─── 黄銅色の長髪を靡かせた少女は、呆然としていた。
足を投げ出し。テディベアを床に座らせたような姿勢で、呆然と空を見上げていた。
ルクシエルと名乗る存在が高らかに宣言した殺し合い。蘇る命。犠牲を強いるその言動。その殆どを、少女は理解していなかった。
ただ知らない場所へ連れてこられたと思いきや、知らない場所へと飛ばされた。少女の認識としては、この程度だった。
右を見ても木。左を見ても木。少女が地図を開き、現在地の特徴と照らし合わせる知識さえ持ち合わせていれば、C-Ⅵと記載された地だと判断できるのだが、少女はそれも持ち合わせていなかった。
知らない匂い。知らない光景。すんすんと鼻を動かしても、少女の慣れ親しんだ匂いは感じられなかった。
己の慣れ親しんだ匂いのしない新天地に、少女は眉を顰めた。成人した人間が、住んでいた家と同じ間取りの家に押し込まれたとしても『自分の家だ』と判断しないように。
少女にとっても、木々に囲まれたその場所は知らない場所だった。
ルールル・ルール。人類が定めた名は、No.8『恐獣』。
人類を滅亡に導いたとされる十二の一つ。腹に刻まれたⅧの字がその証。獣の暴虐をその身に宿し、禍いとして進行したソレは、今はただ空を見上げ。
何をすべきか、どうすべきかも理解できぬまま時間が過ぎ。
その鼻が、血の香りを嗅ぎ取った。
がさり、と背後から音がする。草むらの奥、何かの存在を嗅ぎ取る。小柄な体躯を翻し、四足歩行へと移行する。頭を低くし、腰を上げる。いつでも己の肉体を駆動できるよう、万全の構えで待ち受ける。
ルールルは現れたものが何者であれ、引き裂く準備はできていた。その数秒後、再び揺れた草むらから。
「あっ…えっ、と、その───寒く、ない…?」
最大限の勇気を振り絞ったのだろうか。引き攣った笑顔でルールに語りかけた、銀髪の少女が、ひょっこりと顔を出した。
◯ ◯ ◯
「なるほど、なるほど。ううむ」
所々を銀であしらった、フォーマルな黒い儀礼服。その上にコートを纏った女性。長い手足を伸ばし、長い黒髪を揺らしながら、こめかみを指先で叩く。
こんこん、と。こんこん、と。こんこん、と。
繰り返す都度三回。ふむ、と思案する様子を見せながら、女性は木々に囲まれた山の中でこめかみを小突く。
空は黒く。緩い傾斜の大地にて、思案を続け。
そうして、ようやく二度目の口を開く。
「つまり、この私に悪虐の限りを尽くし、女を娶る権利を得ろと。箱に閉じ込め『見返りをやるから殺し合え』と。ほう」
くつくつと笑う。こめかみを小突いていた指先を口の先へ。
一頻りの間、溢れる笑い声を抑えたあと。女性はふう、と息を整え、天を見上げ。
「───下衆めが。灸を据えるでは済まさぬぞ」
瞬間。空気が凍った。
そう錯覚させるほどの殺気。常人ならば普段行っている呼吸の方法すら忘れさせるほどの圧迫感。
不条理が嗤う。殺し、奪い、嘲り嗤う。罪なき者どもを"当然"と虐げ嗤う。
女性───零墨の名を持つ彼女が最も嫌う、悪虐そのもの。ソレを強いられたとなれば、怒髪衝天すら生温い。
しかし。それはそれとして。
「さてはて。何時迄も義憤に囚われても仕方なし。数人程度でも覚えがある名があれば良いが」
適当な小石に腰掛け、支給された名簿を広げる。しかし、如何ともし難い暗さが彼女の視界を妨げる。
空は曇り、日は差し込まぬとは言え、未だ日が昇る時間ではなく。木に囲まれた中、月明かりで字を読むには少しほど光が足らず、はらはらと舞う白雪が鬱陶しい。
「…辞めだ。名を探すのは日が昇るか光源を探してからでも良かろう。
急いたとして解決する問題でも無く」
早々に名簿を閉じて、デイパックの中に投げ込む。知った名があったとして、今すぐ何かが起こる訳でもない。
