・なんか書きたくなった。その2。
「涼宮ハルヒの憂鬱」を初めて通読した際の感想は、「ああ、おれはこの作品を愛せる」というものだった。小説なりアニメなりマンガなりゲームなり。フィクションへ耽溺する喜びをまだ幼いウチに覚え、日常としてそれに接してきた人間は、世界の常識と少し食い違った感性を持ち合わせてしまうことが往々にしてある。まるで普遍的なことのようにオオゴトを言うけれども、たぶん割と普遍的。フィクションの世界は魅力的である。ヘタをすると、この我らが現実よりもよっぽど魅力的だ。そんな世界の住人になってみたいと望んだ経験があるひとは、きっとそんなに少なくはないのだと思う。例えばドラゴンクエスト。宿命を背負う勇者として生まれ、どうのつるぎを片手に、時には呪文の力でもって魔物と斬り結び、人間的な成長を経た上で世界を救う。けれども、多くの人は早かれ遅かれ、自分がもしもそんな世界に住むことになったとしても、用意される役回りは精々が、雑談でもってプレイヤーを和ませる町人Aなのだと悟る。スライムくらいならおれでも倒せるかも知れないけど、おおがらすくらいになるともうダメなんだろうなあとかなんとか。万事に関してそんな調子。火星の運河の不在はもう確認されてるし、空から少女は降ってこないし、隣に天使は引っ越してこないし、我々は幻想郷の民ではない。フィクションに魅了される人は多かれど、多くの人びとはそこで「主人公」になることは諦めて、自分自身の現実という枠の中にこぢんまりと納まる。それでも、なんか、こー、フィクションという名の非現実に憧れを持ち続けながら。そういう人間にとって、 涼宮ハルヒという人格は尊敬に足る存在だったりする。現実というどうしようもなく強大な壁に傲然と立ちはだかり、「アンタのほうがおかしい!」と言い放つ。既に我々がやめてしまった現実への抵抗を、ひたすらに続け続ける。有り体に言えば、眩しい。「涼宮ハルヒの憂鬱」という小説でもっとも美しいと感じたシーンは、そんな彼女が「宇宙人と交信するために学校の校庭へ忍び込み、ラインマーカーで奇妙な幾何学模様を一晩で描き上げたらしい」というそれだった。シーンとして明確に描かれたわけではなく、彼女を客観視する第三者が、彼女が如何にストレンジな行動をしてきたかを説明するためにあげた噂話の中にしか登場しない。それでも、その美しさに心を打たれた。恐らくは行動しやすい中学校指定のジャージ姿。真夜中の闇にただ一人、真っ赤なラインマーカーをひっぱって広い校庭を、模様に気を配りながら縦横に駆けめぐる。その孤独な姿。書き終えたあと、彼女に訪れた満足感と、達成感に比例して膨らむ期待と、それが経過と共にしぼみ、代わりに染みこんでくる寂しさ。そしてそのうちにやってくる、やっぱり何も変わらない朝への絶望と、それを糧とした怒り。悔しさ。(という話を既刊全部を読んでる類のひとに伝えるとみんな微妙な表情で曖昧に頷くのだけど、いわゆる「消失」までを読んだ今になってよーやく、その表情の意味が理解できたよ! てのはともかく)中学生時分のエピソードだそうで。物語開始時点で高校生な彼女は、何度、そんな挫折を味わったのだろう。悲しさを跳ね返すために怒りに変換して、蓄積していく怒りは更に彼女を孤独にして、現実世界との乖離はよけいに深まり続ける。だから、物語の終盤。世界が崩壊していく様を、嬉々とした目で見つめてしまう彼女がどうしようもなく痛ましかった。彼女の怒りは、フィクションを愛する私が感じなければならない怒りだったかも知れないし、彼女の寂しさも、フィクションに憧れる私が感じなければならない寂しさだったのかも知れない。そうした意味で、彼女はある種のイデアであり。ああ。私は涼宮ハルヒの憂鬱という作品を愛せるのだ。と感じたのでありました。っつー話は追いといて。なので私はあんまし「消失」はそんなに好きじゃないんだよなーぶっちゃけ長門ちゃんよりもハルヒちゃんのがゲロ可愛いし。ほぼ同じ意味で、「消失」に登場した、世界への憤懣を晴らす手段もなくひたすらにドロドロと鬱屈してる「暗黒ハルヒ」はむっちゃくちゃ可愛かったね!という話の延長線上として。そんななので私はかの「さすが京アニだな」のハルヒアニメはそんなに楽しめないなと勝手に決めつけたりしてる。何話かちらちらと確認してみたのだけど、ハルヒちゃんがSOS団の結成を思いついて、キョン少年のネクタイをひっつかんでみせたあの笑顔が、なんというか。ただの普通の笑顔だったのだよな。