例えるならそれは、冬場の静電気に似ていた。
ドアノブなんかに触れた時バチッとなって、思わず手を引いてしまう日常の一風景。
それに似ているけれど、しかし絶対的に違う。
天梨はその現象の意味を理解してはいなかったが、それでも何か、自分の身体に不可逆的な異変が生じたことだけは分かった。
何、今の――。
いまだ早鐘を打ち続ける心臓の脈動を感じながら、天梨はそんな言葉を口に出そうとして。
その瞬間、苛立ちも露わに剣を振り上げるアヴェンジャー・
シャクシャインの姿を見た。
「え……」
「心配しないでいい。今回は俺の都合ってことにしてやるよ」
シャクシャインは憎悪の化身だが、天梨の前でそれを露骨に見せたことは少ない。
彼はいつだって飄々と笑い、嘲りながら天梨に怨嗟を囁くばかりで。
憎むモノに対する感情を爆ぜさせ荒れ狂うようなことはあまりなかった。
が、今の彼は明確な敵意と怒りでもって少女の前に転がる"モノ"を見下ろしていて。
「――余計な真似しやがって、生まれ損ないの人形(ニポポ)風情が」
振り下ろされる妖刀を止めることさえ、天梨には間に合わない。
何故シャクシャインが怒っているのかさえ分からないし、まず足元に転がる"それ"は泥に塗れてそもそも何かも分からない状態なのだ。
それの中身が何であるかを、恐るべき復讐者は彼女に決して伝えないだろう。
そういう意味でも、これは"例外"なのだ。
輪堂天梨ではなく、シャクシャインの事情で殺す。
彼と彼女の繰り広げる、天国と地獄のせめぎ合いとは無関係に屠る。
さながら、望まれない忌み子を殴り殺して間引くように。
堕ちた英雄の妖刀は振り下ろされ、そして――。
「悪いね。その憤懣は理解できるが、こっちにも事情があるんだわ」
「……!」
転がるガラス瓶を中身ごと粉砕する寸前のところで、一本のナイフによって阻まれた。
砕け散る銀片。瓶は割って入ったナイフの主に抱えられ、シャクシャインの眼前から離脱する。
されど、彼としても逃すつもりは毛頭ない。
月並みな表現をするならば、楽しみにしていた米櫃に手を突っ込む無粋を犯されたのだから。
彼の『血啜喰牙(イペタム)』はすぐさまに血吸いの風と化し、瓶を抱えた髑髏面の怪人に殺到した。
「ちょっ、アヴェンジャー……!?」
「逃すかよ、糞が」
――アイヌの妖刀・イペタム。
直訳で〈人喰い刀〉を意味するそれは、ひどい大食漢な上に担い手すら選り好みする。
気に入った相手には使われてやるし、力まで寄越す羽振りのいいひょうきん者。
しかし気に入らなければ担うことを許さないどころか、切っ先を翻して喉笛を掻き切ってくる傍若無人な暴れ馬。
こうなる以前から英雄として名を馳せ、思うままに振る舞い続けてきたシャクシャインには当然に力があった。
その力にイペタムは平伏どころか共鳴し、世に生まれ出ててから最高の相性を発揮し敵を鏖殺し続けている。
無慈悲なるソルジャー・ブルーさえ血煙に変えた剣戟の嵐が、担い手の殺意を燃料にして遥か異国の〈山の翁〉を切り刻む。
であれば瞬時にひき肉同然の惨殺死体が出来上がりそうなものだが……こちらが神話なら相手もまた神話。
人類史に"死の恐怖"として名を残した暗殺者の顔役は、悪魔(シャイターン)など見慣れている。
「まず話を聞いてもらうことは出来ないかね。白昼堂々ってのは互いに旨味が薄いと思うんだが?」
