山の中腹には捨てられた集落があった。そこには人が住まなくなって数年を経た荒ら屋が
数軒、小川の流れに沿うように点在していた。
集落へと続く道も人が通らなくなってからは草や木の侵食を受け、今となっては道筋を辿
ることは元居た住人でも難しいだろう。この地に住み着くのは、人が出てゆく時に置き去
りにされた猫たちの子孫くらい。
まして夕刻にそんな元集落へやってくるのは鳥か獣かあやかしか、

「ゆっ!」

はたまた『ゆっくり』と言う名の饅頭くらいなものであった。

     *

「ゆぅ~…? ここってにんげんさんの群?」

 茂みを揺らして藪から飛び出したのは黒髪に赤いリボンを飾るゆっくりれいむ。廃墟と
なった集落を物珍しそうにキョロキョロと見回すその後ろから、ぞろぞろと続いて藪から
でてきたのもまた同じゆっくりれいむたち。
 後から続いて出てきたのはみんな2~3センチほどのまだ幼い個体だったが、一番最初
に飛び出したれいむだけは他の三倍近くの大きさの成体であった。
 彼らは先日、片親が行方不明になったために餌の豊富な場所に移り住もうと移住を決め
たゆっくりの親子だった。幸い蓄えは豊富にあったし、半月前に生まれた子供達も巣の外
で遊び回れるくらいに元気に育っていた。家族総出のかれこれ二日の長旅でも一匹の脱落
者を出すことなくこの地に辿り着くことができた。
 子供達から離れることなく、しかし頻りに周囲の様子を窺う親のれいむ。
 ピョンピョン飛び跳ねたり背が高くて邪魔な草は容赦なくへし折って廻る行動は慎重と
いう二文字からはほど遠いが、それでもこの親のれいむはれいむなりに、できうる限りの
警戒をしていた。
 その場から見える限りを見渡したれいむは、暢気に昼寝を楽しむ野良猫以外に生き物の
姿がなかったことに安堵すると声を大にして宣言した。

「…けど、にんげんさんは居ないね! だったらここはれいむのゆっくりプレイスにする
よ!!」

 真剣な表情であっちこっちを見回していた親のれいむが一転して緩んだ笑みを浮かべた
ことで、親につられて緊張していた子供達も一気に弛緩した。

「おかーさん、れいむつかれたよ!」
「おなかすいたー! ごはんにしようよー!」
「ゆぅ、のどがかわいたよ…」
「ゆっ!? ちょっ、ちょっと待ってね! ごはんもお水も、まずはお家を見つけてから
だよ。お家がないとゆっくりできないんだよ!」
「ゆぅ…」×子

 母親をつついたり、転げ回ったり、引きずって持ってきた備蓄の食糧を母親の目の前ま
で持ってきてアピールしたりと、総出で食事と休憩を訴える子供たち。
 だがゆっくりにしては警戒心の高いれいむは『お家』を確保しなければ安心して食事を
取ることも考えられない。探し求めていたゆっくりプレイスを見つけたからには、これか
ら暮らしてゆくための『お家』をまず確保しなければならないとれいむは考えた。
 むくれられようと泣かれようとも子供のため。そう心を鬼にしてお家探しに踏み出す親
のれいむ。
 しかしれいむの心労は思ったよりも早く解消した。
 れいむたちが飛び出した藪のすぐ側にあった荒ら屋に、土壁の一角が崩れてゆっくりが
通れるだけの穴が空いていたのである。


 土壁を潜り抜けた先は土間になっており、そこはゆっくりの住処としては十二分の広さ
があった。

「ゆ! ここはれいむとおちびちゃんたちのお家だよ!!」
「れいむたちのおうちだよ!!」×子

 全身を目一杯反らして声高におうち宣言をしたれいむ一家。
 しばらくはそれなりに引き締まった表情で自分たちの声の余韻に耳を澄ませていたが、
誰も異議の声を上げなかったことで満面の笑みを浮かべた。
 誰も文句を言わなければ、それは自分たちの言い分が通ったことになるのがゆっくりの
不文律。
 この瞬間から、この荒ら屋はれいむたちの『おうち』になったのである。

