20■■年、ベルリン。ドイツ陸軍と中国軍の本土決戦勃発。
第三次世界大戦下において神禍を武器とした大規模戦闘など珍しくもないが、この交戦だけはいずれの記録とも一線を画する。

既に両国の軍は指導者を失っていた。いや正確には、乗っ取られたというのが正しいだろうか。
ドイツ連邦共和国と中華人民共和国。これら両国は真っ先に忌むべき十二崩壊の傀儡に堕ちた国家として知られている。

右は第四崩壊、ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリート。この美しき時間よ止まれと呪う凍土の魔王が率いる虐殺部隊『Arktis-Jäger』。
左は第六崩壊、沈芙黎。皆好きに生きて死ぬべきだと祝う花園の姫が率いる無秩序のカルト教団『紅罪楽府』。

知っての通り十二崩壊は同じ滅びを齎す者でありながら、互いの存在すらもを己が崩壊の要素に含める。
よっていずれ、これに類する事態が起こるのは必然だった。第四と第六のベルリン決戦は我々国連、及び後に連なる全人類にとって有益なモデルケースとなった事は言うに及ばない。
終末思想に取り憑かれ狂乱したドイツ軍はカミカゼ戦術で紅罪の信徒を削り、最初から好きにやる事しか考えていない紅罪は予測不可能の無軌道な暴虐でベルリンの地を蹂躙した。

この世の地獄の全てが其処にはあった。
殺戮。拷問。略奪。搾取と裏切り。
命を燃料代わりに使い果たしながら繰り広げる消耗戦の顛末はやはりと言うべきか将同士の決戦、魔王と姫の殺し合いに帰結。結果的にゲルトハルトは手持ちの軍勢の大半を失い、沈も庭園の花を同じだけ枯らして、決着が着く事なく勝負は預けられたと伝えられている。

全球凍結から■年が経った今、世界大戦は終結し、残存人類の数は数千万規模にまで減少した。
ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリートは姿を消したが、沈芙黎は今も変わらず紅罪の女王として恥知らずの法を広め続けている。
十二崩壊も記録されているだけで半分が散った。しかし『空の勇者』を始めとする抵抗勢力は殆どが破綻し、今や無謬のものと信じられた我々国連さえ風前の灯火に追い詰められている。
いつ灯火が消えるかも分からない状況だ。遺言など縁起でもないが、命ある内に記しておくべきだろうと私は信じた。よって此処に一つ、長きに渡り国連の中枢で務めた私の所見を残す。願わくばこの文章が、勇気ある誰かの目に留まる事を祈って。

結論から述べよう。人類はこれ以上、十二崩壊に関わるべきではない。
あれは我々の手には余るものだ。ベルリンの戦跡を目の当たりにした日に疑念を抱き、空の勇者が敗れたあの日、私は世界を救うという理想が夢想の類であったと確信した。

世界は、神は、我々に死ねと仰せだ。
只見捨て、それこそあの姫のように後は好きにやれと投げ出すのではなく、呪いと災厄を生み出した上で消え去った。

人類は確かに進歩したといえるだろう。まだ世界に季節の概念があった頃、国際宇宙ステーションの船長をやっている女と話した事を思い出す。
彼女の語る宇宙の世界はまるで寝物語に聞かされたお伽噺のようで、年甲斐もなく心が踊るのを禁じ得なかったものだ。
だが、だからどうした? 初めて神禍という力に触れた時も心底思ったが、どれだけ頭が良くなろうと、画期的な産業を開発しようと、それを動かす我々一人一人は所詮吹けば飛ぶような軽くてつまらない命でしかない。

十二崩壊(あれら)は、我々とは根本からして違う生物だ。
二千年かけて練磨した理性も、倫理も、目を覆いたくなるような残酷な軍事技術ですらも、奴らには何一つ通じない。

私は明日、国連を発つつもりだ。思い入れも恩義もあるが、我が身には代えられない。
空の勇者さえ諦めたのだ。ならば私が諦める事の何が罪だというのか。

情けない敗北者の手記を読んで戴き感謝する。願わくば、君の未来に幸福な死があらん事を。



◇     ◇     ◇



C-6、雪山の山頂にその男の姿はあった。

全球凍結に伴う極寒冷化によって地上の気温が氷点下に固定されてかれこれ五年になるが、そんな死の大地での生活に慣れた残存人類であっても、この雪山に足を踏み入れるのは命懸けの覚悟が必要となるだろう。
地上とは比較にならない積雪が重なった上に、高度も手伝って気温が一際下がっているからだ。雪崩の危険は言わずもがなで、そうでなくても何処でクレバスが口を開けているか分からない。
血で血を洗う殺し合いが行われている中、わざわざ進んで山に向かおうとする者はまずいない。その前提があるからこそ、死に囲まれた銀世界の中で佇む彼の姿は一層卓絶して見えた。

