0-3.日曜(昼2):物語_4
晶の視界に、忍さまの倒れる姿が映った。
「……っ!!」
身体が立ち竦む。手も伸ばせない。これでも勉学だけでなく、身体を動かすことも得意なはずなのに、反射が働かない。驚きに足は硬直した。
『今見せたものは、この後起こりうる未来』
ククッとトロアドの忍び笑いが聞こえ、忍さまの姿が立ち位置に戻った。ビデオテープが巻き戻るように、苦悶の表情が驚きに変わり、驚きから薄笑みに変わる。そこで止まった。
『忍さま』の様子は、今日初めて拝見してからというもの、全く別人のようだった。桜の散るような儚げで麗しい笑顔が、冷え冷えとした冷気の輝きが人を誘うような笑顔になっていた。
『廉也先輩』もそうだった。真面目で実直、一見気難しいところがありそうにも見える彼が、大口を開けて笑い、窓から飛び入ってくる。まるで、性質の悪いコラージュ映像を見ているようだ。
一旦、止まった視界は再び動き出した。
視点は廉也先輩の足元から、背後の忍さまを見上げる形だった。
余裕の表情を浮かべていた忍さまが、振り返った廉也先輩の放った目玉に切り裂かれ、鮮血を撒き散らす。血が視点に降り注いだ。目を閉じることも叶わず、ただ呆然と。
くくくっと笑う声がする。そしてまた、血が戻り、忍さまの身を貫いた目玉が後退し、廉也先輩が前へ向き、忍さまが笑みを浮かべた。
「何がおかしい!」
晶は叫んでいた。叫ばずにいられなかった。
『ほほ、クローセル様の言い付けにより、自分は無理強いができぬ』
「なにがだ!」
『拒み続ければ、お主はここで見ているのみ。視覚だけを開き、主君の死に様をな』
いずれ、このようになる。もう一度忍さまが血に染まる姿を見せる視界。これは実際ありうる未来の視覚なのだと、脳が理解していた。脳は悪魔という存在を理解し、悪魔の能力について理解し、この地一帯、天使の結界に阻まれた土地が戦場になることも理解していた。
トロアドは陰湿な笑い声を響かせる。
『自分が持つ力は千里先も見通せる目に、未来を見る視覚のみ。だが、人間。お主にこそ、この力は必要ではないか?』
見えるだけなど。
『その場で起こったとして、お主は防ぎ切れるのか』
咄嗟の事に硬直してしまう身体で。予想してなければ、動かない身体で。
動けるものだと思っていた。過信していた。だが、実感せずには居られなかった。
常に注意を向けていれば、嫌でも反応できるようになるかもしれない。けれど、例えば今の、廉也先輩の反応についていけるのか。
「……その力で、忍さまを護ることができるのか」
『この力のみでは如何様にもならぬだろう』
晶は、眼球を睨み付けた。
『あとは、お主の頭次第……さて、どうかな?』
この悪魔は信用できない。感情が訴える。しかし、理性が少しの力も求めようと足掻いていた。
「……あ……くま……!」
斎木廉也の身体をした何かは、自らを悪魔と名乗った。まるで別人の如く醜く歪んだ顔で哄笑し、邪悪な妖気を撒き散らす。妖気は主に目玉の刀から発していた。
不は自分の全身が震え上がるのが分かった。
反射的な怯えだ。同じような妖気に襲われた視覚が蘇る。身を引き裂かれる記憶に総毛立つ。
ごくり、と大きく溜飲する。咽喉の鳴る音に、それが自分の発したものと気付く。
「悪魔……!!」
相対するの者達を示す明確な名称に、怒りが噴き上がった。
左右色違いの瞳に力が篭る。
「ヒャアッハッハッハ! 恐怖かァ? 恐怖を感じているなァ、ハイブリッド!」
ざわりと、刀として固まっていた目玉が哄笑と共に膨れ上がった。
個々に飛び散る目玉の一つ一つから不は視覚を奪う。
宙から自分を見下ろす視界が不に移る。しかし、視界を奪った筈の目玉は失墜せず、そのまま不の周囲を囲むようにして飛び回る。先程は落ちたはずだった。
「ククククッ、ヒャッァッハッハ! 食ってやろうなァ、その目玉ァ……」
落ちもせず、ぐるりと大立ち回りする目玉。複雑に飛び交う視覚。一つが不の正面から飛び込んで、不の頬を掠めて去る。掠めただけというのに、不の頬には血の筋ができていた。