「ゆ~♪ お家なら安心してごはんが食べれるよ! みんな、おべんとうを全部だしてね!
 今日はごちそうだよ~♪」
「ゆわ~い! ごちそう~♪」×子

 人の手で造られた大きくて広いお家の中は風の音さえ遠くに感じられ、それまで暮らし
ていた木の虚とは住み心地に雲泥の差がある。
 お家の周りは人の手が離れたことで荒れ放題の草地となっていて、ゆっくりにとっては
絶好の『狩場』であった。
 お家と、その近くに広がるれいむ一家だけでは食べきれないほど一杯生えている草。
 多少は大きくなったとは言ってもまだまだ手の掛かる幼い子供達を独りで育てられるだ
けの環境がここには揃っていた。
 番であったれいむが行方不明になってからこの方、一時もゆっくり出来ずに子供の行く
末を案じ続けてきた親のれいむはここにきて漸く心底ゆっくりできた。

「草さんを食べるよ!」
「木の実さんもあるよ!」
「それじゃ、みんなでむ~しゃむ~しゃ! しようね!!」
「ゆっくりいただきま~す!」×総れいむ一家

 子供の無邪気な顔を見ながら食べる食事を美味しいと思うことさえ数日ぶり。

「む~しゃむ~しゃ…」
「むーしゃむーしゃ、しあわせ~♪ …ゆ? おかーさん、どうして泣いてるの?」
「ゆゆっ! どうしたの? どこか痛いの?」
「ゆっ? な、なんでもないよ! とってもしあわせ~♪ だったからつい泣いちゃった
だけだよ!」

 口一杯に食べ物を頬張りながらも、親の目に光る物を見つけて気にかけてくれる優しい
子供たち。

(ああ、この子たちはなんてゆっくりいているんだろう…)

「しあわせ~♪」
「ゆぅ? おかーさん、いま何か食べたの?」
「ゆふふ…。そうだね、れいむはもうむねいっぱいだよ!」

 何も口にしていないのに「しあわせ~♪」と告げるれいむに、不思議そうに訊ねる子供
達。そんな様子すら愛おしくて、れいむは心の底から暖かい気持ちがじんわりと広がって
ゆくのを感じていた。
 …それはそれとして長旅で疲れた身体は空腹を訴えてきたので、あとは子供と笑いなが
ら食事についた。
 元居た巣から持ち出したのは保存の利く干し草や木の実。
 あと二日は一家が食いつなげるだけの量が残っていた保存食をれいむ一家は瞬く間に平
らげていってしまう。
 家の廻りに生えている青々とした草も美味しいであろうが、水気を失って萎れた草もゆ
っくり噛んでいくと美味しさが染み出してくる。
 パサパサの干し草を美味しくなるまで噛んでから食べてゆくゆっくりれいむたち。
 どのれいむも幸せそうな笑顔であった。だが、突如として一匹のれいむが目を見開いて
驚愕の表情を浮かべた。

「む~しゃむ~しゃ…む~しゃ…ゆっ!? そう言えばれいむはのどがかわいてたよ!」
「ゆゆっ!? れいむものどがかわいてきたよ!?」×他の子供達

 一匹が喉の渇きを訴えたことで、途端に自らの渇きを自覚するゆっくりたち。
 同じく喉が乾いていた親のれいむは少々困った表情で周囲を見回した。
 何処をどう見ても、見える範囲に水がないのである。それにこの家に来るまでの道程で
も水辺は見ていない。実のところゆっくりが飛び跳ねても数分の近距離に緩やかな小川が
流れていたのだが、全長十センチ足らずの親れいむは生い茂る雑草に遮られて見つけるこ
とができなかったのであった。

