よけいなちょっかい <fatal-point>
ころころと転がっていく青葉が睨んでくるが、柊はその視線をとりあえず無視。
あとで何か奢ってやるから黙ってろ、と内心で呟いた。
柊がこんな凶行もどきに走ったのにはもちろん理由がある。
彼が従った感覚というのは、相棒を手にしたその日から知覚することのできるようになったもの。
世界を侵略する意思への抗体能力。
侵略者に対抗する存在には必ず備わっている異常の知覚の能力だ。
もっとも、そう難しいことではない。
彼らは世界の常識の『外側』にあり、『内側』を守るために常に『境』を渡り歩く者。
その『境』こそが彼らが見極めるべき最前線。『境』と『内側』こそを守る者、それが『外側』にありながら『侵略者』に立ち向かう者たちだ。
どれほど日が浅かろうと、『境』を踏み破り『内側』の存在を引きずり込む存在を知覚出来ないはずはない。
つまりは、『そういうもの』が現れたということだ。
青葉を突き飛ばした反動で、柊もまたその場から跳び退く。
それと同時。
ばがんっ、と大きな音が響くと共にどこからか現れた長い管のようなものが、彼らが座っていた白い木のベンチを粉々に破砕した。
ベンチを砕いた長い管のようなものの先には、捩れた電極のような形の、禍々しい色の金属の先端がある。
電極とは逆にある管は、ひび割れたようになっている空間の割れ目から。
もうもうとベンチがあった場所から土煙が立ち込めるのとほぼ時を同じくして、空間の割れ目が卵の殻のように砕け―――
―――その向こうにある『外側』の脅威が顔を出す。
紅い世界。
それまで様々な色彩を帯びていた世界が、一瞬にして紅に染め上げられる。
色の変化に違和感を覚えるほど、先ほどまでとはあらゆるものの形が何一つ変わっていない。公園の遊具、木々のさざめき、空に浮かぶ雲。
いや、一つだけ。
これまでの世界とは、一つだけ違うものがあった。
―――月。
青空広がる真昼に浮かぶ白い月ではない。そもそも、青空の時間帯に浮かぶ月が満ちていることはない。
しかし、その月に欠けはない。
そしてなにより。
その世界を染め上げているものこそが、欠けなきその月であるかのように。アカク、あかく、狂ったように紅い月。
もしもそれを見る者があるのなら、怖気と不安を抱かずにいられないほど。
本能的に拒絶したくなる類の色の月。
そこに降り立つのは、この紅い世界―――月匣の支配者(ルーラー)だ。
それは、理科の実験で配線に使うような赤と黒の導線を、ぐにゃりと捻り集めよじって人の形に整えたような、歪なヒトガタ。
おそらくは発語すらできないほど下級であろうが、この世界を脅かし『内側』を貪る魔の一欠けら。
エミュレイター、と。そう呼ばれる存在の顕現だった。
とはいえ、その感覚を知っている柊は冷静に状況を把握しようと努めだし―――自分の馬鹿さ加減にちょっと悲しくなった。
現れたエミュレイターの立つ位置は、青葉と柊のちょうど中間。
これでは彼を抱えてこの場から逃げる、という選択をするのは非常に難しい。
いくら非常時で体が勝手に反応したからといって、もう少しマシな選択ができなかったのかと少し思う。
とはいえ、泣き言ばかりもいっていられない。次にやるべきことを確認しようとしたその矢先。
月匣の中に、3つの気配が現れた。
「そこまでだっ、エミュレイターっ!」
言ったのは、なにやら真っ白なスーツに身を包んだ若い男だった。
男は月衣から取り出したのだろうレイピアを、フェンシング的な構え方でたっぷりと時間をかけて構え、言う。
「この先祖伝来の剣にかけて、お前はここでぶつ斬り決定だっ!」
……刺突用剣である所のレイピア(細剣)でどうやって斬るのか、という疑問はこの際無視した方がいいのだろうか。
そんな彼を追うように、一人の同じ歳くらいの少女が駆け寄る。
