東方萃夢想/Imperishable Night ◆Ok1sMSayUQ
満月の下の、草木も眠る丑三つ時。
人間と妖怪の肝試しは、いったい何を恐れる?
最大の大罪の犠牲者は、いったいどこに居る?
藤原妹紅の歩みは遅かった。
理由は様々にあった。
単純に頭が痛いこともあったし、意識が覚醒したばかりで力が入っていないこともある。
しかしそのような肉体的理由などは些細なことでしかなかった。
本当の理由は……閻魔の言葉に、
四季映姫・ヤマザナドゥの言葉に、どこかで打ちのめされたからなのかもしれなかった。
目の前の命を救うことが出来なかった。昔も、そして今も。
いつも自分という人間は助けられる立場でしかなく、それに対して報いることもしてこなかった。
アリス・マーガトロイドを見殺しにしたことを始めとして、どうする術も持てずに逃げ出し、心を喪わせた挙句に追い込んでしまった古明地こいし。
現在の目的を重視するあまり、追うこともしなかった因幡てゐ。そして今度は、仲間であるはずの伊吹萃香の援護にも行けていない。
庇われた。襲撃から逃すためにわざと自分を気絶させ、萃香はひとり死地へと赴いた。
想像できないことではなかったはずだった。こいしと相対したときの萃香の言動を考えれば、自尊心と自己犠牲精神の強い妖であることくらい分かったはずだ。
そして、こいしの殺害に心を痛めていることも、分かっていたはずだった。
分かっていて、分かっていながらなお、自分が言葉をかけなかったのは、生来の不器用さだけではなかった。
結局のところ、自分のことしか考えていないのではないか。『己に恥じない生き方』に固執するあまり、他者との関わりを疎かにしていたのではないか。
慮り、心を通わすという行為から、逃げていたのではないか。
それがいつだって誰かを追い詰めてきた。あの猫妖怪も、てゐも、こいしも、萃香だって。
ちょっとした言葉をかけるだけで、ほんの少し心に触れるだけで、この未来は避けられたはずではなかったのか。
それができない自分という人間は、千三百年の昔から何一つとして変わっていない。そう、閻魔の言う通り、『怠けていた』のだ。
生まれが生まれだから、不死だから、仕方がないという言い訳をすることはできた。
妹紅は望まれない、貴族の子供として生まれ、外界と隔離するように育てられてきた。
友達なんていなかったし、家族とも親しくなれるはずもなかった。たまに様子を見にやってくる父親だけが唯一の繋がりだった。
だがその父親も貴族として再起不能になった。かぐや姫の難題に応えられず大恥をかき、出世競争から除外された。
物笑いにされる父親に対して、妹紅が初めて抱いた感情は憎悪だった。
父親をこんな目に合わせたかぐや姫。まるで見世物かなにかのように難題を出して笑うかぐや姫が許せなかった。
しかしかぐや姫は何処かへと帰ってしまった後であり、直接的な復讐は果たせなかった。
だから腹いせにかぐや姫の置き土産である蓬莱の薬を奪い、不死の体となった。
それ以降は不死に悩まされることとなった。どんなに手を尽くしても死なない体に、嘆き、憤り、ついには諦め、そして適当に生きることでとりあえずの納得を得た。
壮絶といえば壮絶な人生だったのかもしれない。他者のことなんて考える暇もなければ、
人間の醜い様をこれでもかと見てきた我が身の人生からすれば、不信を抱いて当然なのかもしれない。
けれども機会はいくらでもあったはずだ。不死である『藤原妹紅』に恐怖を抱き、疎外してきた人間もいる一方で、
人間である『藤原妹紅』を見てきた人間だってたくさんいたはずだった。
だがどうせ死なない、無限の命には、有象無象との関係など不要だといつでも諦め、切り捨ててきた結果が今だった。
自分が悪いんじゃない、こんな人生が悪いんだと結論を結び、常に自分以外を悪者にすることで生きてきた。
