半兵衛は廊下の紙燭(しそく:室内用照明具)を一本失敬し、あてがわれた居室を目指して歩いた。
以前は、ささやかながらも乳房が張っていて、腰から尻にかけてもしっかりとした張りがあった。
慶次が「美尻」だの「いい腰」だのといってからかい、彼に関節剣でのなます切りを食らわせる。
それが、かつての日常だった。
(そういえば……)
慶次は今どうしているのだろう。野垂れ死んでいなければいいのだが。
明り取りの窓から赤みを帯びた月が覗いている。少し切り取れば鮮血でも滴りそうな色だ。
赤い光をぬらりと弾くものが窓の隅に見えた。それが見慣れた超刀の鞘だと気づくのに、時間がかかる。
鞘が、ひとりでに動くはずがない。
「慶次!」
超刀が動いた。ぐるぐると何回か回り、それから半兵衛の視界から消えた。派手な羽飾りが暗闇に紛れる。
何故彼が大坂城にいるのかという疑問は、不思議と沸かなかった。
かつては毎日のように顔を合わせ、誰かの家に泊まり、戯れに興じ、未来を語り合った。
病を得ていなかった、あの頃に戻ったのだと何故か思った。
何とかして慶次を引き止めたい。しかし半兵衛が庭に出るより先に慶次はどこかに行ってしまうだろう。
考えるより先に体が動いた。
紙燭を放り投げるという暴挙に出た。紙燭はひらひらと庭に落ちた。超刀が、再び半兵衛の視界に現れる。
半兵衛は階段をまろぶように駆け下り、裸足のまま飛び出した。
しゃがみ込んで紙燭を拾っていた慶次が、顔を上げて立ち上がった。
白い息が流れた。月があるお陰で、慶次の顔がよく見えた。
呆然としている。半兵衛の変わり様に驚いた。そんな顔をしていた。
「半兵衛。……お前か、これ」
「そうだよ。君が見えたからね」
「莫迦、お前、手ぇ見せろ!」
超刀が投げ出される。慶次は渾身の力で半兵衛の腕をつかんだ。
痛みに顔をしかめた。手を広げさせられる。
「…火傷は、してねぇな。ったく、女なんだから自分の体は大事にしろよ」
「だったら、女が痛がるような真似はしないでくれ」
手首をさすり、睨むように見上げる。慶次は幼さを感じさせる笑みを浮かべ、放り出した超刀を抱え直した。
「派手に怪我したんだって?」
「誰から聞いたんだ。……それに、どうしてここにいるんだい?」
「様子見だよ。……お前も秀吉も、無理しすぎなんだよ」
「無理をするぐらい、どうってことない。秀吉の天下のためだ」
「秀吉秀吉って、昔っから変わってねぇのな」
「……変わったよ」
病を得た。命に限りがあることを知った。
何かを残したい。そう強く願うようになった。
秀吉に、何かを残したい。
「痩せたよ。けれどこんなの、なんでもない」
「なんでもないって、痩せ方じゃねぇだろ。秀吉が心配してるぜ」
「秀吉が……?」
超刀を小脇に抱え、慶次は半兵衛に手を伸ばした。
手は肩掛けをふんわりとした形に直して半兵衛の肩に添えるだけで、半兵衛には触れてこない。
慶次は決まりの悪そうな顔になった。
「隠せって言われてたんだけどな。……秀吉が、自分じゃなくて俺になら話せるんじゃないかって、
それで、呼ばれたんだよ」
でなきゃ俺がこんなところにいるかよ。
超刀を小脇に抱えたまま慶次は肩を竦めた。半兵衛はぼんやりとした顔を慶次に向けた。
「そんな顔するなよ。襲っちまうぜ?」
「下衆が」
「お、言うねぇ。相変わらず、秀吉とよろしくやってんのか?」
「馬鹿を言っちゃいけないよ。秀吉が僕に溺れるはずがない」
「そうか? 秀吉のやつ、いい顔してたぜ? ありゃ、恋をしてる顔だな」
顎を手でさすりながら慶次はしたり顔で頷いた。半兵衛は険しい顔で慶次を見上げる。
「恋? 誰にだ」
「……お前以外に誰がいるんだよ」
「ありえない! 秀吉は、秀吉は一人でも強くあれる男だ!