「ちょぉっと孔助ぇー?アタシを置いていくなんてなに考えてんのよっ」
少女は、短く切りそろえた髪が印象的で、赤いパーカーと黒のジャージ姿だった。
と。彼女の目が青葉をとらえる。一瞬驚いたようにその瞳が大きく見開かれ、すぐに不満そうに細められた。
「うっそ、なんで一般人が混じってんのよめんどくさいなぁ」
……仮にも、侵魔から人を守るウィザードがそんな台詞を口にするのはよくないと思う。
さらに彼女を追うように、なにか魔術師というよりも怪盗紳士を勘違いしたような黒いスーツに黒いマントの男が現れた。
「亜紀、宮松。お前ら二人が先行しても、なんともならんぞ。
それとそっちにも一般人がいるだろう。無事な方の安全を先に確認せんか貴様等は。この役立たず共が」
毒をどばどば吐き散らかしつつ、彼はさらに続けた。
「まったく、マクベイン氏も『では私は定時になりましたのでこれで失礼いたします』などと言って絶滅社に帰られたしな。
この行き場のない怒りをあのエミュレイターにぶつけるために貴様等を馬車馬の如く使ってやるからありがたく思え」
……定時、あるんだ絶滅社。
そんな軽口を叩きながら、男はそれでも近くにいた柊を安全圏と思しき自分達の後方へと下がらせる。
どうやらこの性格の破綻していそうな3人組、エミュレイターを追っていたらしい。
それから逃げていたエミュレイターは、近くに子供二人を見つけ、そこから月匣を張って餌にしようという段だったようだ。
しかし追いかけていたウィザードも馬鹿ではない。月匣が発生する直前、その空間に滑り込むことに成功していたのだ。……一人は定時退社したようだが。
確かに、よく見れば現れたエミュレイターは導線の中にところどころ黒いほつれが見てとれる。ウィザードと交戦し、劣勢にあった証拠だろう。
白スーツ男が、黒衣の男の言葉に落胆したようにツッコむ。
「なんだマクベインのおじさん帰っちまったのか。サクサクっとコイツ倒していつもの作ってもらおうと思ってたのにさー」
「孔介はいっつもマクベインさんにごはん奢ってもらいすぎなの。まったく、目の前に料理上手な可愛い女の子がいるってのにさ」
「料理上手とはお前のことか、亜紀?冗談も大概にしておけ。お前のアレは料理ではない。味覚のみを破壊する感覚破砕兵器だ」
「な、なによ亮ったら。そりゃマクベインさんの作ったのには遠く及ばないけどさぁ」
「比較するのが間違っていると言っている」
「それには同感、ってヤツだな」
柊が呆気にとられるほど、彼らの間に流れる空気は弛緩しきっていた。
ここは常識の通じない戦場。熟練のウィザードならば、どれほどの格下相手であっても、その場にあってここまでの緩んだ空気を生み出すことは絶対にない。
緊張をほぐすための多少の会話や軽口はあっても、命のやり取りをする相手を前にして、その相手から視線を外してまで仲間とだべることはない。
ましてや、あのエミュレイターの向こうには―――
エミュレイターの右腕が三つに分かれ、ムチのようにしなりながら電極の先端が3人のウィザードに迫る。
風を裂き迫る三本の電極に、反応したのは黒マントの男だった。手に握った高級品のステッキ式ウィザーズワンドを掲げ、防御魔法が完成する。
電極と導線の集合体が彼らを打つことはなかった。しかし、エミュレイターもまた無駄になる行動をしたわけではない。
そちらに追っ手のウィザード達が意識を集中している隙に、左腕を長く伸ばして近くにいたプラーナの供給源―――青葉を、捕まえていた。
柊は憤りのあまり血液が逆流したかのような錯覚に陥る。
目の前で抵抗手段を持たない、自分よりも弱い存在を放っておくことなどできはしない。
もともとそう気の長い方ではない。もとが子供であることもある。勢いのまま飛び出そうとしたその瞬間、げ、と亜紀と呼ばれた少女が典雅ではないうめきを漏らす。
