可士生 礼

国際的秘密結社「バブルガム」の創設者にして鍵を握る人物。
読みは「可士生 礼(かしう れい)」。
1984年2月20日に起きた交通事故で死亡したと思われていたが、2011年以降、再来の噂がたびたび流れる。
だが、その存在を感じられたのは2011年7月に監視者メシエ経由で宇野 衛宛に送信されたメール
および2012年3月に確認された告白文メッセージのみであり、彼の生存に対する確証はどこにもない。
生年月日不詳。バブルガムの設立時期(1976年、可士生20歳で設立)から1956年生まれと推測される。

1986年以降、2011年まで可士生がバブルガムから逃げ隠れていた理由、
2013年になった現在も、バブルガムが可士生を排除しようとしている理由は不明。


僕(椎名)の思ったこと
可士生が再来することをバブルガムが怖れる理由はなんだろうか?
60歳近くのおじさんが1人舞い戻ったところで、どうにかなる組織ではなさそうなのに。
それに可士生だって、なんで今頃になって(1984年から30年近く経って)舞い戻ろうと思ったのか?
20世紀少年の遠藤賢司みたいに記憶をなくしていたわけでもあるまいし・・・。
正直、このおじさんが諸悪の根元なんじゃないだろうか。

あと過去の情報などから読み取れる可士生の口調が妙に若いのも気になる。
実年齢と合っていないというかなんというか・・・。


2012年3月に発信されたメッセージ全文

28年前の閏年も日曜日から始まった。

その年は私にとってあまりにも大きな変化をもたらすものだった。
その年を境に私は、死んだことになっている。
自分がやってきたことのせいで、私は、そのときすべてを失った。
しかしそれは当然の報いであり、エゴの代価だった。
私自身、こうして生きていられることに戸惑いもあった。
そのときの私はこの命を投げ出したいと考えていたし、そうすべきだとも考えていた。
だが、私はいまここにいる。私は救われたんだ。
それどころか、いまの私には、ひとつの目標がある。大きな目標がある。
だから私は、自らの運命を変えたあの日と同じときに、再び、運命を大きく変えようとしている。
もしも賛同いただける方がいるのなら、ぜひあなたの手を貸して欲しいと思う。
私が何を云っているのか、これを読んでいる多くの人には理解が難しいかもしれない。
だが、これから書くすべてのものは、現実に、このときこの世界で起きていることだ。
もちろん判断を強制するつもりは毛頭ないので、受け止めるかどうかはあなた方に委ねたいと思う。

私の名は可士生礼。これは私の本当の名前ではないが、その「世界」ではずっとこの名で通ってきた。
ただ、その「世界」自体は自らの名を残したまま記憶を失った。
いまや別人のようになってしまったその世界は、「バブルガム」と呼ばれる秘密結社だ。
そこで行われていた事実について、これから記していく。


元を辿れば、たった9人の友人の集まりであった。


1983年、すでにバブルガムは世界に拡がっていた。
バブルガムの関係者は、当時のOECDのすべての加盟国に分布するまでになっていた。
そこで行なわれていたのは、初期と後期で大きく変わってくる。
初期の頃…1970年代には、まさにゲームのような活動であり、私が好んでいたのがこの時代だ。
体系的な組織のようなものはなく、秘密を守ることを誓った者たちと、ちょっとした事件を起こすというもの。
それが後期、少なくとも私がいた頃については、様々な団体と手を組み、実利のある活動を初めた。

まさに人が人を呼び、結社としての格好を整えてくると、加速度的に規模は大きくなっていった。
はじめ、仲良しクラブのようなものであったのと比べると、後期のバブルガムは常識的に考えて不合理なほどの規模だった。
それでもバブルガムへの加盟は完全招待制を一貫し、個人または団体が、既存のハウスから招待されることでのみ加盟できるようにした。
もし招待された者が不適切な場合、他のハウスがその招待を取り消すことで純度を保つ。
こうして隠密裏にネットワークを拡げていったが、加盟者を宗教や人種といった属性で縛ることはなく、
その自由度が、バブルガムの「経済」の発展を推したという。私は「経済」について関心はなかった。
私が関心を寄せていたのは本当は、この退屈な世界を変えるところにあった。なぜバブルガムが、
国際的にも稀に見る規模にまで成長を遂げたのか。

