Luna Shooter ◆gcfw5mBdTg
此処は千年もの歴史を誇る稗田家の書庫。
巨大な本棚が規律正しく無数に立ち並び、紙であればありとあらゆるものが納まっている。
書庫の面積は異様に広く、家屋の一つや二つは容易く納まる。
外の世界であれば、図書館と呼ばれるほどの規模だ。
そんな年季の入った知性の匂いが漂う書庫にいるのは、稗田家九代目当主、稗田阿求。
特徴的な花を模ったアクセサリーが飾り付けられているおかっぱの黒髪。
庇護欲をそそる小柄で華奢な体躯は、花の模様を鮮やかに散りばめた仕立てのいい着物に包まれている。
稗田阿求は深く慣れ親しんだ手つきで読書に励んでいた。
傍らには、読み終えた本と読む予定の本が詰み重なっている。
常日頃から読書に慣れているのか、文字を読み進めるスピードは速い。
穢れを知らぬ白く柔らかい指でぺらり、ぺらりと頁を捲り、文字へ視線を彷徨わせている。
少々の時間を経て、また一冊読み終わった少女は、表情を渋くし、諦めを含んだため息を吐いた。
「予想はしていましたが、やはり見つかりませんね……」
自らに言い含めると同時に、適当な本を読んでいるもう一人の少女に伝えるために口を開いた。
阿求に声をかけられた少女は、
ルナサ・プリズムリバー。
黒を基調とした楽士の衣装。
帽子の頂上には三日月を模した朱色のアクセサリーが飾りつけられている。
肩の辺りで切り揃えられた金の髪に、眉目秀麗な凛々しい美貌の持ち主。
憂愁の色を醸し出す物静かな佇まいは、礼儀正しいという印象を与えるであろう。
阿求とルナサ。
二人の少女は殺し合いの情報を得る為、広大な書庫から一粒の砂を探し求めていた。
「なら紅魔館の図書館にでも行く?
あそこは此処よりずっと広いわよ」
書庫の主が諦めたのだし、此処にいる意味はないだろう、と判断したルナサは対案を提唱した。
「……そうですね。パチュリーさんもこんな時ぐらいには閲覧を許可してくれるでしょう。
ただ、此処の書庫もまだ見てない箇所が多少あるので、もう少しだけ時間を――」
立ち上がり、別の本棚へと移動しようとした時、阿求が、ふらり、と立ち眩みを起こす。
インドア派に加え、いまだ幼く華奢な体躯。
平穏な日常から殺し合いへと連れ去られた心労が祟っているのだろう。
それでも懸命に使命を果たさなければという想いで、必死に笑顔を創り出している。
「人間が無理をするのはよくない。
何か飲み物でも入れてこようか?」
「申し訳ありません。あまり出歩かないもので……。
うちの厨房に材料はあると思うので、できれば紅茶をお願いします。
淹れる頃にはこちらの作業も終わっていると思うので」
ルナサの気遣いをありがたく思い、阿求は心持ち喜色を混ぜた笑顔で返す。
「紅茶ね。種類は?」
「ダージリンをストレートで。
もし無ければ、なんでもいいです」
稗田阿求は紅茶が好きだ。
友人である八雲紫に紅茶を教えてもらってから、世界は変わったとまでいえるほどに。
紅茶に必要な材料や道具も、全て八雲紫から譲り受けた最高級品だ。
疲労している今ならば、さぞや五臓六腑に染み渡り、心が満たされるであろう。
阿求は紅茶を楽しみにしながら、ルナサの背中を見守り。
やがて足音が遠ざかり静かになると、読書を再開した。
◇ ◇ ◇
ルナサ屋敷の構造に多少迷いつつも厨房へと辿り着いた。
「広い厨房ね……」
紅茶には The Five Golden Rules (英国式ゴールデン
ルール)という基本的なルールがある。
Ⅰ. Use good quality tea 良質の茶葉を使う。
厨房に視線を巡らせ、阿求に教えられたとおりにティーポット、紅茶、水と巡りあい。
Ⅱ. Warm the tea pot ティーポットを温める。
銀製のティーポットを手際よく扱い、温め。
Ⅲ. Measure your tea 茶葉の分量をきちんと量る。
ルナサは人数に一を足した数値、すなわち三回、ティースプーンを扱い、用意を整える。
Ⅳ. Use freshly boiling water 新鮮な沸騰しているお湯を使う。