「仕掛けといた側の台詞じゃないだろ、鼠野郎(エルム)」
〈山の翁〉――ハサン・サッバーハ。
暗殺教団の三代目にして、先代の死により生じた混乱と内紛を平定した"中興の祖"。
それこそが〈継代〉の名で畏れられた、この男の正体であった。
彼の最大の偉業は崩壊寸前の教団を再編し後世に繋げたことであったが、ではこの男は折衝だけが取り柄の事務屋だったのかと言えば。
当然、その答えは否である。何故か。前提として力のない者に、凶手の集団は付いて行かないからだ。
現代より遥かに力量の大小が重視される時代。頭のいいだけの弱者に、コミュニティを牽引することは叶わない。
煮え滾る獰猛な殺意そのものの剣戟を、
継代のハサンは最小限の動きと最大効率の負傷で躱していく。
一度の接触で砕けたナイフの代替品は今は亡きガーンドレッドの魔術師達が持ち込んでいた、多少の武装強化が施されているだけのなまくらだったが、それでも生き延びるだけが目的なら十分すぎた。
極まった剣術家にも匹敵する刃の扱いと、押し寄せる衝撃/剛力の最も弱い点を察知してやり過ごす絶大な鍛錬量に基づく立ち回り。
蹂躙だけが能の騎兵隊ではまず不可能であろう柔軟そのものの殺陣が、誰がどう見ても勝ち目のない戦いをのらりくらりと延長させる。
内心の焦りと諦観は髑髏面の内側に留め、決して相手に悟らせない。暗殺者にあるべき振る舞いを、継代はこの状況でさえ徹底していた。
が――だとしてもまともにやれば勝ち目など存在しないことは変わらない。
シャクシャインは怪物である。まさしく、シャイターンの如き魔性である。
振るう妖刀の獰猛さもさることながら、憎悪の炎で猛り狂う"堕ちた英雄"の突撃はそれそのものが一個の災害だ。
いかに優れていようとも、暗殺者にこれを正面突破せよと求めるのは酷というもの。
よって必然、継代の奇跡じみた善戦に翳りが見え出すのは早かった。
シャクシャインは技すら使っていない。ただ前へ、前へ前へ前へ。
反撃など許さず前へ進む。それだけで、妖刀の斬撃網は破滅的なまでにその密度を増していく。
暗殺者と戦士。専門外と専門分野。鼠と猛禽の対決が、次第に対決の体をすら成さなくなっていく。
もう数秒もあれば血啜りの牙は暗殺者の全身を暴食するだろう状況になったところで、髑髏面に隠れた彼の口が声を発した。
「……いい加減溜飲は下がっただろ。この辺で勘弁してくれよ」
「寝言は寝てから言うもんだ」
「そうかい。じゃあ、寝言かどうかは後ろのお嬢ちゃんに判断して貰おうかね」
「何?」
訝しげに眉を顰めたシャクシャイン。
瞬間、継代はたん、と上へ跳んだ。
同時に、彼とその振るう刃の軌跡で遮られていた背後の景色が露わになる。
誰がどう見ても危険そのものである白昼の殺し合い。そこにあまりに不似合いな多くの群衆(ギャラリー)達が、躍る英雄と彼の主人に視線を送っていた。
「っ……!」
天梨が息を呑む。
その顔色が、サッと青褪めた。
日々無数の悪意に曝され、生きながらに人生を歪曲され、それでも呪いのひとつも吐けない少女。
押し寄せる蝗害にさえ殺意を放つことのできない彼女のことを感情の籠もらない瞳で見つめながら、彼らは皆一様に自分の首へ刃を突き付けている。
ある者はガラス片。ある者は落ちていた釘。
ある者は包丁で、またある者は自分の爪。
