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トップランカー殺人事件 第六話『罠』 -phase5-

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129 :トップランカー殺人事件(269) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/04(木) 23:02:15 ID:LuHaJ1zi0
「ふざけんなよ」

1046は言った。

「ふざけんじゃねーよ」

1046はもう一度言った。

「……手先の器用さがあったところで、 知識がなければどうしようもないだろ!
 俺はな、電子工作に興味を持ったことなんて、生まれてこの方一度もねーんだよ!」
「それは妙だな」

乙下は存分に低い声を響かせた。

「だったら、どうしてあんなものを買った?」
「あんなものって、どんなものだよ」
「こんなものなんだけど」

乙下は背広の内ポケットから一枚の写真を取り出した。
それを目にした1046が、「ぐぅ」と奇妙な唸り声を発する。

「その様子だと、心当たりがおありのようで」

そこに写されているのは、ホームセンターの店内の光景だった。

高い場所、おそらくは天井に取り付けられたカメラから、店内を見下ろすようにして撮影されている。
店の構造はスーパーマーケットにも似ていたが、
資材やガーデニング用品が目につくため、ホームセンターであることが見て取れる。
手前から奥へ向かって八台ものレジが一直線に並んでいる、かなり規模の大きい店舗だ。
それぞれのレジに順番待ちの列ができており、
店内の喧騒が写真の外にまで漏れてきそうなほど混雑していた。

その混雑の中、一番手前のレジで会計をしている人物は、
人相も、体型も、髪型も、何もかもの特長が乙下の目の前で顔を赤くしている人物と一致していた。

「昨日ね、このトリックを解明してから色々と調べてみたんだ。
 するとすぐに見つかったよ。
 三週間ほど前、盛岡市郊外のホームセンターで買い物をした男がいる。
 購入したのはドライバー、ニッパー、カッター、ケーブル、半田ごてセット、等々。
 販売記録が残っているから間違いない。
 そしてその時間そのレジで、店内の監視カメラに映っていた人物の姿は……」

乙下は1046に向けて顎をしゃくった。

「1046さん、アンタだよ。
 それとも?他人の空似とか言い出さないよな?」
「いえ、これは1046さんです」

杏子が躊躇せずに言った。

「着ているシャツにも、首のアクセサリーにも見覚えがあります。
 これは1046さんがしょっちゅう身につけているものです」
「だそうだ、1046さん。
 さて。電子工作に興味を持ったことがないなら、
 アンタは一体どんな目的でこれらを買ったって言うんだ?」
「違う……違うんだ、話を聞いてくれ……!」
「どうした、いくらでも聞くぞ」

しかし、1046の口から聞いてほしい話とやらがこぼれ出ることはなく、
代わりに一段と息が荒くなるばかりであった。

130 :トップランカー殺人事件(270) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/04(木) 23:06:47 ID:LuHaJ1zi0
「話すことがないなら、俺の話を聞いてもらおうか」

乙下はすっかりバラバラに分解されてしまった2P側のカードリーダーへと視線を送る。


「このカードリーダーね、実は『ABCのカードリーダー』なんだ」


1046は返事をしない。
ただ異様に速い周期でまばたきを繰り返している。

「つまりこういうこと。
 もし空気の推理が本当なら、ABCのカードリーダーには何らかの痕跡が残るはずだ。
 それを調べるために、わざわざABCの店員に頼んで2P側のカードリーダーを借りて来たんだ」

もちろん借りっぱなしではABCの営業に差し支えるので、
代わりにシルバーのカードリーダーをあちらに貸すことで穴埋めをした。

「早速ABCのカードリーダーを調べてみたらな、出るわ出るわ。
 中身は改造の痕跡で溢れてたよ」

乙下は1046の肩を、ほとんど触れるように軽く叩いた。
途端に全身がビクっとはね上がる。
まるで痙攣だ。

「まず誤解を解いておこう。
 さっき空気は『8402』と『1046』を入れ替えるトリックを再現したが、
 あれは空気がカードリーダーを改造したんじゃない。
 正確に言えば、空気は『元々施されていた改造を復元した』だけなんだ。そうだろ?」
「その通りっす」