『食う』。その単語に怒りに瞳を滾らせ、目玉の視覚を更に飲み込んでいく。
「んン、100個ぐらいかァ……? この程度じゃねーダロ!」
視覚をさらに奪う。脳に伝達される視覚情報はすでに、自分を囲うようにして360度展開し、更にジャイロのように回転する。わざと、その場で回転するように飛んでいるのだ。
奪うといっても、その1つの視界のみ。目玉を飛ばす力はまだ、悪魔のものだ。それでも目玉の持つ唯一の感覚である視界を奪っても、失墜することがないのは、他の目玉がその視覚でもって、奪われた目玉の軌道を計っているからだ。
激動する視界の中、動かない目玉を見つけてはその視界を奪う。既に、和田忍の五感は手放した。
「300。面白ェ、ドコまでイケっかなぁァ? ドコまで、オレ様達ノ感覚ニ近付けル?」
動くもの一つ手放しても、また奪ったものが動き出す。
視界は揺れに揺れ、跳びまわり、自分がどこに立っているかもあやふやになってきた。
「498……499。ッハッハァ、ココらへんが限界みたいだなァ。でももう一ツ頑張れッダロ?」
ヒャァッハッハッハァア!
目玉が踊る廊下に哄笑が響き渡る。ギリ、と不は奥歯を噛み締めた。
「んン、難しいのかァ?」
斎木廉也の身体が、閉じた目蓋を僅かに動かし、ニィと笑みを作った。
「10カウントだ。10数えるまで、待ってやるよ」
じゅーぅ……、口が浅い三日月型に笑みを形どる。きゅーう……、咽喉の奥でくぐもった笑い声を立てる。わざとゆっくり、ミーレクレスは数を数えている。
頭が回る。視界も回る。その中で、敵の視覚を更に乗っ取ろうとする。これほどまでの負荷をかけながら五感を奪おうとしたことない。奪うことは卵を握るより易かった。触れれば力加減も分からず、卵を倒す。万一掌中に収めたとして、卵は容易く潰れる。
「妾も居ることを忘れてもらっては困る」
不意に、女性の声がミーレクレスのカウントを遮った。
「あァン?」
斎木廉也の身体の側にあった目玉のいくつかがくるりと後ろを向く。そこに立つ一人の女性を見、言葉と共に身体がゆっくりと振り返った。首をもたげ、下から振り返る様子はまるで怨霊のようだ。ただ、目が瞑られたままなのが滑稽だった。
「妾が受けた辱め、そこな下郎に思い知らせてやらねば気が済まぬ」
十数ばかりの目が囲み、睨みつけるのも臆せずに女性――和田忍は言い捨てた。
「ア? 見て分かんねェのかヨ。コレは俺様が遊んでンだ」
「遊んでいるのなら、止めは譲ってもらおうか」
「止めを刺す権利は妾にある」和田忍に憑いた悪魔は憤慨を顕にして言う。
敵意を向けられ、回る目玉が先程の倍、いや不に乗っ取られず残っていた目玉の半分が、和田忍を囲い威嚇する。目玉から立ち上る妖気は剣呑としていた。
「権利だのなんだの……」
斎木廉也の口から汚い舌打ちが飛ぶ。意識が、不よりも和田忍へと移る。
不は、視界に篭める力の種類を切り替えた。
「廉也先輩、」
「だから、堕天使はウゼ……んン!?」
「後ろに気をつけてください」
好機だった。目玉は不を監視するよりも割り込んだ悪魔の喧嘩を買いにいった。
気が逸れたその時、不はミーレクレスに向ける力の種類を切り替えた。視界を千と持つ悪魔の視界いくばくかを奪ったところで、キリがない。全て奪えないのなら、意味がない。だから、もう一つの持てる力を使った。
普段は身体を支え、思い通りに動かすことにしか使っていない力だ。
例えば卵。黒板に向かう時はチョークを。それらを引き寄せ掴む、ほんの僅かな力。身体以外の重たいものには使ったことがない。目玉に効くかどうか、賭けた。
果たして。
後ろへ、和田忍へと近寄ろうとする目玉に、少しの圧力を掛ける。不の思い通りにか、悪魔自身の動かそうという意志があったからか、一つの目玉、不が力を込めたものだけがわずかに素早く動く。
大きく、息を吸い込んだ。
いくつかの目玉を選び、斎木廉也の身体、そして和田忍の身体を貫くよう。
力を込めた。
「……ハ、」
笑うような吐息が漏れた。同時に、周囲の目玉が動き、不の動かした目玉と衝突し、砕けた。相殺だった。