自殺に用いるには心許ない道具が大半だったが、老若男女の垣根なく整然と並んだ彼らが皆一様にそうしている光景の異様さが、自らの命を人質にした脅迫行為に激しい説得力を与えていた。
チッ、とシャクシャインが心底忌まわしそうに舌を打つ。
彼は、いや"彼も"知っているからだ。輪堂天梨という少女は、この状況に耐えられる精神構造をしていないことを。
「あ、アヴェンジャー! ダメ……!」
案の定、震えた声がシャクシャインの続く凶行を制止する。
状況が状況だから、で無辜の市民を虐殺できる人物なら、彼女は一体どれほど楽に生きられたろうか。
そして自分も、どれほど仕事が楽だったか――復讐鬼は一瞬の逡巡の後、苦い顔で刀を下ろした。
「……いちいち言わなくても判ってるよ。君がそういう人間なことは嫌ってほど知ってる」
天梨の性根は知っているが、今ほどそれを忌々しく思ったことはない。
今回のこれは単なる悪意ではなく、正当なる報復としての殺戮行動だった。
あのガラス瓶の中に入っていた"何か"が、〈天使〉の身体を穢したことにシャクシャインは気付いている。
それが彼には許せない。自分が味わう筈だった美酒を、あろうことかこんな鼠まがいの卑怯者どもに横取りされたのだ。
ましてその狼藉を働いたのが下劣な暗殺者だったというのもまた、彼の不興に拍車をかけていた。
不意討ち。奸計。いずれもシャクシャインにとって憎悪すべき悪徳そのものである。
そんな手合いに"またも"してやられた事実に、否応なく生前の最期が想起される。
もしも今天梨の意識がなかったならば、彼は嬉々として髑髏面の暗殺者へ想像できる限り最も惨たらしい死に様を提供していただろう。
ガラス瓶の中の生き物に関してもそうだ。死毒の炎で骨まで焦がし、魂まで焼き尽くして殺していたと断言できる。
「分かってくれて何よりだ。
これから話し合おうって相手にする手段じゃないのは承知だが、文句はこの"大将"に言ってくれ」
「ハッ。出来損ないの飼い主(ニシパ)を持つと大変だな」
「あんたに言われたかないが、否定は出来かねるな」
――暗殺教団の主は、自らの秘伝に天使(ザバーニーヤ)の名を与える。
この継代のハサンもまた、その例外ではなく秘伝の奥義を有していた。
名を『奇想誘惑』。神秘の域にまで達した極限の技術、持つ得体は"催眠術"。
視線ひとつで人間を傀儡に変え、一瞬にして呵責を知らない暗殺者を仕立て上げる、こと市街戦において最悪の御業。
蛇杖堂記念病院での試み自体は成功し、一定の成果をあげた。
だがそこに生まれたたったひとつの誤算が、彼らを窮地に追いやった。
神さえ喰らう蝗害からの、結果の見えた逃走劇。
その最中、継代のハサンは手当たり次第に見かけた人間へ自身の奥義を行使していた。
万一蝗害の猛追を生き延びることが出来たとして、誰の目にも分かる這々の体を狙い撃たれれば今度こそ命運は尽きる。
だからこそ優秀なる〈山の翁〉は、絶望の中でさえ一縷の希望が叶ったその後のことを想定し、必要な行動を行い続けていたのだ。
そんな事前準備が、斯くして結実の時を迎える。
輪堂天梨という"殺せない"マスターに対し、この世のどんな武力より覿面に効く脅しとして。
(――大将よ、いいんだな?
眠りこけたのはおたくの落ち度だ。俺がこれから取る選択があんたの想定と違っても、後で恨み言言うんじゃねえぞ……?)
