりに倒れこめとばかりに魔剣を振るいて、柊は己の限界を数瞬単位で上書きしていく。
 先ほどまでの自分を乗り越えて、未来の自分に同調し、視認すらも不可能な太刀を振るい続ける。
 もはや一瞬では追いつかぬ、刹那でも足りぬ、六徳で数え、虚空にて理解する。
 共に剣の桃源郷、その領域に至る剣客が二人、互いに刃をぶつけ合う、先へと進むための斬撃を放つのだ。
 高速斬舞空間。
 誰にも辿り付けぬ、二人の領域、それに割り込めるとしたら先に上げた安藤すらも越える剣聖、神剣、剛剣、永劫の刃の担い手のみ。
 故に故に故に、全て、誰もが、介入できぬ二人だけの魔境と成して、周囲を切り払う剣撃領域と成した。

「は、はわわわわ! どうしょう! これって――もう手加減とかそういう領域じゃないよね!?」

 くれはが声を上げる。
 されど、それは空しく目の前の二人の攻防に微塵たりとも影響を与えることが叶わない。
 柊が繰り出すのは首を刎ねる斬首の一刀。
 それが六連、交差に刎ね飛ばし、完全無欠に殺さんと迫る魔剣の刃。
 唸りを上げる死神の鎌の如き襲来を神罰刀が迎え撃ち、空気を爆ぜさせながら、振り抜かれる閃光の如き迎撃嵐が弾いて凌ぐ。
 その刃、その一刀、全てに殺意が篭められていて、見るものたちが汗を吹き出し、待ち受ける未来に焦り出す。
 終わるのか? それほどの長い――実質的には短い時間だが、濃密なる攻防に錯覚を覚える。
 いつ終わってもおかしくない――どちらの一撃が切り込めば、即座に致命傷。
 待ち受けるのはどちらかの骸、或いは共に死に果てるのか。
 単なる見物が、真剣極まる殺し合いになるとは誰が想像するだろう。
 誰もが酔いしれて、候補生達は己と同じウィザード、その最高峰たる領域、人はこれほどまでに辿り着けるのか。
 どこまでも強くなれるのか、その可能性に魅了されて気付かない。
 待ち受けるのはどちらかの死であり、振るうは危険極まる凶器の暴力だというのに、それを巡るのが命だから故にか。
 それは崇高なる芸術品にも勝る美しさ。
 誰が穢せるのだろうか。
 一度踏み入れば無意識のうちに両者に一撃によって切り捨てられるかもしれぬ。
 僅かな大気の流動、それすらも掴み取り、半ば無意識領域にありながら、己の肉体に刻ませた千を満たし、万を凌駕し、億にも達する刃の軌跡が自動的に放たれる。
 声をかけても届くまい。
 それほどまでに集中しつくしている剣士が二人。
 その様子にエリスが瞳を潤ませて、アンゼロットに振り返る。

「あ、アンゼロットさん! このままだと」
「……そうですね」

 常識を凌駕し、剣撃の至高へと乗り上げんとする剣士が二人。
 如何なる刃を重ね、その究極の一太刀を手に入れんと足掻く浅ましくも愚かしく悲しい魔剣たちの担い手。
 それを見据える銀髪の少女は心をときめかせながらも、揺らがぬ表情を装い、告げた。

「心配はいりませんよ、エリスさん」
「え?」
「柊さんならばともかく、安藤さんは落としどころに気付くでしょう」

 賭けに近いですが。
 そう考えて、アンゼロットは内心迂闊に考えた趣向に反省を浮かべながら、ゆっくりと息を吐き出した。
 そして、それは実際に正しい。
 決着の時は近かった。

(つええ!)

 刹那を凌駕し、六徳を埋め尽くし、虚空の時を刻みながら、億にも至る刃の射出の果てに柊は内心呟いた。
 如何なる太刀を繰り出そうとも、どのような奇策を用いようとも、思いの限りの力を叩き込んでも、目の前に立つ初老の男――安藤 来栖の剣は揺らがず、突き崩せない。
 全身が悲鳴を上げていた。
 刹那単位で剣撃を撃ち放つ全身の筋肉は断末魔の絶叫を上げて、既にぶつぶつと皮膚の下で無数の毛細血管が急激なる血流の動きに耐え切れずに千切れている。
 骨は疲労により磨耗し、骨折寸前、砕け散るのも限界近い。
 かつて魔王と戦ったことがあった。
 その時は圧倒的な力に叩き潰されかけ、それでも諦めきれずに刃を振るい続けた。
 かつて魔神と戦ったことがある。
 その時は悲哀と憎悪に満ち満ちた波動に翻弄され、焼き爛れそうになる己を叱咤し、仲間と共に戦い抜いた。
 かつて古代神と戦ったことがある。
 桁の違う存在感、次元が違う、領域が異なる、眼前にするだけで怯え、魂が崩壊しそうな、思い出すだけで恐ろしい恐怖、奇跡のような勝利。
 かつて世界を構築する神と戦ったことがある。
 絶対的なる力、誰も勝てるはずのない神の領域、けれども支える少女が居た、護らねばならない誰かが居た、だから立ち向かえた。
 それがない。
 それとは異なる。
 ただ一人だけで、ただ己の欲望のままに、ただ剣の喜びのままに戦う。
 それは未体験の感覚、けれども確かな喜びであり、力だった。