まだテンキーのユニットを持って立ち尽くしていた空気は、
緑の電子基板のあちこちに施された改造部分を指し示しながら喋った。

「キズを付けたのもボクじゃないし、ケーブルを繋げたのだってボクじゃない。
 キズもケーブルも、最初からABCのカードリーダーに付いてたんすよ。
 ただし……ボクがカードリーダーを調べた時には、
 ケーブルはちょん切られていたし、キズも導電性接着剤(※注8)で修復されていました。
 ってことは、犯人はABCのカードリーダーに一度改造を施して、
 その後で『改造を無効にする改造』……要するに、
 カードリーダーを元の状態に戻すための改造を施していたんです」

空気は流暢に舌を振るい続ける。

「この改造を復元するのは簡単でした。
 接着剤はもう一度カッターで傷付ければいいだけだし、
 ちょん切られたケーブルはもう一度繋げればいいだけの話っすから。
 さて、復元してみてあら不思議。
 この改造は『1と8』、『0と4』、『6と2』をそれぞれ入れ替えるための改造だったことが判明しました。
 どこかで見た数字の組み合わせっすけど……こんな改造をして
 一体誰に何の得があるのか、もうお分かりっすね?」


※注8:
電流を流す性質を持つ接着剤のこと。

131 :トップランカー殺人事件(271) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/04(木) 23:11:00 ID:LuHaJ1zi0
空気の話を整理し、今回の事件に当てはめると、おそらくはこういうことだ。


1046は事件前日の夜、ABCの閉店間際に、
IIDX筐体のカーテンに隠れてカードリーダーを改造した。

そして事件当日の午後。
BOLCEを殺害した1046は、夕方までABCでIIDXをプレイしながら時間を過ごした。
その間を利用して、やはりカーテンに隠れながら
カードリーダーを元の状態へと戻すための再改造を施したのだ。

この時に必要な作業は、前日にキズを付けた場所へ接着剤を塗ること、
および前日に繋げたケーブルを切断することのみ。
すなわち、一回目の改造に比べれば短い時間で済む。
工夫さえすれば、選曲時間の合間を縫って作業をすることもできたであろう。

こうして1046は、イーパスすり替えトリックを実現するにあたって立ちはだかった
「暗証番号」という名の障害を、見事に取り払ったのだ。


「ところで、このABCのカードリーダーに残っていた痕跡は、それだけじゃないんだ」

1046が顔を曇らせる。
と言うより、外の天気と同様、ほとんどどしゃ降りの表情だった。

「基板に繋がっていたケーブルなんだけどね。
 アンタがホームセンターで買った製品と同じ型式のものだった」

1046の視線や指先が、落ち着かずにあちらこちらを向く。

「それだけだったら偶然かも知れないけど、
 さらにケーブルを繋ぐのに使われた半田も、
 アンタがホームセンターで買ったものと成分が一致している」

1046が頭を掻きむしる。

「百歩譲って、そこまでも偶然で片付けてやってもいい。
 けどな、1046さん。さすがにこれはかばえないよ」

乙下は空気が外したカードリーダーの前カバーを手に取り、内側を1046の眼前に突きつける。
緊張のあまりか、1046の口からしゃっくりが飛び出る。

「空気。照らせ」

命令を受けた空気は、弾かれたように工具箱を引っかき回し、
中から懐中電灯に近い形状の器具を掘り起こした。
簡易式のレーザー光源だ。
空気がレーザーを照射すると、デラ部屋は人工的な深い緑色に染まった。

同時に、乙下の持つカードリーダーの内側へ、いくつもの白い渦巻きが浮き出る。


「アンタの指紋だ」

132 :トップランカー殺人事件(272) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/04(木) 23:15:32 ID:LuHaJ1zi0
1046は「あぁ」と息を漏らし、よろめいた。