とはいえ、未だに首の皮一枚で命運が繋がっている状況なのは変わっていない。
継代の背筋を伝う冷たい汗。砂漠の夜よりも激しく骨の髄を寒からしめる慄気の中、それでも暗殺者は己が成すべきことを成す。
「こちらに交戦の意思はない。話し合いのテーブルを設けてもらいたい」
この酔狂な大将ならばそう言う筈だと、おぼつかない理解度で眠るホムンクルスの思考をエミュレートする。
最適解は誰がどう見ても撤退だが、それではただ失っただけで終わってしまう。
どの道『奇想誘惑』がある限り、敵方のマスターの意思決定には縛りをかけられるのだ。
状況の優位はこちらにある。だから焦るな、落ち着け――この窮地を掌握しろ。
継代のハサンは、可能なら天でも仰ぎたい気分だった。
こんなもの、まったくもって暗殺者の仕事ではない。
そう嘆く一方で、ああ生前は組織の傾きを立て直すために嫌んなるほどこういう役回りしたなあ、としみじみ思ったりもしていて。
いつになったら己の厄日は終わるのだろうかと、仮面の下で誰にも届かない小さなため息をひとつこぼした。
◇◇
――意識が、泥濘のような眠りの底から浮上する。
ガーンドレッドのホムンクルスはすべてにおいて効率的に設計されていた。
継続的な運用を度外視しているからこその、道具としての利便性に最特化させた生態。
例えばその一例に、睡眠行為が不要であること。そして何らかの理由で意識が断絶した時、脳が過剰駆動することによりごく短時間でブラックアウトから回復できる……というものがある。
「…………、…………」
そんな特異体質を持つ彼にとって、今回の数十分にも及ぶ気絶は歴代でも屈指の暗転時間(スコア)だった。
どうやらあの狂騒の病院決戦は、想像以上にミロクの体力を消耗させていたらしい。
思えば前回はガーンドレッドの魔術師達が健在だったこともあり、こうして自ら矢面に立って戦う機会はほとんどなかった。
我が身の不自由を改めて噛みしめながら開いた瞼の先に広がる視界は、ちっぽけな部屋の中であった。
響くのはミロクが知る由もない"流行り"の歌。
テーブルの上には曲を送信するための機械と、二本のマイクが置かれている。
壁と一体になった座椅子が四つ、向かい合うように並んでいて。
ミロクの隣には、彼に付き従い命令を果たす髑髏面の暗殺者が。
そして対面には剣呑な目つきをした青年と、意識を失う前に見た〈天の翼〉が座っていた。
「あ、起きたんだね。えと、大丈夫……?」
『――活動上の問題はない。意識の曇りも既に晴れている。総じて、心配には及ばない』
「そ、そっか。ならよかったや」
にへ、と優しい微笑みを浮かべる少女の姿。
見るからに殺気剥き出しの、彼女のサーヴァントであろう青年。
あからさまに"とりあえず"見繕ったのだと分かるこの空間。
視界に入る情報だけで、ミロクはどうやら自分の願望通りの展開を辿ったのだと理解した。
(すまない。また手間を掛けたな、アサシン)
(本当だよ。あんたには暗殺者って言葉の意味を懇々と語り聞かせる必要がありそうだ)
(その際は慎んで傾聴させてもらおう。此度のことに関しては申し開きのしようもない)
(今までも申し開きがほしいこといっぱいあったけどなあ……)
――さすがは〈山の翁〉、暗殺教団の中興の祖。
十九人の当主の中でも、場を作ることにかけては随一であろう〈継代のハサン〉。
主なき状態でさえその意を汲み、描きかけの絵を完成させてくれるとは。
ミロクは今、素直に彼の奮闘と能力に感謝していた。
どうりで"あの男"が重用しただけはあると、継代には話したことのない過去の記憶に思いを馳せながら。
念話を切り、改めて対面に座る少女に視線を向けた。可憐な娘だ。その華やかさは、ともすればミロクの主君にも迫るものがある。
『我が従僕の言った通り、こちらに交戦の意思はない。
ただしそれだけでは納得行かぬこともあるだろう。私の働いた行為に見合うぶんの対価は支払うつもりだ』
「ああそう。なら遠慮なく尋問させて貰おうかな。対価は支払ってくれるんだろ? 人形(ニポポ)よ」
ミロクの言葉に対し、少女――輪堂天梨をさしおいて言葉を発したのはその隣に座る青年であった。
組んだ足をテーブルの上に投げ出し、顎を突き出して侮蔑と不快の感情を隠そうともしていない。
が、それを不当とミロクは思わなかった。
