伊原薊美は、奇しくも数時間前に言葉を交わした〈天使〉がそうしたように、自身のサーヴァントとの合流を果たしていた。
 国立代々木競技場での小競り合い。
 恐るべき東洋人の復讐鬼と交戦し、見事に鉛弾を撃ち込み堂々凱旋したのだとカスターは薊美に声高に語ってくれた。
 だが実のところ、薊美はそれを話し半分程度に聞いていた。
 ジョージ・アームストロング・カスターという男は、華々しく堂々とした見栄っ張りだ。
 彼はいつだって性急で、自身の栄光をしばしば誇張してひけらかす。
 "自分の名声に取り憑かれた、尊大で愚かな人殺し"――いつかどこかの俳優が口にしていた彼への評も、まあ間違いではないのかもしれない。
 きっと本人には悪気も騙す気もなく、単に持って生まれた性分なのだろうが、そんな男と分かっているから"まあ、痛み分けかやや優勢程度の状態で退いたのだろうな"と薊美は脳内補完した。

 それにどの道、サーヴァントを脱落させられたわけではないのなら戦功の細部にはあまり意味がない。
 重要なのは殺せたか、殺せなかったか。
 今回のカスターは後者であった。ならば重要なのは彼がいかに勇敢に戦ったかではなく、そこに付け添えられたある報告の方だった。

 響いた、笛の音。
 忌まわしく、この上なく不吉な大自然の声。
 最期まで恐れ知らずの突撃を止められなかったこの男が、無策にかち合うには具合の悪さを覚える相手。

(宿敵――、ですか)
(然り。この時代ではどうも誤解されがちなようだが、私はなぁ。
 奴ら先住民族のことをそこまで苛烈に嫌っているわけではないのだ)
(でしょうね。そういうタイプには見えないもん、あなた)
(ふはははは! ええいかにも! このカスター、生前は予てより気持ちの良い男と評判だった!)

 "カスター将軍"に対する薊美の印象は、まさにその自称の通りであった。
 喜びも悲しみも爽やかに笑い飛ばし、そこに存在するだけで誰かの灯火になれる前進の権化。
 嫌いな奴はとことん嫌うが、好きな奴は実の親か兄のように慕う、そんな人物。
 だから、彼が先住民族に対し悪意は抱いていなかったというのは実際事実なのだろうと薊美は思う。
 彼はそういう陰険なことができるタイプではない。良くも悪くも、カスター将軍は光なのだ。

(……だが、なあ。奴に関しては、うむ。少々話が別と言う他ありませんな)
(嫌いなの?)
(まさか。アレは先住民族にしておくには惜しい人材です。
 もしも奴が私と同じ星条旗の使徒だったなら、どれほど国益に貢献したか分からないとまで思うとも。
 だから、そうさな。やはり、宿敵と呼ぶ他にはないのでしょうなあ)

 先住民族(インディアン)相手にこんな物言いをするのは、どうにも背中がむず痒くなりますが――。
 そう言ってカスターは、いつになく自虐的な笑い声を響かせた。

(……あのさ、ちょっと気になったんだけど)
(はい。何でしょうかな?)
(私もこの一ヶ月で、あなたに関してはちょっとだけ勉強しました。その時に当然、例の戦いの知識も付けたつもり)
(ははあ、それはそれは。なんというか、お恥ずかしい。いつになくしおしおと縮こまってしまいそうだ)

 伊原薊美は、紛れもなく天才と称されるたぐいの人間である。
 彼女は自分に注がれる"期待"に応えるためならば、際限なく行動する。
 それはこの聖杯戦争においても、まったくもって不変だった。
 自分のサーヴァントのことをよく知らなくて脱落だなんて三文芝居めいた結末、薊美が認められる筈もない。
 だから自分なりの手管で知識を蓄えた。その甲斐あって、今こうしてカスターに疑問を問える。

(――『リトルビッグホーンの戦い』に、シッティング・ブルは参戦していない。多くの主要な文献は、そう伝えてたんだけど)
(は?)
(まあ相手も有名人だったみたいだから、あなたが知ってること自体にはそれほどの疑問はないよ。でも、そんな宿敵みたいに表現するほどの相手かなって)

 勇ましきカスター将軍の落日となった、かの戦い。
 カスター将軍は状況把握を怠ったまま、無謀な突撃作戦を敢行して討ち取られた。
 そう伝わっている。シッティング・ブルなる呪い師が戦いの顛末を予言したという話は見つかったが、当の彼は『サン・ダンスの儀式』による生傷が癒えておらず、参戦することはなかったという言説が主流となっていた。
 なのに、カスターがこうも件の呪い師を意識しているのは一体どういうことなのか。話の筋が通らない。
 薊美の疑問に、カスターは間抜けな声をあげて……しばし沈黙した後、少し唸って、言った。

(……ははあ、成程成程。そう伝わっているのか……。いやはや歴史とは面白いものだ。いや、或いは誰かがそう望んだのかな?)
(ライダー?)
(ああ失敬。ううむ、語り聞かせる分には構わないのですがな。いささか長い話になるもので、さて何から話したものか)

 歴史の真実、なんて言い回しは詐欺師の十八番だが、歴史の張本人がそれを語るなら話は変わってくる。
 薊美は手元のエスプレッソを啜って喉を潤しながら、続くカスターの言葉を待っていた。
 薊美が問うた歴史との矛盾。それに対し、彼は解を持っているようだったから。