「1046さんアンタ、まさかこんな場所まで調べられることはなかろうと
 高をくくってたんだろうが、残念だったな。もっと慎重にやるべきだった」

1046はIIDXのコントロールパネルに肘をつき、頭を抱える。

「分泌物の成分から、これが7月16日前後に付いたものだってことはもう分かってる。
 こんな日付のこんな場所に、一体どんな理由でアンタの指紋がつくって言うんだ?
 納得のいく理由を説明できるか?」

1046は自分で自分の髪を鷲掴みにする。

「……俺の指紋なんて、一体いつの間に採ってたんだよ……」
「喫茶店で初めて会った時。
 俺が奢ったコーヒーのカップを、店に頼んでこっそり持ち帰らせてもらった」
「そんな最初からかよ……ちくしょう」

1046はそのまま背中をぶるぶると震わせていた。
その姿を斜め後ろから見つめていたところ、
やがて涙のような汗が、もしくは汗のような涙が、1046の顔から落ちたようだった。

それを契機に、1046の体の震えは止まった。

「もうこれ以上は無理だな」

1046はそう言うと、一度顔を拭ってから立ち上がり、大きく深呼吸して、乙下の方を振り向く。

乙下は驚いた。

それまでの動揺からは信じがたいほど、1046が落ち着きを取り戻していたからだ。
いや、落ち着きを取り戻すどころか、軽く首をすくめ、微笑さえ浮かべている。
その様子は乙下の背筋をぞっとさせた。

そして、1046は一息おいてから一息で告白した。





「そうだよ。BOLCEを殺したのは俺だ」

147 :トップランカー殺人事件(273) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/08(月) 23:07:03 ID:wEgA3aKX0
1046は認めた。
1046はついに認めた。

BOLCEを殺したのは俺だ。

そう認めたのだ。

この一言に、このわずか一言に、全てが集約されていた。

ここ数日間、乙下のあらゆる行動は「BOLCEを殺した犯人を捕まえる」という、ただ一点に向けて成されてきた。
たった今この瞬間、その成果が出た。
BOLCEを殺したのは俺だ、このわずか一言に、あっけないほど全ての成果が集約されていた。


しかしなぜだろう。
乙下は素直に喜べなかった。

「どうして?」

気付けば、ほぼ反射的に聞いていた。

「どうしてBOLCEを殺した?アンタ達、親友だったんじゃないのか!?」
「親友って」

1046は面倒くさそうに、白けた口調で答える。

「周りが勝手にそう言ってただけじゃん」
「ウソだよ。アンタ自分で言ってたじゃないか。
 誰よりも一緒に時間を過ごしたって……」
「そうだよ。誰よりも一緒に時間を過ごしたさ。
 お互いこんなゲームを極限までやり込んでるんだもん、
 そりゃ自然と一緒に過ごす時間は増えるわな。
 で、一緒に過ごした時間が長いと親友になるわけ?
 乙下さんと空気さんは親友なの?」

乙下は薄ら笑いを浮かべる1046から目を背け、空気と顔を見合わせた。
空気は開いた口が塞がっていない。
それを見て乙下は、自分の口も塞がっていないことに気付き、慌てて顎に力を込める。

