SENSHI

鋼鉄の戦風

(空白、行間等修正)


青作戦


ドイツ軍東部戦線は多大な犠牲を出すもソ連軍の冬季攻勢から持ちこたえた。ヒトラ
ーはソ連軍の継戦能力をそぎ取るためコーカサスの油田に次の目標を定め、この作戦を
「青作戦」と名付けた。6月28日ドイツ軍は攻勢開始時において敵大部隊を補足し包
囲せん滅する計画だったがソ連軍は既にドン河東岸へと撤退していた。ドイツ軍はドン
河を越え侵攻するもソ連軍は殆ど戦わず退却していった。ドイツ軍は当初の作戦内容を
変更しコーカサス攻略を担当するA軍集団とスターリングラード方面に退却したソ連軍
を担当するB軍集団に分けられ新作戦が開始された。A軍集団は抵抗を受けるも急速に
南下していき8月にはコーカサス山脈を越えたが、補給の不足から目標の直前で進撃が
止まった。
一方スターリングラードのB軍集団はスターリングラード市内に立てこもったソ連軍と
市街戦を繰り広げていた。ソ連軍は増援を繰り返し抵抗したが、10月末にはスターリ
ングラードはほぼドイツ軍の手に落ちた。しかし11月中旬からソ連軍はドイツ軍の側
面に大攻勢をかけドイツ軍を圧倒し包囲した。ドイツ軍は包囲された友軍を救うために
「冬の嵐作戦」を発動した。救出部隊はスターリングラードの60キロ手前まで迫った
が、ソ連軍の抵抗が激しく自らも包囲される危険が生じたため作戦は中止されスターリ
ングラードのドイツ軍は翌年1943年2月に降伏した。


蘭印攻略

マレー・シンガポール攻略・フィリピン攻略と南方作戦を進めていった日本軍の最終
目標は蘭印(現インドネシア)を占領しその豊富な資源を得ることだった。1942年
1月から蘭印攻略戦は始まった。次々とそれぞれの島を攻略していき2月末にはジャワ
島を残すのみとなった。ジャワ島上陸は3月1日に実行された。その直前に連合軍の艦
隊がスラバヤ沖にて上陸阻止に向かってきたが日本軍の護衛艦隊により主力艦を撃沈さ
れ退けられた。撃沈を免れた艦もバタビア沖で輸送船団を攻撃しようとして逆に撃沈さ
れた。この「スラバヤ沖海戦」「バタビア沖海戦」の勝利により上陸部隊は予定通り上
陸に成功し3月10日にはバンドンを占領したことにより蘭印軍は降伏した。


珊瑚海海戦・ミッドウェイ海戦

南方作戦で成果を収めた後、軍令部と連合艦隊司令部では次の侵攻目標の選択で意見
が違っていた。
軍令部側はフィジー・サモア方面に進出して米豪遮断作戦を主張し、連合艦隊側はミッ
ドウェイ島の攻略と同時に米機動部隊を誘い出し撃滅させると主張した。軍令部と連合
艦隊司令部の話し合いはまったく進展を見なかった。そのような状況下で1942年4
月18日、空母から飛び立ったB25爆撃機により東京初空襲が行われた。この空襲が
空母撃滅案の追い風となり5月5日「ミッドウェイ・アリューシャン作戦」が
発令されるのである。

このころ既に決定されていた海からのポートモレスビー攻略を実行すべく「翔鶴」「
瑞鶴」「祥鳳」の3隻の空母を中心とする部隊は目的地に向かった。日本海軍の暗号を
解読し日本軍のポートモレスビー攻略を知ったアメリカ海軍は「ヨークタウン」「レキ
シントン」の2隻の空母を用意した。5月7日から8日にかけ両軍はお互いに空母を叩
きあった。その結果はアメリカ軍の被害は「レキシントン」撃沈「ヨークタウン」大破
、日本軍の被害は「翔鶴」大破「祥鳳」撃沈というものだった。戦いは正規空母1隻を
撃沈した日本軍の勝利に見えるが、航空機、人材の消耗が激しく空母の損傷も大きいた
めポートモレスビー攻略は中止せざるを得なかった日本側の戦略的敗北であった。。さ
らにミッドウェイ海戦に「翔鶴」「瑞鶴」の両空母を参加させられなくなったのも大き
な損失だった。