そんな性根を持つ自分だから、心を交わすなんて考えもしなかった。
『己に恥じない生き方』なんてできるはずがなかったのだ。いつだって己を正当化し、逃げることしかしてこなかった藤原妹紅という人間には。
不死であろうがそうでなかろうが、生まれがどうであろうが、卑屈で捻じ曲がった人間でしかなかった。
だから閻魔は笑った。そんな妹紅の人間性を見抜き、愚かだと笑ったのだ。
綺麗ごとを言っているがいい。そのうち元の醜い、己を正当化するだけの、今まで自分自身が見下して遠ざけてきた人間に戻るだろうから、と。
そういう人間は、いつも最後にこういう結論を下すのだ。
『仕方がなかった。あのときはああするしかなかった。その場に応じた正義を行使したら、こうなってしまったのだ』
そんな、言い訳を。
藤原妹紅は誰も救えない。いや、救おうなどとも思っていない。
自分の生き方を正当化し、満足に浸るためにそうしようと思っていただけの話だった。
『自分に恥じない生き方』は、『自分に恥じる生き方』でしかなかったのだ。
再三誰かに助けられ、無様を晒して、ようやく辿り着いた結論がここだったというわけだ。
蓬莱山輝夜の前で切った啖呵も、その場の感情の昂りでしかなかった。
博麗霊夢と以前戦ったときに感じた生きたいという気持ちも、醜い人間性の発露だった。
それが証拠に、今度だって何も出来ていない。閻魔の言葉にだって言い返せなかった。
傍観者でしかなく、己の言葉を持たず、ただ言い訳だけを繰り返してきた自分には……
妹紅はちらりと、手の中に収まる鉄砲を見た。
引き金を引けば、死ぬ。誰かを殺す。だが、それで救われるのは、誰なのだろうか。
暗闇の中で、しかし怪しげな金属の鈍い光を放っているそれは、誰を救うのだろう。
やらなければいけないとは、分かっている。しかしその場しのぎをしたところで、本当に正しい結果になるのか。
ここから先に下す決断は、最良のものになるとどうして断言できるだろう。
自分が汚らしい、浅ましい人間だということを、自分が一番よく分かっているはずなのに。
ついに歩みが止まった。いや、いつの間にか止まっていたのだった。
私は、結局自分を救う未来しか考えていないのではないか。
だったら、私がやろうとしていることは全て間違いではないのか。
自分本位でしか動いていない私は、無能な働き者でしかないのではないか。
閻魔が妹紅に飲ませた、無力という名の毒が。身勝手という名の毒が蝕んでいっているのが、分かった。
思い込みでさえ自分を肯定することなんてできなかった。
しかしそれこそ、また誰かを見殺しにしてしまう材料になるかもしれないのに。
けれどもやらなければいけない。何を? どうして? それは正しいのか?
藤原妹紅が実行するのは、そもそも正義でも悪でもない、自己保身ではないのか?
「大丈夫ですか」
呆然と立ち尽くしていたところに、不意に声がかかる。
振り向く。そこにいたのは、妖怪。
かつて見殺しにした、妖怪の面影を残す妖怪だった。
妹紅は直感した。
自分はここで裁かれるのだ、と。
* * *
古明地さとりは迷っていた。
道にではなく、自分の今のありように対してだ。
本当にこれでよかったのか。
ルーミアの、彼女の笑顔を忘れきれずに逃がしてしまったことが。
自分の勝手な判断から戦闘に割り込んでしまったことが。
最初の頃の自分ならばこんなことはしていなかったはずだった。
危険因子は危険因子だと断じ、ルーミアは殺害していただろうし、
争いごとには介入せず、傍観者の立場を取って己の為すべきことを優先させていただろう。
けれども今は、それを間違いだと感じる気持ちを持ってしまっている。
本当の悪は自分達の中に潜む卑しい心なのだと知っている。戦わなければならないのはそれなのだと知っている。
