1980年代初頭から80年代末の閉鎖まで、児童養護施設
群青の家の代表を務めていた人物。
同時に、その当時から
可士生 礼と共に
ハウス・ブルーの運営に関与していた。
読みは「畠本 操(はたもと みさお)」。通称は「退屈男」。
2011年3月5日に
浅倉と
宇野 衛が、渋谷周辺の施設を訪問した際に残したfoursquareチェックインに
退屈男名義のアカウントで「私はコンタクトを待つ」と書き残した。
同年3月23日には、foursquareのアカウントに紐付けられたTwitterアカウント(@ennui_man)が見つかり、
浅倉を中心に同年4月7日まで複数回、メッセージがやり取りされた。
同年3月30日には、
可士生 礼の事故に関する疑いを記した
書信を
浅倉たちに残す。
だが、
書信の内容が明らかになった2日後の同年4月7日に突如として連絡を絶った。
(その後、2011年4月14日に事故死していたことが、
牧 孝(No.6)からの
メールで明かされた)
なお、畠本はその目的は不明だが、
相馬 可奈にも
バブルガムについての情報を提供していた。
このことは、あとになって
相馬 可奈自身の告白によって明かされた。
畠本 転落事故死時の状況
高齢で脚が不自由な畠本は、長年、車椅子生活をしていた。
畠本の周囲には、畠本本人が「補佐人」と呼ぶ人物(
ハトリ)がおり、畠本の身の回りの世話をしていた。
このため、階段昇降の際には必ず、
ハトリ(補佐人)が車椅子を畳み、畠本の体を支えていた。
しかし、
牧 孝が遺体を発見したとき、畠本は車椅子ごと階段の下に倒れていて、
ハトリ(補佐人)の姿もなかった。
このため、現場から姿を消した
ハトリ(補佐人)が、
ヒル・ベルゼブブに関係する人物であり、
畠本を殺害した人物との可能性が高いと推測されている。
僕(椎名)が思ったこと
畠本は、なぜ2011年になって、可士生の存命を伝えようと思ったのだろうか。
ハウス・ブルーは一体、何をするために作られた組織だったのか。
バブルガムに絡む中心人物たちのほぼ全てと接触してまで成し遂げたかったことは何か。
彼のことが、もっとわかれば、なにかが見えてくるのかもしれない。
最終更新:2023年01月22日 20:16