「ハッハッハ、ヒュァ……」
盛んに不の視界を乱すよう動き回っていた目玉が一斉にその動きを止めた。和田忍を囲んでいたものも全て止まり、一斉に一点を向く。
「ザぁーンネン! ヒッヒッヒ、ヒャァッハッハッハ!!」
それから踊るように回り始めた。
この時、不の聴覚は元通り何も聞こえない状態に戻っていた。耳障りな哄笑を聞かなかっただけ、幾分かマシだったろう。だが、まるで花畑を舞う蝶のように浮かれて踊り狂う目玉を見ただけで充分だった。
「どうして」
我知らず呟く。言葉に答えてか、揚々と斎木廉也が右に立ち位置をずらす。
斎木廉也と和田忍の間、主君を護るようにして一人の男子生徒が立っていた。
「こいつが教えてくれたのさ」
「先輩」
和田忍の前に倒れていた男子生徒の一人が覚醒したのだ。そして、立ち上がり、生徒会長を守ろうとしている。男子生徒は生徒会役員の一人、名は樋坂晶。先輩である斎木廉也と同じように目を瞑り、わずかな妖気を漂わせている。斎木廉也の瞑っても剣呑な様子と違い、こちらは未来を見通す静謐さを感じた。
「階段から、新手が来ます」
「あァ?」
目玉は踊り回るのを止め、不を監視しながらも、群れが分かれ、階段の方へと移動を始める。
樋坂晶はそれだけ告げると、目を開け、護っていた和田忍を振り返った。眼を開ければ、悪魔の気配は極端に薄くなる。悪魔に乗っ取られているのかそうでないのか、不には判断がつかないほどだ。
「忍さま」
「おお」
無事でしたか。そう動くつもりだったのだろうか。口は物言いたげにしながら、相手が口開いたことで言葉を紡ぐのを止めた。彼の心を知ってか知らずか、和田忍を乗っ取った悪魔は微笑み、樋坂晶へと労いの言葉を掛けた。
「よくやった、トロアド」
笑顔に緩み、何かを言おうとしていた口は、言葉にゆっくりと閉じ、やがて一文字に引き締められた。
突き放したと思えば、継理は更にスピードを上げて追いついてきた。修羅はローラーブレードを履いている。しかも普段から駆け回っている校舎の中だ。不利な要素は何ひとつとしてない。ただ足で走る者が追いつけるはずのないスピードだった。
常人でない力を示す継理に修羅は腹を立てる。こちらが妖魔を嫌う事を知っていて、妖魔の力を見せ付ける。ありえないくらい常識外れだ。
「待てよ!」
「仏の顔も三度まで」
「あ?」
相手に聞かせるまでもなく呟く。継理は前方の修羅を見上げ、その拍子に足をもたつかせた。
「うおっ、……待て、って! こういう『力』の使い方は慣れちゃいないんだ!」
「じゃあ、使わなきゃいいでしょ!? どういうつもりよ」
「お前が止まればな!」
お望みなら。生徒会室のある部室棟の一階、階段に一歩足を掛けたところで止まってやる。
振り返る修羅に、継理も入り口で足を止めた。
「もう一回、縛呪を受けたい?」
「やってみろよ」
余りに挑戦的。顎を上げて泰然と立つ男の顔が気に食わない。修羅はキッと睨んで、印を結んだ。
真正面から放たれた修羅の呪を、継理は金色に光る目で一睨みした。
確かに、修羅は修行中の身だ。低俗の妖怪は簡単に払えるし、中程までなら単身で倒すことも可能だ。修羅の呪には動きを封じる程度にしか力がないかもしれない。
それでも、ただの一睨みで弾かれてしまう、そんな力じゃない。
「……! さっきは」
「変な結界がこの街を覆って、力が奪われる」
それ故に消耗して、先程は力が発揮できなかったのだ、と継理は言う。
「結界の中心は、どうやらこの学校らしい」
「…………」
「……けど、おかしなことにこの学校に入ると力が復活した。普通、中心ともなると一番効果が強いハズだろ。だが……別の結界がある」
「……」
「わかるか?」
継理は、虹彩から金を薄れさせ、黒い瞳で修羅に尋ねた。
修羅は口を噤む。首を一回横に揺れさせ、詰まった息を呑む。彷徨った視線が細められて継理に落ちる。
「学校を包んでいる結界はウチの結界。生徒を護る為に存在している」
「お前の?」
「代々のね。生徒を陥れようとする意志に反応するようになってる。生徒を護るのが役目なの」