(まず結論から言うとだな。このカスター、無謀ではあってもそこまで阿呆ではないのです)
(そうなんだ)
(弾丸など当たると思うから当たる。よしんば当たったとして、急所でなければ掠り傷と大差はない。
 とはいえ、現実的に考えて一の小隊で万の大軍を鏖殺するのは不可能でしょう?
 だからそれなりに考えるし、あれこれ悩みもするのです。その上で突破可能と見れば、後は迷う理由などありませんが)

 アメリカ西部開拓時代。
 それはもはや神が世界の裏側に隠れ、科学が神秘を凌駕し始めた現代と地続きの"近代"である。
 なればこそ、そこに英雄の席はない。
 カスターは確かに類稀なる英傑だったのだろうが、それでも無策で戦功を重ねられるほど甘い時代ではなかったということ。

(熟慮し、その上で"行ける"と判断し、勝利のヴィジョンを脳裏に描いて突撃する。
 そこまでできた私が、私の第7騎兵隊が……先住民族の数頼みの浅知恵に遅れを取ると思いますかな?)
(……でも、例の戦いではあなたが戦果を急ぎすぎたって話だけど?)
(ええ確かに。マーカスもジョン大佐も、親愛なるナイフも口を酸っぱくして言っていましたな。
 ですからまあ、多少は私の瑕疵もあったのでしょう。思えば向こう見ずだった気もするし。
 だがそれでも――あの日彼処に居たのはこのジョージ・アームストロング・カスターだ)

 理屈は無茶苦茶だ。
 というか、そもそも理屈になっていない。
 だが、それを理屈にしてきたのが彼だ。
 カスター将軍で、〈カスター・ダッシュ〉なのだ。
 だから薊美も、口を噤むしかない。
 カスターはカスターだから問題ないのだと当の本人に断言されては、返す言葉などある筈もないだろう。

(にもかかわらず私は、忌まわしき予言の通りになった。愛する第7騎兵隊は藻屑と消えたのです。
 犬死になどであるものか。愚かな死などであるものか! カスターは、我が同胞らは、星条旗の下に勇ましく戦った!
 その上で尚滅ぼされたからこそ、あのリトルビッグホーン川はおぞましき悲劇だったのだ!
 あるべき歴史が、あってはならない歴史に書き換えられた、偉大な祖国の歴史に残る汚点の一日だったのです!)

 いつも通り、どこかドラマチックに。
 それでいて、ヒロイックに。
 過大に、過剰に、誇張して、カスターは語る。

 ジョージ・アームストロング・カスター。
 勇敢にして無謀、公明正大にして残虐無道。
 光闇をくっきりと併せ持ちながら、翳ることを知らぬ戦場の太陽。
 それが沈むと予言した、ひとりの呪い師がいた。
 パイプの灰の警告を聞けなかった男の末路を夢に見た、先住民族の男がいた。
 歴史には語られぬ接点。『リトルビッグホーンの戦い』で顔を合わせることはなかったにも関わらず、互いに互いを認識し合っている違和。
 その答え合わせがまさに、歴史になったその人の口から語られるというところで――

 薊美が今いるチェーンの喫茶店の扉が開いて、ふたりの少女が入ってきた。
 ひとりは、白い少女だった。
 もうひとりは、白と黒の少女だった。

 薊美は、白い少女を見た。
 そちらに、視線を引き寄せられた。
 時間の認識が、数秒ほど飛んだ。
 え、とその不可解に戸惑って。
 それからようやく、自分が"時間を忘れていた"ことに思い当たるのであった。



◇◇



 喫茶店、コーヒーショップ『ギャラクシー』。
 現在では47都道府県のすべてに店舗展開を行っているチェーン店。
 チェーンの喫茶店とは思えない高クオリティ、かつ"映える"商品の提供で若者を中心に大きな支持を集めている。
 『ギャラクシー』は首都の東京では数百軒もの店舗展開を行っていた。
 これはその一軒。新宿区の端にある、一軒の『ギャラクシー』店舗での一幕である。

 窓際の一席で、ふたりの少女が向かい合って座っていた。
 ひとりは、白黒の少女。髪の毛から衣服、持ち物まですべてがブロックノイズ状の白黒(ツートン)で纏められている。
 東京は首都であると同時に文化の中心だ。地方では変人扱いを受ける趣味でも、この街では日常の一風景として受け止められる。
 だがそんな街においても、この"白黒"はあまりに目立つ存在であったと言っていい。
 そして真に恐ろしいのは、その彼女と対面するもうひとりの少女が、白黒の存在感に何ら劣らずそこにいることだった。

「――や。久しぶりだね、イリス」

 美しいというよりは、可憐、という表現の似合う少女だ。
 人懐っこい笑顔に、均整の取れた肉体。
 白髪は蚕の絹糸のようで、なのにその頭頂付近からぴょんと弧を描くアホ毛が一切知的な印象を抱かせない。
 大半の人間はただの美少女として片付ける。だがごくわずかな人間には、常軌を逸した存在として映る。
 これはひとえに、そういう存在。そう思って見ると、白黒の少女が浮かべる諦観にも似た顔に味わいが滲んでくるだろうか。