(すぐにお水を探さないと…けど、もうお外がくらいよ。夜にお家の外にでるのはゆっく
りできないよ)

 夜に出歩く危険性を経験から認識しているれいむは外に水を求めることを少し考えただ
けで取りやめた。
 暗闇に閉ざされた出入り口から一転して振り仰いだのは、れいむが全力で飛び跳ねたと
しても届かない高みにある板の間とその先に広がる未知の空間。板の間は一跳びではどう
足掻いてもたどり着けない高みにあったが、その手前にある平たい石からならばよじ登っ
ていけそうであった。
 平たい石に近寄って確認すれば、自分が持ち上げてやれば子供も上に上がれそうである。
 親のれいむは石にぴっとりと張り付くと、振り返って子供達に呼びかけた。

「おちびちゃんたち! お家のおくへお水を探しに行くよ!」


 板の間には襖や障子といった仕切が一切無く、柱が等間隔に並び立つ他は平屋の隅々ま
で見渡せる造りになっていた。
 それでも視点が床すれすれにあるゆっくりの事。敷居などのわずかな段差があるだけで
見通しは悪かった。
 床板は所々に剥がれた箇所や白蟻に蝕まれて脆く崩れ去った箇所があり、餡子の詰まっ
たゆっくりたちの行進も自然と慎重になっていた。先導する親を追い抜いて飛びだした長
女のれいむが脆くなっていた床板を踏み抜いて、危うく真っ暗な床下に落ちそうになった
のはたった十分前の出来事なので忘れっぽいゆっくりもさすがに慎重になる。

「お水さんでてきてね! れいむたちはのどがかわいてるんだよ?」
「お水さん、おねがいだからでてきてねー?」

 そろそろと身体を這わせて、念入りに足下を確かめてから進むという行程はゆっくりに
とっても非常に遅く感じるものであった。
 その上、喉は刻一刻と渇きを訴えてくる。

「お水さぁーん! 早くでてきてごーくごーくされてよぉっ!」
「のどかわいたよおぉぉっ!」
「おがあざんおみずぢょおだいよおぉぉぉっ!」
「ゆぅ…。これだけさがしてもないなんて、もしかしてお家にお水さんはいないのぉ…?」

 ぽすっぽすっと八つ当たり気味に体当たりをしてくる子供達を受け止めながら、親のれ
いむは困り果てていた。
 ゆっくりの噂では『にんげんさんのおうちにはあまあまさんがたくさんあって、とって
もゆっくりできるんだよ』と伝え聞いていたのでてっきりお水もあるものだと思いこんで
いたのだった。噂の中に水の文字が見当たらないことにれいむは気付いていない。
 お家の中に水がないのなら、日の落ちた外で水を捜さなければならなくなる。だがそれ
は夜行性の獣や捕食種の存在を考えるとありえない。
 ここは涙を呑んで、子供たちには今夜だけ喉の渇きを我慢して貰おう。
 そう決心して、しかし泣き叫ぶ子供達の姿が痛ましくてほんの少し視線を上へと反らせ
た。
 思えば不安定な足場に気を取られていて、上を見たのはこれが初めてだった。

「………ゆ?」

 剥き出しの梁が支える天井の、その中央。
 そこに四角い穴が空いていた。まるで夜空を切りとって張り付けたかのような天井には、
中天に差し掛かる三日月が浮かんで見えた。
 締め切られたお家なのにそれほど暗いと思わなかったのは、そこから月や星の明かりが
差し込んでいたのだと親のれいむは知った。
 真っ暗であるはずの家屋に差し込む月明かりは光の柱のようにも見え、れいむはほんの
一瞬だけ喉の渇きを忘れるほどに見とれた。

「ゆあぁぁあぁあんっ!!」×子
「ゆあ!?」

 喉の渇きのついでに体当たりをし続けていた子供達の存在を失念していた。
 意識の外からの衝撃に思わずよろめくれいむ。その時、揺れる視界の中に月光を照り返
す輝きを見つけたのは本当に偶然だった。