東風谷早苗の言葉に共感し、信用すると決めたからこそこんな行動を取れたのは間違いのないことだった。
けれども、妖怪の冷たい心は依然として残っている。
ルーミアを追い払う前の一瞬、彼女に対して抱いた殺意。排除しようとする気持ちは本物だった。
裏切ったルーミアなど死ねばいい。確かに、そう思っていたのだ。
思い留まったのは早苗の言葉を思い出したからこそだったが、さとりは同時に一つの推論を浮かべてもいた。
自分は、復讐の理由付けに早苗の言葉を利用しているだけではないのか、と。
表層では同感したふりをしておきながら、その実利用することしか考えていなかったのではないか。
己の内に潜む、身勝手な妖怪としての心が、同族以外に対して抱いてきた差別意識が、
彼女の言葉を嘘だと決めつけ、綺麗事だと罵り、無意味だと嘲笑った上でずる賢く使おうとしているだけなのではないか。
妖怪としての本性が、自分本位でしかない妖怪の本性が、『他者を殺す』という大きな罪悪を誤魔化すために、
『仕方がない』という小さな罪悪にすり替えようとしているだけではないのか。
こいつは早苗の言う悪だ。悪だから仕方がない。退治してしまってもいい。……本当に抱いていた考えは、そうではないのか。
大義名分を得たいがために、新しい嘘をつくことを覚えてしまったのでは、ないか。
古明地さとりという妖怪は、本当に、東風谷早苗の言葉を信じているのか。分からなかった。
そうした迷いを抱きながら、さとりは人里の中を走っていた。
既にいくつか戦闘でもあったのか、民家の一部は崩落し、さながら大地震後の集落の様相を呈していた。
火災が起きていないのは人間の営みが絶たれたせいなのだろう。火元すらなければ火など起ころうはずもない。
安堵を感じる一方で、逆にそれが人里の廃墟ぶりを示していることも分かり、寂しい気分も抱く。
サトリという種族ゆえ、孤独もよしとしてきたはずなのに、そのように感じてしまった自分に対してさとりは何とも言えない感慨を抱いた。
狡い、妖怪としての自分。理想も信じず、打算に従って動き、隙あらば他者を陥れようとしている妖怪の本性を持つ自分。
しかし別の自分もいる。様々なものと関わり、認識を改め、より良い方向へと進もうとしている自分。
どちらが本来のわたしなのだろうと考えてみるも、結論は出ていない。
出るのかどうかさえ分からなかった。自らそのものに対する問いは、自分で出すしかない。けれども、どうすればいいのか分からない。
このままでいいのだろうか。結局はその疑問に戻り、放置するしかなかったのがさとりだった。
ともかく、今は眼前の事態に対応するしかない。いつもの結論、いつもの逃げだと分かってはいたが、悩む猶予はさとりにはなかった。
街路の一角を曲がったところで、そろそろ戦いに備えなければならないと準備を始めようとしたところで、人影を見つけた。
真っ白な長髪が特徴の、先程博麗霊夢に殺されかけていた人間だった。
いつの間に意識を取り戻し、ここまでやってきたのかと驚きを覚えたのは一瞬で、すぐに彼女の不審な様子に疑問を抱いた。
何をするでもなく、棒立ちになってどこかを見つめている。視線の先では何か争う音が聞こえていた。
恐らく霊夢はあそこにいる。向かえばすぐに着くだろう。ここで霊夢を逃がすと、千載一遇の機会を逃すことに他ならない。
白髪の少女は突っ立ったままだ。いかにも危なっかしく、放っておくと誰かに狙い撃ちされなねない。いい的だった。
無視しろ、と命じる声が聞こえる。こんなところでわけの分からない人間に付き合っている暇はない。
いつもの理屈だった。それに、と声は続ける。
悪を退治するのなら、今まさに悪を行っている霊夢を優先して止めるべきだ。これ以上被害を出すわけにはいかない。
もう後悔したくはないはず。そうでしょう?