冬の化身めいた、見ているだけで寒々しくなってくるような怜悧な美貌の男だった。
氷水の青髪、氷点下の碧眼。彫像めいた鉄面皮の軍人だが、これはついぞ眉一つ動かさず世界を絶望の底に叩き落とした十二崩壊の一体である。乱心したかのような蜂起を始めるや否や、諸外国との交戦に苦慮する祖国を一夜にして掌握。
何が起きたのかを理解する間もなく、周辺国も、彼を生んだドイツの国土も永劫停止の凍土に呑まれていった。無論対抗を試みた者はいるものの、現状、凍土の魔王に立ち向かった者達の末路はほぼほぼ共通している。

過重神禍・十二崩壊。
寒冷化現象の黎明期、地球上に12体発生したとされる特級の災禍。
当時まだかろうじて機能していた国連機関が認定した、やがて人類を滅ぼし得ると目されし、恐るべき禍人たち。

『魔王』。ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリートという名の、擬人化された絶対零度が此処にいた。

一定の保存行動を終えた後、忽然と姿を消したと伝えられる彼だが、命知らずにもこの魔王を舞台に引きずり出した者がいる。
ゲルトハルトの首筋には、生贄の証であるスティグマがはっきりと刻まれていた。今の彼は十二崩壊でもドイツの軍事指導者でもなく、救世主を生む殺し合いの走狗に過ぎない。

その事実に憤るでもなく、魔王(エルケーニヒ)は何も言わず佇むばかりだ。
彼自身が一つの氷像になってしまったのかと思うほど、徹底した不動。色のないその顔で、彼なりに何か考え事でもしているのか。それとも神の玩具の模範生として、相変わらず機械じみたあり方を貫いているのか……。
ゲルトハルトが語らない以上答えを探るのは困難だったが、しかし静寂は、予期せぬ形で破られた。

「あら?」

ゲルトハルトのものとは違う、幼さを残した少女の声。
それが響いた瞬間、命を拒絶する雪山の空気が華やいだ気がした。

「まあ。まあまあまあまあ――生きてらしたのですか、ゲルトハルトお兄様」

声の主は、白と金の中間のような髪色をした薄着の中国人だった。
目を瞠るほど可憐だが、しかし彼女もゲルトハルトと同様、通常の人間ではありえない。

彼女が足を進める度に、積もった雪が気を利かせたように左右へ除けていくのだ。
枯木は葉もないのに色とりどりの花を咲かせ、目に見える速さで痩せ細りながら彼女の為の花道を拵えていく。
僅か数秒にして、美しい物などある筈のない冬の山頂が、小鳥が鳴き出しそうなのどかで心安らぐ光景に早変わりした。

心なしか気温さえ和らいでいるように感じられる。
理屈を知らない者からすれば、彼女の為に世界が忖度しているとしか思えないような光景だった。

しかしその声を聞き、僅かに視線を動かして少女の姿を認めた途端、ゲルトハルトの眦が小さく細められた。

「芙黎か」
「もう、嫌そうな顔しないでくださいな。この世に十二人だけの兄妹でしょう?」

余人からすれば誤差程度の違いでも、神が腹を痛めて生んだ呪いの同胞(はらから)にすれば表情と受け取れるらしい。
氷の魔王が嫌気らしいものを見せたという事実は卒倒ものだが、芙黎と呼ばれた少女の肩書と経歴を思えば納得のいく話である。

少女の名前は沈芙黎。第六崩壊の『姫』として知られる――ゲルトハルトと肩を並べる破滅の申し子なのだから。

「皆でベルリンにお邪魔した時以来でしょうか。あれは楽しかったですよねぇ、三日三晩互いに神禍を尽くして殴(かた)り合う。ふふ、今思い出しても胸のこの辺が熱くなるのを禁じ得ません」
「そうだな。出来ればお前の顔は二度と見たくなかったが」