用意されていた水を300mlほど煮沸を開始し、沸騰寸前というところで火から離す。
Ⅴ. Allow time to brew 茶葉を蒸らす間待つ。
ティーポットにお湯と茶葉を注ぎ、香りが散ってしまわぬように蓋を閉め、準備は完了した。
紅茶の待ち時間に、なにか摘むようなものでもと、袋に入ったクッキーを探し当て、皿にクッキーを載せる。
蒸らし始めてから三分~四分程時間も経過した頃。
ルナサはティーポットの内部を循環させるようにティースプーンで少々混ぜ。
二杯のカップにゴールデンドロップ(最後の一滴)まで注ぎ終えた。
用事を済ませたルナサは、廊下へと移動しコツコツと音を立てながら、書庫へと辿り着く。
そして襖の開閉の邪魔とならないよう、盆を一時的に廊下に置き、襖に手を掛けた。
◇ ◇ ◇
「うーん……。やはり無駄骨になっちゃいそうですね……」
稗田家の書庫には、嘆きと溜息が響き渡っていた。
いまだに見つからないのが無念なのか、溜め息の主である阿求の表情は幾分か暗い。
がっくりとうなだれながら、膝に本を置き、読書にいそしんでいる。
幻想郷の歴史を継承しているともいえる稗田家としては、幻想郷の役に立ちたいところだが、ないものはしょうがない。
サッ。
――阿求の耳に、襖の開閉音が届く。
「すいません。この本で終わりなので、そこの机にでも置いといてください」
阿求は書物に集中しながら元気なさげに返事をし、書物の検分を再開した。
ぺらり。
ぺらり。
ぺらり。
ザシュ。
「え……」
阿求の口から思わず声が漏れる。
それも当然であろう。
――己の胸元から血肉に塗れた刃金が顔を出し、膝元の本に影を落としているのだから。
意識も虚ろなまま刃金を眺めていれば、肉体へと埋まっていき、残された刺傷を空気が撫でる。
ようやく痛みのシグナルが奔り始め、表現し難い熱さが全身の力が抜けさせる。
胸元の死傷が思い出したかのように鮮血を噴出させ、細い肩をびくんと震わせた。
阿求は体を翻し、背後を見ようととする。
だが既に、思考力も振り向く余力も碌に残ってはいない。
首を曲げようとしたところで、前のめりに肉体が崩れ落ち。
背後の人物の認識は叶わず――幻想郷の記憶と呼ばれた少女は意識を手放した。
◇ ◇ ◇
襖を開けたルナサを出迎えたのは、血の池に倒れ伏す阿求。
そして。
阿求の傍らに佇む――博麗霊夢。
初対面ではないルナサが間違える筈もない。
特徴的な紅白の巫女服を着用し、紅の大きなリボンで髪を飾り。
揺るぎなき意志をその身に宿した、凛とした佇まいの人間。
額には怪我をしているのか、絆創膏が見受けられる。
血に塗れた刃金を携えていなければ、挨拶の一つでも交わしていたかもしれない。
それほどまでに、霊夢の雰囲気は日常に近かった。
「霊夢――貴方は何をしているの……?」
ルナサは瞳を大きく見開き、蒼白な顔、暗い声音で霊夢へと詰問した。
「見てわからないの?」
目撃されたのだから既に隠すつもりはない、とでも言うように、静かに臆すことなく紡がれた。
言葉と同時に、一歩、歩みを進める。
ルナサは事態の深刻さを理解し切れていないが、かろうじて敵意には対応できた。
眼前に、次女メルランの愛用するトランペットを浮かびあがらせる。
騒霊。
所謂ポルターガイストと呼ばれる存在であるルナサにとって楽器とは武器。
ポルターガイストといっても楽器を直接ぶつけるわけではない。
ルナサの保有する【手足を使わずに楽器を演奏する程度の能力】により演奏し、音のエネルギーを利用するのだ。
トランペットから奏でられるタイトルは、ルナサの妹、次女メルランの得意な演奏。
【冥管「ゴーストクリフォード」】
妹の演奏を再現する。
その一念を胸に。
書庫は音の波紋と騒音で満たされ、コンサートホールと化した。
騒霊ヴァイオリストであるルナサにとって、管楽器は本分ではないし曲も初演奏。
それでもルナサは、もう一人の妹と三人でアンサンブルを繰り返し、数千回は聴き慣れているのだ。
妹の演奏と比べても遜色が無いほどの旋律を実現するのはそう難しいことではない。