最後は自分の声で締めくくられた。
そう。間違いなく、この場で一番危険なのは霊夢に決まっている。その霊夢と争っている誰かも危険な状態かもしれない。
この少女の、優先度は低い。
だけど。でも、私は見てしまった。確認してしまった。
所在なさげに立ち尽くし、呆然としている少女の危うさを。
逃げているのかもしれない。正しくないのかもしれない。いつだって卑怯な、もうひとつの本性が目を覚ましたのかもしれない。
自己保身だけを考える、愚かな古明地さとりが。いいことをしたつもりになろうとしている、上辺だけ取り繕った妖怪が。
やっぱり、私は狡さを捨て切れないのだ。
もう、胸を張って早苗には会いにいけないかもしれない。
そんな漠然とした予感を抱きながら、それでも目の前の存在を無視できずに、さとりは声をかけた。
「大丈夫ですか」
軽く肩に手を置くと、色をなくした顔が振り返った。
蒼白でもなければ、機械的な表情というわけでもない。どうすればいいのかが分からない子供のような顔だった。
その姿が、彼女の瞳に見える自分を通してさとりそのものに重なる。
同じなのかもしれない、と思った。この少女もさとりと同じく、自らの本性に怯えているのかもしれない。
「あなたは……」
「古明地さとりです」
古明地、の名を聞いた瞬間、少女の顔が引き攣ったのが分かった。そこに見えたのは恐怖であり、諦念だった。
どこか安心感さえ感じられる諦め。こうなったのは、既に決定されていたことなのだと感じていたかのような諦めの意志だった。
争う喧騒が、どこか遠くなる。何故だかさとりは、心の中がざわめき立つのを知覚していた。
自分が読んだ心。放り出したようにさえ感じられる少女の心を見て、不安を覚えたのかもしれなかった。
そして、その不安は最悪の形で的中することになる気さえ、した。
「古明地こいしの、お姉さんね」
「は……」
心中に影が差した、まさにそのタイミングで、少女が妹の名前を切り出していた。
あまりにも突然すぎる告白に、さとりは思わず真顔で応じてしまっていた。
いったい、なぜ、どうして、こいしの名前が出てくるのだろう。
心を読む暇さえ与えられず、少女は次の事実を突きつけた。
「私は、藤原妹紅。あなたの妹さんを殺した……人間よ」
「殺し……た?」
聞き返したことに気付いたのは、少女……藤原妹紅が、力なく民家の壁に寄りかかったのを確認したときだった。
うつむき、どこか覚悟を固めた顔で、妹紅は「正確には」と続ける。
「私は伊吹萃香って鬼と一緒にいた。今はもういないけど、因幡てゐって妖怪兎ともね。一緒に行動してて、
その途中で妹さんに会って……それで、戦いになって、殺した」
言葉が、頭の中を通り抜けてゆく。嘘か本当か、判別できるだけの余裕もなかった。
殺された。妹が。この人間に。残っていたのはそんな単語で、澱みを為して渦巻いているのが分かった。
自分から『ただいま』を奪った。『おかえりなさい』を奪った。次にさとりが思い浮かべたのは、あの写真だった。
一枚として撮影してはいない、しかしはっきりと残っている、思い出という名前の写真だ。
つい昨日まで、肩を並べて写っていたはずの妹は、もういない。虚に空いた間には、言葉を並べても届かない。
苦しさだけを、残してゆく。
「私はそれだけじゃない。その前にも、妹さんに会って……でも、止められなかった。
アリスって人形遣いが死んで、そのせいで、あの子は壊れてたのよ。どうしようもなくって……私は、逃げた」
壊れていた? 違う、壊してしまったのは、自分だ。
言葉にならない言葉を抱えたまま、さとりは睨んだ。壊した妹へ謝罪する機会を奪った人間を。
言葉足らずな妹紅の語り口からでも、大体のことは分かる。妹は、新しい友人を見つけたのだ。
分かってくれない家族の代わりに、分かってくれる人を見つけたのだろう。妹が一番欲していたのは理解者だったから。
サトリという種族が持つ苦しみを共有できる存在が欲しかったから。
自分に、それを求め、得られないと分かって失望して、外に出るようになった今までを考えれば間違いはない推測だった。