「おちびちゃんたち、ちょっとどいてね!」
「ゆーっ!?」×子

 飛びかかってくる子供達を弾き飛ばす勢いで姿勢を戻したれいむは、弾かれてころころ
と転がっていく子供に目もくれず身体を伸ばしたり飛び上がったりして輝きの正体を見定
めようと試みた。

「いたいよぉっ!」
「おかーさん何するのおぉぉっ!?」
「ごめんねおちびちゃん。ちょっと待ってね!」
「ゆ?」
「ゆー…ゆっ! 間違いないよ! あそこに水さんがあるよっ!」
「ゆぅっ! ほんとにっ!?」
「れいむが一番のりするよ!」
「ぬけがけしないでね! れいむはのどがカラカラなんだよっ!?」

 直前まで全身を膨らませて親に対して怒りを主張していた子供達も、「水がある」の言
葉の前に一瞬で憤りを忘れた。
 即座に親の見ている方向へと飛び出す子供達は憤りとともに足場の悪さも忘れていたら
しい。

「おがあざんだずげでえぇぇぇぇっ!!」×子供達

 白蟻に食い荒らされてすかすかになった床板を踏み抜いて、サクッと板に填ってしまっ
た子供達は親のれいむが助けに来るまで残り少ない水分を絞り出すかのように泣きわめい
た。


 ゆっくり慎重に進み、誰一人として欠けることなく親のれいむが見つけた水の前までれ
いむ一家は辿り着いた。
 そこは四角く切りとられた天井の真下。直情から降り注ぐ月光を受けて、水面は白く輝
いて見えた。

「…ゆぅ、困ったよ…」

 念願の水を前にしているにも関わらず、れいむ一家は喉を潤すことが出来ないでいた。

「ゆっくり届かないよ…」

 天井同様、四角く切り抜かれた空間。その中央に据え付けられた水瓶に、水はなみなみ
と湛えられていたのであった。
 親のれいむが床板の端から跳んで水瓶の縁に着けるかどうかは微妙なところであり、小
さい子供達にはとても跳べる距離ではない。水瓶の口までの高さはれいむたちの居る床と
同じくらいなので下から跳び上がることもできない。土間にはあった石の段もないので落
ちたら二度とその空間から出ることは敵わないだろう。
 その上、水瓶の細い縁に巧く着地できなければ水の中に落ちてしまうことになる。
 求めて止まなかった水がすぐそこにあるのに飲むことが出来ない。
 先ほどまでの元気は何処へやら、れいむ一家は表情の無い貌でただじっと月光を照り返
す水面を見つめる置物と化した。

「ゆー…どうしよう…」
「おかーさん…」
「おみずさん…」
「…ゆっ! そうだ!」

 ただただじとーっと水を見つめるれいむたちの中で、不意に一匹の子供が声を上げた。
急速に生気を取り戻した貌には笑みすら浮かんでいる。
 唐突に叫んだ子供にのろのろと目を向ける親のれいむを余所に、子供のれいむは急に来
た道を戻り始めた。
 何だろうと思って目で追いかけると、子供のれいむは親のれいむが踏んだら浮き上がっ
た床板にかじり付いていた。あの木さんは乗ったらゆっくり出来ないよ、と迂回したその
板に子供のれいむは力一杯噛みついた。

「ゆーしょっ! ゆーしょっ! ゆーしょっ…」

 じたじたとお尻を揺らして暴れている子供のれいむ。

「ゆーしょっ! ゆーっ!! ゆーっ!! ゆうぅ…、おかーさん手伝ってーっ!」
「…ゆぅ? …ゆっ!? 待ってね、すぐ行くからねっ!」

 真っ赤になって床板にかじり付いている我が子の姿をしばらくぼんやり見ていた親のれ
いむだったが、助けを求められたことで漸く我に返った。同時に、その子が何をしようと
していたのかも気付くことが出来た。
 子供のれいむが幾ら頑張ってもほんの少ししか動かせなかった板を、親のれいむはグイ
グイと引っ張ってゆく。
 正直、途中で何度も休憩したくなったが未だに放心したままの子供達の姿や真っ先に板
のことを思い出して行動し、今もせめてもの助けにと引っ張る板を後ろから押してくれる
子供のれいむ。
 彼女らのことを思うだけで、疲れも苦しみも無かった。
 そして子供達が呆けている床の端まで辿り着くと、