それは私と友人の決裂の原因ともなった。


私が何かを絶ち切ることを恐れて、いつまでもぬるま湯に浸かっていたのがいけなかったのかも知れない。

崩壊のカウントダウンは1976年の冬から、もう始まっていた。二十を迎えた私たち9人は居酒屋で落ち合った。
そこで、バブルガムを秘密結社にするという、くだらない冗談としか考えられない話が一人から持ち上がった。
勿論、その場では笑い話として終えた。数日後、同じ友人から、再び話題を持ち掛けられた。
私を呼び出して二人きりでの話だったから、この前とは温度が違うのを自然と感じた。

私とその友人…阿賀野(あがの)は、9人の中でも中心的な役回りだったので、わざわざ呼び出されたのだと思う。
そこで阿賀野は、一人で作った計画を私に話してきた。バブルガムを招待制で人を集める結社にし、
加盟者間による子組織…のちにハウスと名付けられる…を設けて、より長期的な展望で活動しようというものだった。
私は依然として現実味のない話をすると思ったし、そもそもシリアスな活動になってしまう気がして前向きには乗れなかった。
私は単純に楽しめれば良いと考えていた。だが私は阿賀野の迫真にも押され、試しにやってみるのも面白いだろうと頷いた。
このとき、私がもっと真剣に判断をしていれば、世界はきっと変わっていたのかも知れない。

一度計画を始めてしまってからは、
いかにして、不真面目なことを真面目な態度で成功させるかという動機が働くようになり色々なことを試した。
阿賀野は組織の管理を、私はハウスへの指示や計画立案を担った。さらに翌年が、最も大きな転換点になった。
9人の間で行っていた拠金を組織全体に拡大させたのだ。拠金を募り、それを、優秀と評したハウスに幾らか分配した。
バブルガムに経済が発生した瞬間だった。優秀なハウスを招待したハウスにも何割かを分けることで、
バブルガムに良い循環が生まれた。このとき、私も、他の仲間たちと一緒になって組織の拡大を祝福した。
どこかに違和感を抱えてはいたが、仲間たちとのパーティーを楽しみたいあまりに、意識的に忘れていたのかも知れない。
私は決めることから逃げて、逃げていることも意識すらしていなかった。そして、私が何も決められないまま、
1983年、バブルガムはOECD加盟国のすべてにハウスを持つに至る。
計画立案をしていた私の名は必然と世界に広まって、いかにも実際を知らない、不相応な脚光を浴びるようになっていた。


自分の知らないところで偶像ばかりが大きくなり、いつのまにか見せていた虚栄に押し潰されそうだった。


そのとき唐突に私は気付いた。自分が目指していた世界は、こんなものでは無いということに。
忘れていた違和感が衝動的に込み上がって、私は皆に問い正した。しかし賛同は得られず、逆に私は孤立した。
私は9人の仲間を脱退して、自分から世界を変えようと小さなハウスを設立したが、ハウスの中からも良い理解は得られなかった。

仕方なく独自の活動を続けることにしたが、1984年2月20日、私は殺された。
ただ実際には、そのしばらく前から疑わしい動きがあったことに気付いていた私は、
2月20日に「殺されたこと」に仕立てた。それから私は社会的にも「いない者」となり、
窓の外で震えて過ごすようになった。私はそれが妥当だと受け入れていたが、すべてを失った心持ちに違いはなかった。

そこに、あるはずのない救いの手が差し伸べられたのは1986年。
私はそのご加護の元、これまで過ごして来られたのだ。無くなったはずのこの命を無駄にはできない。
私は決意し、自らの死んだ閏年と同じ2012年、ここに復活を宣言する。
これを見ているスクリーンの向こうのお友達へ。
また月が上弦になるとき、あなたが選択するのなら、ここにまた来て欲しい。

さあ、愉快に。憂いなきことを。

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最終更新:2013年02月24日 17:37