僕に縋って、溺れるなんて、そんなの秀吉じゃない!」
「半兵衛。そういうのは、恋って言わねぇよ」
超刀を地面に置いた。寒い、と体を擦る。
「縋って、互いに一歩も動けなくなるようなのは、恋って言わねぇよ。
もっと、お互いを思いやって、慈しんで、あったかい気持ちになる。――秀吉は、そういう顔だったぜ」
「そんなの、お前の主観だ」
顔を背け、肩掛けを直す。
夜着の上から羽織るのに丁度いい温もりを与えてくれる肩掛けが、ひどく頼りないものに思えた。
寒い。
以前は、ささやかながらも乳房が張っていて、腰から尻にかけてもしっかりとした張りがあった。
慶次が「美尻」だの「いい腰」だのといってからかい、彼に関節剣でのなます切りを食らわせる。
それが、かつての日常だった。
(そういえば……)
慶次は今どうしているのだろう。野垂れ死んでいなければいいのだが。
明り取りの窓から赤みを帯びた月が覗いている。少し切り取れば鮮血でも滴りそうな色だ。
赤い光をぬらりと弾くものが窓の隅に見えた。それが見慣れた超刀の鞘だと気づくのに、時間がかかる。
鞘が、ひとりでに動くはずがない。
「慶次!」
超刀が動いた。ぐるぐると何回か回り、それから半兵衛の視界から消えた。派手な羽飾りが暗闇に紛れる。
何故彼が大坂城にいるのかという疑問は、不思議と沸かなかった。
かつては毎日のように顔を合わせ、誰かの家に泊まり、戯れに興じ、未来を語り合った。
病を得ていなかった、あの頃に戻ったのだと何故か思った。
何とかして慶次を引き止めたい。しかし半兵衛が庭に出るより先に慶次はどこかに行ってしまうだろう。
考えるより先に体が動いた。
紙燭を放り投げるという暴挙に出た。紙燭はひらひらと庭に落ちた。超刀が、再び半兵衛の視界に現れる。
半兵衛は階段をまろぶように駆け下り、裸足のまま飛び出した。
しゃがみ込んで紙燭を拾っていた慶次が、顔を上げて立ち上がった。
白い息が流れた。月があるお陰で、慶次の顔がよく見えた。
呆然としている。半兵衛の変わり様に驚いた。そんな顔をしていた。
「半兵衛。……お前か、これ」
「そうだよ。君が見えたからね」
「莫迦、お前、手ぇ見せろ!」
超刀が投げ出される。慶次は渾身の力で半兵衛の腕をつかんだ。
痛みに顔をしかめた。手を広げさせられる。
「…火傷は、してねぇな。ったく、女なんだから自分の体は大事にしろよ」
「だったら、女が痛がるような真似はしないでくれ」
手首をさすり、睨むように見上げる。慶次は幼さを感じさせる笑みを浮かべ、放り出した超刀を抱え直した。
「派手に怪我したんだって?」
「誰から聞いたんだ。……それに、どうしてここにいるんだい?」
「様子見だよ。……お前も秀吉も、無理しすぎなんだよ」
「無理をするぐらい、どうってことない。秀吉の天下のためだ」
「秀吉秀吉って、昔っから変わってねぇのな」
「……変わったよ」
病を得た。命に限りがあることを知った。
何かを残したい。そう強く願うようになった。
秀吉に、何かを残したい。
「痩せたよ。けれどこんなの、なんでもない」
「なんでもないって、痩せ方じゃねぇだろ。秀吉が心配してるぜ」
「秀吉が……?」
超刀を小脇に抱え、慶次は半兵衛に手を伸ばした。
手は肩掛けをふんわりとした形に直して半兵衛の肩に添えるだけで、半兵衛には触れてこない。
慶次は決まりの悪そうな顔になった。
「隠せって言われてたんだけどな。……秀吉が、自分じゃなくて俺になら話せるんじゃないかって、
それで、呼ばれたんだよ」
でなきゃ俺がこんなところにいるかよ。
超刀を小脇に抱えたまま慶次は肩を竦めた。半兵衛はぼんやりとした顔を慶次に向けた。
「そんな顔するなよ。襲っちまうぜ?」
「下衆が」
「お、言うねぇ。相変わらず、秀吉とよろしくやってんのか?」
「馬鹿を言っちゃいけないよ。秀吉が僕に溺れるはずがない」
「そうか? 秀吉のやつ、いい顔してたぜ? ありゃ、恋をしてる顔だな」
顎を手でさすりながら慶次はしたり顔で頷いた。半兵衛は険しい顔で慶次を見上げる。
「恋? 誰にだ」
「……お前以外に誰がいるんだよ」
「ありえない! 秀吉は、秀吉は一人でも強くあれる男だ!
僕に縋って、溺れるなんて、そんなの秀吉じゃない!」
「半兵衛。そういうのは、恋って言わねぇよ」
超刀を地面に置いた。寒い、と体を擦る。
「縋って、互いに一歩も動けなくなるようなのは、恋って言わねぇよ。
もっと、お互いを思いやって、慈しんで、あったかい気持ちになる。――秀吉は、そういう顔だったぜ」
「そんなの、お前の主観だ」
顔を背け、肩掛けを直す。
夜着の上から羽織るのに丁度いい温もりを与えてくれる肩掛けが、ひどく頼りないものに思えた。
寒い。