「おちびちゃんたち、危ないからゆっくりはなれてね!」
「ゆぅ…?」

 のろのろとその場から距離を取る子供達に一度微笑みかけ、一転して運んできた板に向
き合ったれいむは仁王もかくやという形相で板に食らい付き、渾身の力を以て板を振り回
した。

「ゆっがああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」

 れいむの全力と遠心力で浮き上がる板。
 180°の回転をしたところで水瓶に叩きつける要領で制動を掛けた。横から下への急
な動きはれいむの歯と歯茎に強烈な負荷と痛みを与えたが、折角水瓶の口に届いた板が弾
かれてはここまで苦労した意味がない。勢いよく叩きつける形となってしまっただけに勢
いよく跳ね返ろうとする板を全身で以て押さえ込んだ。
 その甲斐あって板は思い描いたとおりの位置に落ち着いていた。

「ゆふー…ゆへぇー…ゆふー……。さあ! おちびちゃんたち、おかあさんが作った『は
し』をわたってお水さんをのみに行ってね!」

 唐突に現れた諦めていた『お水』へと続く架け橋の存在が理解しきれずにしばらくは呆
然としていた子供達。
 だがじわじわと理解が広がってゆくと、枯れ果てた表情に満面の笑みが咲いた。

「おかーさんありがとーっ!」
「ゆわーい!」
「ごーくごーくできるの!? ごーくごーくするよ!!」
「おみずさん! おみずさん! れいむが今いくからねぇ~♪」
「ゆわーん! れいむをおいてかないでぇー!」

 一目散に板を渡っていく子供達。親の手伝いをしていた子供だけは疲れもあって出遅れ
てしまっていたが、まったくゆっくりしない勢いで飛び跳ねる姉妹を目にして慌てて後を
追った。
 その様子を親のれいむは微笑ましく見守っていた。

「そんなにあわてなくってもお水さんは逃げたりしないよ」

 そんな声を掛けたが散々焦がれていたお水を前にした子供達は我先に水面を目指した。
疲れ切ってじりじりと這うことしか出来なくなっていた子供が板の端に漸く辿り着いた時
には、反対側の板の端では姉妹達が押し合いへし合いしながら念願のお水へと口を伸ばし
ていた。
 水瓶の水は溢れんばかりに湛えられているとはいえ、板の上からでは少々高低差があっ
た。
 それでも子供のれいむたちは舌を伸ばしたり身を乗り出したりしながら水に口を付けよ
うと奮戦していた。

「いぢわるしないでねっ!」
「はやくごーくごーくされてねっ!」
「もう少し前に出るよ! そろーり…」
「ゆうううううううう…」

 早く水を飲みたい。
 そんな子供のれいむたちの思いが天に通じたのか、見る見るうちに水面が近づいてきた。
 歓声を上げて、口を開いて迫ってくる水を迎える子供のれいむたち。

「ゆ~♪」

 もちろん、ゆっくりの思いに応えるほど天は暇ではないし安くもない。
 これは単に、板の端に寄りすぎたれいむたちの重量で板が傾いただけの話。
 そんなことはつゆ知らぬれいむたちは、傾いだ板と共に笑顔のまま水瓶の中へと落ちて
いった。