 世界の大半の人間は、気付けない。
 この邂逅が、少なくともこの仮想都市においては紛れもない神話の出来事であると。

「あんたさあ」
「うん?」
「本当変わんないよね。分かっちゃいたけど昔のまんま」

 白黒の少女――楪依里朱はそう言って、自分の前に運ばれてきた水を口に含んだ。
 対面に座る彼女の名は、神寂祓葉という。
 かつてひとつの運命を制し、そして今はすべての演者に運命を差し向けたゲームマスター。
 絶対的な世界の主役であり、同時に破滅的な運命の終局(ラスボス)。
 この世界において最も美しく、最も醜いもの。
 そんな万人の大悪は、しかし致命的なまでに頭が悪い。

 だから祓葉は、何を取り繕うでもなく、それらしいきっかけを演出して再会を誘うでもなく。
 ただ一通、イリスにメールを送り付けただけだった。
 その気になればどんなドラマも奇跡も演出できる癖をして、まるでただの友達相手にするように気安くこの喫茶店へと呼び出したのだ。
 祓葉は、平気でそういうことができる。この世界でただひとり、彼女だけがあらゆるセオリーに縛られていない。

「あんた、私達に何したか覚えてないの」
「覚えてるよ」
「だったらさ、そのあんたがのうのうと接触してくるのって煽り以外の何物でもないと思うんだけど」
「んー……。私だって誰でも構わなかったわけじゃないよ?
 私はみんなが大好きだけど、あの中で友達って呼べるのってイリスだけだもん。
 昔もよくやったじゃん。私が突然メールして、イリスがぷりぷり怒りながら待ち合わせ場所に来る流れ」
「いい思い出みたいに言うな」

 今回はたまたま理由があった。
 でもこの女はきっと、理由がなくてもそのうち同じことをしていただろう。

 その時何故と聞いたなら、こんな風に答えたはずだ。
 ――『友達と遊ぶのに、理由って必要かな?』なんてことをきょとんとした顔で平然と宣う姿が優に想像できる。
 そんな光景が驚くほど鮮明に脳裏に想像できたものだから、イリスは苦虫を噛み潰したような顔でため息をついた。
 彼女の言動を完璧に脳内で再現できてしまうくらいには、自分はこの最悪な女に脳を焼かれてしまっている。

「……それで?」

 注文の品が来るまで待ってやるとか、そういう気を利かせるつもりは生憎とない。
 こちらだって暇ではないのだ、誰かさんのせいで。
 大方ろくな用ではないのだろうが、何にしろ早めに切り上げてしまうに限る。
 イリスは胸焼けにも似た不快感を堪えながら、祓葉にこう促した。

「相談って何。言っとくけど、同盟とか協力とかは絶対お断りだから」
「しょぼーん……。そういうつもりで来てもらったわけじゃなかったけど、それでも面と向かって言われると傷つく~……」
「鼓動のしないその胸に手当てて聞いてみなよ」

 楪依里朱が神寂祓葉と組むことはもう二度とない。
 それこそ、祓葉と組むくらいならあの屑星どもを当たった方がまだマシだ。
 だからこそ、改めて突き付けた絶縁状。祓葉は落ち込んだような顔をしているが、心を軋ませているのは明らかに彼女ではなくイリスだ。

 ――そう、こんなに憎んでいるのに。
 顔も見たくないほど、忌まわしく思っているのに。
 自分で吐いた絶縁の言葉で、自分の心が悲鳴をあげる。
 ほら見ろ、こんなにもおまえは呪われている。
 六つの災い星のひとつ、〈未練〉の白黒。
 誰より過去を呪っているのに、誰より過去に呪われた愚かな女。イリスはテーブルの下で、静かに拳を握り締めた。

「……ほら、早くして。私に何を聞いてほしいの」
「うぅ……。うん、それなんだけどね――こんなこと相談できる人、私ってイリスしか知らなくて。
 今もどうすればいいかぜんぜん分かんないんだよ~……自分ひとりで考えててもわー!ってなっちゃうし」
「早くしろって言ってる。早く本題に入ること」
「……じゃあ、言うよ? 言うね? ほんとに言っちゃうよ?」
「帰っていい?」
「だめ! 言うから帰んないで!? ……よし。うん、行きます。言います。言えます」

 そら見ろ、もう切り替えている。
 人の心とか気持ちなんて気にもしない
 分かった風にしているよりもたちが悪い。
 この女は、人の心に寄り添うことができる。
 寄り添った上で、それを一時の気持ちで簡単に裏切れるのだ。
 だから誰もが失敗した。誰ひとりこいつに勝てなかった。
 みんなが――神寂祓葉に、魅入られた。

 こうして対面しているだけで、胸の奥が狂おしいほど苦しくなってくる。
 この感情に名を与えてはならない、それをした日が私の最後だとイリスは必死に自制していた。
 〈はじまりの六人〉の中で最も凡庸にして最も月並み。そして、最も幼稚。
 だからこそイリスは、誰より己の狂気を恐れていたのだろう。だが。


「実はね、私、その……………………ぷ。プロポーズ、されちゃったんだぁ……!!」


 祓葉が軽く頬を染め、落ち着かなくくねくねしながら言った言葉に――そんな悶々としたものはすぐさま吹き飛ばされた。


「……、あ゛?」


 口に含んだ水を吹き出さなかった自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいだった。
 おとなしく暮らすことのできない女と知ってはいたが、こいつは一体何をやっているのか。
 イリスは眉間にありったけの皺を寄せながら、苛立ちと当惑でもって親友の悩み相談に乗らされていく。