修羅は視線に力を込め、目の前の男を見据えた。
「お前の」
「そうよ」
答えると、継理がそっと動いて階段に足を掛けた。修羅は二歩、階段を進む。
「街の結界は」
「知らない。けど、仕掛けた奴はこの上にいる奴かもしれない」
調べる必要がありそうだ。もっとも、この先に居る何かが元凶なら話はすぐに済む。ぶん殴って、倒せばいい。エセ外人の姿を思い浮かべて、修羅は拳を握った。
「俺の仲間が一人、外の結界の所為で苦しんでいる」
一度動き出すと止まるのもおかしく、一段だけずれながら同じ速度で階段を上がる。
「……さっきは悪かった。……」
「ウチの生徒?」
脈絡もなく謝った継理の、心中がどんなものだったのかは分からない。
ただ黙っていて修羅の疑問にあちらから話してくれることはなさそうだったので、声を掛けた。
「アンタの仲間って」
「……そうだ」
頷いて、一息ついてから付け加える。
「お前からすれば、魔物かもしれないけどな。ただ、学校に興味を持って……。俺達と、学校生活を楽しみたいと思ってるだけの奴だ」
「名前は」
「……綱戸ルカ」
「知ってる。アンタよりも随分大人しい、礼儀正しい子よね」
目を見開く継理を笑ってやる。
継理と仰人としか付き合わない、女子としては繋がりの薄い少女をよく知っているものだ、と思ったのだろう。
「全校生徒の顔と名前、全部頭に入ってるから」
継理は修羅を見上げて、更に目を丸くした。
少し、いい気分になる。
「生徒なら、助けないわけにはいかないじゃない」
微笑って段を昇る。足取りが軽くなった。
背後で継理は憮然として、下から修羅を見上げていた。
「水本……」
呟いた名の、音が持つ意味に、継理は何か気付いたようだった。
しかし、それに言及がいく前に、彼の言葉は途切れ、修羅を通り越したその上を凝視していた。
『新手、新手……て、あらァ?』
上から声がした。ふっと上を向いても誰もいない。修羅には一瞬、彼女の元に寄ってきた一つの目玉が見えなかった。
「おい、み……!」
継理の警告は役に立たなかった。
目玉が膨れ上がっていくつもの群れになる。それは数にして数十程度、本隊に比べればほんの一握りの群れだったが、修羅と継理に危険を視認させるには充分だった。
一瞬足が怯むものの、すぐにつま先に力が入る。下で焦る継理を置いて、修羅は三階廊下まで駆け上がった。
『これが? こんな細い人間の女がオレ様達の相手になるってのか?』
目玉の群れが修羅を囲む。値踏みするようにぐるりと周回しながら修羅を凝視する目玉達一周二周すると気が済んだのか、ぱっと散った。視界が開ける。
『無理だナ。キャアキャア悲鳴を上げてお終いダロ!』
誰に話しているのか。視界が広がった先に、修羅は目を凝らす。目玉の話し相手が廊下の奥に居るはずだ。それが、あの悪趣味にド派手な女だったら、すぐに見分けられる。
だが、意外にもそこに居たのは、アン=ノーンではなかった。
「……ユキヤ先輩」
中等部校舎で魔に憑かれ倒れていたケンタ先輩。そして、数百、あるいは千の目玉に囲まれるユキヤ先輩。降って湧いて出たような異能者『時食み』の一族。
学園の結界の中に、どれだけの魔の眷属が集まっているのか。
そして、外にあるという結界。キナ臭い事ばかりだ。
『サッキよォ、狩った奴ハさァ、ツマんなかッたなぁ』
目を瞑った廉也は、緩慢に周回軌道を取る目玉の中で、獰猛な笑みを浮かべていた。
『ニンゲンのカラダは肉のエグるトコ見えるから面白インだけどなァ。でも、スグにボロボロになっちまうンだァ』
ヒャッハッハ、と廉也が仰け反って笑う。耳障りな声だった。
背後で足音がし、ちらりと一瞥すれば、継理がうっと声を詰まらすところが見えた。この廊下いっぱいに目玉が広がる凶悪な視界に怯んだのだろう。中等部の校舎では偉ぶっていたが、実戦経験はないのかもしれない。内心溜息を吐いて、修羅は背に継理を庇った。
そう、修羅には実際に魔の眷属と戦ってきた実績がある。
普通の婦女子と一緒にしてもらっては困る。
キャアキャア悲鳴を上げてお終い?