「おい、真面目に話せ!」

乙下は1046の両肩を掴み、前後に揺らす。
が、手応えはない。
1046の首はなされるがままに、ガクガクと前後するだけだった。

「質問に答えろ。アンタ、一体どうしてBOLCEを殺したりなんかしたんだ!?」
「邪魔だったんだよ」

耳を疑うような言葉が聞こえ、乙下は動きを止めた。

「……なんて言った?」
「だから、邪魔だったんだって」

1046は装着していたヘッドホンを外すみたいに、
肩に絡まる乙下の手首を掴んで払いのけた。
今度は乙下の方がなされるがままだった。

148 :トップランカー殺人事件(274) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/08(月) 23:21:09 ID:wEgA3aKX0
「ご存じの通り、BOLCEはデラが圧倒的に上手かった。
 そりゃもう物凄い持てはやされ方だった。
 トップ。優勝者。世界一。百年に一人の天才。神。
 冗談抜きで、ありとあらゆる名声を手にしていたんだ。
 で、俺の立場はどうなの?ってこと。
 二番目。準優勝者。BOLCEの次に上手い人。
 泣けてくるよ。泣けてくるさ。
 どこへ行っても俺はBOLCEの引き立て役であり、噛ませ犬でしかないんだ。
 2ちゃんねるとか見てみろよ。
 酷いもんだよ。アイツら下手クソのくせして、匿名をいいことに好き勝手書きやがる。
 『永遠の二番手』だ、『ベジータ様』だ、『銀メダルコレクター1046』だ、あんまりだろそれは。
 『なぜ1046はBOLCEに勝てないのか』なんてスレを立てて、真剣に議論してる馬鹿までいたぞ?
 ふざけんなっつーの。お前らが俺の何を知ってるんだよ。俺の何が分かるんだよ。
 一体俺がどんだけ努力したと思ってるんだ?
 来る日も来る日も、昨日よりほんの少しでも上達するために、血の滲むような練習を繰り返した。
 その甲斐あって、俺はどんどん上手くなってる。
 でもそれじゃダメなんだよ。そんなんじゃBOLCEに勝てないんだよ。
 俺が地道に階段を上っている横で、アイツは三段跳びくらいで駆け抜けていくんだ。
 差は広まる一方だよ。どうやってあんな化け物に勝てっていうの?
 もはやチートだよ。人間性能的にチートだよ。つーか人間じゃねぇよ。
 もう完全に別種族なんだから、BOLCEのスコアはノーカンにすべきだとさえ思うね。
 まぁそれはさすがに冗談だけどさ、とにかく俺はどうしてもアイツに勝てなかった。 
 いや、正確に言えばいつもかも負けてたわけじゃないよ。
 発狂譜面ではBOLCEに一度も勝てなかったけど、
 簡単系の譜面を光らせる技術なら、ほんのちょっとだけ俺が上回ってた。
 事実、簡単系の曲のベストスコアは軒並み俺の方が高かったし、
 WEEKLY RANKINGの課題曲が簡単系の週は、俺が勝つことも多かった。
 俺にもBOLCEに勝てることが一つあるわけだな。
 んで、それでめでたしめでたしってことになると思う?
 この武器をアイデンティティにして生きていけっての?
 はっ。めでたしどころか、無様なもんさ。
 考えてもみてよ、『発狂のBOLCE、簡単系の1046』とか呼ばれる当人の気持ちを。
 こんなマヌケな異名が付いて嬉しいわけないじゃん。
 ステータスどころか、かえって小物臭さが増しただけじゃねーか。
 まるで俺が簡単系の譜面しかできないみたいじゃねーか。
 俺はな、発狂だって十分できるんだよ。少なくともお前らよりは百万倍上手いんだっつーの。
 それなのにさ、たまに簡単系で俺が負けると『さすがBOLCEは万能』だとかって誉めそやすくせに、
 俺には『得意分野で負けてどーんすだよ』だとか『もう落ち目だな』とか心ないこと言いやがる。
 誰も好きこのんでこんなヘタレた得意分野を売りにしてねーんだっての!
 ちくしょう、ホント辟易だよ。マジでムカつくわ。
 とにかく俺は人生かけてこのゲームに打ち込んでるのに、どうしてもBOLCEだけには勝てなかった。
 BOLCEだけにだよ?BOLCEだけ。
 その他大勢、何万人ものプレイヤーには確実に勝てるのに、たった一人にだけ勝てない。
 それでもBOLCEに勝ちたくて、一心不乱に打ち込んで、でもやっぱり勝てない。その繰り返し。
 なんで?どうして?
 もういっそのこと死んでくれよとまで呪ったね。
 それほどまで思い詰めた俺の気持ちを知ってか知らずか、BOLCE本人は呑気なもんよ。
 自分の方が格上だって思ってるくせして、俺のことをライバルだとか親友だとか、気色悪いんだ。
 ライバルってのは一点二点のスコア争いにしのぎを削るだとか、そういうのが真に正しい姿だろ?
 俺の会心のスコアを片っ端から叩き潰しといて、なに永遠のライバルとか調子いいことぬかしてんだよ!
 アイツ絶対心の中じゃ俺のことをほくそ笑んでたんだぞ。間違いない。
 無駄な努力ご苦労様とか思いながら、ウジ虫を踏んづけるように、俺のスコアを蹂躙してたんだ。
 これ、驚いたことに一年や二年の話じゃないんだよ。
 もう高校時代からずっとそんな感じ。十年近くこんな状態なわけだよ。我慢の限界だよ。
 そしたらもう殺すしかないでしょ?
 あの鼻持ちならない男をこの世から消し去って、
 んでもって俺が一番になるためには、もう殺すしかないでしょ?」

