「むぅ……」
髪を女中に整えられながら、幸村は唇を尖らせた。
「お方様、そのような顔をなされますな」
「いや……その、……すまぬ」
何がすまないのか分からないが、幸村は謝った。女中は笑って水引で髪をまとめる。
「……さて、本日の御用は以上でよろしゅうございますか?」
「あ、いや、その……いや」
女中はふっくりと笑い、手を膝に乗せる。
気安く色々なことが言える女中なのだが、これだけはダメだった。
「――それでは、これで下がらせていただきます」
「ああ……うむ」
女中が襖を閉めて出て行くのを見送り、幸村は机の引き出しから蛤を出した。
蛤の中には紅が入っている。信玄から贈られたもので、蛤には金蒔絵が施され、紅は玉虫色に輝いている。
使えばなくなるから勿体無い、と一度も使っていない紅だ。
(使わぬ方が勿体無いやもしれぬ)
だが、どうやって使うのだろう。政宗は指で気軽に塗っていたが、それだけだっただろうか。
「む……」
指につけるが、なんか違う気がする。
どうやってつけていただろう。何か道具がいるのだろうか。いや、慶次は何か……
(舐めていたような)
紅を舐めるのか、と紅を凝視する。それは違うだろう、とへらっと笑い、鏡を見た。
顔を近づけ、紅を唇につける。しかし何かが違う。
喉の奥で笑うような気配に、幸村は振り向いた。紅に真剣に向き合いすぎて、
小十郎が部屋に入っていることに気づかなかった。
「うわあああぁぁぁっっ!!」
「うるさいな。……ほら、落とせ」
桜紙を口許に押しつけられる。むぐぐ、と桜紙を噛むように紅を落とし、ぺっと吐き出した。
「にょ、女人の部屋に勝手に入るな!」
「いつまで経っても閨に来ないから様子を見に来た夫に、よくそんなことが言えるな。…どうしたんだこの紅は」
「お館様より、賜ったものにござる」
「信玄公からか。――京紅とは、粋な主君じゃねぇか」
「……もう、主ではないがな」
幸村は小十郎に背を向け、鏡に向き直った。小十郎は幸村に凭れかかるようにして紅を手に取る。
「紅は水で溶いて使うんだよ」
そういえば、政宗の傍には水の入った器があった。あれはそういう目的だったのか。
小十郎は水差しに指を入れて湿らせ、薬指を紅に滑らせる。
「ほら、よく見てろ」
鏡越しに、小十郎が声をかける。幸村は頷き、引き結んでいた唇を僅かに開けた。
鏡の中の小十郎は、じっと幸村を見つめている。幸村の唇に指を置き、そっと色を置いていく。
太く無骨な指に合わない繊細な動き。
鏡越しの眼差しは直接見つめられるよりずっと扇情的で、幸村は耐え切れずに目を瞑った。
「おい」
不機嫌な声が耳をくすぐる。
「も、もう……いい……!」
腕の中から逃げるために暴れれば、何嫌がってやがると抑え付けられる。ずりずりと
背中をずらして逃げると、すぐに踵が机の向こうの壁に当たる。中途半端な体勢は
非常に不安定で、ますます小十郎の腕から逃げられなくなった。
「お前がやりたがったんだろうが」
そっと目を開けて小十郎を見上げる。小十郎は不思議そうな、不機嫌そうな顔をしていた。
ため息をつき、頭をかく。
「……これでいいだろ。後は勝手にしろ」
ぺたん、と床に寝かしつけられる。小十郎は立ち上がって背中を向けた。
慌てて追いかけようと立ち上がれば向こう脛を机にぶつけ、痛みが全身を駆け巡った。
また、呆れてられしまった。
いつも、自分の方が子供で、莫迦で不器用で。
追いつきたくても追いつけない。
夫婦となってからも小十郎は忙しく、二人で過ごせる時間といえば閨での情事のみ。
これでは以前と少しも変わらない。
「……泣いても、変わらぬ」
手の甲で目を擦った。足を机から引き抜いて正座になり、ぱん、と両手で頬を叩いた。
どんなに努力をしても、小十郎には追いつけない。
それでも、小十郎は幸村の夫だった。
立ち上がってまっすぐ閨を目指す。几帳で区切られた閨の中に入れば、小十郎は
既に褥の中に潜り込んでいた。上掛けを持ち上げると背中が見える。
眠っているとは到底思えないが、動く気配はない。
「……俺を、拒まれるのか?」
小十郎が寝返りをうった。目はまっすぐに幸村を見つめる。