修羅は俯き、前髪の奥から据わった目で宙に浮かぶ目玉を眺めた。
『ヤッパ狩るなら、ニンゲンより天使だよなァ』
息を吸い込み、足に力を入れる。
もはや修羅など意識していないような口上を、悠長に聞いているつもりなどない。
つま先を二回、連続で床を叩く。両足とも。それから踵で後ろへ蹴ると、ローラーブレードの車輪が急回転し始める。片足が動き出すとともに、駿足の移動が始まった。修羅の側に残っていた目玉の視線が修羅を追う。
『んア!?』
一瞬後に一斉に修羅を向く目玉の幕を強引に掻き分け、『本体』だろう廉也の身体に肘鉄を打ち込む。廉也の鍛えた身体が、くの字に折り曲がる。起き上がろうとよろめく肩を両手で押し上げバランスを崩させ、修羅は胴へ回し蹴りを放つ。
『テメッ』
目玉がぞろりと沸き立つ。立ち止まった修羅に狙いを定め、血走った眼球が襲い掛からんとする。
だが、そのことごとくが。修羅を貫く前に、落ちた。
修羅は自身を結界に包み、目玉の攻撃に対する防御策を張っていた。けれど、それは異物を弾く壁のようなものであって、廊下に広がっていた目玉を一斉に落とすものではない。
ハ、と気付いて振り返る。
柱の影に煌々と輝くのは、《時喰み》の眼。
継理が、魔の眷属の力を奪ったのだ。
一瞬呼吸を止め、溜めた息を荒く吐き出す。修羅は眉を顰め、やはり、戦闘に関しては素人だと心の中でごちる。この廊下全体に力を張り巡らせていたら、精神力が保たないだろう。
視界の端で、なにか黒いものが動く。廉也の足元から、目玉が分裂するように沸いてきたのだ。
数こそ少ないが、警戒し、威嚇するように修羅と廉也の間を飛ぶ目玉。
その一つを修羅は手で掴み、眼前で握り潰す。短い悲鳴を上げて、目玉が一目散に逃げ散った。
「なぁに? 手応えのない」
後退る廉也が、修羅のその言葉に強く奥歯を噛み締める。目玉が外に浮いている所為か閉じられた目と目の間、眉間に深い皺が刻まれた。
『……見えねェ』
苦く呟かれる言葉。目玉は修羅の手が届かない所でこちらを伺っていた。
「聞かせて」
この時修羅は、怯える目玉の魔物をすぐに封じることができた。しなかったのは、この口が軽そうな魔の眷属から、このワケの分からない状況の成り行きを少しでも聞きだせるかと思ったからだった。
「アンタ、」
『おい、オレ様達はナァ、何でも見抜く眼なンだ』
聞こうとして、魔物の言葉に遮られる。先程の軽薄で不遜な口振りから一転、低く唸るような声だった。それでも、普段の廉也からは遠く掛け離れていたが。
『どの角度からでもナァ、オレ様達は見てル。次に何すっかも頭の良イオレ様達にはマル分かりダ』
目玉は、廉也の身体の後ろへとじりじりと引っ込んでいく。代わりに廉也の右手が黒い気配に包まれているのが判った。何かを仕掛けているのだろう。情報を聞き出すことを諦め、素早く縛魔の印を結ぶ。
『オレ様達に見えねェのナンテなァ……』
「縛、……!」
『アっちゃ、イケネェんだよッ』
印を結び終えると同時に、目玉の幾つかが突然あらぬ方向から修羅の眼の前へ飛び込んでくる。
縛魔の呪は間を遮った目玉に掛かり、修羅は続けて襲い掛かった刃を封じることができなかった。
「水本!」
修羅は結界を隔ててなお身に掛かる圧力に短く呻き、後ろへと飛び退る。駆け寄った継理が触れる前に体勢を立て直し、修羅は目前の魔物を睨んだ。