◇◇



「あのね、あのね。
 私、前の時みたいに仲間がほしかったの。
 やっぱり聖杯戦争ってチーム戦してなんぼ、みたいなとこあるでしょ?」
「……私とアギリみたいな枠を確保しようとしたってこと?」
「そうそう! だからね、前々から気になってた人に会いに行ってみたんだ~。
 結構年上さんなんだけどすっごい若くて、顔もかっこいいの。甘いマスク? って感じの!」

 〈前回〉の聖杯戦争にて。
 神寂祓葉は、楪依里朱と共に戦っていた。
 七人のマスターの中でも最も巨大な戦力を保有していた蛇杖堂の妖怪爺と戦う際には、最凶の殺人鬼である赤坂亜切とも手を取り合った。
 あの時間はどうやら、この怪物にとっても相当に楽しい時間だったらしい。
 いい思い出だから、今回も同じことをやろうとした。もう不運な一般人の皮など被れぬ身でありながら、今回の同盟者/犠牲者を探し出した。

 ――そうして祓葉が出会ったのは、あるひとりの若き陰陽師だった。
 名を香篤井希彦。天才、麒麟児。そして、恋多き人。

「そしたらその人、
 "同盟の条件として――神寂祓葉さん。
  貴女と、結婚を前提としたお付き合いをさせて下さい!"……だって~! きゃ~! どうしようイリス、私こんなの初めてだよ~~!」
「……、……」

 普通、同盟を打診してきた相手にその回答を返すことは狂人と疑われてもおかしくない行為である。
 もしくは相手の提案に頷く気がなく、悪意を以っておちょくっているかのどちらかだ。少なくともイリスだったらそう捉えるだろう。
 だが、こと神寂祓葉という少女がそこに一枚噛んでいるのならば、馬鹿げたことに理屈が通ってしまう。
 昔の彼女ならばいざ知らず。今の祓葉はもはや、あらゆる人間の目を焼く地上の星として成立してしまっているから。
 当然、そういうこともあるだろう。何せイリスの憶測では既にひとり、"自分達"の中にさえそのきらいのある人間がいるのだし。

「イリス?」

 あえてその感情を狂気になぞらえて名を与えるならば、〈恋慕〉――といったところか。
 なるほど、実にわかりやすい中てられ方だ。
 何しろ祓葉は本性云々を抜きにしても、男も女も誰でも認める抜きん出た美貌の持ち主である。
 そこに今の彼女の性質が加算されれば、そういう狂気(バグ)を起こしてしまう人間がいたとしてもそう不思議ではない。

「あのぉ……」
「何」
「えっと……なんか、怒ってる……?」
「怒ってない」
「いやでも、顔怖」
「怒ってない」

 その冷静な分析を踏まえて、あるいは一度脇に除けて。

 非常に。
 非常に――不快であった。

 今鏡を見たなら、そこにはさぞかし機嫌の悪そうな渋面が映っているのだろう。
 だが別に改める気にもなれなかったし、目の前で上目遣いで見つめてくる祓葉(バカ)に配慮してやるなど以ての外だ。

「……で? あんたはどうしたいのさ」
「どうって」
「そいつと付き合いたいの? 結婚を前提にして。
 まあ出会ってすぐの相手に求婚できるような尻軽とか、自分勝手なあんたには合ってるかもね。
 うん、それもいいんじゃない? 好きにすればいいと思うよ。アギリや誰かさんはブチ切れるだろうけど、私は別に止める義理もないし」
「やっぱり怒ってるぅ……」

 もう一度言おう。
 非常に、本当に、とてつもなく不快だった。
 楪依里朱は今、まさに不快の絶頂にいた。
 仮に此処にシストセルカの奴が同行していたなら、帰りしなに街のひとつでも地図から消していたかもしれない。

 何故こんなに気分が悪いのか? 決まっている。それは、言語化できる。
 まず第一に、祓葉が新たに同盟相手を作ろうとしていること自体が腹立たしいし。
 その枠組みを越えた関係に進もうという可能性が彼女の中に一ミクロンでも存在している事実に何より腹が立つ。
 もう一度繰り返そうとするくらいには楽しかったという過去を、どうして赤の他人でなぞろうとするのか。
 出会ってすぐに惚れて甘い言葉を囁いてくる相手がそんなにも良いのか?
 イリスには理解できない。理解不能な何かに祓葉が一時でも心を揺らされていると思うと周りのすべてをぶち壊したくなってくる。
 不快。不愉快。苛立ち。殺意にも似た怒りを押し込めながら、店員が持ってきたコーヒーを自分の前に置く。
 ブラックコーヒーだ。横にはお好みで入れてね、という意味で小さなミルクが添えられている。

「逆に聞くけどさ、あんたに散々振り回された挙句今もこうして使い潰されてる私が、何も思わないと本気で思ってたわけ?」
「だってこんなこと相談できるの、イリスくらいしかいなかったんだもん……」
「お抱えのクソ科学者に聞いてもらえばいいじゃん。まあ同じ顔されると思うけど」
「ヨハンにそんな難しい話ができるわけないでしょ!?」
「難しい話ができない科学者はもう廃業しろよ」