5月下旬、日本からミッドウェイ攻略部隊が出港した。その内容は「赤城」「加賀」
「蒼龍」「飛龍」の4隻の空母を中心とした艦艇150隻以上の大艦隊であった。アメ
リカ側は暗号解読により日本軍のミッドウェイ侵攻を知ったため「エンタープライズ
ホーネット」の2隻の空母と珊瑚海海戦で大破した「ヨークタウン」を2日で修理し
合計3隻の空母を配備した。

日本軍は6月5日第一次攻撃隊を発進させミッドウェイを爆撃した。その一方アメリ
カ軍機動部隊を発見するために索敵機を発進させ、発見の場合は艦船攻撃用の装備をし
た第二次攻撃隊が攻撃を行う予定であった。しかし第一次攻撃隊からミッドウェイへの
第二次攻撃の必要性が打電され、これまで敵艦隊発見の連絡が入っていなかったため司
令官の南雲中将は第二次攻撃隊に陸上攻撃用の装備に変換させるよう命令した。
このような状況の中、索敵機から敵艦隊発見の報を受け南雲中将は第二次攻撃隊の装備
を戻すように命令した。そこに一次攻撃隊の帰還が重なり作業が遅れ、第二次攻撃隊の
発艦準備が終わったときに米軍機が日本空母に襲いかかったのである。「赤城」「加賀
」「蒼龍」は即、餌食となり残った「飛龍」は攻撃機を発艦させ「ヨークタウン」にダ
メージを与えるも、攻撃を受け大破し味方駆逐艦により処分された。
日本軍はこの戦いで空母4隻と多数の航空機とそのベテラン搭乗員を失い、太平洋での
制海権、制空権を二度と取り戻すことはできなかった。


ソロモン・ガダルカナルでの戦い

日本軍は米豪遮断作戦のためニューギニアから珊瑚海を挟んで東側にあるソロモン諸
島の一つガダルカナル島に飛行場を建設していた。7月末にはほぼ完成したのを見た連
合軍は速急に大軍を送り込んだのである。
1942年8月7日、2万名ものアメリカ軍上陸部隊がガダルカナル島に上陸した。3
00人程度の日本軍守備隊はなすすべもなくジャングルに逃げ込んだ。これに対し日本
軍はラバウルの第8艦隊を派遣した。第8艦隊はガナルカナル島海域で米艦隊と遭遇し
重巡洋艦4隻を撃沈するなど大きな戦果を挙げた。さらに日本軍はガナルカナル島を再
奪取すべく上陸部隊を送ったが全滅し、続いて行われる上陸作戦を成功させるべく空母
「翔鶴」「瑞鶴」軽空母「龍驤」を主力とする第3艦隊を増援に送った。アメリカ軍も
空母「サラトガ」「ワスプ」「エンタープライズ」の3隻を展開していた。両軍はお互
いに空母を叩きあい、日本側は「エンタープライズ」を中破させ、アメリカ側は「龍驤
」を撃沈した。このあと上陸部隊が上陸を試みたが航空機による攻撃を受け被害を出し
作戦は失敗した。日本軍は8月末増援の上陸に成功し飛行場奪取のための作戦を実行し
たがアメリカ軍の強力な火力の前に敗北した。

日本軍はこの状況の打破のために大量兵力の輸送計画とその補給経路確保のための作
戦を繰り返した。
日本軍が制空権の確保のため空母4隻を主軸とする機動部隊を投入した南太平洋海戦で
は米空母「ホーネット」を撃沈、「エンタープライズ」を大破したが、日本側も大きな
損害を受けた。さらに大量の兵員の上陸とその支援のために戦艦「霧島」「比叡」を中
心とする艦隊を派遣するも、アメリカ軍との激しい戦いで半数も上陸に成功しなかった
。上陸した部隊も圧倒的なアメリカ軍の火力の前に大損害を受けさらに補給の不足から
戦える状態にはなくなっていった。大本営は1942年12月8日、撤退を決定した。
日本軍の戦死者2万名、うち1万5千名が餓死または病死だといわれている。



1943年
アフリカ戦線

2月上旬までにロンメル率いるアフリカ軍団はチュニジアのマレトまで一気に後退し
た。ドイツ・イタリア軍はこの時までにかなりの戦力を増強させており、反撃の機会を
狙っていた。2月14日、ドイツ・イタリア軍の反撃はカセリーヌ方面のアメリカ軍に
向けられた。17日にはガフサを占領した。さらにドイツ・イタリア軍はターラ方面に
兵を進めたが、連合軍は堅固な守備でこれを阻止し、2月22日にドイツ軍は撤退を始
めた。ロンメルはヒトラーにアフリカ軍団のヨーロッパへの撤退を提案するが、アフリ
カ方面からの連合軍のヨーロッパ侵入を恐れこの提案は却下されロンメルは解任された
。3月後半から連合軍による大攻勢が始まりマレトからドイツ・イタリア軍はワジ・ア
カリト陣地まで撤退した。補給線を断たれたドイツ・イタリア軍は連合軍の攻勢を防ぐ
ことはできず、5月13日、アフリカ軍団は降伏した。