クラシカルなトランペットが軽快なリズムに合わせて踊り始め、トランペットより白いなにかが吐き出される。
白いなにかは徐々にその輪郭を見せ始め。
騒音世界へと顕現したのは、蛇のように捻り狂う五体の霊魂。
ルナサの指揮の下、統制の取れた的確な動作はまさに戦闘機の編隊。
それぞれが望み通りの軌道を描き、俊敏に霊夢へと迫る幽霊。
一体一体が、弾丸状の音の塊を生成し、放射状に、無秩序に、辺り一面に、射出していく。
霊夢を囲むように、ルナサへの道程を閉ざすように、無限に交差する弾幕の網。
一発一発が的中すれば悶絶必至。
大半は本棚へと衝突しようとしているが、残りの数十で構成された弾幕は霊夢を囲む。
弾幕は辺り一面へと着弾し、演奏とはまた別の轟音が空間を反響する。
埃がたち、霊夢の姿が見えなくなるも、ルナサは弾幕を一向に緩めない。
音のエキスパートであるルナサにしてみれば、足音や呼吸音で霊夢の行動は即座に把握できる。
精密機械さながらの集中力で、僅かな狂いも許されない芸術の域にまで磨き上げられた演奏を継続する。
対して霊夢は、光が飛び交う中、最小限の動きで絶え間なく動き、避け続けていた。
体を半身分、瞬時に逸らし。
刀で弾幕を軽く斬り払い。
本棚を盾に、影から影へと移動し。
風に小さく揺れる風鈴のように軽々と避け、捌き、千差万別の回避方法で、ひたすら優雅に避け続ける。
幽霊達が一度に百を超える弾幕を継続的に吐き出しても、一向に霊夢へと到達は叶わない。
博麗霊夢は特別な人間なのだ。
強力な霊力を保有し、幾多の試練を乗り越え、才能、経験、技量に裏打ちされた実力は幻想郷でも指折り。
ルナサとしても、実力が劣っていることは織り込んでいる。
だが逃亡は選べない。
霊夢を野放しにするわけにはいかないのだ。
言葉にすると陳腐かもしれない。
それでもルナサ・プリズムリバーは陽気な笑顔を絶やさない妹達を守りたいと考えていた。
妹へと危害を及ぼす輩を長姉、ルナサ・プリズムリバーが放っておくなどできるはずもない。
そしてもう一人。
稗田阿求。
ちっぽけな時間しか共に過ごしていないとはいえ、この戦場で無垢に信頼をしてくれた。
その信頼は、客の信頼には必ず応えねばならない、という演奏隊としての矜持を刺激し、ルナサを突き動かしていた。
ルナサは、霊夢へと全力を注ぐことこそ為すべきこと、と決意を済ませ。
拳に力が籠り、悠然と紡ぎ出される演奏は、より一層、激しさを増す。
狙いは、まず霊夢に弾幕を放たせること。
今のところ優勢に見えるのは霊夢が身体能力だけで戦っているからだ。
霊夢も弾幕を放てば、途端にルナサは劣勢へと陥るだろう。
だが弾幕を放てば、体力を消耗する。
現在弾幕を撃ち続けているルナサにも体力の消耗は実感できる。
最悪、礎となっても構わない。
弾幕を粘り続けさえすれば、霊夢の未来を潰せるのだ。
そう必死に自分を奮い立たせる。
とはいえ避け続けられては、弾幕を使わせる事も叶わずに、ルナサが先に力尽きるだろう。
ルナサも当然それを考慮し、弾幕を使わせる術を既に使用していた。
その術とは【音】
不可視かつ音速の範囲攻撃を防げる人間はいない。
ルナサの演奏は精神に変容をもたらす。
人間には特に影響が強く、聞き続ければ欝に陥るほどに強力な精神汚染。
精神が如何に強固であろうとも、音色が鼓膜を震わせる度に侵食していく。
そしてルナサの【音】の性質は霊夢も熟知している。
だからこそ窮地を脱する為に弾幕を放つ、とルナサは踏んでいた。
◇ ◇ ◇
ルナサは焦りを覚え始める……。
時間も経過し、本棚も半分程度は倒れ伏していたというのに……霊夢に変化が見られないのだ。
幽霊の数を増やし、追撃を仕掛けたというのに。
過酷になってゆく弾幕をものともせず。
眉一つ動かさず、体を慣らすように、ひたすら紙一重に、避け続けている。
俊敏にして変幻自在な霊夢の動きは、はたから見れば手品のような光景。
攻撃する意思も、撤退する意思も見受けられず、完全に膠着状態に陥ってしまっている
ルナサの呼吸は少しずつ乱れ始め、限界の近さを窺わせる。
薄々と【音】が通用していないことを実感していたが、原因までは掴めない。