 ミルクの蓋を、ゆっくりと剥がす。
 その容器を指先で摘み、持ち上げながら。
 イリスはもう一度深いため息をついて――それから、呆れたように言った。

「……まあでも、真面目な話。
 可哀想だな、ってしか思わないかな」
「かわいそう? ……私が?」
「あんたにプロポーズしてきたって奴」

 ミルクが、コーヒーカップの上へと運ばれる。
 そのまま傾ければ、ややとろみのついた白色がコーヒーの水面に向けて流れ落ち始めた。

「本当に可哀想。たぶんまだ、自分が何に惚れたのかも分かってないんでしょ」

 ――楪依里朱はムカついている。
 だがその憤りは、あくまでも神寂祓葉に向けられたもので。
 彼女に求婚したという、名も知らぬ若き陰陽師に対するものではなかった。

 むしろ彼に対してあるのは、哀れみ。
 殴られ蹴られても親の愛を信じる幼子を見るような。
 段ボール箱の中で、健気に飼い主を待つ捨て猫を見るような。
 そんな、ある種盲目な弱者に対する感情だった。

「大体、狂気だなんてあまりに大袈裟。
 あんたはあらゆるモノの目を焼くけれど、その輝きにはムラがある。
 例えば今この店に居合わせた客どももあんたを見てるけど、すぐおかしくなったりはしないでしょ。
 あんたの言うそいつは、本当の太陽を知らない。本当の祓葉(あんた)を知らないまま、半端に焼かれて舞い上がってるだけ」

 神寂祓葉の最も恐ろしいところは、そこにあるのだ。
 この女は紛れもない星でありながら、同時にひどく気まぐれだ。
 だから大抵は、気付かない。彼女がどれほどの怪物かに気付けない。
 気付けないまま関わって、彼女を自然に過小評価して、物語を進めていく。
 そして最終的に――今までの認識と遥かにかけ離れた輝きを見せられて、目を焼かれる。

 イリスは、祓葉に出会ってしまった"彼"に対して何も知らない。
 聞こうともしていないし、聞いたとしても無駄に律儀な祓葉は答えなかったろう。
 それでも、可哀想に思う。件の彼がこのまま祓葉と関わり続ければ、いずれ"その時"に直面するだろうから。

 例えるならば、"その時"は核の炸裂に似ている。
 今までの常識、認識、そのすべてが一瞬で破壊される。
 だから、それを見る前にはもう決して戻れない。
 "彼"はそのことを知らないのだろう。
 かつてイリスが、五人のマスターが知らなかったように。
 知らぬまま、神寂祓葉を"理解した"と思い込んでいるのだろう。

 ――これが哀れまずにいられるものか。
 名も知らぬどこかの誰かは今まさに、〈はじまりの六人〉をなぞろうとしているのだから。
 出会い。過小評価。そして、約束された崩壊。
 心からご愁傷様だ。狂気の果てに辿り着いたなら、その時は話くらい聞いてやろうと思うくらいには。

「そいつのためを思うんだったら関係切ってどっかに消えな。
 あんたがそいつと関わり続けることで、与えてやれるものは何もない。
 奪うだけ。得意でしょ? 誰かから奪うことは。焼き焦がすことは。そうやって私達を生み出したんだもんね、あんたは」

 祓葉は何も言わない。
 何を言われているのかわからない、というような顔をしていた。
 そうだろうな、と思う。
 思わず笑いがこみ上げた。ミルクを傾けていく。

 ……コーヒーの、黒い水面に。
 ミルクの、白い波紋が上塗りされる。
 二色の色彩が、カップの中を満たす。

「本当に変わんないよ、あんたは。
 ムカつくくらいにあの頃のままだよ。
 そんなあんたのことが、私は――」

 白黒(ツートン)が、完成する。

「――本当に、殺したいくらい大嫌い」



 その時、カップが爆発した。
 同時に吹き出す、白と黒の破片。
 目を見開いた祓葉の顔が色彩に隠される。
 零れたコーヒーとミルクの雫が、机に落ちて。
 そこから、やはり白と黒の二色。
 白黒(ツートンカラー)が、ブロックノイズ状にお互いを喰い合いながら店内の全域を忽ちに覆い尽くした。


「あんたさ、どの面下げて私を呼び出したの」


 叫喚と混乱。
 それを一顧だにせず、異変の中心で佇む少女もまた白黒だった。
 髪色から服装、持ち合わせている私物まで、徹底した二色構造。 
 自身の生活と存在を徹底的に縛ることで、楪の魔術はその効果を増幅させる。

「私が、祓葉(あんた)だから仕方ないって、ぜんぶ許して忘れてるとでも思ってた?」

 居合わせた人間の安全など、この女は気にしない。
 気にする理由もなければ、気にしている余裕もないからだ。
 その証拠に、ほら。至近距離で白黒の炸裂を食らいながら、水滴の向こうから現れた少女の顔は傷ひとつ負っていない。
 変わらず――見惚れるほどに、キレイだ。

「忘れないよ。他の誰が忘れても、私以外のぼんくら共が忘れても、私だけは絶対に忘れない」

 ――忘れられない。
 何故なら彼女の狂気は〈未練〉。
 過ぎたことを思い続ける。
 過ぎたものを、想い続ける。
 受けた痛みも、感じた怒りも。
 そして、過ごした時間も。
 すべてを〈未練〉として記憶し、魔女は今もずっと狂っているのだ。