 そして一匹だけ乗り遅れたれいむは、板の反対側が急に沈み込んだために勢いよく跳ね
上げられていた。
 ぽ~んと宙に舞い上がる浮遊感に思わず歓声が込み上げてきた。

「ゆ~っ! おそらをとんでるみたーい♪」

 そのまま山形の放物線を描いて空を飛ぶれいむが目にしたのは、急転直下の事態に理解
が追いつかず目を丸くして子供の消えた水面を眺めている母親の姿。
 水の浮力に弾かれた板が、カツンと乾いた音を響かせて元の位置に戻る。
 水に濡れたその先に、愛しい我が子の姿は残っていなかった。事態を理解してゆくにつ
れて貌は愕然とした表情へと変わってゆく。
 子供の消えた板の先端に視点が固定されてしまった親のれいむ。
 そこに上から笑顔の子供が振ってきて、

「おかーさん! ゆっく        」

 トプン、と音だけを残して、子供の最後の一匹もまた水瓶の底へと沈んでいった。

****************

  ゆっくり水の底

****************

『ゆぅ…ゆっくりいたかったよ…』

 落下の衝撃で目を回していた三女のれいむが気付くと、広々とした新しい『お家』とは
かけ離れた薄暗くて狭い空間に閉じこめられていた。
 見知らぬ場所に不安げに周囲を見回すと、そこには姉妹達が無言で右往左往していた。

『だしてねっ! ここからだしてねっ!』

 長女のれいむは壁に向かって何度も体当たりを繰り返していた。
 次女と四女のれいむは、なんと宙に浮いた状態で伸びたり縮んだりをしていた。

『ゆっくりだっしゅつするよ!!』
『もうやだ! おうちかえる!』

 ゆっくりしないで動き続ける姉妹とは対照的に、末っ子のれいむは一カ所に留まったま
ま、くしゃくしゃの泣き顔を浮かべて口を大きく広げていた。

『ゆあぁぁぁぁんっ!! ゆあぁぁぁぁんっ!! おかあさんたすけてえぇぇぇぇっ!!』

 母親の姿がないことに不安を覚えたが周りには仲のいい姉妹たちがいる。
 三女のれいむは、ともかくすぐ側にいた泣き顔の末っ子を落ち着かせようと笑顔で声を
かけた。

『ゆっくりしていってね!』
『ゆあぁぁぁぁんっ! もうわがまま言わないから! おてつだいだってするからぁっ!
 おねがいだからたすけてぇぇぇぇぇっ!!』
『ゆ? 何でお返事してくれないの? そんなお顔はゆっくりしてないよ! ゆっくりし
ていってね!』
『おかあさあぁぁぁぁん! なんでれいむをたすけてくれないのぉぉぉぉっ!?』
『ゆぅ…妹がゆっくりしてないよ…』

 ゆっくりならば返事を返さずにはいられない「ゆっくりしていってね!」という台詞に
すら反応を示さず、泣き顔で口を戦慄かせてばかり居る末っ子に悲しげな一瞥を残して三
女のれいむは長女の元へと向かった。

『おねーちゃん、ゆっくりしていってね!』
『かべさんはいじわるしないでねっ! ゆっくりいそいでここからだしてねっ!!』
『ゆぅ~ん…なんでおねーちゃんもごあいさつしてくれないのぉっ!?』
『お水さんはもういらないんだよっ! このままじゃゆっくりできなくなっちゃうんだよ
っ!』
『おねーちゃん、ここはどこなの? なんでそんなにゆっくりしてないの?』
『れいむたちはまだずっとゆっくりはしたくないんだよっ! れいむたちをゆっくりここ
からだしてぇっ!!』
『…れいむのおはなしきいてよぉ…』

 すぐ横にまで行って笑顔を向けたのに見向きもされず、長女のれいむは壁に向かって体
当たりを続けていた。
 壁に向けて跳んでゆく速度はとてもゆっくりしたものであったが、長女の形相はとても
必死なものでゆっくりできない。
 どれだけ語りかけても黙ったままで見向きもされないことに悲しくなった三女のれいむ
は、次女と四女のところに向かった。

