居室に戻り、信玄は深いため息をついて奥に座った。幸村はその前にゆっくりと腰を下ろす。
「幸村よ」
「は」
「どう思う」
拳を握り、俯いた。
初めて見たときから、姿が脳裏に焼きついた。会いたくて何度も奥州に駆けた。
手を取るだけで心の臓が跳ねた。唇を知ったときは死ぬかと思った。
こんな調子ではいざというときどうなるのか、と思った矢先の侵攻だった。
「……奥州に置いては、ならぬと思います」
それは、武将としての判断だった。
城下に出ると、領民が明るい笑顔で「政宗様」と呼び、よく実った作物や海で取れた魚などを
自慢げに披露していた。慕われていると知り、こちらまで嬉しくなった。
政宗は聡明だ。だが同時に不遜であり、向こう見ずなところもある。
誰かの元に下るなど、ありえない。誇り高く、頭を下げることを潔しとしない。
信玄には深く頭を下げていた。だが、その姿の内に激情が駆け巡っていることは、幸村には分かった。
「政宗殿は、気性も激しく、気高い心をお持ちのお人です。お館様の度量を以てしても、
軍門に下ることはありえぬと存じます」
「言うのう」
信玄は喉の奥で笑った。脇息にもたれて頬杖をつく。
「わしは、そなたと恋仲ではないかと思っていたが」
「ご冗談を」
嘘だった。
触れるだけの口付けを交わした。政宗は自分の唇に指を添え、恥ずかしそうに俯いた。
あんなに可憐な人だとは思わなかった。
「それがしは、政宗殿を家中に加えることは反対です」
政宗は、油断ならない。いつ叛旗を翻してもおかしくない。信玄の首を持ち、
奥州で鬨の声を上げる姿が容易に想像できた。
「……よいのか」
一瞬答えをためらった。
「はい」
「だが、儂は伊達政宗を殺したくない。……首を晒したところで、奥州はまとまらんであろう」
信玄は深いため息をつき、視線を畳に落とした。
「儂はの、昔は遊んだものよ。だが、この年になると若い女の相手などできぬ」
「なんの、お館様は老いてはおられませぬ」
「言うてくれるのう、幸村」
信玄は笑い、それからため息をついた。
戦に勝ったのだから、もっと嬉しそうにしていてもよさそうだが、信玄の顔は
苦戦を強いられたときと少しも変わっていない。
奥州は手に入ったが、問題は山積みだ。その中で、政宗の処遇が大きく比重を占めている。
殺せばまともに治められないだろうし、生かせばいつ裏切るか分からない。
「……儂の、側室を望んでおったの」
「は」
睦言を交わしたことはない。
だが、手を取って唇を交わした相手だ。
これを、何と呼ぶのか分からない。
「…………いま少し、考えよう。もうよいぞ」
「は」
幸村は一礼すると居室から下がった。
向こうの廊下を通る白い影を見つけた。
「政宗殿」
駆け寄りたい衝動を堪える。
政宗は武田の武将と女中に囲まれ、奥に消えた。恐らく、とりあえず
どこかの寺に預けられるのだろう。
白も似合うな、と場違いなことを考える。
白無垢を纏う政宗は、きっと天女のように美しいだろう。疱瘡を患ったというが、
その跡はあまり見られないように思う。
奥州の名門、伊達家の娘である。側室であろうと、恐らく祝言を執り行うことになる。
政宗のことだから、見事な花嫁姿を披露することになるだろう。
相手は、信玄が望ましい。幸村では力不足だ。
(力が、欲しい)
政宗と信玄の祝言となると、武田家中は見守ることになる。
その時、冷静でいられる自信はない。
「幸村よ」
「は」
「どう思う」
拳を握り、俯いた。
初めて見たときから、姿が脳裏に焼きついた。会いたくて何度も奥州に駆けた。
手を取るだけで心の臓が跳ねた。唇を知ったときは死ぬかと思った。
こんな調子ではいざというときどうなるのか、と思った矢先の侵攻だった。