 魔剣が囁く。
 ――狂えと。

 魔剣が告げる。
 ――見出せと。

 剣の道を、どこまでも天上に伸びる果て無き世界に足を踏み入れたのだ。
 ならば、進め、己の限界を踏み越えて。
 だから。

「おぉおおおおおおおおおおおおおお!!」

 虚空の時、額を貫かんとした一つの刺突。
 それをしゃがんで躱し、床を豆腐のように切り裂きながら、柊は前に踏み出す――否、進む、滑るように“すり足”で。
 それは決して数分前の柊が身に付けていなかった技法。

「喰らったか!」

 そう叫ぶ安藤の声がしたような気がした。けれどありえない。今の領域は、今の時間は声すらも届かぬ、六徳よりも短い虚空の繰り返しなる時間の積み重ね。
 二つの虚空を消費し、三つの虚空を食い潰し、合わせて五つの虚空の軌跡を描き、六徳の時間を掛けて魔剣を空へと飛翔する竜の如く振り抜いた。
 それは遥かな高み、遥かな遠き位置、トレーニングルームの窓から映る碧き惑星。
 それを真っ向から両断し、切り裂いたかのように見えるのはあまりにも鋭すぎる斬撃の幻覚か。

「――勝つ!」

 柊は叫ぶ、加速した意識の中で、唇を動かすよりも早く、次の動作に移りながら。
 柊は考える。
 如何なる太刀をも、如何なる角度でも破れなかった安藤の剣。
 ならば、それを突き崩すにはどうするか?
 単純だ――今までよりも強力な一太刀、それしか方法は無い。
 故に柊は天へと掲げた魔剣を背負いなおし、異様なまでに高い八相の構えを取る。
 その正体に安藤だけが気付いた。
 そして、笑う。
 薩摩示現流、蜻蛉の型。
 それを使いこなそうというのか、二の太刀は要らず、初太刀にて全てを決めるかつて気が狂うたものの剣と言われた刃を。
 安藤が厳つい顔を歪めた、鬼の形相、剣に狂うた剣鬼の顔を。
 神罰刀、それが鬼の手に握られ、振り翳されるだろう怒涛の刃に備える。

「こい」

 脇取りに構え、虚弱なる刃ならば受け止め、捌き、一太刀に切り伏せる。
 そう告げる剣気、双眸、気配。
 そして、柊は答えず、ただ足を踏み出して――


 生涯最高の一太刀の一つと呼べる一撃を繰り出した。


 ただそれだけだった。
 誰もが息を飲んでいた。
 柊が最後の一太刀を繰り出した、それに気付いたのは二人の剣士の動きが止まったからだった。
 柊は上段からの振り下ろし、安藤は横薙ぎに振り払う一閃、交差するかのように激突した魔剣と魔剣。
 そして、その二人は息すらも止めて……ピシリと軋む音がどこからともなく響いた。

「……私の負け、か」

 神罰刀、その刀身に罅が入っていた。
 如何なる凶魔を、魔王を切り裂いても決して傷つくことの無かった至高の銘刀がひび割れていたのだ。
 そして、柊の魔剣には幾多の激突に刃こぼれを起こしてはいるものの、この程度ならば魔器自体が持つ自己修復力で再生するだろう。

「いや、武器の差だ……あのままなら、俺はアンタに斬られてた」

 渾身の一刀は完全に衝撃を殺されていた。
 そのままであれば、捌かれて、返す一太刀で柊の首はなかっただろう。
 全身全霊を振り絞ってもなお安藤の領域には遠い。
 それを柊は痛感し、だがしかし安藤は苦々しい表情を浮かべるのみ。

「得物の良し悪しなど理由にならん。このままであれば私が負けていた、それが事実だ」

 ふぅっと息を吐き、残心を済ませて、安藤が神罰刀を月衣に納める。
 同じように柊もまた人心地が付いたのかと息を吐いて、月衣に魔剣を納め――瞬間、放たれた拳打を躱して見せた。

「何すんだよ!?」
「いやなに、残心を忘れていないかと思ってな」

 予備動作なしで拳打を放った安藤はいつの間にか噴出していた大量の汗を手の平で拭うと、アンゼロットに向き直る。

「アンゼロット。あとで神罰刀の修復を頼む、いささかこの老骨には堪える試合だった」
「……でしょうね、それで安藤さん、貴方は柊さんをどう見ましたか?」

 優雅なる顔を取り戻したアンゼロットがそう告げると、安藤は鋭く重々しく響くような声でこう告げるのだ。


「鍛錬を重ねるしかあるまい」


 最強の魔剣使い。
 彼が下した結論は厳しく、甘くもない一言のみだった。

 されど、彼は知っている。
 彼は理解している。
 己が老骨を乗り越える気質を、覚悟を、経験を柊は兼ね備えていると。
 いずれこの世界のみならず、さらなる異界の果てで地獄を潜り抜けるだろう若き青年に、安藤は期待に胸を膨らませた。

 次なる戦いの時を待つ。

 いつか天へと届く一太刀を会得するために、彼らは剣を重ね続ける――






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