ゲルトハルトと芙黎は、同じ崩壊でも全く対称的な存在といって相違ない。
魔王は鏖殺の軍勢を伴いながら積極的に欧州を氷像の博覧会に変えていったが、対する姫は中国に閉じこもって呵責を持たない信者達を増やしているだけだ。言うなれば動の滅亡と静の滅亡。そういう意味でも、この二人が相容れないのは自明と呼べたかもしれない。尤もこの通り、芙黎はゲルトハルトに隠す事なく親愛を表明しているのだったが。

「名簿は見ました? わたしもびっくりしたのですけど、わたし達以外の兄妹も呼ばれているみたいですよ。今生き残っている分はほとんど呼ばれてるんじゃないかしら。面白い事考えますよね、あのシスターさん」
「名簿……?」
「……あの、お兄様? その鞄はもしかして飾りだと思っているのですか?」

そういうところは変わりませんね、と溜息をつきながら、芙黎は名簿をひらひら揺らしてみせる。

「ライラお姉様にルールル。何だか対等みたいに書かれてるうちの庭師は除くとして、それでもわたしとお兄様を含め四体です。他にも面白い名前がちらほらありましたから、後で見てみるといいですよ」
「そうか。それで、芙黎よ」
「はい。なんですか?」

瞬間、空気が鳴った。雪を噛むように空気が軋む。乾いた音を立てて、その場の熱が剥ぎ取られていく。
何の予備動作もなく、指先さえ動かす事ないまま“それ”は始まった。

ぶわりと、氷霜が咲いた。雪ではない。もっと単純な冷気を理由に凍てついた世界が、男を中心にして放射状に拡がる。そのあまりに苛烈な低温は、視覚すらも凍らせるようだった。積雪が凍り、空気すら凍り、姫の為に用意された花道をも例外でなく凍結させながら、少女の全身を覆い尽くさんと奔流のように押し寄せる。

言葉のいらぬ殺意だった。始まりこそ同じなれど、決して相容れる事のない十二の滅び。彼らが存在を以って体現する滅亡の法は、当然ながら自分以外の崩壊(きょうだい)をも枯死の対象に含めている。
浴びせられた暴力的な冷気に芙黎は目を丸くした。だが、悲鳴も、叫びも、恐怖の素振りすらない。

直ちに凍え死ぬはずのその身体は、局所的な冰期の波に呑まれてもなお微動だにしなかった。
旗袍の薄布すら揺らす事なく、ドライフラワーの花道の真ん中に、芙黎は泰然と佇んでいた。

「本当に酷い人。せっかく会いに来た妹にする仕打ちとは思えません」
「俺はお前を殿上に上げた覚えはない。よってこれが望みと判断したが、違ったか?」

楽しそうに、でもどこかしら嬉しそうでもあるように、芙黎は口元に手を当てて笑った。
その眼差しには嘲弄も哀れみもない。あるのはただ、純粋な喜びだけだ。これは他に機能を持たない。

「わたしの望みなど気にしなくて結構ですよ。お兄様がしたいようになさいませ? 人生は一度きり、それはわたし達も同じでしょう。あの時だって、お兄様がわたしを滅ぼしたがっていると聞いたからはるばる会いに行ったのです。
貴方が続きをご所望なら、もちろんわたしは大歓迎。今すぐ決着をつけるのも吝かではありませんが……」

氷霜はなおも止まらぬ。周囲の木々は根元から氷結し、雪原に咲いていた色とりどりの花々は凍りつき、次の瞬間には遂に儚く砕けていった。
空は曇天に沈み、冬の地獄を濃縮したような寒気が、山頂を塗り潰していく。

だが、芙黎だけは凍らなかった。
やはり雪が除け、氷が逃げる。まるで世界が彼女を傷つける事を拒絶しているかのようだった。

「お前こそ変わらんな、花姫(トイフェル)よ」

この男らしからぬ呆れを含んで、ゲルトハルトの唇が開いた。
声の温度もまた、絶対零度のように冷え切っている。

「お前は存在そのものが矛盾している。辺り全てを衰弱死させながら自分だけは美しく咲き誇り、それで救いの女神のような顔をしている害獣だ。貴様に比べれば金獅子や巨獣の方がまだ清貧だろう」
「あらまあ。そんな風に言われると、ちょっと照れてしまいます」