「此処で殺してやるよ、祓葉。そのために、私はこのクソみたいな街にいるんだ」


 少女の名前は、楪依里朱。
 その眼はもう、元の世界を映さない。
 太陽を見つめすぎると、失明してしまうから。
 彼女は、太陽を知っている。
 出会ってはならない、見つめてはならない、この世で最も眩しくあたたかいものを知っている。
 太陽に魅入られ、そして捨てられた過去の戦影。

 ――今は。
 ――蝗害の魔女。



◇◇



 イリスは次の瞬間、躊躇なくテーブル越しの祓葉の顔面へ前蹴りを放った。
 その靴底までもが、病的なほど徹底して白黒に二分されている。
 色彩は楪の魔術師にとって力となる。よって今、イリスの蹴りには重さ数トンのトラックをさえ蹴り転がせる力が宿っていた。
 だというのにそれが、軽々と片手で受け止められる。
 爛漫に微笑んだ祓葉の手のひらに止められたら、あとはイリスではわずかほども動かせない。

 だが、動揺はしない。
 イリスは誰より祓葉を知っている。
 〈はじまりの六人〉の中では彼女が一番幼稚で月並みだろうが、それでも祓葉と過ごした時間の長さならば他に大差をつけて勝る。
 楪依里朱ほど、神寂祓葉を知っている人間はこの世界に存在しない。

 たん、とバック宙の要領で後ろへ下がりつつ。
 さっきまで自分が腰掛けていたソファを白黒の色彩で染め、分解して無数の槍に変える。
 赤坂亜切との小競り合いでも見せた芸当だ。白黒の槍による包囲攻撃。単純だが威力は高く、少ないリソースで放てて効率もいい。
 祓葉の右手が、さっきイリスの蹴撃を受け止めたそれが――光に遮られる。
 次の瞬間、そこに生じていたのは眩く輝く〈光の剣〉だった。
 〈はじまりの六人〉ならば誰もが知る祓葉の剣。かつて、彼ら彼女らの命を奪い尽くした恐るべき冒涜の剣。

 それが、振るわれる。
 光の瞬き、あどけない一閃。
 技の冴え、経験の蓄積、一切そこにはない。
 イリスの知る通りの、そこからほぼ成長のない一閃。
 にもかかわらずその煌めきが、白黒のことごとくを撃滅する。
 祓葉はそれを誇らない。
 イリスもそれに驚かない。
 片やこの世界の現人神。
 片や、〈はじまりの六人〉。〈未練〉に呪われた狂人。
 であれば必然、そのような初歩的なやり取りの必要はなかった。

「私ね」

 祓葉が口を開く。
 開きながら、席から立ち上がる。
 右手には光の剣、彼女が敵を討つための刃。
 その切っ先が自分に向けられている事実に、イリスの狂気は疼きを訴える。

「イリスのこと、今でも好きだよ」
「あんたはみんなにそう言うでしょ」
「かもね。でも、やっぱりいちばんの友達は今でもイリスだと思う」

 人たらしの極みのような台詞を、今でも平気で宣うのがこの女だ。
 ファム・ファタールと呼ぶには些か知性が足りない。暗さも儚さも足りない。
 それでも、神寂祓葉は他人を狂わせる女としては間違いなくひとつの完成形だった。
 そうでなければ、こんな悪夢のような物語は、運命は紡がれてすらいないのだから。

「だから嬉しいよ。イリスがこうして私を本気で殺しに来てくれる――私と本気で遊んでくれることが、すごく嬉しい!」
「死ねクソ女」

 いけしゃあしゃあと放たれた妄言に対する返答は冷ややかかつ、言葉の通りに極大の殺意に満たされていた。
 空間が変質する。逃げ遅れた客のひとりを呑み込んだが、イリスはそんなこと気にも留めない。
 ぐじゃぐじゃに混ざり合って、けれど偏執的な白黒構造は今も変わらず健在のままで。
 渦を巻いた白黒が、祓葉という奇跡を凌辱するべくその版図を改めて広げ始めた。

 ――楪の魔術は〈色間魔術〉。読んで字の如く、二色の色彩を司る。
 空間に存在する全物質を二色のどちらかに定義し、その内で実現可能な事象のすべてを思いのままにする。
 字面だけを読めば、神の如き術式だ。この世のすべてを思いのままにし、この世の果てにさえ辿り着ける魔術だ。

 だが、楪の魔術師は歴代ずっとその域にまで辿り着くことができなかった。
 何故なら彼らはあくまで常識の内に囚われた、ただの人間に過ぎなかったから。
 されど。今のイリスは、楪の希望たる少女はもはやただの人間などではない。
 〈はじまりの聖杯戦争〉は、経験した死は、祓葉への狂気は彼女を異次元の領域に押し上げた。

「わわっ。すごい、めちゃくちゃ強くなってるじゃんイリス!」

 赤坂亜切との交戦で、イリス自身も驚いた。
 力量の向上は、まさに以前とは段違い。
 扱いにくい魔術を苦心しながらやりくりしていた楪依里朱はもういない。
 今やイリスの魔術は、楪家の秘奥は、サーヴァントにさえ通じる領域にまで高め上げられている。
 彼女が経験した離別と屈辱と、芽生えた狂気の因果が、宿命に翻弄されるばかりの未熟な娘をひとりの魔女へと変じさせていた。