宙に浮く目玉の数は十数個に減った。その代わりに、幾百の目玉が連なったグロテスクな刀が廉也の手に握られている。
それが、あの魔物の本来の姿なのか。
魔の気配を瘴気とするなら、目玉一つ一つが浮いていた状態は気体の密度に近いものだった。グロテスクなのは見掛けだけで、瘴気は薄く広がり、それほどの脅威には感じられなかった。しかし、刀から窺い知れる瘴気は固体の密度まで高められてた。
当然、威力は密度の高い方が強くなる。水蒸気と氷、ぶつけられてどちらが痛いか、子供でもわかる。
自分だけなら肉を切らせて骨を断つことも厭わない。
だが、側には継理がいる。
「……水本。目玉は俺が『時』を奪う。あの剣みてぇなのは、俺が動きを封じる。俺の視界の中にあれば、できる。隙を作るからお前は……おい、聞いてるのか」
目玉の、情けない姿につい油断してしまった。情報など得ようとせず封じればよかったのだ。
苛立ちが募る。耳打ちするように近付く継理を煩わしく思いながら、修羅は次の手を考えていた。
「聞いてる」
「じゃあ、まずはどいてろ」
「冗談じゃない」
立場を弁えろ。と言いたくなる。誰にしろ、生徒を護るのは修羅の役目だ。
修羅の中で継理は、共に戦う仲間ではない。余裕があるなら援護もしてくれても構わないが、いない方が助かる。
継理の視界を遮るように、修羅はその身を前に出す。
「あのなぁ」
「できもしないことをやれるなんて言わないで」
修羅を襲おうとした目玉を落としたのは継理の力だったとしよう。
けれど、全て落とせたわけではない。
「悪いけど。アンタの言葉信じられないの。信用できないものに頼ってたら、私が弱くなっちゃうでしょ。邪魔しないで」
修羅は、継理を見ずに背後に語った。継理は一瞬沈黙し、不満と怒りを込めた声音で言ってきた。
「できもしない事? お前がいるからできねぇんだよ」
今度は修羅を払うようにして、継理が前へ出た。
「邪魔はそっちだ。協力できねぇなら、俺の視界に入らないとこで勝手にしてな」
闖入者の二人がもめ始める。晶はひとまず息を付いて、後ろの忍さまを伺った。あわよくば、彼の人を連れてこの場を逃げ出すつもりだった。しかし、彼の人の視線は、晶よりも前、廉也との間に倒れる生徒会の仲間たちに注がれている。
気付いてしまうと、二人だけで逃げようとしたことが恥ずべき事に感じられ、ぐっと奥歯を噛んだ。
忍さまを傷つけない為には、どうしたらいいか。
未来を見て、千里を見渡すだけで、何ができるのか。
『……ナァ、見えンのか。ソノ眼』
考えを巡らせていると、廉也の背に回っていた目玉の一つが振り向く。
『な、未来視。答えロよ。ヤツラのチカラ、見えんのか』
「ここで起こるだろう未来が見えるだけです」
『サキが見エテ、イマが見えナイんじゃ、メンドーだロ。未来視チャンなァ』
別の目玉がやってきて晶の耳元で囁く。
『オレ様達がヨォ、イマ見てやるから、テメーはサキ見て教えロ』
「……」
『使えネェなら食うからナ? オレ様のドレかがサキ見て、イマ見りゃいい話……』
語っていた目玉が、動きを止めて晶の眼前に飛んできた。
『ン? ソッチのが早いか?』
「教えますよ」
晶は、慌てて答えた。
『マァ、食うのは後でもイイ。同じヨォ、悪魔同士、仲良クナ!!』
『ヒャハハハ』と笑って、幾つかの目玉が宙を飛び回った。