涼しい顔のまま、芙黎はそっと裾をつまんで一礼した。

「でも、うーん。仕方のない事ではありません? お父様はわたし達に滅べと仰せのようですし、どうせ死ぬなら楽しく終わるに越した事はないでしょう。わたしに言わせればお兄様達の方こそ少々無粋に思えますが……」
「それでいい」

即答だった。人間が生存する事が困難な冰期の中で向かい合って立ちながら、凍死と衰弱死がそれぞれの主義を交わす。

「人間の最盛期は常に現在だ。だから腐る前に、壊れる前に、理想の姿のまま保存する」
「それが横暴だと言っているのですよ、お兄様。人は芸術品などではありません。みんな誰しも心があって、想いがあって、理想の未来を思い描いている。氷像になりたくて生まれてきた者などいるわけがないでしょう」
「だからお前とは相容れない。まず俺は、十二崩壊などという呼び名で一括りにされる事自体心外なのだ。俺に人類を滅ぼしているつもりなどない――ただ時間よ止まれと祈っているだけ。自賛にはなるが、それこそ救世主のような事をしているつもりなのだが」

どこまでも澄んだ声だった。そこに後悔も、罪悪感も、狂気すらも存在しない。
ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリートという男は、本気でそう信じているのだ。

その絶対的な冷たさに、芙黎はしばし黙した。
やがて、小さく苦笑してみせる。

「やっぱりわかり合えませんね、わたし達」
「わかり切っていた事だろう。では」
「ええ、はい。では」

その瞬間、氷霜が破れ、再び花が咲いた。彼女の足元から地面を割るようにして草花が芽吹き、極寒の雪原に鮮やかな彩りを与えていく。
ルクシエルがやったのと同じ芸当に見えるが、タネの部分は全く別だ。救世主の緑化は純粋に命を蘇らせる所業だが、芙黎のそれはむしろ使い潰す所業である。

積み重なった氷河の下に残っていた星の活力を強制的に励起させ、最後の輝きを引き出しているのだ。余力を使い果たすのだからその先に待っている結末は衰弱死以外にありえないが、今を全力で生きる事を美徳とする芙黎は無論それを惜しみなどしない。
ゲルトハルトの冰期に対抗して広がる姫の花園。最強の十二崩壊と拮抗し、花姫の全肯定は彼が否定した命をも取りこぼす事なく赦している。

ゲルトハルトも今更この程度に驚きはしない。それに、魔王にとって今放っている低温は威嚇程度でしかなかった。
証拠に、芙黎が神禍を使い出したのを見るなり徐々に温度低下が凶悪化している。命を認める理と、命を認めない理が、異なる星の環境を隣接させたように鬩ぎ合いを開始していた。

「あの日のように語り合いましょうか。ただし今度は、どちらかが果てるまで」
「臨むところだ」

凍死せよ。万物万象凍てつき、美しいまま永遠となれ。
衰弱死せよ。満足いくまで駆け抜けて、楽しかったと笑いながら枯れ落ちろ。

ゲルトハルトが冰期を編む為に指を動かし、芙黎が語り合う為に拳を握った。
初段から始まろうとした魔王と姫の決戦を止めたのは、彼らをして異様と呼ぶしかない、一つの気配の出現だった。



「……あら?」

最初にそれに気付いたのは芙黎だった。
既に山頂は生物が存在出来ない臨界状態に陥っていたが、そんな空間に何やら自分達以外の生物が存在している。

「お兄様。あれは……」
「…………」

示されて、ゲルトハルトもその存在を認識する。
頭を垂れて俯きながら、襤褸布同然の薄着をはためかせる、浮浪児のような風体の童女がいた。

十二崩壊の二体に視認されるという最悪の死に直面しながら、娘は幽鬼のように薄い存在感で揺れている。
実際、彼女は幽霊のように見えた。注視しなければ存在に気付くのも難しく、背景として流してしまいそうな希薄すぎる生命力。
影法師じみた薄さであるのに、凍てつく死の世界と自壊する死の世界のその両方に晒されていながら、凍傷一つ生む事なく命を誇示している。
二人の視線を受けても少女は何ら反応を見せはしなかったが、先に彼女という存在を理解したのはゲルトハルトの方だった。