149 :トップランカー殺人事件(275) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/08(月) 23:30:26 ID:wEgA3aKX0
何なんだこれは。
乙下には理解できなかった。
1046が放つ言葉の意味は理解できたが、彼の精神状態がさっぱり理解できなかった。

そんな動機で1046は殺したのか?
そんな動機でBOLCEは殺されたのか?

乙下は昨日のABC店員との会話を思い出した。
銀メダルしか取れないアスリートは、金メダリストを殺すか。
結論は「否」だった。
まさかそんな動機で人が人を殺すなんてあり得ない。
ABC店員はそんな極めて自然かつ常識的な判断を下し、乙下もその意見に納得した。

はずだった。

だが、事実は違った。
乙下がふとしたことで思い付き、そしてあまりに現実離れしているゆえ、瞬時に捨てた仮説。
その仮説とまったく同じ内容が、今1046の口から動機として語られている。
1046は奇しくも「銀メダル」という例えを持ち出して、
IIDX界を独走し続けたBOLCEへの恨み辛みを吐露している。

……嘘をつくな。
人間が人間をそんな動機で殺せるわけないだろう。
1046さんアンタ、そんな動機でBOLCEを殺しただなんて、嘘っぱちだろう?
嘘だと言ってくれ……。

激しく問い質したい思いとは裏腹に、乙下は動くことができずにいた。
まるで金縛りにかかったかのように筋肉は固まり、1046の独演を聞き続ける人形となり果てる。



「分かる。分かるよ。分かりますよ。
 そんなアホらしい理由で人殺しをするわけないだろって言いたいんでしょ。
 デラなんてたかがゲームじゃないかって、そう言いたいんでしょ。
 でもね、さっきも言った通り、俺はこのゲームに人生かけてたわけ。
 このゲームでトップを取ることが俺にとっての全てなの。
 他のことなんてどうでもいいんだよ、ぶっちゃけ。
 信じられない?まぁ信じられないのも分かりますよ。
 あんたらみたいなヌルゲーマーには理解できない境地だよね。
 でもさ、人が何のために生きるかなんて、完全に100%その人次第でしょう。
 それをあんたらの狭い価値観で――」



それは一瞬の出来事だった。
一瞬だけれども、スローモーションのように、一つ一つの動きが鮮明だった。



杏子が1046を殴った。

150 :トップランカー殺人事件(276) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/08(月) 23:37:27 ID:wEgA3aKX0
杏子が1046の真正面に立ったと思った次の瞬間には、もう殴っていた。
グーで鼻を殴ったのだ。
平手で頬を打つようなドラマっぽさ、あるいは女の子っぽさは皆無だった。
ほとんど予備動作のない、素早く綺麗なストレート。
そんな渾身の一撃を、あろうことか杏子は普段と変わらぬ無表情な真顔で放ったのだ。