このような儀式に巻き込まれた時点で、既に何かを急ぐには遅すぎる。救うにしろ戦うにしろ、相手の名だけ脳に刻んでも意味がない。
まずは暖を取れる場所でも、零墨は思案する。
「考えるのは暖を取ってからでも遅くはあるまい。この寒さには私は慣れたが…常人が慣れるには辛かろう」
ならば、山頂から見下ろした方が探すのは早いか、と顎に指を運び。己一人暖を取るならば、その身に宿る"神禍"で軽い家でも作れば良い。
しかし、この状況下ならば、何者かと合流する為にも動いた方が良い。零墨はそう判断し。
「人は毛皮を持たぬからな。暖かい場所に寄るのは道理。
───のう、獣よ?」
ゆっくりと顔を上げ、背後へと語り掛ける。零墨の背後、その奥。木陰に人ならざる影一つ。
積もった雪の上を四足歩行で音すら鳴らさず。ただ、ゆっくりと零墨を見ている。その瞳に、敵意を携えて。
「…このような状況とは言え、怒りに駆られすぎたか。
殺気を撒き散らしたのは此方に責があろうが…獣とは言え、敵う相手かどうかは見てわかろう?」
「───」
「ほら、今ならば私も追いはせん。山の奥にでも帰るといい」
「───ゥ」
「……ごめんて」
一応謝罪の意を返すが、獣には通じず。帰ってくるのは低い唸り声のみ。当たり前だ、野生の獣に言葉が通じるはずもなく。
殺気に寄せられたのであれば、獣としては"零墨が先に手を出した"という認識になる。
一息。溜息を吐き、立ち上がり獣と向き合う。四足歩行の獣の体長は百六十ほど。立った耳に鋭い牙。イヌ科…狼の類いか、と零墨は推測を立てる。
しかしその体色は灰色に染まったソレではなく───まるで、燃えるような黄銅の体毛に覆われている。
もはや失われた夕日のような、美しい毛並。
「わかった。私が悪い。この辺りに住処でもあるのかは知らんが…大人しく帰ってもらえぬのであれば」
右拳を前に構え。左拳を腰沿いに。呼吸を整え、獣を見る。
「…相手になろう。獣と言えど、拳を交わせば力の差は理解できよう?」
「◾️◾️◾️ゥーッ!!」
構えた瞬間、獣が走り出す。右、左。右、左。撹乱するようにステップを織り交ぜた軌道で、零墨へと距離を詰める。
一呼吸の間もないうちに、両者の距離は文字通り目前へと迫り。獣の爪は零墨の首を狙う。音すら置き去りにするその速度と爪に、人間は反応できず。
「…速い。が、歴戦の猛者に比べると動きが直線的で読み易い」
───常人を超えた武人は、その上を行く。
爪が喉笛を捕らえるその瞬間。背を後ろに逸らし、直前で爪を交わす。
流れるように右拳を獣の横腹へ。流れるような静。
脇腹へと当てた拳へと力を流す。力が跳ねるかのような動。
零墨の身体から生み出された力は踏み込みから拳へと流され、獣の身体へと叩き込まれる。外皮ではなく臓器へ。衝撃を通す拳法。
墨を得、文字を書く流れる筆のような。力の流れを通す"墨拳"。その第一の技、"通貫掌"(つうかんしょう)。
狼の身体は内側から跳ね、前方へと飛び込んだ身体は脇腹に当てられた横からの力により、真横に跳ね飛ぶ。
二、三回ほど地を転がり、静止するその身体。零墨は拳を払い、獣へと視線を流す。
「何、二日三日ほど療養に徹すれば治る程度には…む?」
相手は獣。敵わぬと察すれば逃げるだろうと算段をつけた零墨の眼に、信じられない光景が映る。
転がった獣は何食わぬ顔で立ち上がり。少量の血液を吐き捨て。
───今度こそ、武人の喉笛を掻き切らんと跳ねた。
「なるほどッ!?」
神禍が宿るのが、何も人間だけということはあるまい。国家すら機能を停止した今、"獣"という新たなる主が人間を超える力を手に入れたとしても違和感はない。
何らかの力で。この獣は、武人の拳を耐え切った。
そう思案し、飛び込んだ獣の爪を再び同じように躱そうとした零墨の眼前で。
狼ほどだった獣は、その体長を熊ほどに巨大化させた。
(此奴、直前でリーチを…!?)