「あっちゃー。とろくさいわね、だからガキって嫌いなのよ」
こんな女に絶対助けられたくない、と本気で思えるようなことをさらっと言ってのけた。
その言葉に、怒りの矛先が分散されたことで柊には冷静になる隙間が生まれた。
思い出すのは、あの紅い日のこと。
自分にできることは少ないと、そう思い知らされた日のこと。
魔剣使いにできることは本当に少ない。あれもこれもと欲張れるほど、器用な類の能力者ではない。
だからこそ、相手をよく見てできることを探せという戦場の教訓が、まだ彼の中に残っている。
大きく息を吐き出す。
心が沸き立っている時こそ頭を冷やせ。猛りは熱く、感覚は鋭く、頭は冷たく。それぐらいがちょうどいい。そんな言葉を思い出しながら、それをノイズとして排除。
目の前には一匹のエミュレイターと、三人のウィザードと、一人の人質。
青葉を助けるなら、まず倒す必要があるのはエミュレイター。ただし、ウィザード連中がアテにならないことは彼自身のカンからも、これまでの言動からも断言できる。
そして、正直邪魔にしかならない連中がどうなるのかを見届けてからでも遅くはないと判断した。
ついでに、亜紀が青葉ごとエミュレイターを倒そうとしたら、その瞬間容赦なく昏倒させるつもりで月衣の中の相棒を強く強く意識する。
その感覚はひどく心強くて。心の中でほんの少しだけ、頼れる相棒に感謝した。
そんな柊の様子に何一つ気づくことなく。亜紀の言葉に冷や汗をかきながら、孔介は注意する。
「おい亜紀、お前人質巻き込んでさっさと終わらせようなんて思ってないだろうな?」
「なによ、世界の平和のためにはいくら犠牲を払ってもいいっていうのが絶滅社の考えなんじゃなかった?」
「違うだろっ!?世界の平和のためには犠牲を払っても仕方ないっていうのが基本だっ!」
「どっちも一緒よ、結局自分が平和に生きるために犠牲を払ってるんだから。数が違うからなんだって言うのよ。
そもそも、あたしイノセントの連中ってウザくてウザくて仕方ないのよねー。なんでわざわざ力のあるあたし達が力のない連中守んなきゃいけないのっつーかぁ?
ま、イノセント連中がいないとあたしの生活成り立ってかないから仕方なく生かしてやってんだけどー」
……こんなのをなんで囲ってんだ絶滅社。そんなに人材不足か。
ちなみに。亜紀は本気でこう言っているのだが、孔介は亜紀を単に素直になれない奴なんだと認識している。
勘違いさせておいた方が亜紀にとっては都合がいいので彼女は指摘しないし、周りも亜紀が実行しない限りは問題ないから、ということで完全に無視している。
と、そんな風に二人が言い合い、精神衛生上から亮がそれを無視していたその時。
エミュレイターの魔法が発動した。
三つの闇色の塊が、三人それぞれを打ち抜いた。どさどさどさ、と倒れる音が空しく響き渡る。
エミュレイターの哄笑が響き渡る。
その腕に抱かれた青葉の顔色は、もはや青を通り越して真っ白だ。
それも仕方のないことだろう。ウィザードとしての才を持ち、英才教育を受けている日本の名門、赤羽家の子供であるとはいえ、彼自身はまだ7つ。
月衣も持たず、ウィザードとしての知識はあれどウィザードであるわけではない彼にとって抵抗の手段はない。
なまじこの相手の知識がある分、次に何をしてくるのがわかっているために恐ろしさがこみ上げてくる。
エミュレイターに襲われる、ということは単純な死を意味しない。存在そのものが消え去るということ。
死に対しての概念すら危うい小学校低学年の少年に、侵魔に襲われることとの違いが理解できているかは難しいが、その事態が『終わり』であることに変わりはない。
歯の根のかみ合わない恐怖。それが、赤羽青葉が絶対の終焉によってもたらされたものだった。