『ゆぎゅぅ~…ゆうっ!! ゆぎゅぅ~…ゆうっ!!』
『ゆーっんしょっ! ゆーっんしょっ!』
『ゆ~♪ すごいねっ! おそらをとんでるみたい!』

 平たく潰れては勢いよく縦に伸び、またすぐに平たく潰れる。そんな動きを繰り返す次
女と四女は、三女のれいむがいうように空を飛んでいるようにも見えた。実際、じわじわ
とではあるが彼女たちの身体は上へ上へと進んでいた。
 だがそれも一息入れては即座に台無しになってしまう程度のものではあったが、

『ここじゃゆっくりできないよっ! おみずさんからでたらゆっくりするよっ!』
『おねーちゃんまってねっ! れいむをおいてかないでねっ!』

 休むことなく動き続ける二匹の姿は三女のれいむからは大きくなったり小さくなったり
を繰り返す、足相当の底辺しか見ることは出来ない。
 ゆっくりしていってね、の挨拶だけは顔を見て告げたいれいむは、どうにか二匹の顔が
見えないかと躯を反らせて上を見上げた。
 そして、姉妹の顔よりも気になるものに気付いてしまう。
 キラキラ光り、ユラユラ揺れるそれは、つい先ほどまで家族総出で追い求めていたもの
ではなかったか。

『なんで…? おそらにおみずさんがあるよ…?』

 そうではないと気付きながら、三女のれいむは的外れの疑問を口にする。
 だが気付かない振りを続けられるほどれいむは愚鈍ではなかった。

『なんで…どおしてれいむがお水さんの中にいるのぉぉぉぉぉっ!?』

 ここにきて漸く自分が姉妹共々水の底に沈んでいることを認識することができた三女の
れいむ。
 ゆっくりにとって、水は喉を潤す程度であればゆっくりできるものであるが、躯に染み
込むほどの多量の水ともなればゆっくりできなくなるものに変わってしまう。
 水に沈んでいるために声が出せないとは流石に理解が及ばなかったが、姉妹がみんなゆ
っくりできず三女を気に掛ける余裕もなかった理由は理解できた。

 彼女らに終わりが訪れたのは、三女が現状を受け入れたすぐ後であった。

 壁を打ち破り、できることなら妹たちとここから抜け出そうと奮戦を続けていた長女の
れいむ。
 水の抵抗もあってその体当たりに大した速度はなかった。

『だせえぇっ!! れいむたちをここからだじぇぶ―』

 それでも長女のれいむの躯は確かな推進力を以て、文字通り全身全霊を壁に叩きつけた。
 水に浸されて緩んだ外皮と中身が堅い壁と自分の生んだ推進力に挟まれた結果、長女の
れいむの躯はまるで壁に沈み込んでゆくかのように潰れていった。
 その光景を三女と末っ子のれいむは見届けてしまった。

『ゆっ…ゆっ…ゆっ…』
『うわあああああああああああっ!! うわああああああああああああっ!!』

 薄紫の水煙となってしまった長女の姿に、三女は硬直し末っ子は目を剥いて叫んだ。涙
も流れているはずだが、水の中では解らない。
 その見えない涙と共に、末っ子の両目がポロリとこぼれ落ちた。
 急に視界を失った恐怖が加わって、末っ子の叫びが激しさを増した。

『れいむのおめめがあああああっ!? くらいよおおおおおおおおおおっ!! こわいよ
おおおおおおおおおっ!! おかあさあああああああん!! おねえちゃあああああああ
あん!! だれてもいいかられいむをたすけてええええええェぼオぉう!?』

 誰の耳にも届かない叫びと共に末っ子のれいむの口から中身の餡子が迸った。
 生存に呼吸を必要としないゆっくりはただ喋るために空気を吸い込んで吐き出す。だが
水の底に落ちてからは声がでていないことにも気付かず、水を吸い込んでは吐き出してい
た。
 火のついたような末っ子れいむの叫びは、噴火の如き奔流となって中身を吐き尽くして
途絶えた。
 勢いで裏返った末っ子れいむの外皮は、自らが巻き起こした水流に乗ってしばらくの間
水瓶の中をたゆたった。