ハリコフ・クルスクの戦い


昨年冬からのソ連軍の大攻勢はスターリングラードにてドイツ軍を破り、各地のドイ
ツ軍を後退させて、2月上旬にはハリコフを奪還した。それに対してドイツ軍は、兵力
フランス方面から補充して反撃の機会をうかがっていた。ドイツ軍は2月19日ソ連
軍の攻勢が限界に達したと判断し反撃を開始しソ連軍を壊滅させハリコフを再占領する
ことに成功した。そしてさらなる戦果をあげるためドイツ軍は進撃を続けたが、雪解け
による泥濘がドイツ軍の行動を停止させた。その後ドイツ軍はソ連軍との決戦に備え戦
力を充実させていった。7月5日、ドイツ軍の作戦が開始され2500両以上の戦車が
クルスクを包囲する形で南北からなだれ込んだ。 
それに対するソ連軍は堅固な防衛ラ
インを構築しており、ドイツ軍は前進のたびに大出血し、北上部隊、南下部隊ともに大
被害を被っており、7月13日には作戦の中止が決定されドイツ東部戦線ではこれ以上
の攻勢が行われることはなかった。物量の豊富なソ連軍はドイツに対する攻勢を続け、
消耗しきったドイツ軍を西へ西へと後退させていった。戦線はドイツ国境に近づき始め
るのである。


日本の状況


1943年日本軍は前年の珊瑚海・ミッドウェイ・南太平洋海戦での機動部隊の損害
が激しく、この年はほとんど作戦に空母は参加させることができなかった。日本軍は2
月には南方連合軍の航空兵力及び艦隊を撃破するために残った航空戦力を南方基地に集
中させ攻撃を繰り返したが、増強されたアメリカ軍航空部隊の前に作戦は空振りに終わ
った。さらに前線の激励・視察のために航空機に乗り移動中だった山本五十六連合艦隊
司令が暗号解読によりその行動を連合軍に知られ、その搭乗機を撃墜され戦死した。日
本は敗戦への坂を転がり落ちていくのである。


1944年
ノルマンディーの戦い

1944年6月初頭、東部戦線ではドイツ軍はソ連軍の攻勢に押され次々と後退して
行くばかりであった。
そして第2戦線として連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始するのである。ドイツ軍
はこれを予想していたが、東部戦線の戦況の悪化のため有力部隊はほとんどフランス
は残されていなかった。6月4日ノルマンディーへの上陸が決定され、6月6日午前に
まず空挺部隊がノルマンディーに降下し、つぎに海岸に上陸部隊が到達し侵攻を開始し
た。ドイツ軍は混乱しており上陸部隊に対し効果的な反抗はできなかった。ドイツ軍は
午後になり混乱から回復し攻撃を開始するが連合軍の空軍力のために海岸方面に移動で
きない有り様だった。しかし、内陸部に連合軍が進出するにつれドイツ軍の機甲部隊に
よる攻撃は激しくなり連合軍の前進は遅れていった。
この状態の打破のために連合軍は7月25日、サン・ロー方面で攻勢をかけた。徹底的
な絨毯爆撃によりドイツ軍は壊滅し、連合軍はこの開いた突破口からなだれ込んだ。ド
イツ軍は兵力を集中しこれに対処しようとしたが、またもや連合軍航空機のために満足
に反撃できなかった。さらに連合軍はファレーズまで兵を進め激しい攻防戦の末、ドイ
ツ軍を包囲壊滅させた。ドイツ軍10万名のうち半数は包囲の不完全なうちに脱出に成
功したが、1万人が戦死し4万人が捕虜となったのである。