その友人を奪われ、妹は真に絶望した。孤独に耐えらなかった、不出来で、しかし正しくてやさしい妹は、そうして崩壊という末路を迎えた。
全てを道連れにしようという思いだけを抱えて……
「どうしようもなかった」
まるで言い訳するように、妹紅は重ねた。
確かに、そうなのだろう。妹が閉ざした心の発端はさとりにある。
もう少し理解しようという意志があれば。過ちを犯していたのだと認めていれば。
だがそれは出来なかった。だからこそ、これから間違いを正してゆこうと考えていた。
その機会さえ奪った、この人間は。果たして、本当に、『どうしようもなかった』のか。『仕方がなかった』のか。
許せないという気持ちが湧き上がってきているのを、さとりは感じていた。
「納得するわけ、ないよね」
無言を返事に、ただ睨み続けている自分を見て、妹紅は薄く笑った。
気付いている。理不尽な怒り、理屈の通らない思いを抱えている自分に気付いているのだとさとりは思った。
ただ事実を話しただけではない。妹紅は審判を求めているのかもしれない。
苦しむ誰かがいることを、分かっていたから。その人に裁いてもらうために。
「殺したくて殺したいわけじゃない。そんなのはお為ごかし。本当は……私がただ助かりたいだけだった。
死なない人間だったくせに、いざ死にそうになるとまた生きたくなって、そしたら今度はずけずけと、どうやったら立派に生きられるかなんて考え始めて。
自分さえ満足させられれば良かったんだって、今気付いたのよ。だから救うなんておこがましいことを平気で言えた。
あの猫妖怪も、人形遣いも、妖怪兎も、萃香も、こいしちゃんだって。本当はそんなつもりなんてなかったくせに、助けたいだなんて言ってた。
本気なら、助けられたはずなのに、私は逃げた」
「……それがあなたの本性ですか」
やっとの思いで吐き出された言葉は、他人を傷つける刃物だった。
妹紅だけが悪いわけではない。そんなことは分かりきっているにも関わらず、
『写真』を奪ったその一事だけで許せないという気持ちがあった。
そこに曝け出された妹紅の本性。自分さえ良ければいいという、妖怪同然の本性。
他人を誤魔化し、自らを誤魔化し、そうして無意識に甘い汁を啜り、腹の奥底で笑う、許されざるべき悪だった。
だとするなら、この人間だって自分達と何も変わらない。理想も持たない悪い人間。
退治されなければならない、人間だ。
「それが私だよ。何もできないくせに、意地だけは一人前のね」
妹紅は壁に背中を預け、俯いたまま動かない。
開き直っているようにも、観念しているようにも見えた。
――だからどうした。
さとりは一歩目を踏み出す。何も変わらない。筋の通らない我が侭な気持ちを抱えている自分も、この人間も。
楽を貪ろうとする唾棄すべき存在。もう、幻想郷にはそんなものしか残っていない。
だから殺せ。駆逐しろ。滅ぼしてしまえ。そんな声が聞こえてきた。
人間も、妖怪も、皆汚い。だったらそれに失望してしまえばいい。
一度歪んだものは、元通りになるはずがないのに。
理想を信じたところで、悪がなくなるわけなんてなかったのに……
許せない。
妹を殺したこの人間は、許せない。
そんな気持ちを抱えている子供のような自分も許せない。
何もかもが、許せない。
妹紅に、手の届く距離まで近づいた。
息のかかりそうな距離。妹紅の顔は、相変わらず子供のような顔のままだ。
自分と同じような、子供同然の顔。
人間と妖怪。いかに戦闘が苦手な自分でも、簡単に殺せるだけの身体能力の違いがある。
簡単だ。他者を否定することは、とても簡単で、あっけない行為だ。
否定して、否定して、否定して、否定する。
悪意が蔓延る幻想郷では、もうそうするしか争いを解決する方法はないのかもしれない。
それが幻想郷の真実なのかもしれない。
さとりは、拳を振り上げて――
パンッ
――軽く、しかし人間にとっては痛いくらいの平手打ちを、妹紅の頬に当てた。
それで終わりだった。呆然とする妹紅が頬を押さえているのを見ながら「……今はこれで手打ちにします」とさとりは言っていた。
許せない。妹を失くさせた妹紅に対して、今もその気持ちは変わっていない。