それは違うだろう。と。世界を歪めてしまうほどに世界への嫌悪と憤懣とを溜め込んでいた彼女が、その孤独を埋め合わせる手段をついに発見した瞬間の笑顔だぜー?のみならず、彼女があの笑顔を見せた瞬間、あの物語世界は文字通りの意味で覆り破壊されたのだ。その笑顔をただの笑顔として処理されてたので、あーおれの脳内の画の方がキレイだやとか不遜にも思うてしもーたのでありましたとかなんとか。・細田版時をかける少女の何がすばらしいかというと。「時をかける」という言葉の意味を再解釈し、そんで原作を踏まえた上での再構築が施し、現代でもってリメイクされ得る意義を付加し得たーてところなのだと思うのだわ。筒井康隆原作の時をかける少女の何が名作かというと、それは未来に無条件に信頼と期待を寄せることが出来る少女を作中にて構築せしめたところなのだわ。約束の人は未来から来て、そしていつか必ず出会えることを記憶の底にだけ残して去って行く。ラベンダーの香りにだけほのかに、しかし確かに残った未来への希望。日本的価値観における「少女」の価値とは割と「花の盛りの短さ」にばかり注目されがちだ。いのち短し恋せよ乙女つってな。しかし、筒井康隆の描いた少女はそうではないのだ。いつか来る約束の恋に静かに焦がれる。というこの如何にも可憐な少女像。もしくは和風な貞女の姿を、物語の力でもってこの世に確かなる形で現出せしめたのだ。んだからこそ、オタク気味にアイドルを信奉するおっちゃん連中がこぞって時のアイドル連中にこの役を宛がいたがるわけであるな。けれども。さて。そんなことを思ってたもんだから。一転して。細田版の時をかける少女に登場した魔女おばさんに「ラベンダーの匂いがする人」が訪れないまんまだったって事実に、おれはものすげえショックを受けたのだ。ええええええええ。と。正直を言えばそれがあんまりにもショックで、作品そのものの感想は少しのあいだ二の次になってしまったくらいだ。だって、わざわざ、カメオ出演なんぞという生やさしい立場でなく、主人公を教え諭し取るべき行動を示唆する立場という重要な存在として登場させ(視聴者にも十分な意識を求め)た上で「でも私はあの人には会えなかった」とか言わすんですよ。もしくは「私の日曜日はどこー?」とか言わせるんですよ? いやこれはどうでもいい。ともかくおいおいおいおいそれは一体何のためだと。何のためかというと、でもそれの答えは簡単だ。「時を駆けさせるため」である。「あなたはそうじゃないでしょ」と言うためなのだ。かつての少女像は上記の如く、静かにその日を待ち続ける純潔な貞女というものであった。しかし今の世は違うのだ。確かに、細田版ときかけの彼女にも未来での出会いはは約束された。「待ってる」という約束も取り付けた。けれどもそれは、今までのときかけ少女に用意された穏やかな未来ではなく、一枚の絵さえ守ることの出来ない何やら不穏な世界であるらしい。だが、不純だったりもしくは自身の欲求に純粋だったりする理由でもって作中を延々駆け回り続けた彼女はそんな事なんぞモノにもせず「うん! わかった! 走っていく! 全速力で!」と約束を返すのだ。ああ。これこそが「時をかける少女」である。だから、ほら、エンディングでタイトルに赤線が引かれるのよ。これこそが「時をかける少女」である。と。未来に対する単純な待望やら切望ではなく。ざっくり言えば受け身ではなく、むしろ自ずから突っ走って行くのだ。明日へと向かって。何という脳天気。何という、考え無しを根底に置いた底抜けの明るさであることか。和製少女を象徴し続けた「時をかける少女」をリメイクするってーことは、新たな和製少女像を提案しなければならないてーことである。細田監督はそれを見事にやってのけた。と申せましょう。なので本質は脳天気なエンタテイメントで少女見てうふうふ言うための映画なのよ。そのへんの本質は旧来作とそう変わりはなく。見た後であんまし胸に残るモノはそんなにないあっけらかんとした作品なのな。と。好きかと言われればかなり好きではあるけれども作品としての評価はまあそこそこーて感じの映画でしたね。ハイ。というのを色々と世論が沈静化した辺りに書こうと思ってたのになんか BD 版とか TV 版とか再実写化とかでいつまで経っても沈静化しないもんだからもういいやと書きたくなったのでありました。
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