「来るぞ」

魔王が声色を変えぬままそう言った瞬間、第三の滅亡が臆面もなくその憎悪をさらけ出した。



『 おん かかか びさんまえい そわか 』



希有なる者に帰命し奉ると誓う言葉が、呪言となって世界を犯す。
俯いた童顔が起き上がり、その両眼球が、ゲルトハルトと芙黎の姿を視界に含めた。

童女の背後に出現したのは身の丈以上もある巨大な曼荼羅。
蓮の根茎に絡め取られて絞殺された仏の死体で構成された不浄の宇宙が、ごぼりと痰咳のような音を鳴らす。
次の瞬間心臓の鼓動に似た音が小さく、しかし魂まで揺らすような深度で響き、滅びを滅ぼす発狂死の理を呼んだ。

「まあ……!」

姫は心から、自分達を襲う“それ”に感嘆して声をあげる。
一言で言うなら、それは地獄の土石流だった。糞尿に精液、虫から哺乳類まであらゆる生物の腐乱死体と内臓……ありとあらゆる不浄なもので構成された、生きとし生けるものの跋扈を許さない極強酸性の洪水だ。

嗅いだだけで意識が飛びかける悪臭を放ちながら、童女の背にした曼荼羅から止めどなく濁流が溢れてくる。
もちろん使い手である彼女自身にも液体は降りかかっている筈なのだが、不思議な力にでも守られているかのように肌は濡れず、悪臭に汚染される事もない。
自分だけは例外という沈芙黎の歪みにも似た不条理のもと振るわれる水害に、ゲルトハルトは表情を動かす事なく手を翳した。

凍結崩壊の神禍が、魔王を飲み込まんとする不浄の水流を触れる前に凍らせて穢れた河に変える。彼らしい迅速な対応だったが、対する姫はというと、逃げるどころか面白いものを見つけたとばかりに不浄の方へとむしろ駆け出していく。

「可愛いお嬢さん。怖がらないで、わたしは貴方の味方よ」

水害の中を春風のように駆ける姿は、自然の生んだ妖精のような可憐さを帯びていた。
だがその身体能力に限って言えば、言うまでもなく異常の一言に尽きる。

触れれば溶ける、よくて爛れる酸の水面を足場のように踏み、蹴り、加速しながら迫っていくのだ。
沈む前に足を上げれば水上を歩行出来るという馬鹿げた原理を臆面なく実行して、迫る先は不浄曼荼羅の主。

「ねえ、どうしてそんな寂しそうな顔をしているの? せっかく可愛いのに勿体ないわ。つれないお兄様は放っておいて、わたしと二人でお話しましょう。きっと力になってあげられるから、ねえっ」
「ッ――」

眼と眼が合う。
夢遊病者のように朧な雰囲気をしていた童女の顔に、青ざめるような恐怖が浮かんだ。

沈芙黎は他人を理解するという事にかけて、底なしの意欲を持っている。どんな感情も打ち明けてみてほしいのだと、無邪気に求める姿はメンタルカウンセラーにも似た寛容さだった。
そんな無責任な受容の末に出来上がったのが彼女の教団、笑顔に溢れる紅罪楽府である。
結末はどうあれ、姫の優しさに触れた人間は誰しも必ず幸福になれる。その事は彼女の実績が証明しているのだったが、しかし。

「いや……! 嫌、いやいやいやいやいやいやっ! 来ないで寄らないで、消えて消えて消えて消えてっ!」

差し伸べられた手を拒むように、静寂をかなぐり捨てて童女は絶叫した。纏わりつく羽虫を振り払う動きで痩せ細った両手を振り回し、それに合わせて不浄の神禍が真の姿を表す。

曼荼羅から溢れ続ける汚水、それを内から引き裂いて現れたのは膨大な数の腕だった。
それがぞわぞわと指を蠢かせながら、来ないで消えてという懇願とは裏腹に、芙黎を引きずり込もうと小柄な体に殺到していく。

破滅を象徴するような不吉さだったが、芙黎の判断はやはり常軌を逸していた。

「あら、わたしに触れたいの? いいわよ、存分に触れ合いましょう」

逃げるどころか自ら進んで腕に体をさらし、導かれるままに不浄へ身を浸そうとしたのだ。それは毛氈苔の中に飛び込むようなものであり、瞬時に姫の体は手の波に絡め取られ沈められていく。
この期に及んで薄皮一枚すら破けていない辺りは、彼女が十二崩壊の中でも最上位に数えられる生物強度を有している事の証明だ。
それに加えて人間の域を越えた、花そのものの精神性を併せ持っているのだから、一対一の状況に限れば芙黎は最強の生命体の一つと呼んでよい。