今口にした通り、先に手を出したのは己の方だからだ。敵意を向けられる謂れが、彼にはある。
「――お前、こいつに何をした? ……ああいや、違うな。何のためにあんな真似をした?」
……意識を失う直前、ミロクは己に触れた少女へ魔術を行使した。
ガーンドレッドのホムンクルスは事実上、魔術を使うことができない。
その例外は解析と調律だ。気配探知と、探知した使い魔及び術式に対する介入。
それだけが道具である彼らの能である。故にあの時ミロクが遣ったのも、この力だった。
――【同調/調律(tuning)】。
――魔術回路の解析と、その調律。
聖杯戦争においては"ほぼ"無意味の域に留まっていた才覚を読み解き、喚起した。
病院でアンジェリカ・アルロニカに対してやったのと同じ芸当だ。
したがって輪堂天梨は今、もはやミロクに触れた/触れられた以前とは別の位階に達している。
彼女のアヴェンジャー・シャクシャインはそれを見抜いていた。
だから何のために、と問う。これに対してミロクは、隠し立てするでもなく答えた。
『我が目的のため。正しくは、我が奉ずる主君のため』
「ぼかしてんじゃねえよ。そのナリで頭まで白痴(エパタイ)なら笑えねえぞ?」
『誤魔化しているつもりはない。
先の行動の意図と私の目指すところを語るには、長い話が必要になる。
求めるなら端的に語ることも可能ではあるが、勧めはしない。本質を知らずして聞けば認識の齟齬が生じるたぐいの話だ』
「……ちッ」
そう、誠意を示すつもりはあるのだ。
聖杯戦争において騙し合いは常。
常に相手を陥れ、破滅させることを念頭に置くのはセオリーである。
が、此処で悪意を織り交ぜればすべてが破算になることをミロクは理解していた。
何故なら今、自分の目の前にいるのは陥れるべき敵ではなく。
この広大な針音都市の中からようやく見つけ出した――
『……肯定とみなし、話を始める』
――かつて見上げ、仰ぐことしかできなかった。
――あの"天"へと続くかもしれない、白い翼の〈天使(きぼう)〉であるのだから。
『我が名は
ホムンクルス36号。この針音の聖杯戦争が始まる前の、言うなれば〈はじまりの聖杯戦争〉に列席した七人のひとり』
「……え?」
天梨の驚きの声が、歌の響く個室……カラオケルームの中に小さく漏れる。
世界の秘密を語る場としてはあまりにも俗で粗雑な正方形の中で、かつて光を見たホムンクルスは話し始めた。
『この聖杯戦争は、我々が馳せた戦場と地続きの運命線上に存在している』
◇◇
聖杯。それは――万物の願いを叶える、至高の聖遺物である。
これをめぐり争うことを"聖杯戦争"と呼び。
聖杯を求む魔術師たちは英霊を招き寄せ、従者(サーヴァント)として使役する。
2024年1月。東京都内にて、聖杯戦争が開催された。
聖堂協会の所有する〈熾天の冠〉を用い、開催が告げられた聖杯戦争。
名乗りをあげた者は数多く、されど資格を得られた者はセオリー通りに七人。
七人のマスターと、七騎のサーヴァントにより行われた、あらゆる魔術師の悲願を叶えるための戦いである。
複雑に交差して絡み合う策謀と陰謀。
行使される武力、日増しに苛烈化していく戦線。
同盟、裏切り、工作、反則まがいの裏技に至るまであらゆる手管が飛び交い、摩天楼東京は魔境と化した。
目指すは聖杯。狙うは成就。誰一人己の願いと未来を譲る気などなく、繰り広げられる誇りと汚濁に塗れた殺し合い。
その均衡を破ったのは、魔術師ですらないひとりの少女だった。
半ば偶然、巻き込まれるようにして戦火に身を投じた哀れな娘。
呼び出したサーヴァントも、戦力的にほぼ意味を成さないと言っていい最弱の魔術師(キャスター)であった。
だから誰もが気にしていなかったし、せいぜい他所の手札を引き出す当て馬にでもなれば御の字と高を括っていた。
だが、少女は勝った。
目の前に現れる、すべての争いに勝利した。
臆することなく前線に立ち、何度も傷つき、時に致命傷さえ負いながらそれを跳ね除けて粉砕した。
ある者は、それを奇跡と呼び。
またある者は、悪夢と呼んだ。
奇跡としか形容できない不条理。
悪夢としか表現できない理不尽。
光の剣を、その右手に握りしめ。
いついかなる時でも微笑みながら、快活に、踊り舞うように勝利を重ねるハイティーン。
――こんばんは! えっと、直接会うのは初めてだよね!