喉笛に届く爪。零墨が躱すよりも早く、その手脚は巨大化し伸びる。単なる質量の増加。然しながら、獣の筋肉は何倍にも増大し。
ただの体格の変化。その"体格"が武道、こと近接戦においてどれだけの力の差を生むか零墨は理解しているからこそ、判断した。
不意を突いた巨大化。そのリーチ、筋力の突然の変化。
───この狂爪は、避けられない。
「『万物に潜む黒よ、従い倣え』」
───故に、神の呪いを影に宿す。
遥か上空。厚い雲から差す月光が、山の木々を照らす。その木々の影が、一つに纏まり、形を為す。
降るは大蛇。影の蛇が群れを成し、凄まじき速さにて獣を締め上げる。熊ほどの大きさへと変わった獣の爪が、少し鈍った。
(前言撤回、この獣は此処で頭を潰す! 初手にて葬る、後に残せば私をも狩る"何か"へと変わるやもしれんッ!)
動きが鈍ったその頭部へと狙いを定め、零墨は右腕を掲げ振り下ろす。頭蓋を砕く、容赦はしない。
不意への対処、神禍の緊急発動。全力を出すには急拵え、程遠いものではあったが、それでも脳は潰すことができると判断し。
振り下ろした拳が、獣へと到達するその瞬間。
ゾクリ、と。
全身の毛が怖気立つような、腕ごと食い千切られる、その未来を予感し。
「その、ま、まま、待ってください!」
戦場に似合わぬ幼き声が、響き渡った。
◯ ◯ ◯
時は少し巻き戻り。
銀髪の少女、カノン・アルヴェールはその小さな手足で山の中を歩いていた。
赤い雪国用コートを枝に引っ掛けぬよう注意を払いながら、草むらを進む。
怖い。
───何が怖い?
何もかもが、怖い。
暗闇も、視界を遮る木々も、知らない人たちも、自分の知らない土地も、儀式と名乗り見せられた"何か"も、殺し合いも、何もかも。
不安が恐怖を呼び、未知が恐怖を招く。人と出会うことすら恐ろしく、しかし己一人で歩くことすら恐ろしい。
出会った人が悪い人だったらどうしよう。殺されるのが怖い。
出会った人が良い人だったらどうしよう。信じるのが怖い。
裏切られたら。手を上げられたら。傷つけられたら。お荷物になったら。何もかもが、恐ろしく。
そう考えて、無我夢中で歩いている内に。カノンは、少女を見つけた。
まるでテディベアを座らせたように、手足を投げ出して尻もちをついている少女。日焼けした体に、獣の皮のマント。ただ何をするでもなく、空を見上げている。
その手足はカノンより逞しくはあったが、小さな傷も大きな傷も刻まれていた。それは、まるで───たった一人で生きてきた、獣のような。
それは、嘗ての自分の境遇と、己の体に刻まれた傷跡と似ているような気がして。
カノンの気配を察知したのか、四足で警戒する犬のように跳ねた少女を見て。
「あっ…えっ、と、その───寒く、ない…?」
思わず、カノンは声をかけていた。
見て見ぬふりをすることもできた。逃げることもできた。
でも、それは。
…かつて、カノンを拾い育ててくれた老夫婦に、胸を張れないような行為な気がして。
カノンは、思わず体を前に乗り出した。
「…ルゥゥッ…ウ…?」
少しの間、警戒するように唸っていた少女は、鼻をスンスンと鳴らし。
ゆっくりとカノンに近づいて。カノンは身体を動かさず、かと言って何と言葉を発して良いのか分からず立ち尽くし。
少女はカノンの周りをスンスンと嗅ぎ回り。
何をするでもなく、座った。
「…へ…?」
「……」
───カノンは知る由もないが。
No.8『恐獣』…ルールル・ルールは、純粋無垢な獣である。故に知能は年齢ほど高くは無く、人間社会とは掛け離れた常識の下で生きている。
弱肉強食。食物連鎖。果物や肉を食らうこともあり、また屋根の下で眠ることはなく、日の光や枯葉で暖を取る。
人間とは程遠い獣の生活。だが、それでも人間も生物であり、ルールルも生き物であった。
知能を持つ生き物共通の行動。野生においても珍しくはなく、人間社会でも見られるその行動。
───即ち、弱個体の保護である。
服の下は数多の傷で覆われ、古傷と血の匂いの滲む少女。己よりも小さく、歳も若く、それでいて声も小さい。
ルールルは判断した。この少女…カノンは、敵意もなく害意も感じられない。過酷な地域にて生き延びた傷を負った個体であろう、と。
ならば、群れの長として守らねばならない。野生に生きたルールルは、人一倍"弱さ"には敏感であった。
カノンの頭を、ルールルが撫でる。
それは、守るべきものを得た獣の側面。獣の温情であった。
「えっと…あり、がとう…?」
カノンが返答に困っている間。ルールルが何かを察知する。