彼女の体はずぶずぶと不浄の内側に潜行していき、とうとう不浄曼荼羅の底、童女――ミア・ナハティガルという禍者の憎悪の源泉に触れようとし、そして。


「あ。ダメね、これはちょっとよくないわ」


いざそこに身を投じようとしたところで、手のひらを返すように周りの腕々を引き千切り、一足で水上まで浮上した。

「珍しい事もあるものだ。お前が理解を放棄するとは」
「わたしなら大丈夫だと思うのですけどね。ただ、ちょっと腰を据えて向き合う事になりそうだったから。もう半分くらい人間をやめちゃってますよ、この子。どっちかっていうとわたし達側の存在なのかも」

芙黎の判断は正しい。真の強者とは驕りこそすれ、越えてはならない一線というのは見誤らないものだ。
ミア・ナハティガルの神禍は触れる全てを抹殺する絶滅の災いであるが、その憎悪の根底にはもっとタチの悪い法則が潜んでいる。

発狂界(プララーパタ)、触れた者をミアと同じ人類憎悪の化身に変えてしまう不浄菩薩(ナハティガル)の神域だ。
耐えられる耐えられないの問題ではなく、触れるという事がまず宜しくない。沈芙黎という“崩壊”の先達をしてお墨付きを与える程だ、それこそ本物の聖人でもない限りは挑むべきではない領域と呼べるだろう。

「ふむ……」

芙黎が逃げ帰るような真似をしてきた事は、氷の魔王としても多少驚きだったらしい。
小さく声を漏らすと、Ⅳの刻印がされた片目を僅かに揺らした。

「止めるか――此処で」

それを合図として、ありえない光景が現出する。不浄の悪臭を文字通り吹き飛ばしながら、山頂を満たし始めたのは全てを凍らせる冷気。範囲も侵食の速度も、先程姫と小競り合いをしていた時とは比較にもならない。
ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリートが本腰を入れて命の保全作業を開始する。

止まれ、停まれ、万物万象美しいままに永劫停止せよ。魔王の死刑宣告が、ミア・ナハティガルという禍者を死の同義語として止めるべく、彼だけに許された地獄の責め苦を開陳する。

「いいですね。楽しくなってきました……一度大人しくさせてから、ゆっくりお話といこうかしら。ついでにお兄様にご退場いただけたら、ルールル達へのいい土産話になりそうだし?」

花園の主は、先程不浄の水底に飲まれかけたというにも関わらず、ミアと同様に汚れ一つない体と服で笑っていた。
ゲルトハルトのそれに応えるべく、彼女も自身の神禍を胎動させる。死ではなく生、いずれ亡びる事を前提として救いを与える慈悲が、冰期の中で咲き誇る花畑という奇蹟を起こす。

その中に立つのは花姫(トイフェル)、紅罪楽府の生き仏だ。姫は生物として何処までも解り易く強い。その一点において、彼女はゲルトハルトをすら越えている。

「怖い、嫌、見たくない、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……!」

そしてこの場における異端、ミア・ナハティガルは二人を見ているのかいないのか、只そこに人間らしきものがいるという事実だけに恐慌して頭を抱えていた。
癇癪にしか見えない金切り声をあげる姿は薄汚れた捨て猫に似ているが、彼女が生み出すものは地獄草紙以外の何物でもない。

疾疫不臨、離水火災、神鬼助持、業道永除……功徳利益を盡く反転させた法則の名は『発狂界・不浄曼荼羅』。十二崩壊にさえ危険視をさせる、皆殺しの地蔵菩薩が泣き喚いている。
三者三様、三種の人類滅亡は、幸いにも人里から離れた雪山の山頂で解き放たれた。

最初に版図を握ったのはゲルトハルト。永劫停止の冰期は自分を中心として死の世界を作り出しながら、二体の美しい氷像を作り出さんとする。下水より尚汚らわしい発狂界の濁流を瞬時に凍結させるのは勿論、姫もミアも例外とはいかない。
超人的肉体を持つ二人は彼の冷気にある程度生身で抗えるものの、それも魔王が本腰を入れていない場合の話だ。
そこの安全装置が取り払われた以上は、滅亡の娘達もまた彼が停止させてきた数多の犠牲者達と大差なかった。