エミュレイターによる、世界を軋ませる哄笑の中。
ふぅ、と。エミュレイターのものではないため息が、月匣の中にやけに大きく響いた。
ため息は、今まで騒ぎの蚊帳の外に置かれていた柊から。
まだ逃げていなかったのか、とぼんやりと思ってから青葉は不意に気付いた。
紅い月。それはエミュレイターの現れる前触れにして月匣の象徴。
ウィザードならぬイノセントは、この世界の中では世界結界に守られないため無力化されるはずだ。
つまり、この場には月衣持つ者―――ウィザードもしくはエミュレイター、もしくはそれに対する知識を持った者しか意識は保てないはず。
けれど、この少年は本当にただのイノセントだったはずだ。家柄もごくごく普通の中流家庭、何かしらの秘伝の跡継ぎというわけでもない。
柊はそんな青葉の混乱など気にせぬまま言い放つ。
「まぁ、そこの下手なエミュレイターよりもくさった性根してやがるバカ女が倒れてくれたっつーのはありがたいんだけどよ。仮にもプロだろ、一撃ってどうなんだ。
……っつっても、俺のツレまとめて殺そうとしやがったらすぐに気絶させてやろうとは思ってたが」
その言葉はどこまでもよどみなく。
ただただ淡々と事実を述べるように。
その姿があまりにもいつも通りの自然体で、青葉には逆に場違いに思えたほどだった。
しかし、青葉には姉と遊んでいる彼とは絶対に違うように感じた。自然体なようで、いつもとは違う。だって彼は、姉にこんな風に強いまなざしをぶつけたりはしない。
それはいつもとなんら変わりなく、気負いなく、自然な姿。
けれど。いや、だからこそ。
―――青葉はその姿にどうしようもなく憧れた。
ころころと転がっていく青葉が睨んでくるが、柊はその視線をとりあえず無視。
あとで何か奢ってやるから黙ってろ、と内心で呟いた。
柊がこんな凶行もどきに走ったのにはもちろん理由がある。
彼が従った感覚というのは、相棒を手にしたその日から知覚することのできるようになったもの。
世界を侵略する意思への抗体能力。
侵略者に対抗する存在には必ず備わっている異常の知覚の能力だ。
もっとも、そう難しいことではない。
彼らは世界の常識の『外側』にあり、『内側』を守るために常に『境』を渡り歩く者。
その『境』こそが彼らが見極めるべき最前線。『境』と『内側』こそを守る者、それが『外側』にありながら『侵略者』に立ち向かう者たちだ。
どれほど日が浅かろうと、『境』を踏み破り『内側』の存在を引きずり込む存在を知覚出来ないはずはない。
つまりは、『そういうもの』が現れたということだ。
青葉を突き飛ばした反動で、柊もまたその場から跳び退く。
それと同時。
ばがんっ、と大きな音が響くと共にどこからか現れた長い管のようなものが、彼らが座っていた白い木のベンチを粉々に破砕した。
ベンチを砕いた長い管のようなものの先には、捩れた電極のような形の、禍々しい色の金属の先端がある。
電極とは逆にある管は、ひび割れたようになっている空間の割れ目から。
もうもうとベンチがあった場所から土煙が立ち込めるのとほぼ時を同じくして、空間の割れ目が卵の殻のように砕け―――
―――その向こうにある『外側』の脅威が顔を出す。
紅い世界。
それまで様々な色彩を帯びていた世界が、一瞬にして紅に染め上げられる。
色の変化に違和感を覚えるほど、先ほどまでとはあらゆるものの形が何一つ変わっていない。公園の遊具、木々のさざめき、空に浮かぶ雲。
いや、一つだけ。
これまでの世界とは、一つだけ違うものがあった。
―――月。
青空広がる真昼に浮かぶ白い月ではない。そもそも、青空の時間帯に浮かぶ月が満ちていることはない。
しかし、その月に欠けはない。
そしてなにより。
その世界を染め上げているものこそが、欠けなきその月であるかのように。アカク、あかく、狂ったように紅い月。