 白黒の渦は、引き込まれれば生命としての全尊厳を凌辱される実質的な死の渦潮だ。
 一度呑んでしまえば書き換えも組み換えも自由自在。少なくとも今のイリスには。
 それを見た祓葉は焦るでもなく、むしろ親友の成長を喜んでいた。
 そして遊び相手の強さに、心から高揚していた。

「こりゃ私も、負けてらんないなあ!」

 祓葉は逃げない。
 イリスに踏み込むために、渦に自ら足を入れる。
 当然、白黒に触れたことで足元から瞬く間に染められていく。
 こうなればもはや〈魔女〉にとっては自由自在、思うがまま。
 である筈なのに――白黒の侵食が、腰丈まで達した時点で急に止まってしまう。

 この時点で既に、道理を完全に外れている。
 なぜ、サーヴァントでもないただのいち人間が強化された白黒の侵食に抗えるのか。
 祓葉の足が当然のように前へと進む。
 それに伴って、纏わり付いていた白黒が朝霧のように儚く吹き散らされた。

 祓葉が来る。
 この都市において、それは最大の窮地に他ならない。
 光の剣を握り微笑む奇跡の子――世界の主役。
 だとしても、黒白の魔女は揺るがない。
 揺らがぬまま、討つべき敵をしかと見据える。

「――あんたの方こそ、前よりずいぶん無茶苦茶だね。本当、目眩がするくらい」

 光の剣が、振るわれて。
 白黒の剣が、それを受ける。
 本来なら成り立たないはずの鍔迫り合い。
 それがいつ崩れるかすら彼女の気分次第なのだと心底実感しながら、イリスは眉根を寄せた。

「あのさあ。あんた、なんであの時私を刺したの」

 ――メールアドレスは変えていなかった。
 思えばそれすら、ひとつの未練だったのかもしれない。
 祓葉からいつか連絡が届くことを無意識に祈って、待っていたのかもしれない。
 だというのに、あるいはだからこそ、祓葉から相談があるから会いたいというメールが届いた時、イリスは一瞬喜んでしまった。

 次の瞬間、かつてないほどに自分を恥じた。
 自分がこうまで浅ましく醜い生き物だと思ったのは、これが初めてだった。
 あんなことをされても。こんな有様に成り果てても。
 自分はまだ、神寂祓葉に執着している。彼女と過ごした夢のひとときを、女々しくこうまで回顧している。

 友達なんて要らないと思っていた。
 自分が誰かに心を開くことはなく、相手もそれを望みはしないと信じていた。
 その心の壁を、馬鹿みたいな明るさでぶち壊してくれた女。
 伸ばしては空を切るばかりだった、鳥籠の中の手を掴んでくれた女。
 楪依里朱にとっての、初めての友達。
 そして今は、何に代えても殺すべき忌まわしの宿敵。

「あんたにやりたいことがあるのなら、私は付き合ってやってもよかった。
 呆れるし怒るかもしれないけど、それでもあんたに背を向けることなんてしなかったよ。
 ねえ、答えてよ祓葉。あんたにとって"友達(わたし)"は、一緒に馬鹿をやる価値はないその他大勢のひとりだったの?」

 振るわれる、光の剣。
 その輝きはあの時見たのとまったく同じ。
 楪依里朱を、あの青春を終わらせた光が、今も自分勝手な笑顔と共にこの眼前で舞い踊っている。
 ならば無謀と分かっても、イリスはこうせずにはいられなかった。
 組み替えた白黒を成形し、一振りの剣を造り上げる。
 輝くことしかできぬ光を穢す、中途半端の白黒を。〈色彩の剣〉を。

「答えて」

 訴えるように、乞い願うように紡がれた問い。
 それに、祓葉は薄く口元を歪めた。
 そして出てきた答えは、あの日の真実は。
 それは――


「うぅん。なんでだろ?」


 あまりにも。
 あまりにも――


「……ふざ、けんなっ!」


 イリスは次の瞬間、辛うじて押し殺していた激情を反射的に溢れ出させていた。
 なんでだろ。なんでだろ、と言ったか、この女。
 自分でも分からないまま、私を殺したのか。
 理由もなく、ただ気まぐれに、あの日々を終わらせたというのか。

 許さない、認めない。
 やはりこいつだけは、こいつだけは――!

 激情のままに振るう色彩の剣が、光の剣と真っ向から火花を散らす。
 色間魔術の構造は複雑怪奇。よって楪の魔術師は、他の何にも優先してその理論と扱いを叩き込まれる。
 理屈としては、プログラミングによく似ている。白と黒の配列、目視可能な範囲から不可能な領域までもを常に把握し人智を半ば超えた演算能力で欲しい結果を打鍵し続けるのだ。
 例に漏れずその原理で造り上げたこの色彩剣にも、無体極まりないいくつもの仕掛けが散りばめられている。
 接触を介して発動する位置ズレの強制。エネルギーの撹乱。五指を動かす神経の瞬間的なシャッフル。

 色間魔術とは、突き詰めてしまえば"理論上、なんでもできる"能力だ。
 楪の魔術師は誰も真の意味で人間を超えることはできなかった。
 だから無駄に複雑で結果の伴わない、言うなれば徒労そのものの術式でしかなかったわけだが――