寄せては返す凍結の波を、卓絶した自己肯定による強化で蹴破っていくのは芙黎。
形のない寒波を蹴飛ばしながら、三次元の定石を無視した軌道で飛び跳ねる向日葵の少女は場違いに美しい。
流石に無茶が祟ってか髪の毛や睫毛に霜が降り始めているが、姫の衰弱庭園の影響もまた他二者を蝕んでいるのでお相子だろう。

だが、そんな十二崩壊の無法図に引けを取らない勢いで、ミア・ナハティガルの神禍も彼女なりの滅亡を発現させる。

「消えて……」

山自体が激震し、首吊り仏の展覧会めいた曼荼羅が冰気と春風を圧潰させながらミアの存在圏を強引に抉じ開けた。
そして、身じろぎのような挙措に合わせ、滅尽の瀧が降り注ぐ。

「――私以外、いなくなれ」

聴覚が消し飛ぶような轟音が響き、この瞬間、雪山の一角が抉れ飛んでその形状を大きく変えた。震駭して破壊される銀世界。汚汁を涙のように垂らしながら、少女の怨念の炸裂を前にして戦いは強制的に打ち切られる。
吹雪が晴れ、雪崩と崩落が一段落した時、そこに残っている人影は一つもなかった。



◇     ◇     ◇



「あ痛たた……。頭をぶつけちゃいました」

雪崩で押し流された先で、土竜のように雪から顔を出して、沈芙黎はずれた花飾りを直しながら言う。ずるずると這い出たら旗袍に付いた雪を払い落とし、デイパックが無事に残っているのを見て胸を撫で下ろした。
食糧や水は別に要らないが、名簿ばかりは替えが利かない。普段から物覚えが要る事は庭師や被虐趣味な部下に一任している為、今更自分でやる気にはどうしてもなれない。戦いの最中もこれを失くさない事に気を配り続けねばならなかったから、荷物持ちが欲しいわねと芙黎は思った。

「それにしてもびっくり。探せばまだまだいるものね、わたし達と戦える人間も――あ」

慌てて周囲を見渡すが、やはりゲルトハルトの姿は何処にもなかった。
芙黎としては魔王と決着をつけるのも臨むところだったのだが、彼にとってはそれ程優先度の高い事柄ではなかったのだろう。

「相変わらずお兄様は隠れんぼがお上手だこと。さっきの子も見失ってしまったし、ううん、何だか袖にされた気分……」

こうして姫はまた、一人になってしまった。追いかけてもいいが、実を言うとそれも気が進まない。
というのもだ。偶々ゲルトハルトに会ったからああなっただけで、芙黎には積極的に殺し回ろうという気が余りなかった。

「漫遊する上で、付き人が欲しいわね。お散歩がてらに弐弧でも連れ歩きたいところだけれど……よし、迎えに行っちゃいましょう。わたしが迎えに来たと知ったらあの子、涙を流して喜ぶわよきっと」

沈芙黎とゲルトハルト・フォン・ゴッドフリートでは、滅ぼしに向けるスタンスが違う。
ゲルトハルトのように徹底した滅殺をやる事には、芙黎は然程興味がない。作業じみた殺戮をして一体何が楽しいのか。そんな事に尽力するくらいなら、趣味の一つも見つけて極めた方が絶対に有意義だろうと思えてならない。

そんな芙黎の掲げた方針は諸国ならぬ、諸所漫遊だった。島の中を気ままに歩き回り、同じ生贄の烙印を押された者達に会っていきたい。
仲良く燥げる相手が出来たら楽しいし、紅罪の教えで誰かを救えるのならそれもいいだろう。もしわかり合えない相手が出てきたら、その時は受けて立って殺せばいい。姫には何の問題にもならない、いつも通りの日常だ。

芙黎とはこういう滅亡だ。芙黎は汗など流さない。好き勝手生きていたらいつの間にか周りが皆死んでいる、ソレだけなのだ。



【C-6・雪山/1日目・深夜】
【No.6『姫』 / 沈芙黎】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:やりたい事をして会いたい人に会う。
1:弐弧を探す。とにかく付き人が欲しい。
2:ライラお姉様やルールルにも会いたい。
3:エックハルトは後でいいでしょう。
[備考]
※以前、ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリートと戦った事があります。


【場所不明(C-6近辺)/1日目・深夜】
【No.4『魔王』 / ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリート】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:…………。
1:必要とあらば“保存”する。優先は十二崩壊、空の勇者、ミア・ナハティガルのような特別質の高い禍者。
[備考]
※以前、沈芙黎と戦った事があります。
※名簿を見ていません。