動揺をできるだけ表情には出さないように、静かに息を飲んだ。
原因がどんなものであれ、【音】は打ち破られ、逆転されたのは確かなのだ。
ルナサは自分を鼓舞するように必死に思考を巡らせる。
弾幕を継続するか。
――否、体力の問題から敗北は必至。
弾幕を中止し、近接へと移るか。
――否、身体能力でも得物でもアドバンテージを所持していない。
第三の選択肢を導き出そうとしても、空回りばかりで策に発展はしない。
そうしている内にも、体力は衰え、背中に汗が伝うのを感じている。
既にポーカーフェイスを維持する余裕もなくなり、表情には心労が見て取れた。
――【音】が通じない原因は単純に相性の問題である。
五行思想という自然哲学の思想がある。
木は火を生み、火は土を創り、土は金を育て、金は水を浄化し、水は木を育て。
木を土を痩せさせ、土は水を吸い、水は火を消し、火は金を溶かし、金は木を折る。
物質も人も世界も――万物は五行と呼ばれる、五個の要素、木、火、土、金、水で構成されており。
その五個の要素が十の力を相互に作用し続ける事で、世界を形成していると考えているものだ。
五行の内、どの要素なのかを判断する基準はいくつもある。
五色、方角、五方、五時、五節句、そして――
ルナサに関わる――五声。
【歌】は五声では土行を表す。
騒霊、ルナサ・プリズムリバーは存在そのものが【歌】に特化しているともいえる存在。
そして。
【五時】 【五方】 【五獣】
【春】を象徴する性格であり、【東】の果ての博麗神社に住み、龍神【青竜】が創造した幻想郷の一部である博麗の巫女は木行。
木行と土行が相対する場合、木剋土となり相剋を表し、木が土を痩せさせる関係となる。
それに加え、ルナサの想定以上の精神力を保有している霊夢には、心地よい音色を響かせるだけに留まってしまったのだ。
霊夢は五行思想を齧った経験があり、ルナサの歌が効かないことも当然熟知していた。
――やがて均衡が崩れる。
動揺と焦燥感が、歌のリズムが僅かに狂わせ、幽霊の統制が崩れ始めたのだ。
ルナサの演奏から外れた幽霊は連携を崩し、悪戯に弾幕を振りまき始める。
――同時に、カチリと空気の質が変容し、床を何かが強く叩き、軋みを上げた。
避け続けていた霊夢が、一転、ルナサの方向へ正確無比に強く踏み込み、疾駆したのだ。
彼我の距離は20m。
ルナサは自分のミスを舌打ちし、冷静さを取り戻しながら、手早くできる演奏に切り替える。
【騒符「ルナサ・ソロライブ」】
ルナサを包み込むドームのように、全方向へと音符型の音の弾幕を広げていく。
広がる速度は非常に遅いが、それ故に時間制限付きの障壁としては有用だ。
障壁としての意味を保っている間に、再度【冥管「ゴーストクリフォード」】を奏でる準備へと移行する。
場を凌いだルナサが安堵の表情を見せる。
しかしすぐに。
――ルナサに驚愕が飛来した。
ルナサの予想では、突撃を諦めるか、なんらかの手段でドームに穴を開けるか。
どちらを選んだとしても、両手に刀を携えた霊夢は一時的に停止する筈だった。
だが霊夢はどちらの選択肢も蹴ったのだ。
弾幕の隙間から僅かに見えたドームの向こう側。
――霊夢は神速を維持している。
まるで弾幕など見えていないとでもいうように迷いなく、無駄な動きを極限まで廃し、迅速に。
壁へと激突する狂気の沙汰にルナサは驚愕するが、動揺で二度も演奏をミスするわけにはいかない。
心は警鐘を鳴らすが、意図が読めない以上、演奏隊として予定通りにプログラムを進行する。
衝突まで数瞬といった刻、ルナサに再度驚愕が奔った。
霊夢の眼前に何かが飛来し――ドームを構成する一部の弾幕に衝突したのだ。
妨害者は書物。
暴走した幽霊の放つ弾幕により揺らされた本棚から三冊の書物が抜け落ち。
重力に惹かれたそれは――偶然にも霊夢の眼前の弾幕へと衝突し軌道を逸らす――。
結果、ドームの一部は意味を失い。
人間一人分が通れる程度に広がった隙間を、霊夢は躊躇無く通過する。
――まるで最初から結果を見越していたかのように。
(馬鹿なっ!)