連合軍の東進

ノルマンディーに上陸した連合軍はその後進撃を続け、8月25日パリを解放した。
そして連合軍は敗走するドイツ軍を東へと追撃していった。しかしながらドイツ国境の
手前まで来たところで補給線が伸びきり、そこで連合軍の進撃は停止した。ドイツ軍は
その間に国境の守備の強化を急いだ。そして連合軍の進撃が再開され、英国元帥モント
ゴメリーの主張する「マーケット・ガーデン作戦」が行われた。この作戦は強化された
ドイツ国境を避けオランダ方面から兵を進めるというものであった。作戦は9月17日
に川の多いオランダで多数の橋を確保するために史上最大規模の空挺部隊の降下から始
まった。空挺部隊はおおむねその目標を達した。そして地上軍の侵攻が始まったがドイ
ツ軍は本国に戦場が近かったため、連合軍の予想を上回る兵力を投入することができ、
各地で連合軍は前進を阻まれ9月の下旬に入ると作戦の続行は不可能となった。



ヒトラーは度重なる敗戦の中、最期の奇跡を呼び込もうとしていた。それは一度の大
勝利により連合軍の継戦意欲をそぐというものであった。ドイツ軍はかつての電撃戦の
出発地点アルデンヌにて攻勢を行った。連合軍はこの攻撃を全く予想しておらず混乱を
生じたが、ドイツ軍は練度が低い兵が大部分だったため、これに乗ずることはできなか
った。ドイツ軍は体制を整え直した連合軍の前にほとんど前進することはできなく、奮
戦していた部隊も次々と来る連合軍の増援の前に破れ去り、翌年1945年1月上旬に
はドイツ軍は後退し始めたのだった。


インパール作戦

1943年初春、ビルマを制圧した日本軍の戦線は比較的平穏だった。しかし300
0名の英印軍が突如中部ビルマに現れしばらく混乱が続いた。この部隊はインドからア
ラカン山脈を越えてビルマに侵入したことが判明しこれを重大視した現地司令官牟田口
中将はその部隊の基地インパール占領を大本営に進言した。この作戦には補給上の問題
から否定的な意見があったため作戦開始が遅れたが、1944年3月作戦に実行される
に至った。日本軍は1カ月ほどでインパール近くまで進出し包囲する形となったが、用
意した食料はほとんど尽き、補給線も伸びきっている状態であった。一方インパールに
立てこもる英印軍は空中補給により物資の不足はなかった。司令官牟田口中将は撤退を
進言する部隊長達を次々と更迭し自分は徹底抗戦を叫んでいた。作戦は7月にようやく
中止されたが、日本軍には撤退するための食料も存在しなく、撤退中に力つきるものが
続出した。この作戦で日本軍は6万5千名もの死者を出したのであった。


マリアナを失う

日本軍がソロモンで大量の戦力を失った後、太平洋はアメリカ軍の独壇場であった。
1944年5月、日本軍は南方に進出してくるアメリカ軍を動員しうえる最大限の戦力
をもって壊滅させるという「あ号作戦」が計画した。1944年5月末、アメリカ軍は
西ニューギニア方面に兵を進めてきた。日本軍はアメリカ軍主力がニューギニアの北パ
ラオ方面に向かってくると考え、艦隊を派遣した。しかし、6月に入り今度は機動部隊
がサイパン・グアム方面に現れ空襲を繰り返し、6月15日にアメリカ軍がサイパンに
上陸を開始したことから、こちらがアメリカ軍の目標と判断し「あ号作戦」を発令する
のである。日本軍は持てる限りの海上戦力をここに投入し、6月19日にアメリカ軍機
動部隊を発見し艦載機による攻撃を仕掛けた。しかし、アメリカ軍のレーダーに捕捉さ
れ、大量の迎撃用戦闘機と強力な対空砲火により壊滅状態となった。そして、日本軍機
動部隊を発見したアメリカ軍は、260機の航空機で攻撃し日本軍機動部隊を叩きのめ
したのである。これにより日本はマリアナ方面の守備力の全てを失い、マリアナ諸島を
アメリカ軍に奪われるのである。


捷一号作戦

マリアナで機動部隊の航空戦力の大半を失った日本軍は、フィリピン防衛のために残
っている戦艦群で敵上陸部隊へ艦砲射撃を行う計画しかなかった「捷一号作戦」である
。当然、フィリピン方面の制空権はアメリカ軍の手の内にあり極めて自殺的な計画であ
った。1944年10月17日、連合軍はフィリピンに上陸を始めた。日本軍は「捷一
号作戦」を発動し戦艦5隻を中心とした艦隊を派遣するのである。派遣された艦隊はフ
ィリピン方面に向かうまでにアメリカ軍機動部隊に補足され航空機による攻撃を受け戦
艦「武蔵」を失うなどの被害を受けたが、やりすごしてフィリピンのレイテ湾突入をめ
ざした。日本軍は栗田中将率いるこの艦隊をレイテ湾に無事突入させるために、小沢中
将率いる機動部隊をおとりにする事を計画し実行した。計画は成功し小沢艦隊がアメリ
カ機動部隊に攻撃される中、栗田艦隊はレイテ湾に肉薄していった。だが栗田艦隊はサ
マール沖でアメリカ艦隊と一戦を交えた後、レイテ湾に突入せず反転していったのであ
る。これにより日本海軍の賭は大失敗に終わるのである。