『もうっ! すぐっ! あと! ちょっ! とっ! だよっ!』
『ゆぅっ! ゆぅっ! ゆぅっ!』

 全身を伸縮させることで懸命に水面を目指していた次女と四女は、水面まで後わずかの
ところまで上り詰めていた。
 後少しで水の中から抜け出せる。
 水面近くまで昇ってきていたために水底で起こった惨劇を知らない二匹のれいむは、目
前の希望に向かって疲れ切った躯からなけなしの力を振り絞る。

『ゆぎゅぅ~…ゆぅっ! ゆぎゅぅ~…ゆぅっ! ゆぎゅぅ~…ゆぅっ! …ゆ?』

 不意に水を蹴る感触が消えたことに、次女のれいむは内心で小首を傾げた。
 しかも何故だか伸びた躯を引き戻すことが出来ない。
 そろりと下に向けた次女の目に飛び込んだのは、水を蹴った勢いもそのままに水底へと
沈んでゆく自分の足とそれを追いかけて流れ出す自分の中身。

『れいむのあんよが!? れいむのあんこさんがあぁぁぁぁぁっ!?』

 流れて落ちてゆく餡子とは反対に次女の躯は水面へと上がってゆく。
 だが、水面に辿り着く頃には中身は空になっていることだろう。
 自身の最後を悟り、ただ一目だけでも外にいる母親の姿を目に焼き付けて逝こうと決意
する次女のれいむ。
 だがそんな彼女のささやかな決意は、突如巻き起こった横殴りの奔流によって遮られて
しまう。

『ぼ…ぢょ…ゆ…ぐ…たか……』

 それは次女と共に水面を目指していた四女の変わり果てた姿。
 次女とは違い、目一杯縮んでいるときに限界を迎えた四女は、頭の天辺と底辺の足を残
して放射状に飛び散っていた。
 呆然とした表情を浮かべて流れてゆく妹の顔を横目に見ながら、次女のれいむは薄れゆ
く意識に身を委ねて目を閉じた。 

『…れいむも、もっとゆっくりしたかったよ…』


 残ったのは長女の散り様に思考停止状態に陥ってしまった三女のれいむ、ただ一匹。
 れいむは壁に立ち向かおうとは思わない。
 れいむは助けを求めて叫ぼうとは思わない。
 れいむは出口を求めて動き回ろうとは思わない。
 姉妹達のようにずっとゆっくりはしたくないから身動ぎ一つせずにじっと待っていた。

(おかあさんが…)

 ただ一つの希望を胸に、瞼を閉ざしてゆっくりと待った。

(おかあさんがたすけにきてくれるまでゆっくりまつよ…)

 とっても頼りになる母親の姿を瞼の裏に投影しながら、れいむはその時をただひたすら
に待ち続けた。

 しばらくしてその時は訪れる。
 水瓶に消えた子供を救おうと、母親のれいむはやってきた。

 水瓶を割って中の子供を救おうと体当たりをしたが効果はなく、
 水瓶を倒してしまおうと押しても半ば地中に埋められた水瓶は微動だにせず、
 助けを求めようとも周囲に人はおろかゆっくり一匹いなかった。

 目がこぼれ落ちないように瞼を閉じていたれいむは最後まで母親のれいむが自分を助け
てくれるのだと信じていた。
 万策尽きた親のれいむが、子供達と永遠にゆっくりするために水瓶に飛び込んできたな
どとは知る由もなく。三女のれいむは頭上に落ちてきた親に押し潰されてしまった。
 水が染み渡ったその躯は、風に吹かれた砂のように儚く散っていった。


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最終更新:2022年05月19日 12:32