咄嗟に事実を理解できなかったルナサは寸秒、凍てつく。
トランペットは一小節目を吐き出したところであり、弾幕の発現には間に合わせられない。
弾丸のように身を躍らせた霊夢は、両脚で慣性をねじ伏せ、ルナサを正面に捉える。
間合いに踏み込んだ霊夢を止められる術はもう……ない……。
ルナサは直感的に理解した。
自分は……死ぬのだと。
意識が薄らいでいくというのに、妙に穏やかな気分。
死を理解したルナサの最期の行動は……首を傾け、傍らを眺める事だった。
普段ならば二人の妹が微笑み、楽しみ、アンサンブルしていた定位置。
かすかな希望を求めて妹の幻影を思い描くという逃避的な行動をするほどに、無性に愛しくて、心細く感じていた。
「――――」
誰にも伝わらぬ言葉で少女は一人ごちた。
――ヒュン
一閃。
空気を切るような音と共に、霊夢は楼観剣を容赦なく薙ぎ払い。
刀は驚くほど鮮やかに吸い込まれ、ルナサの右腰から左肩まで線が走る。
線から上下が乖離し、ルナサ・プリズムリバーは――葬られた。
「貴方は……何の為……に…………いるの……?」
自分は殺し合いの中で、長姉としての責務を果たせなかった。
そのことから生じた最期の質問が、かろうじて霊夢の耳を掠める。
「博麗の巫女の責務よ」
返答と同時に、ルナサの瞳は静かに伏せられた。
からん、と中空よりトランペットが落下する。
既にこのトランペットが遺品に堕ちていることを知らずに死ねたルナサは運が良かったのだろうか、それとも悪かったのだろうか。
――こうして平和な書庫を賑わす騒音は消え去り。
幻想郷に反する騒霊は、博麗の巫女の手によって討ち果たされたという結果だけが残った。
妖怪に鍛えられた名刀、楼観剣は血に塗れても翳りを見せていない。
幽霊十匹を一振りで切り殺す、と称された切れ味は伊達ではないのだろう。
やがて刀身に吸われるかの如く、血の雫は消失し、楼観剣は白刃へと舞い戻った。
命の水を吸った影響か、刃紋の輝きが増し、煌めいている。
霊夢は、楼観剣を鞘に収め ルナサと阿求の遺品を漁る。
そして阿求の袋から何かを手に取った時、長い睫毛がぴくりと動いた。
掌には三つの賽。
霊夢は賽をぼうっと眺め、寂しげに微笑み、天井すれすれまで真上に放り投げる。
そして……落下する賽が眼前を通過するタイミングを見計らい。
右手を横一線に薙ぎ払い――落ちてきた賽全てを一息で掴み取った。
右手を広げれば、数字の一を示す賽が三つ
紅白で構成されたそれは、所謂ピンゾロと呼ばれるものだ。
霊夢は賽の目を確認もせずに袋へと戻す。
賽の数値を狙って出すには1/6×1/6×1/6=1/216
この霊夢の神業は技術で行ったものではなく幸運だ。
いや、幸運というのも厳密には正しくはないのかもしれない。
運とは変動するからこそ運といえるのだから。
霊夢の役目である博麗の巫女とは、幻想郷を構成するシステムの一部。
全てを受け入れ、全てが自由である幻想郷で唯一、霊夢は規律に縛られている。
幻想郷と一体化しているが故のデメリットもあるが、メリットも莫大だ。
その一つが幸運という名の【物質の未来の決定】
物質の記憶に【博麗霊夢】という幸運のカードが入るだけで、未来は確定されるのだ。
とはいえ全てを自由に出来るわけではなく【確率で起こり得る物理現象】という範囲には限定されるが。
先程のピンゾロや書物もその一端。
賽の記憶に【ピンゾロが出る】という霊夢の予測が加われば、未来が大幅に傾き、賽自身が霊夢の望む結果を導き出す。
書物が弾幕へと衝突したのも、【あの本はこう落ちる】と霊夢が予測した結果だ。
霊夢は一通り盗るべき物を盗り終わり。
ルナサと阿求の亡骸を一顧だにもせず、書庫の入り口へ歩みを進める。
その姿には疲労は窺えず、足取りもそれを証明しているかのように毅然としていた。