 今のイリスは違う。
 彼女は間違いなく、歴代最高位の色間魔術師だ。
 純粋な戦闘能力でも、アギリや寂句といった埒外の怪物共に並べる。
 だというのに。

「ごめんね。でもね、本当にわかんないんだ。
 なんでだろうね? 私、イリスとしたいこともっとたくさんあったはずなのに」

 その無法を、無体を、祓葉はまるで端から存在しないように踏み越えてくる。
 打ち合う度に剣身が軋む。打ち込まれた白黒の数式が子どもじみた無茶苦茶で否定される。
 悪夢だ。そうとしか形容のしようがない。
 いつだってこの少女は、どこかの誰かの悪夢であり続けている。

「強いて言うなら、終わってほしくなかったのかな。
 私が本当の"私"になれた、心の躍る遊びの時間。
 それがもうすぐ終わっちゃうことが、本当の本当に嫌だったのかも――」

 剣だけではどうやっても追いつけない。
 進軍してくる悪夢を、阻みきれない。
 そう判断したイリスがバックステップと共に出現させたのは百にも届く白黒の鏃だった。
 それを、一発一発が音速を超える次元違いの速度で一斉に射出させる。
 鏃は祓葉を取り囲むように出現している。よって回避不能、必ず被弾を強いる悪辣極まりない弾幕の槍衾が実現する。
 これならどうだ、と、この後生まれる結果が分かっているにも関わらずありもしない希望に縋る魔女の矛盾を嘲笑うように。

「だからね。私、今本当に楽しいよ!」

 光剣一閃。
 それで鏃の半分が粉々に消し飛ばされる。
 後ろの鏃は問題なく発射され、祓葉の身体を一瞬にして蜂の巣に変えた。

 だがそれだけだ。祓葉の足は止まらず、与えた傷は立ちどころに再生されていく。
 予想通り。愚かな科学者が彼女に与えた禁断の玩具は、今も最強の生命体をそうあらせ続けている。

「もう一度イリスと、みんなと遊べて――本当に幸せなの!」
「……そうかよ」

 ギリ、と、砕けそうなほどに奥歯を噛み締めた。
 こうなることは分かっていた筈だ。
 自分では、たとえ何をしたって神寂祓葉に勝てない。

 あのシストセルカでさえ、初見だったとはいえ遅れを取った怪物だ。
 それに単身で突撃を敢行して、何かがどうにかなるとでも思っていたのか。
 そうやって自分の愚かさを客観視することはできているのに。
 今この瞬間でさえ、死への恐怖よりも彼女の言い草に対する怒りの方が遥か勝っているのがますます救えない。

「……私は、あんたとだけでよかったよ」

 色彩の剣を、通用する筈がないと分かっている得物を強く握りしめる。
 何のために? 決まっている。目の前の女を殺すためだ。忌まわしい過去を濯ぐためだ。
 そうやって、もう一度。今度こそ。こいつの、永遠の一番になってやるためだ。

「おまえさえいれば! 私は! それでよかったんだ!!」

 咆哮と共に、色彩の剣を肥大化させる。
 光の剣の写しのような太刀ほどのサイズから、少女の細腕では振るえないサイズの大剣へと組み替える。
 この〈未練〉ごと、目の前の救えないところに堕ちていった過去を断ち切るべく。
 楪依里朱は鼻血を垂らすほどの過思考過演算を重ねながら、紛れもない過去最高の色彩を描きあげた。
 ともすれば英霊の宝具にさえ比肩し得る、超規格外の芸当。
 あまねく針音を司る科学者が称するところの〈宝具類似現象〉、それに確実に達する巨大なる白黒。
 それを一気呵成に、裂帛の気合を込めて振り下ろす。

 死ね、私の〈未練〉。
 消えろ、私の過去。
 さよならだ、私の青春。

 落ちる一閃、迎え撃つ光。
 衝突は一瞬。その刹那に、響く、彼女の言葉。


「やっぱり――――イリスは強いね」


 噛みしめるように紡がれた言葉と共に。
 人生最高の創造が、光の剣により折り砕かれた。
 散らばる白黒の残骸、色彩の返り血が白々/黒々と舞う。
 わかりきった結末。最初から読めていた終わり。
 きっと次の瞬間には、祓葉の剣は自分の胸を貫くだろうと悟る。

 そう――"あの時"と同じように。

「まだ、だ」

 ふざけるな。
 それだけは、認めるものか。
 そうと決心すれば判断はもはや瞬時だった。

「……こんなところで、終わってやるものか――!」

 色間魔術、魔女を魔女たらしめる術式のその秘奥。
 〈色彩〉の解放に踏み切るべく、イリスは魔力を回転させる。

 本当は正念場まで取っておくつもりだった。
 だがこの先、これ以上の"正念場"など決してありはしないと理解した。
 ならば出し惜しみなどもはや愚行でしかない。
 楪家の探究と妄執の集大成。色を起点に超越へ至るという思想、理論の到達点。
 二つ名の〈魔女〉から正真の〈魔女〉へと自らを変じさせるジョーカーを今まさに切らんとして――そこで。



《Garry Owen, Garry Owen, Garry Owen――!!!》



 けたたましいラッパの旋律と合唱が木霊して。
 それと同時に、青き騎兵達の放つ鉛弾の雨が、踊るふたりの少女へ殺到した。



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最終更新:2024年10月09日 15:08