◇     ◇     ◇



全球凍結前。2030年の当時においても、人身売買や奴隷といった悪しき営みは社会の裏側で生き残っていた。
公にはクリーンを謳いながら、一生かけても使い切れない金の使途に“人間を買う”事を選ぶ好事家は山のように存在したのだ。
セス・キャロウェインという男もその一人。彼は表向きは世界的企業の若手CEOとして知られ、爽やかながらも有能な人柄で敬愛されていたが、その甘いマスクの裏には救いようのない邪悪さを隠していた。

付いた異名は『笛吹き男』。身寄りがなかったり、何らかの事情で裏社会に流された子供を頻繁に買い付けるが、買われた子供は二度と日の目を見る事はない。
キャロウェインは疑いようなく優秀な男だったのだが、彼には法下では決して許されない性癖があった。

少女が苦しむ姿でしか興奮出来ない。あの手この手で欲望を誤魔化す手段を模索したものの、どれだけ過激なコンテンツに頼っても、生の刺激に勝る美味はやはりなかった。父親が死んで会社の実権と、巨額という言葉では収まらない額の遺産を相続し、この世の上位1%に入れた日から彼は弾けた。
広大な豪邸の下に拵えた秘密の地下空間へ少女を放り込んでは、日夜あらゆるやり方で拷問し、その涙を啜って現代のジル・ド・レ伯をやった。

その栄華は全球凍結が起きた後も、潤沢な蓄えの下に続いていくかに思われた。
しかし今やキャロウェインの魂は汚泥の底にある。彼は最後の最後まで、決して気付く事ないまま死んでいった。
自分は独りよがりに楽しんでいるように見えて、完成させてはならない何かの育成を続けてしまっていた事。

彼がありったけの苛虐を注いで肥え太らせたもの。それは天然ではなく、人工で神の玩具達に比肩する力を得た、発狂界不浄菩薩。

「さむい……」

小綺麗な浮浪児、というのが第一印象だった。何処となく育ちのよさすら覗わせるし、この儚げな姿を見て哀れに思わない者は人でなしだろう。
彼女がつい今し方、凍土の魔王と花園の姫という災厄と一戦交え、彼らと同じように傷一つなく生還した事実にさえ目を瞑れば、実際これは哀れな少女そのものだった。

「こわい……」

セス・キャロウェインの最高傑作こそが彼女だ。
笛吹き男の後に何も残さない非生産的な箱庭が工場となって製造した、人類憎悪の化身。

「気持ち悪い」

ミア・ナハティガルは怯えている。だがそれ以上に、魂が震えるほど憤激している。
この世に汚れていない人間は自分一人。なのにまだ自分以外の、薄汚れた汚物が残っている事が途轍もなく許せない。

殺してやる、滅ぼしてやる、なんて仰々しい気持ちは彼女にはない。ミアの中にある怒りの形は、いつだって生理的な嫌悪感だ。
気持ち悪い。人間、いや、その皮を被った生き物らしい汚物が、今も少数ながら生き残っている事実が気持ち悪くて堪らない。汚れているなら、掃除が必要だ。ブラシでこそげ落として下水に流し、そこに汚れがあった事を抹消しなければこの寒気は引かない。
よって奇しくも、彼女の目的はゲルトハルトや芙黎達『十二崩壊』の存在意義と共通していた。

人類の滅亡。この死んだ星を完全に殺す。
救世主など不要だ。なぜその他大勢と同じ汚れた生き物が、腐臭を放ちながら救うだ何だと謳っているのか、ミアにはとんと理解出来なかった。

我こそは唯一の人間で、他は溝にこびり付いて流れ残った汚物に過ぎない――滅びの子は被害者のように旅をする。



【C-6・雪山/1日目・深夜】
【ミア・ナハティガル】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:人類抹殺
1:私以外、いなくなれ。
[備考]



※エリアC-6で、山の一角が吹き飛びました。大規模な雪崩が発生しています。


001.It Was a Good Day 投下順で読む 003.平和より自由より正しさより 君だけが望む全てだから
006.ジェヴォーダンの少女 時系列順で読む
No.4『魔王』 / ゲルトハルト・フォン・ゴッドフリート [[]]
No.6『姫』 / 沈芙黎 [[]]
ミア・ナハティガル [[]]

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最終更新:2025年07月05日 23:05