でも、それでも。不意に聞こえたその言葉が、『それでも』が、さとりを押し留めた。
自分本位の考えや、打算があったのだとしても、それだけじゃないという言葉が、さとりの中から生まれていた。
「……私の知人が言っていました。嘘が誰かを救うこともある。どういうことか、分かりますか」
唐突に繰り出された質問に、妹紅は目をしばたかせたままだった。
それもそうだろう。意図がまるで見えないだろうから。
「良心があるからです」
「良心……?」
「その方を思えばこそ、嘘をつくことがあります。確かに嘘は悪いときもある。でもそれだけじゃない」
さとりは空を見上げた。同じ空を見上げているであろう、儚くも強い人間の存在を思い浮かべながら。
漆黒の空では、点々とした星が輝いている。
「あなたの言うように、あなたには自分勝手な面があるのかもしれません。
でもそのままでいるのを、良心が許さなかった。後悔したままでいたくなかった。だから、私に事実を言えたんです」
否定はいくらでもできる理論だった。言い訳のために事実を持ち出したといえばそれまでだ。
嘘も、悪意があれば生まれる。しかし全ての嘘や事実が悪意だけから生まれると、さとりは思いたくなかった。
いや、自分の持つ良心が思わせたくなかったのかもしれない。
「私はサトリ。心の読める妖怪。だから、あなたの言うことは本当なのでしょう。
あなたはこいしを殺した。見殺しにもした。救えなかった。救おうともしなかった。それは事実です。私はあなたを許せないと思った」
「だったら……」
「ですが、あなた自身が言うような人間だとも思えなかった。だから、今のが私の罰です。
それでも自分が狡いだけの人間だと言うのなら……寝言は死んでから言いなさい」
「私にも、良心がある……?」
呟いた妹紅に、もうさとりは言葉をかけることはなかった。
肯定も否定もしない。結局のところ、それを決めるのは自分だけだ。
今まで、妹にすら行ったことのない平手打ちをした手のひらを眺める。僅かに震えていた。
さとりは、良心の表れなのだと思うことにした。理屈に真っ向から向き合い、己なりに戦った結果なのだと。
確かに、現在の幻想郷には悪意が満ち溢れているのかもしれない。
自分を含め、打算や自らの権益を捨てられない者がたくさんいるのかもしれない。
だからといって、それを一概に否定するのは間違いであるような気がしていた。
人も、妖怪も、清濁を併せ持った上で生きている。良心も悪意も持ちながら生きている。
どうしても許せないことだってあるし、時には諦めてしまうことさえある。
しかし、そのままじゃいけないと思う気持ちだってある。
自分に、自分達にできるのは、その気持ちに気付かせることなのだろう。
早苗の存在があったからこそ理想を信じようとする良識ある自分に気付けたのだし、
早苗自身も誰かから良心の存在を教えてもらったのだろう。例えば、洩矢諏訪子のような。
そうして可能性を示し、後は本人を信じる――これがさとりの辿り着いた答えだった。
妹紅に殺意を向ける寸前に聞こえた、『それでも』から考え出した答えだった。
ですが……難しいことなのですね。自分の悪意と向き合うのは。
殺したいと思う気持ちを抑えるだけで、こんなに手が震える。
許せないと思う気持ちが、未だに止められない。
可能性を示したところで、ちっぽけな可能性なのかもしれない。肥大した悪意の前には、良心の存在など無意味なのかもしれない。
でも、それでも。自分でも、自分でさえ行えたのだから……まだ信じてみてもいいはずだった。
「行きましょう。まだ少しでも自分を信じたいと思えるなら、行動はできるはずです」
「……うん」
いつの間にか、戦いの音は消えていた。
もう終わってしまったのか、それとも何らかの原因で戦闘が中断しているのか。
確かめなくてはならない。もし、未だに悪意を蔓延させ、良心の存在を否定しようとする存在がいるのだとしたら。
それに対して、自分の可能性をぶつけなければならなかった。
「行こう。私は……仲間を助けたい!」
さとりの横に並んだ妹紅は、強い意志を秘めた、ひとつの結論を見出した表情になっていた。
* * *
最終更新:2010年12月29日 18:49