もしもそれを見る者があるのなら、怖気と不安を抱かずにいられないほど。
本能的に拒絶したくなる類の色の月。
そこに降り立つのは、この紅い世界―――月匣の支配者(ルーラー)だ。
それは、理科の実験で配線に使うような赤と黒の導線を、ぐにゃりと捻り集めよじって人の形に整えたような、歪なヒトガタ。
おそらくは発語すらできないほど下級であろうが、この世界を脅かし『内側』を貪る魔の一欠けら。
エミュレイター、と。そう呼ばれる存在の顕現だった。
とはいえ、その感覚を知っている柊は冷静に状況を把握しようと努めだし―――自分の馬鹿さ加減にちょっと悲しくなった。
現れたエミュレイターの立つ位置は、青葉と柊のちょうど中間。
これでは彼を抱えてこの場から逃げる、という選択をするのは非常に難しい。
いくら非常時で体が勝手に反応したからといって、もう少しマシな選択ができなかったのかと少し思う。
とはいえ、泣き言ばかりもいっていられない。次にやるべきことを確認しようとしたその矢先。
月匣の中に、3つの気配が現れた。
「そこまでだっ、エミュレイターっ!」
言ったのは、なにやら真っ白なスーツに身を包んだ若い男だった。
男は月衣から取り出したのだろうレイピアを、フェンシング的な構え方でたっぷりと時間をかけて構え、言う。
「この先祖伝来の剣にかけて、お前はここでぶつ斬り決定だっ!」
……刺突用剣である所のレイピア(細剣)でどうやって斬るのか、という疑問はこの際無視した方がいいのだろうか。
そんな彼を追うように、一人の同じ歳くらいの少女が駆け寄る。
「ちょぉっと孔助ぇー?アタシを置いていくなんてなに考えてんのよっ」
少女は、短く切りそろえた髪が印象的で、赤いパーカーと黒のジャージ姿だった。
と。彼女の目が青葉をとらえる。一瞬驚いたようにその瞳が大きく見開かれ、すぐに不満そうに細められた。
「うっそ、なんで一般人が混じってんのよめんどくさいなぁ」
……仮にも、侵魔から人を守るウィザードがそんな台詞を口にするのはよくないと思う。
さらに彼女を追うように、なにか魔術師というよりも怪盗紳士を勘違いしたような黒いスーツに黒いマントの男が現れた。
「亜紀、宮松。お前ら二人が先行しても、なんともならんぞ。
それとそっちにも一般人がいるだろう。無事な方の安全を先に確認せんか貴様等は。この役立たず共が」
毒をどばどば吐き散らかしつつ、彼はさらに続けた。
「まったく、マクベイン氏も『では私は定時になりましたのでこれで失礼いたします』などと言って絶滅社に帰られたしな。
この行き場のない怒りをあのエミュレイターにぶつけるために貴様等を馬車馬の如く使ってやるからありがたく思え」
……定時、あるんだ絶滅社。
そんな軽口を叩きながら、男はそれでも近くにいた柊を安全圏と思しき自分達の後方へと下がらせる。
どうやらこの性格の破綻していそうな3人組、エミュレイターを追っていたらしい。
それから逃げていたエミュレイターは、近くに子供二人を見つけ、そこから月匣を張って餌にしようという段だったようだ。
しかし追いかけていたウィザードも馬鹿ではない。月匣が発生する直前、その空間に滑り込むことに成功していたのだ。……一人は定時退社したようだが。
確かに、よく見れば現れたエミュレイターは導線の中にところどころ黒いほつれが見てとれる。ウィザードと交戦し、劣勢にあった証拠だろう。
白スーツ男が、黒衣の男の言葉に落胆したようにツッコむ。
「なんだマクベインのおじさん帰っちまったのか。サクサクっとコイツ倒していつもの作ってもらおうと思ってたのにさー」
「孔介はいっつもマクベインさんにごはん奢ってもらいすぎなの。まったく、目の前に料理上手な可愛い女の子がいるってのにさ」
