藤田 平(ふじた たいら)
- 現役時代は名SS。現役当時は無口でおとなしく「仏のゴローちゃん」こと遠井吾郎・「鉄仮面」こと藤井栄治とともに「阪神三奇人」と呼ばれた。
- これは球団の政治的な争いに巻き込まれるのが嫌だったためとも言われているので本質は決して大人しい人物ではなかったのは監督時代に証明される。
- 監督に就任してからは無口ながら実は怒らせるととても怖い人物であったことから長谷川平蔵をもじって「鬼平」の通称が着いた。
- あの江夏豊にして頭が上がらない数少ない人物の一人と言われている
- プレイヤーとしては後に背番号を引き継いだ和田豊と共通する部分が多いので、背番号6番は内野手(と言うか藤田や和田の代名詞)のイメージが強く、金本知憲に6番を与えられた時、ファンの間から若干の不満の声があがった。当然のことながら現在は解消している
- 背番号6と言えば昭和なら藤田、平成初期なら和田、21世紀に入ってからは金本といったところか
- 阪神監督に就任していることもこの三人の共通点
- ホワイト?そんなん知らん、わからん。
- 阪神生え抜き唯一の名球界入りを果たした選手。
- しかし優勝は未経験
- 現在のファンには阪神を暗黒時代に導いたイメージが強いが、フロントのほぼ言いなりだった負広と違い、病人食並みの虎風荘の食事を改善したりと、金儲け至上主義の球団の意向に従わなかったため、それ故全ての責任を背負わされた部分もある。実際は新庄とも不仲というほどではなかったらしい。
- 有名な新庄正座事件も、実は当時の阪神は遅刻が多かったりとだらけていたので、選手間で罰則を破ったときの規則を自分達で作れば?と、選手たちに促したそうだ。
それで新庄は選手間で決めた罰則をただ実行しただけといわれている…が真相は果たしてどうなのであろうか。
藤田監督在任中の1995年のドラフトは指名経緯や残した成績などを含めれば、前年の中日がマシに見えるほど酷く、「
阪神史上最悪のドラフト」と言われるほどに悪名高い。
1月に発生した阪神大震災の影響もあり球団経営に消極的だった時期だけに
4人しか指名しなかった上に全員が社会人という育成放棄上等の安直すぎるドラフト戦略を取った。
この年は翌年のアトランタ五輪を控え有力即戦力選手が軒並み指名凍結されていたため特に社会人は最初から不作が予想されており、むしろ注目が集まったのは
福留孝介・
斉藤和巳をはじめとする高校生だった。実際に新人年の舩木を除いてほとんど戦力にならず、その舩木も2年目以降は故障をきっかけに不振に陥り、ファンの懸念通り戦力補強も世代交代も出来ずという当時の阪神を象徴する無残な結果に終わる。このドラフトが阪神ファンに根深いトラウマを与えたことは2000年ドラフト、2016年ドラフト>大山重複しろ!、2018年ドラフトが叩かれた時に比較対象にされたことからも伺い知れる。
&nobr{ 順位 }; |
&nobr{ 名前 }; |
&nobr{ 守備位置 }; |
&nobr{ 出身 }; |
&nobr{ 一軍出場 }; |
&nobr{ 備考 }; |
1 |
舩木聖士 |
投手 |
NKK |
101(84)登板 |
2002年限りで戦力外。同年オフにロッテへ移籍し2004年限りで引退。 |
2 |
中ノ瀬幸泰 |
投手 |
西濃運輸 |
14登板 |
1999年限りで戦力外。 |
3 |
林純次 |
投手 |
東海理化 |
17登板 |
1997年限りで戦力外。 |
4 |
曽我部直樹 |
外野手 |
サンジルシ醸造 |
21(19)試合 |
2003年限りで戦力外。同年オフにロッテへ移籍し2005年限りで引退。 |
}
最終更新:2025年07月17日 13:50