能力も弾幕も使わず、不用意な体力の消耗を避けながらルナサを打倒したのは、気まぐれでも油断でもない。
何時か訪れるであろう死闘を見越しての深慮遠謀である。
此度の異変は参加人数が非常に多く、普段よりも長丁場になることは必至。
出し惜しみして敗北してはならず、無理をしすぎて後に影響を及ぼしてもいけない。
そんな誰もが望む理想の調節をしなければ、この殺し合いでは生き残れない。
そして力量の調節ならば霊夢には一日の長がある。
博麗霊夢は妖怪退治、結界の維持、そして――異変の解決を生業としている。
太陽光の消失、春の強奪、鬼による洗脳、月の摩り替え、宗教戦争、地殻変動、地底の怨霊。
全てが天変地異にも匹敵する困難。
如何なる困難であろうとも霊夢は長きに渡り、繰り返してきた。
無限の弾幕、無数の短剣、鋭き楔、無慈悲の檻、絢爛の星屑。
一つの異変で放たれる弾幕は、合計で万を軽く超えるだろう。
その内、一発でも被弾すれば飛行のコントロールを失い、広大な空から地面へと叩き落とされるのだ。
怪我などは日常茶飯事。 服など幾つ変えたか分かりはしない。
霊力で肉体を保護し、いくらかは耐えられるとはいえ、数発も被弾すれば限界を迎え、異変の解決は失敗する。
異変の解決までの道筋は極めて困難。
道中で遭遇する、幾百の妖精、妖獣、妖怪の放つ無数の弾幕すら、前座に過ぎない。
身を削り、到達した伏魔殿に潜むのは、吸血鬼、亡霊、大妖、鬼、月人、神、天人。
そのような一騎当千の輩を打ち破り、ようやく異変は解決される。
突破に必要なのは冷静な思考の回転、周囲の状況の把握、素早く的確な回避。
そして――力量の調節。
前座に敗北してはならないし、力を注ぎすぎて道中で集中力を切らしてもいけない。
――それでも霊夢は異変の最中でその全てを身に付け、一度も力尽きずに、全ての異変の解決を成し遂げているのだ。
数々の異変を乗り越え、極限状態で研ぎ澄まされた集中力は、狂気染みているといっても過言ではない。
とはいえ全ての異変はスペルカードルールというルールを前提としているものだ。
相手を殺そうとしてはならず。
不意打ち、追い討ちは禁止。
体力に任せた長期戦闘も制限されている。
事故はありえるが、基本的に殺し合いにはならず。
真剣勝負であるとはいえ、スポーツともいえるバトルだ。
スペルカードルールで培った経験は、この殺し合いにそのまま適用できるようなものではないだろう。
それでも――霊夢は殺し合いの最中に、経験を応用し、使いこなそうとしているのだ。
霊夢の足音が襖の手前へと到達した時
唐突に書庫のガラス窓に視線を走らせ、一睨みした後、興味を失ったように視線を戻し書庫を出る。
そして廊下に置き去りにされたままの盆に注目した。
カップは紅茶を湛え、香りが霊夢の鼻をくすぐり。
皿にはクッキーがたんと乗せられている。
霊夢はルナサが用意したものなのだろう、と理解するも。
力を抜いた姿勢で座り込み、躊躇を欠片も見せずにクッキーを頬張り、紅茶を口に含む。
クッキーはふんわり、さくさくと砕け、甘みが霊夢の舌を心地よく刺激し。
紅茶は多少冷めてはいたが、それでも味わい深いものに仕上がっていた。
霊夢は両者をたっぷりと味わい。
「やっぱり私はお茶のほうがいいわね」
普段どおりの軽い微笑を浮かべたまま、図々しく、傲岸不遜に、慇懃無礼に感想を吐き出した。
整った可愛らしい顔にはクッキーの欠片が見受けられる。
やがて間食も終わりかけた頃、陽射しが窓より差し込み始める。
妖怪の時間が終わりを告げ、太陽が真東から昇ろうとしているのだ。
霊夢は、燦然と輝く太陽を仰ぎ、くぁ…と可愛くあくびをする。
そして、ごしごしと目を擦り、ぼんやりとした眼差しを投げかけ、立ち尽くしていた。