「料理上手とはお前のことか、亜紀?冗談も大概にしておけ。お前のアレは料理ではない。味覚のみを破壊する感覚破砕兵器だ」
「な、なによ亮ったら。そりゃマクベインさんの作ったのには遠く及ばないけどさぁ」
「比較するのが間違っていると言っている」
「それには同感、ってヤツだな」
柊が呆気にとられるほど、彼らの間に流れる空気は弛緩しきっていた。
ここは常識の通じない戦場。熟練のウィザードならば、どれほどの格下相手であっても、その場にあってここまでの緩んだ空気を生み出すことは絶対にない。
緊張をほぐすための多少の会話や軽口はあっても、命のやり取りをする相手を前にして、その相手から視線を外してまで仲間とだべることはない。
ましてや、あのエミュレイターの向こうには―――
エミュレイターの右腕が三つに分かれ、ムチのようにしなりながら電極の先端が3人のウィザードに迫る。
風を裂き迫る三本の電極に、反応したのは黒マントの男だった。手に握った高級品のステッキ式ウィザーズワンドを掲げ、防御魔法が完成する。
電極と導線の集合体が彼らを打つことはなかった。しかし、エミュレイターもまた無駄になる行動をしたわけではない。
そちらに追っ手のウィザード達が意識を集中している隙に、左腕を長く伸ばして近くにいたプラーナの供給源―――青葉を、捕まえていた。
柊は憤りのあまり血液が逆流したかのような錯覚に陥る。
目の前で抵抗手段を持たない、自分よりも弱い存在を放っておくことなどできはしない。
もともとそう気の長い方ではない。もとが子供であることもある。勢いのまま飛び出そうとしたその瞬間、げ、と亜紀と呼ばれた少女が典雅ではないうめきを漏らす。
「あっちゃー。とろくさいわね、だからガキって嫌いなのよ」
こんな女に絶対助けられたくない、と本気で思えるようなことをさらっと言ってのけた。
その言葉に、怒りの矛先が分散されたことで柊には冷静になる隙間が生まれた。
思い出すのは、あの紅い日のこと。
自分にできることは少ないと、そう思い知らされた日のこと。
魔剣使いにできることは本当に少ない。あれもこれもと欲張れるほど、器用な類の能力者ではない。
だからこそ、相手をよく見てできることを探せという戦場の教訓が、まだ彼の中に残っている。
大きく息を吐き出す。
心が沸き立っている時こそ頭を冷やせ。猛りは熱く、感覚は鋭く、頭は冷たく。それぐらいがちょうどいい。そんな言葉を思い出しながら、それをノイズとして排除。
目の前には一匹のエミュレイターと、三人のウィザードと、一人の人質。
青葉を助けるなら、まず倒す必要があるのはエミュレイター。ただし、ウィザード連中がアテにならないことは彼自身のカンからも、これまでの言動からも断言できる。
そして、正直邪魔にしかならない連中がどうなるのかを見届けてからでも遅くはないと判断した。
ついでに、亜紀が青葉ごとエミュレイターを倒そうとしたら、その瞬間容赦なく昏倒させるつもりで月衣の中の相棒を強く強く意識する。
その感覚はひどく心強くて。心の中でほんの少しだけ、頼れる相棒に感謝した。
そんな柊の様子に何一つ気づくことなく。亜紀の言葉に冷や汗をかきながら、孔介は注意する。
「おい亜紀、お前人質巻き込んでさっさと終わらせようなんて思ってないだろうな?」
「なによ、世界の平和のためにはいくら犠牲を払ってもいいっていうのが絶滅社の考えなんじゃなかった?」
「違うだろっ!?世界の平和のためには犠牲を払っても仕方ないっていうのが基本だっ!」
「どっちも一緒よ、結局自分が平和に生きるために犠牲を払ってるんだから。数が違うからなんだって言うのよ。
そもそも、あたしイノセントの連中ってウザくてウザくて仕方ないのよねー。なんでわざわざ力のあるあたし達が力のない連中守んなきゃいけないのっつーかぁ?