不意を衝かれた1046は、その拳に蓄えられた運動量の全てを受けきるしかなかった。
缶詰をカーペットの床に落とした時のような、
鈍く低く大きな音がデラ部屋に鳴り響き、同時に1046は大きく後ろにのけぞる。
1046は短く悲鳴を上げ、鼻を両手で押さえる。
その手の下から溢れ出る、大量の血液。
当たり前だが赤い。
閉めきりそこなった水道の蛇口のように、どんどんどんどん滴り落ちる。

そこまでの一連の流れが、あたかも映画のワンシーンのように、次々と乙下の視界に飛び込んできた。
突然の出来事に乙下の思考は麻痺し、茫然とその光景を眺めるしかできない。

「あ……杏子ちゃ」

ゴツ、と再び鈍い音が響く。

杏子がもう一発殴った音だった。
しかも、狙いは1046の鼻だった。
懸命に患部を押さえている1046の両手越しに、
杏子は容赦なく同じ場所をめがけて、同じモーションで殴りつけたのだ。

「やめろ!」

我に返った乙下は、杏子の体を羽交い締めにして、1046から遠ざける方向に引き寄せた。
そして精一杯の怒気を孕ませて、呆気に取られている空気を睨みつける。

「おい空気」

乙下はやっとのことで声を振り絞る。

「なにボーっとしてんだバカ、早く連れてけ!」

今の今まで呆けて突っ立っていた乙下は
もちろん空気のことを責められる立場になかったが、自分のことを棚に上げてとにかく叫んだ。
空気は慌てふためきつつも、すぐ自分のすべきことを理解したようだった。
工具箱から銀色に光るそれを引っ張り出し、千鳥足で1046に近付く。

かつてこれほどまで頼りなく、情けない逮捕の瞬間があったであろうか。
空気は上擦った声で、何度も噛みながら宣言した。


「たた、竹之内俊郎!
 BOLCE……じゃなくて、なんだっけ……そうだ、三浦清殺害の容疑で、た、逮捕する!」

151 :トップランカー殺人事件(277) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/08(月) 23:43:46 ID:wEgA3aKX0
空気は1046の両手を無理やり後ろに回し、手錠をかけた。
潰れた鼻筋、そしてべっとりと赤く汚れた口まわりがあらわになる。
あまりの痛々しさに乙下は思わず目を逸らしたくなったが、
1046本人はさして苦痛を感じている様子はなく、
落ち窪んだ二つの目は、ただ生気の失われた眼差しをたたえているだけだった。

「さぁ、行くっすよ!」

そのまま1046は空気に引き摺られて、
右に左にふらつきながら、デラ部屋を出て行った。


あとに残されたのは静寂、
1046が歩いた軌跡に沿って点々と描かれる血痕、
そして乙下と、乙下に羽交い締めにされた杏子。

乙下がそっと杏子の体を解放すると、
彼女は魂が抜けてしまったかのように、力無く床に膝をついた。

どうすれば良い?
この憐れな女の子に、一体なんて声をかけてあげれば良い?

だが、乙下の心配は杞憂に終わった。


「……あああ……あああああっ……!」


杏子が泣き出した。
くしゃくしゃに顔を歪め、雨のごとく涙をこぼし、大声で嗚咽を漏らして。

「あああああ!ああああああああああ!!!」
「杏子ちゃん……」
「あああああ!いやああああああああ!!!」



杏子は今まで内に溜め続けていた感情を爆発させるかのように泣いた。
ただひたすらに泣き続けた。
乙下が入り込む余地など、はなから与えてはくれなかったのだ。

152 :トップランカー殺人事件(278) byとまと ◆iK/S6sZnHA :2010/02/08(月) 23:47:35 ID:wEgA3aKX0



――どしゃ降りに見舞われる平成20年7月20日日曜日の午前10:45、
BOLCEこと三浦清の殺害容疑で、1046こと竹之内俊郎は逮捕された。

こうして、まるで世界の終末を嘆くような杏子の慟哭と、
ひどく後味の悪いやるせなさを残したまま、
「トップランカー殺人事件」はその幕を下ろした――。





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