1945年
ベルリン陥落 

西からは連合軍がライン川を越えドイツ国内に侵入し、東からもソ連がポーランドを
越えドイツ国内に侵入した。そして連合軍間での取り決め通りベルリンへの制圧はソ連
が担当するのであった。4月16日ベルリンに対する総攻撃が開始されベルリン周辺の
ドイツ軍は圧倒的な兵力を誇るソ連軍に排除され、4月25日にはベルリンは包囲され
た。残存ドイツ軍はベルリンの救出を開始するが、いずれも散発的なものに終わった。
絶望を感じたヒトラーは4月30日妻のエバとともに自殺した。そしてヒトラーに新総
統に指名されたゲーニッツによって降伏へとドイツは動き始め5月7日降伏が成立し第
三帝国は終焉したのである。


終戦へ

日本軍はすでに敗戦を覚悟していた。そして最後の決戦で勝利し少しでも有利な講和
条件を得ようとするのだった。日本軍はその決戦のための時間稼ぎのため、小笠原諸島
、南西諸島、台湾などの守備を固めた。まずアメリカ軍はB29の中継基地とするため
に小笠原諸島の南端の硫黄島攻略を決定した。
1945年2月19日にアメリカ軍は強力な艦砲射撃・航空爆撃のあと歩兵8個大隊と
戦車1個大隊が上陸に成功した。それに対する日本軍の守備隊は陸軍・海軍合わせて2
万2千名であった。日本軍は島の地下に広大な洞窟陣地を構築していたため、アメリカ
軍上陸前の艦砲射撃・爆撃にもほとんど被害はなかった。
上陸したアメリカ軍は狭い海岸で動きがとれず日本軍の攻撃のために3万名上陸したう
ちの2400名もの戦死者をだした。日本軍は洞窟陣地を巧みに利用してアメリカ軍に
大きな損害を与えていったが、圧倒的なアメリカ軍戦力の前に3月25日硫黄島守備隊
は玉砕した。

次にアメリカ軍は4月1日に猛烈な艦砲射撃の後、沖縄に上陸を開始した。沖縄の日
本軍は当初、自らの位置を知られないように沈黙を守っており、アメリカ軍は4月18
日には島の北部をほぼ制圧した。
日本陸海軍航空隊はアメリカ軍の沖縄上陸に対し「菊水作戦」を開始した。この作戦は
多数の特攻機をふくむ延べ7000機もの航空攻撃を沖縄周辺の艦艇に行うというもの
だった。しかし、損害と較べ成果は少なく作戦は失敗に終わった。この菊水作戦に同調
して海軍艦艇も残存艦艇で特攻的攻撃を実施した。戦艦「大和」と軽巡洋艦、駆逐艦を
含む艦隊が沖縄に向けて出港するが、アメリカ軍機動部隊の航空機による集中攻撃を受
け沖縄に着くことなく海中に没した。
一方アメリカ軍上陸部隊と日本軍は島の中央部で激しい戦闘を繰り返し、アメリカ軍の
前進は止まりがちになったが、5月半ばになるとアメリカ軍の物量攻撃に日本軍は耐え
きれなくなり戦線は崩壊していった。
6月末 
守備隊司令の牛島中将が自決し戦闘は終
了した。沖縄戦では日本側は約9万名の軍人、同じく約9万名の非戦闘員が犠牲となり
、アメリカ軍は8万5千名が犠牲となった。

ほとんどの抵抗力を失い、連合軍による本土空襲をも防げない日本に対し連合軍は7
月26日無条件降伏を求めるポツダム宣言をつきつけてきた。日本側はこれを黙殺した
。この日本の態度に対しアメリカ軍は日本の降伏を早めるべく8月6日広島に8月9日
長崎に原子爆弾を投下した。わずか一発で両市は壊滅した。これが日本の降伏への切り
札となり8月15日、日本は無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は終戦を迎えるので
ある。
最終更新:2022年08月26日 02:38