ま、イノセント連中がいないとあたしの生活成り立ってかないから仕方なく生かしてやってんだけどー」
……こんなのをなんで囲ってんだ絶滅社。そんなに人材不足か。
ちなみに。亜紀は本気でこう言っているのだが、孔介は亜紀を単に素直になれない奴なんだと認識している。
勘違いさせておいた方が亜紀にとっては都合がいいので彼女は指摘しないし、周りも亜紀が実行しない限りは問題ないから、ということで完全に無視している。
と、そんな風に二人が言い合い、精神衛生上から亮がそれを無視していたその時。
エミュレイターの魔法が発動した。
三つの闇色の塊が、三人それぞれを打ち抜いた。どさどさどさ、と倒れる音が空しく響き渡る。
エミュレイターの哄笑が響き渡る。
その腕に抱かれた青葉の顔色は、もはや青を通り越して真っ白だ。
それも仕方のないことだろう。ウィザードとしての才を持ち、英才教育を受けている日本の名門、赤羽家の子供であるとはいえ、彼自身はまだ7つ。
月衣も持たず、ウィザードとしての知識はあれどウィザードであるわけではない彼にとって抵抗の手段はない。
なまじこの相手の知識がある分、次に何をしてくるのがわかっているために恐ろしさがこみ上げてくる。
エミュレイターに襲われる、ということは単純な死を意味しない。存在そのものが消え去るということ。
死に対しての概念すら危うい小学校低学年の少年に、侵魔に襲われることとの違いが理解できているかは難しいが、その事態が『終わり』であることに変わりはない。
歯の根のかみ合わない恐怖。それが、赤羽青葉が絶対の終焉によってもたらされたものだった。
エミュレイターによる、世界を軋ませる哄笑の中。
ふぅ、と。エミュレイターのものではないため息が、月匣の中にやけに大きく響いた。
ため息は、今まで騒ぎの蚊帳の外に置かれていた柊から。
まだ逃げていなかったのか、とぼんやりと思ってから青葉は不意に気付いた。
紅い月。それはエミュレイターの現れる前触れにして月匣の象徴。
ウィザードならぬイノセントは、この世界の中では世界結界に守られないため無力化されるはずだ。
つまり、この場には月衣持つ者―――ウィザードもしくはエミュレイター、もしくはそれに対する知識を持った者しか意識は保てないはず。
けれど、この少年は本当にただのイノセントだったはずだ。家柄もごくごく普通の中流家庭、何かしらの秘伝の跡継ぎというわけでもない。
柊はそんな青葉の混乱など気にせぬまま言い放つ。
「まぁ、そこの下手なエミュレイターよりもくさった性根してやがるバカ女が倒れてくれたっつーのはありがたいんだけどよ。仮にもプロだろ、一撃ってどうなんだ。
……っつっても、俺のツレまとめて殺そうとしやがったらすぐに気絶させてやろうとは思ってたが」
その言葉はどこまでもよどみなく。
ただただ淡々と事実を述べるように。
その姿があまりにもいつも通りの自然体で、青葉には逆に場違いに思えたほどだった。
しかし、青葉には姉と遊んでいる彼とは絶対に違うように感じた。自然体なようで、いつもとは違う。だって彼は、姉にこんな風に強いまなざしをぶつけたりはしない。
それはいつもとなんら変わりなく、気負いなく、自然な姿。
けれど。いや、だからこそ。
―――青葉はその姿にどうしようもなく憧れた。