悪魔同士。
その言葉を噛み締めて、ただ一つ訂正をした。
「僕は、樋坂です。先輩」
『ヒノサカ……ヒノサカちゃんナ』
また笑って、目玉は宙を飛ぶ。声自体は廉也のものだというのに、イントネーションも全く違う。
だが、本来の名前を呼ばれただけでどこか安心している自分にも気付いていた。
倒れた咲羅と真貴子、怜具を見ていた忍さまが、晶の背後で呟く。
「……ようやく、か。ヒトごときに時間の掛かったものよ」
ゆらりと黒い靄のような妖気を伴い、牛の魔物と黒い騎士の起き上がる姿が『視』える。人間の晶は薄気味悪く、そして悪魔のトロアドは愉悦をもってそれを感じる。そして、すぐに開いた人間の視界に、同じようにゆらりと、咲羅と真貴子の起き上がる姿が重なった。
「憎き天使の前に、小賢しい蝿を潰してくれようぞ」
聞き慣れた言葉に、数弥は目一杯訝しげな表情を見せた。
「……生徒会室?」
「下にいた人達も向かっている。そろそろ着いてる頃じゃないかな」
何度も言うが、今日は模試をやっていて、部外者立ち入り禁止である。部活動も全て休みになっている。
「ここからだと少し離れるけど、向こうの校舎は君が普段通っている高等部だよね」
訳の分からない物言いに、言葉が継げなくなる。何故か模試の関係者しかいない筈の学校に不審人物が集まっていて、何故かこいつは目に見えない事態の推移を把握していて、学校の構造も熟知していて、何故かおれが普段通ってるなんて言葉が簡単に出て来る。
そうじゃなくて、高等部の生徒会。
「それ、生徒会がわざわざ今日活動してるって事か? なんで?」
役員をしている友人の事を思い出す。生徒会だけには活動許可が下りているのだろうか。忍び込んだという事は考えにくい。ここの生徒会役員は品行方正で有名だ。
「多分集めたんだろう。部下を増やす為に。勿論君の友達も来ている」
「部下増やしたって事は会長も来てるって事か? 意味分かんねぇ」
混乱した数弥に、銀眼の少年は更に追い討ちを掛けた。
「いや。分かっていてもおかしくないよ、君は。ここまでの話の整理さえつけばね。彼女が言った言葉を思い出せば良い」
言われて、数弥は喋るのを止めた。彼女というのはつまりさっきのアンさんの事で、その言葉とはつまり。
「デーモン……そう言えばお前も最初に」
『視えない』と言うのは人間と悪魔を隔絶するものだと思っていたけど。
「……悪魔?」
数弥は一般的な日本人の例に漏れず無宗教で、ついでに言うとオカルトマニアなんてのもありえない。それでも、悪魔という単語の意味は知っているし、その意味が漠然としていて掴めるようで掴めない事も分かっている。
「大体、君が想像している通りで良いよ。人ではないもの、異界から来るものの一種だ」
「それが何の関係が……『危険』で、『力がない』とか言ったよな」
一つ一つ記憶を逆巻きにして、情報を繋ぐ。こいつの言っている事の要点は、大きく三つ。危険な悪魔、生徒会室に人が集まっていてそこに状況とやらが行き着くという事、それとこの二つが関連するらしいという事。
「やっぱ話見えねえよ。生徒会とその悪魔だか何だかと、何の関係がある?」
「今、悪魔も生徒会室に集まってるんだよ。彼女のように、人間を器にしてこの街で動くために」
聞けば聞くほど突っ込み所が増えていく。やる気が失せるくらいに。
……どこからがおかしい?