「……奥州に置いては、ならぬと思います」
それは、武将としての判断だった。
城下に出ると、領民が明るい笑顔で「政宗様」と呼び、よく実った作物や海で取れた魚などを
自慢げに披露していた。慕われていると知り、こちらまで嬉しくなった。
政宗は聡明だ。だが同時に不遜であり、向こう見ずなところもある。
誰かの元に下るなど、ありえない。誇り高く、頭を下げることを潔しとしない。
信玄には深く頭を下げていた。だが、その姿の内に激情が駆け巡っていることは、幸村には分かった。
「政宗殿は、気性も激しく、気高い心をお持ちのお人です。お館様の度量を以てしても、
軍門に下ることはありえぬと存じます」
「言うのう」
信玄は喉の奥で笑った。脇息にもたれて頬杖をつく。
「わしは、そなたと恋仲ではないかと思っていたが」
「ご冗談を」
嘘だった。
触れるだけの口付けを交わした。政宗は自分の唇に指を添え、恥ずかしそうに俯いた。
あんなに可憐な人だとは思わなかった。
「それがしは、政宗殿を家中に加えることは反対です」
政宗は、油断ならない。いつ叛旗を翻してもおかしくない。信玄の首を持ち、
奥州で鬨の声を上げる姿が容易に想像できた。
「……よいのか」
一瞬答えをためらった。
「はい」
「だが、儂は伊達政宗を殺したくない。……首を晒したところで、奥州はまとまらんであろう」
信玄は深いため息をつき、視線を畳に落とした。
「儂はの、昔は遊んだものよ。だが、この年になると若い女の相手などできぬ」
「なんの、お館様は老いてはおられませぬ」
「言うてくれるのう、幸村」
信玄は笑い、それからため息をついた。
戦に勝ったのだから、もっと嬉しそうにしていてもよさそうだが、信玄の顔は
苦戦を強いられたときと少しも変わっていない。
奥州は手に入ったが、問題は山積みだ。その中で、政宗の処遇が大きく比重を占めている。
殺せばまともに治められないだろうし、生かせばいつ裏切るか分からない。
「……儂の、側室を望んでおったの」
「は」
睦言を交わしたことはない。
だが、手を取って唇を交わした相手だ。
これを、何と呼ぶのか分からない。
「…………いま少し、考えよう。もうよいぞ」
「は」
幸村は一礼すると居室から下がった。
向こうの廊下を通る白い影を見つけた。
「政宗殿」
駆け寄りたい衝動を堪える。
政宗は武田の武将と女中に囲まれ、奥に消えた。恐らく、とりあえず
どこかの寺に預けられるのだろう。
白も似合うな、と場違いなことを考える。
白無垢を纏う政宗は、きっと天女のように美しいだろう。疱瘡を患ったというが、
その跡はあまり見られないように思う。
奥州の名門、伊達家の娘である。側室であろうと、恐らく祝言を執り行うことになる。
政宗のことだから、見事な花嫁姿を披露することになるだろう。
相手は、信玄が望ましい。幸村では力不足だ。
(力が、欲しい)
政宗と信玄の祝言となると、武田家中は見守ることになる。
その時、冷静でいられる自信はない。
政宗の希望と奥州の家臣領民による嘆願もあり、政宗は信玄の側室に入ることが決まったのは、
これより十日後のことであった。
吉日を待って祝言が上げられた。奥州、甲斐、ともに大変賑わい、戦で生じた怨恨も
にわかに和らいでいった。
その日、幸村が上田城に戻ったとき、目を真っ赤に腫らし声を枯らしていたというが、
それを政宗が知ることはなかった。
これより十日後のことであった。
吉日を待って祝言が上げられた。奥州、甲斐、ともに大変賑わい、戦で生じた怨恨も
にわかに和らいでいった。
その日、幸村が上田城に戻ったとき、目を真っ赤に腫らし声を枯らしていたというが、
それを政宗が知ることはなかった。