滲みだす白光にあてられた黒髪はオレンジ色に輝き。
睫毛は深い影を落とし、愛嬌溢れる風貌をより可憐に彩っている。
かくして、幻想郷に愛された人間、博麗霊夢の日常は廻り行く。
【稗田阿求 死亡】
【ルナサ・プリズムリバー 死亡】
【残り41人】
【D-4 一日目・早朝】
【博麗霊夢】
[状態]健康
[装備]楼観剣
[道具]支給品一式×4、ランダムアイテム1~3個(使える武器はないようです)、阿求のランダムアイテム0~2個
メルランのトランペット、魔理沙の帽子、キスメの桶、救急箱、賽3個
[思考・状況]基本方針;殺し合いに乗り、優勝する
1.力量の調節をしつつ、迅速に敵を排除する
2.休憩が必要と感じれば休憩する
※ZUNの存在に感づいています。
◇ ◇ ◇
人里の民家の屋上。
優しく黒髪を掬い取り、さらさらとした感触の心地良さを味わっている影がいた。
飄々とした雰囲気に、整った柔らかな容姿。
大人びた四肢を白の上着と黒のスカートで包んでいる。
稗田家の窓から200mは離れた屋根の上で、虎視眈々と抗争を覗いていた影は、射命丸文。
飛翔で山脈を横断した後、徒歩に切り替え、誰かがいそうな人里に立ち寄ったところでルナサの演奏に惹かれた次第である。
「珍しいもの見ちゃったわね。
見出しにするなら【早朝の惨劇。新聞記者は見た!】あたりかな?
普段なら殺人の記事はあまり書きたいものじゃないんだけどね」
完全な詳細までは掴めなかったが、ルナサを霊夢が殺したというのは目撃していた。
阿求の下手人も、死因と霊夢の刀に付着していた血液から、恐らくは霊夢の仕業なのだろうと推察している。
実際に見てもいないのにそう決め付けれるほど、霊夢には殺しの躊躇がまったく見受けられなかった。
霊夢が殺し合いに参加しているという事実を認識し、驚きはするが慌てはしない。
文にとっては、人数を減らし、場を混乱させてくれるのは願ったり叶ったり。
火花の巻き添えにさえ気をつければ利益でしかない。
後は入手した情報の活用方法。
文の見る限りでは、ルナサと阿求が霊夢に殺されたという情報の入手者は、霊夢と文の二人だけ。
どういう使い方をするにせよ、活用できるチャンスは十分にあるだろう。
それでも、やるのならば慎重に、冷静に、丁寧に任務を遂行しなければならない。
嘘というのは一つがばれると、他の言動も妄言、虚言と考慮の余地無く断じられる危険性が出てくるものだ。
(まだ慌てるような時間じゃないし、土台はちゃんと固めないとね)
今回の情報で得たものは、今のところ二つ。
一つは霊夢に近寄るのは危険だということ。
偶然か、はたまた狙ってのものかはわからないが、霊夢は遠く離れた文を的確に睨みつけていた。
霊夢からも目撃されていたとしたら、文の排除にかかるというのは十分にありえる。
敗北するとは思っていないが、潰しあうのは愚策だ。
もう一つは、二十四時間、誰も死ななければ爆破されるというルールが破られたということ。
実際起こり得ることはありえないだろうが、射命丸文はそれでも万が一を考慮し、些細な事柄でも記憶から破棄することはしていなかった。
確実に害が降りかからないようにする為には、手間を惜しんではならない。
清らかな風がふわりと髪を靡かせ。
そろそろ此処から離れようか、と文が考えたところで太陽が顔を出し。
降り注がれる柔らかな日差しが、瞬く間に夜を駆逐していった。
しかし、闇を切り払うお天道様に照らされても、文の仮面だけは、揺れず、動じず、微笑んでいた。
【D-4 一日目 早朝】
【射命丸文】
[状態]健康
[装備]短刀・胸ポケットに小銭をいくつか
[道具]支給品一式、小銭たくさん
[思考・状況]情報収集&情報操作に徹する
殺し合いには乗るがまだ時期ではない
最終更新:2009年06月28日 20:54