そんなもん全部に決まってる。
「えーと……ぶっちゃけアホか。んな非科学的な話が……」
「その非科学的な相手に殺されかけたんだよ、君は」
「だからっ、……何でそうなる?」
殺されかけた? 誰が誰にどうやって。相手がどれだけ物騒な事を言ってたって、あの金髪美人にどれだけ気圧されてたって、それでマジに死ぬような人間、世界中探したっている訳がない。
「さっき上がってた叫び声も、彼女がやった事だけど」
確かに彼女は、口調以上に中身がおかしかった。健太サンの事を考えれば確かに害意があったし、もしかしたら未遂で済んだだけで、それは自分にも向けられていたのかも知れない。
「そりゃな、確かにあの人めちゃくちゃ怪しかったけど……」
「俺の事も同様に信用出来ない」
言いよどんだ事を先を越して指摘され、数弥はぐっと言葉を詰まらせた。
「……多分だけど助けてもらっといて、何だけどな。悪魔とか何とか……」
それでも、自分が何かされようとしていたとしても、それがこの少年が語る、怪しさ満載のオカルト妄想と繋がるような証拠は何一つない。
「見えもしないものを、信じられるか」
言い切る数弥を見て、少年は表情一つ変えず肩をすくめた。まるでこちらの考えなどお見通しだったと言っているようで、癪に障る。
礼なんか言わなければ良かったとも思ってしまう。
しかし皮肉のつもりなのかそれとも素なのか、少年は機嫌の良い笑顔を見せると、次の話を切り出した。
「ところで、さっきの悲鳴を上げてた人、助けなくて良かったのかな?」
「水本が出てったからな、まぁ大丈夫だろ。それにあのタイミングでおれが出てったら、尾けてたのバレるし」
「魂食い潰されて死んでないと良いね」
「確証もないのに物騒なデタラメ言うな。こっちはガキの妄想に付き合ってやるほど暇じゃないぞ」
「それじゃあ、忙しいの? 少なくとも、何か目的はあったんだ」
「別に、今日は友達迎えに来たんだよ。近所で……」
イッカザンサツだって。
一瞬よぎった不穏な気分を、数弥は急いで打ち消した。
「……いや、どっちにしろお前には関係ない」
このまま居残ると相手のペースに乗せられそうで、とにかく場を離れようと踵を返すと、背後から声が掛かった。
「逃げるの?」
「んな安い挑発にも乗らねえ」
言い捨てながら階段を降りて行くと、もう一度少年の声が聞こえた。
「そうだ。もし、どうしても自分だけでは駄目だと思ったら、その時はまたおいで」
届くのは声だけで、相手自身が追って来る気配はない。
「知るか」
「……確かに、知らずにいた方が幸せかもね。二度と会わない方が」
最後の方はもう聞くのを止めた。そのまま数弥は初対面の変人少年を置いて、足早に階段を行く。
さっさと生徒会室に行っていれば良かったと思うが、ここまで来ると生徒会の話もデタラメなのかも知れない。いや、その前に。
勿論君の友達も来ている。
「……ちょっと待て、お前何で樋坂の事知って……」
慌てて振り返ると、少年の背景になっている窓から光が射すのが見えて、眩しさで視界が白くなる。
ぐらり、と頭が揺れた。目を細めたが、少年にピントを合わせるのに失敗する。
「それは、君の……を……」
切れ切れの声を聞きながら、何だこれ、と思った途端、体が動かなくなって、その場にへたり込む。これで今日は二度目か。
「……どんな、厄日だ……」
最後に何か呟いて動かなくなった少年を階段上から眺めて、少年は呟いた。
「やれやれ、半端な所で止めたから、影響が遅れて出たのか」
彼は平静そのものの歩みで数弥の側まで降りると、
「……まあ、今日くらいなら、最後まで面倒見てあげるよ。向こうまで連れて行けば、誰か気付いてくれるだろうね」
言って、苦労しながら数弥を抱えると、二人は忽然と姿を消した。
高等部教室棟を、すたすたと歩いて行く教員がいた。階段前をすっと通り過ぎかけて足を止め、無表情に何かを思考してから、一歩引き返して階段の方を見る。
「……? 何で、ここに?」
階段中ほどに座り込み、一人で手摺にもたれている少年がいる。近寄って顔を覗き込み、どうやら意識がないらしい事を確認し、更に念入りに周囲の無人を確かめると、うんうん、と頷いた。
そして事もあろうに、
「おや庄司さん? 今日は一般生徒、ここ立ち入り禁止なんですが……ってそれどころじゃなさそうですね。具合が悪いんですか? そうですか。それは大変保健室に行かないといけませんね。さあ行きましょうか保健室。仕方がないから私が付き添ってあげますよ保健室。遠慮なんかしなくていいんですよ、生徒の面倒を見るのは教師の務めですからねー」
その教師は意識不明の生徒に対して長々と声を掛け、数弥を小脇に抱える。
「まったく、見つけたのが私じゃなかったらどうするんですか。ばれたら会議で叩かれるのは私なんですよ? ……さて、李先生、待ってて下さいね~」
そう言いながら、彼は人一人を運んでいるとは思えないほど軽快な足取りでその場を歩み去った。
続く
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