髪を女中に整えられながら、幸村は唇を尖らせた。
「お方様、そのような顔をなされますな」
「いや……その、……すまぬ」
何がすまないのか分からないが、幸村は謝った。女中は笑って水引で髪をまとめる。
「……さて、本日の御用は以上でよろしゅうございますか?」
「あ、いや、その……いや」
女中はふっくりと笑い、手を膝に乗せる。
気安く色々なことが言える女中なのだが、これだけはダメだった。
「――それでは、これで下がらせていただきます」
「ああ……うむ」
女中が襖を閉めて出て行くのを見送り、幸村は机の引き出しから蛤を出した。
蛤の中には紅が入っている。信玄から贈られたもので、蛤には金蒔絵が施され、紅は玉虫色に輝いている。
使えばなくなるから勿体無い、と一度も使っていない紅だ。
(使わぬ方が勿体無いやもしれぬ)
だが、どうやって使うのだろう。政宗は指で気軽に塗っていたが、それだけだっただろうか。
「む……」
指につけるが、なんか違う気がする。
どうやってつけていただろう。何か道具がいるのだろうか。いや、慶次は何か……
(舐めていたような)
紅を舐めるのか、と紅を凝視する。それは違うだろう、とへらっと笑い、鏡を見た。
顔を近づけ、紅を唇につける。しかし何かが違う。
喉の奥で笑うような気配に、幸村は振り向いた。紅に真剣に向き合いすぎて、
小十郎が部屋に入っていることに気づかなかった。
「うわあああぁぁぁっっ!!」
「うるさいな。……ほら、落とせ」
桜紙を口許に押しつけられる。むぐぐ、と桜紙を噛むように紅を落とし、ぺっと吐き出した。
「にょ、女人の部屋に勝手に入るな!」
「いつまで経っても閨に来ないから様子を見に来た夫に、よくそんなことが言えるな。…どうしたんだこの紅は」
「お館様より、賜ったものにござる」
「信玄公からか。――京紅とは、粋な主君じゃねぇか」
「……もう、主ではないがな」
幸村は小十郎に背を向け、鏡に向き直った。小十郎は幸村に凭れかかるようにして紅を手に取る。
「紅は水で溶いて使うんだよ」
そういえば、政宗の傍には水の入った器があった。あれはそういう目的だったのか。
小十郎は水差しに指を入れて湿らせ、薬指を紅に滑らせる。
「ほら、よく見てろ」
鏡越しに、小十郎が声をかける。幸村は頷き、引き結んでいた唇を僅かに開けた。
鏡の中の小十郎は、じっと幸村を見つめている。幸村の唇に指を置き、そっと色を置いていく。
太く無骨な指に合わない繊細な動き。
鏡越しの眼差しは直接見つめられるよりずっと扇情的で、幸村は耐え切れずに目を瞑った。
「おい」
不機嫌な声が耳をくすぐる。
「も、もう……いい……!」
腕の中から逃げるために暴れれば、何嫌がってやがると抑え付けられる。ずりずりと
背中をずらして逃げると、すぐに踵が机の向こうの壁に当たる。中途半端な体勢は
非常に不安定で、ますます小十郎の腕から逃げられなくなった。
「お前がやりたがったんだろうが」
そっと目を開けて小十郎を見上げる。小十郎は不思議そうな、不機嫌そうな顔をしていた。
ため息をつき、頭をかく。
「……これでいいだろ。後は勝手にしろ」
ぺたん、と床に寝かしつけられる。小十郎は立ち上がって背中を向けた。
慌てて追いかけようと立ち上がれば向こう脛を机にぶつけ、痛みが全身を駆け巡った。
また、呆れてられしまった。
いつも、自分の方が子供で、莫迦で不器用で。
追いつきたくても追いつけない。
夫婦となってからも小十郎は忙しく、二人で過ごせる時間といえば閨での情事のみ。
これでは以前と少しも変わらない。
「……泣いても、変わらぬ」
手の甲で目を擦った。足を机から引き抜いて正座になり、ぱん、と両手で頬を叩いた。
どんなに努力をしても、小十郎には追いつけない。
それでも、小十郎は幸村の夫だった。
立ち上がってまっすぐ閨を目指す。几帳で区切られた閨の中に入れば、小十郎は
既に褥の中に潜り込んでいた。上掛けを持ち上げると背中が見える。
眠っているとは到底思えないが、動く気配はない。
「……俺を、拒まれるのか?」
小十郎が寝返りをうった。目はまっすぐに幸村を見つめる。