それこそが後に出会う女性───零墨が放った殺気だったが、カノンはソレを察知できるほど場数を踏んでいない。
外敵を排除するべく、獣へと変わり走り出したルールル。それを困惑しながらも追うカノン。
獣へと変わる能力。それがきっと、あの子の神禍なんだ、とカノンは思う。
後を追うも走力の差でぐんぐんと差は開き。
カノンが追いついた頃には、コートの女性と獣が拳と爪を交え。
決着がつきそうなその瞬間。
「その、ま、まま、待ってください!」
その場に転がりそうになりながらも、全力で張り上げた小さな声に。
獣と女性の、戦が止まった。
◯ ◯ ◯
「済まぬ。いや、これは…まさか人の子だったとは…」
「ルゥ…ッ!」
「い…いえ、こちらこそいきなり出てきて申し訳ありません…っ!」
「いや、こればかりは年長の私の理解が及ばなかった。まさかまだ幼さの残る子どもとは…うむ…」
「ゥゥ…!」
「こちらこそ…止まってくれて…良かったです…」
「……。この言葉も通じているのかどうか…」
「ゥ…」
「それは…私も先ほど会ったばかりなので…あんまり話ができてなくて…」
立ち尽くす零墨の前に、ルールルがカノンを守るように立ちはだかる。謝罪する零墨に、警戒の色が消えない。
零墨は額に手を当てる。己の至らなさに頭を抱えるばかりだが、かと言っていつまでも止まっている訳にもいかず。
「カノン、と言ったか。この少女の名は聞いたのか?」
「いえ、その…名前を聞きたいんですけど、あんまり言葉が伝わらなくて…」
「其方から名乗ってくれるのを待つ、しかないか…」
二人の拳が止まった後。カノンから大体の説明と自己紹介を受けた零墨は、己の不甲斐なさを恥じ入った。
獣と断じていたのは人間で、その上まだ幼さの残る少女だった。いくら想像以上の力だったとはいえ、罪もない己の力を年端も行かない娘に振るったとなれば情け無いことこの上ない。
…しかし。その上で、零墨には疑問が残った。
腕が捥ぎ取られるような錯覚。明確な殺意、一瞬感じた命の危機。己も全力を出せない状況だったとは言え、その辺りの小娘の指がこの命に届くほど生半可な鍛え方はしていない。零墨にはその自負があった。
故に残る疑問。この命に届き得る脅威。もしや、この娘が幼きを守る少女ではなく、力を持った殺戮者であったならば───その時は。
「…る?」
その時は、始末すべきなのだろうが。
零墨には、カノンを守るべく立ちはだかる少女が根からの邪悪とは、とてもではないが見えなかった。
【B-5・山/1日目・深夜】
【零墨】
[状態]:通常
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:儀式の存在自体を許さない。
1:ごめんて…。まさか人の子だったとは…。
2:とりあえず戦えない子どもを保護し、暖の取れる場所へ。
[備考]
どこまで情報共有を行なったかは、後述に任せます。
- 名簿をまだ確認していません。知り合いがいるかはまだ不明です。
【No.8『恐獣』 / ルールル・ルール】
[状態]:通常。ダメージ完治済み
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:血の匂いのする少女(カノン)を守る。
1:弱った個体(カノン)を守る。
2:零墨を警戒。今のところ、爪は収めている。
[備考]
心臓が高鳴っている。バクバクと跳ねている。
思わず声を上げてしまった。目の前で命の取り合いをしている現実に、ただ反射的に声を上げてしまった。
喉から音が発せられた時点で後悔した。相手が良い人だったからよかったものの、悪い人だったら───今頃。
自分の命はここはもうなかったと思うと、恐ろしくて目眩がする。
信じたかった。この世は残酷なだけではなく、心の奥底には優しき人間の心を秘めた人がいるのだと。
もし。この先、笑顔で近づいて来た悪人がいたとしたら。
───自分は、人を信じたせいで、死ぬのだろうか。
【B-5・山/1日目・深夜】
【カノン・アルヴェール】
[状態]:対人恐怖による不信、動揺。
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:怖い。生き残りたい。
1:(何故か)守ってくれている少女(ルールル)と共に行動する。
2:零墨さんは…話してみると良い人だった。多分。
[備考]
どこまで情報共有を行なったかは、後述に任せます。
- 名簿をまだ確認していません。知り合いがいるかはまだ不明です。
最終更新:2025年07月05日 23:05