バブルガムのデベロピングコンタクト(協力者)として活動していた人物。
読みは「牧 孝(まき たかし)」。通称は「No.6」。
その活動時期には2つの説がある。
ひとつめは、1970年代の後半から
相馬 昭雄や
勝野 広太郎と共に活動していたという説。
(こちらの出典は、牧が1979年に亡命したレフチェンコ少佐とバブルガムの二重スパイだったという話に起因)
ふたつめは、1989年の
バブルガム 分裂以降にデベロピングコンタクトになったという説。
(こちらの出典は、
アーサー・D・リンゼイの残した
文書に書かれた情報などに起因)
この2説の矛盾、あるいは空欄を埋めるような情報は、2013年現在も見つかっていない。
わかっているのは、アメリカに亡命したレフチェンコ少佐が、1982年7月14日の秘密聴聞会で
日本におけるスパイ活動について暴露した(
レフチェンコ事件)ことで、牧の運命が変わったということだ。
聴聞会の実施を知ったKGBは、対日工作に関与したスパイの殺害を決定。
狙われる立場となった牧は、バブルガムの仲間(1970年代当時の協力者)をKGBのスパイに仕立て上げて、
この危機を切り抜けた。(この事件は、1982年7月15日に発生。デベロピングコンタクト殺し事件とも呼ばれる)
だが、そのことを
相馬 昭雄に知られてしまったため、相馬が情報を残したメモリを必死に探していた。
2011年の調査では、メモリ捜索のために、牧が
畠本 操へ情報を提供していたことがわかっている。
また、定期的に
畠本 操の邸宅を訪れていたようで、
畠本 操の遺体の第1発見者ともなっている。
遺体発見の際には、
畠本 操の使っていた(実際には
ハトリが操作していた)パソコンにあった
foursquareの情報から、メールを使って調査を進めていた人物のひとりに接触した。
さらに
相馬 昭雄の娘・
相馬 可奈が、Twitter上で活動しているのを知った牧は、
相馬 可奈を詰問してメモリを奪おうとするも、可奈はメモリのことを一切知らなかった。
その後、牧は相馬家に侵入するなどして強引にメモリを奪おうとしたが、2011年7月17日に
ハウス・カリーナ(
ヒル・カノープスの傘下)によって世田谷のマンションで殺害された。
死因は多臓器不全。
なお、メモリは
勝野 広太郎によって安全な場所(勝野の行きつけのカフェ)に預けられていた。
死の直前まで、デペロピングコンタクト殺しの調査を進めていたディーン・P・リチャードソン
(2010年まで
ヒル・ベルゼブブの最高責任者。2011年に伝道者(
メシエ?)の統括者となった人物)を警戒しており、
牧の残したメモには「
ホラ貝は失われた。蝿の王が全てを覆い尽くそうとする」との走り書きがあった。
僕(椎名)の思ったこと
今となっては確認する方法もないが、牧の経歴には矛盾する点が多すぎる。
そもそも、彼が1976年のバブルガム創設に近い時期に組織の協力者となっていなければ、
レフチェンコ少佐の二重スパイとなることは難しい。(レフチェンコ少佐は1979年にアメリカに亡命している)
しかし、宇佐川の発言や、アーサー・D・リンゼイの文書によれば、1989年頃にバブルガムに加入したとされており、
両者の経歴に差がありすぎる。もしかすると、同じ名前の別人なのだろうか?(でもエージェント番号は同じNo.6だ)
また、その最後もヒル・カノープス傘下のハウスが手を下したと言われているが、牧本人がもっとも警戒していたのは、
ヒル・ベルゼブブの元最高責任者、ディーン・P・リチャードソンだ。
対立していたとも言われるヒル・カノープスとヒル・ベルゼブブの存在。蠅の王が全てを覆い尽くすという走り書き。
牧の死にはなんらかの裏があるのではないだろうか。
最終更新:2013年02月24日 17:34