――私は祓葉。
神寂祓葉! 神さまが寂しがって祓う葉っぱ、って書いて、祓葉!
――ねえ。あなたの、お名前は?
都市の焼け落ちる絵を背景に。
空まで赤く染まるような、戦火の日に。
使い潰されるさだめだった人造の生命は、運命に出会った。
◇◇
「――――その馬鹿げた話を信じろって?」
〈はじまりの聖杯戦争〉。
無法で無法を制する、規則不在の大闘争。
陰謀と暴力が吹き荒れ、世界有数の摩天楼を削り潰した悪夢の戦。
そしてその中に産声をあげた、光り輝く主人公(ヒロイン)。
神寂祓葉。
光の剣持つ、この世の太陽。
道具でしかなかった、三六番目のホムンクルス。
それに生きる意味を与えた、ひとりの少女。
単騎にて英霊を凌駕し、運命を切り払い。
おそらくは己の死後に聖杯を掴み、針音の仮想都市を創造した者。
この聖杯戦争は〈第二次〉で、彼女の幼気を慰めるための箱庭で。
すべての演者と英霊には、いつか彼女に挑む使命が科されている。
ミロクはそれを語った。語り終えて最初に返ってきたのは、訝る思いを隠そうともしない復讐者の殺気であった。
「さっきお前のことを白痴(エパタイ)と呼んだけど撤回するよ。馬鹿でももう少しまともな嘘を吐く」
無理はない。
ミロクとて、いきなりこれを聞かされたなら狂人の戯言と切り捨てるだろう。
それほどまでに、すべてが馬鹿げている。
英霊をねじ伏せ、運命を凌駕し、聖杯を手にしてかつての馬鹿騒ぎをやり直す無邪気な極星。
そんなモノ、実在する筈がない。この世の道理のすべてに反している。
そう思うのが普通だ。シャクシャインの怒りを短慮と嗤える者は、きっとこの世に存在しない。
「なあ。我慢してやってたけどさ、そろそろもういいか?
こっちは腸が煮えくり返ってんだよ。危うく全部台無しだ。誰の許可を得て俺のモノに手ぇ付けてんだ、手前」
堕ちた英雄の手が、妖刀の柄を掴む。
横溢する殺気が、ガラス越しにミロクの肌を刺す。
娯楽の場である筈のカラオケルームが、刹那にして処刑場へと姿を変える。
「……やるってんなら構わないが、一応言っておくぞ。
既に店員や客は支配下に落としてる。無辜の市民の犠牲を、あんたのマスターは承服できるのか?」
「ハハ、そりゃ大変だ。で? そいつらがこの部屋に到着するまでに何秒かかる?
それまでに俺が君ら二人を細切れにする方が早いって思いつく発想力はないか?
もうちょっと考えて言葉を選べよ鼠野郎。君の曲芸で俺の首が獲れるってんなら話は別だけどな」
一触即発。
満ちる殺意は爆発寸前。
愉しみを、大願を、無粋な企てで穢された復讐鬼の怒りは極めて烈しい。
そしてそれが爆発したなら、その瞬間もう暗殺者の手には負えなくなる。
だからこその緊迫。微塵でも触れ方を誤れば途端にすべて終わる瀬戸際。
張り詰めた空気を破ったのは――この場でもっとも無力な少女の声だった。
「……ま、待って。私は、信じてもいいと思うよ」
「あ?」
輪堂天梨。
ホムンクルスが見初めた、〈天の翼〉。
彼女の言葉に、苛立ちを隠そうともせず眉根を寄せるシャクシャイン。
びく、と小さく身体を跳ねさせながらも、少女の口から前言を撤回する言葉は出なかった。
その代わりに紡がれるのは、無力な弱者なりの私見。
「そりゃ、正直……そんなことあるわけないっていうような話だったけどさ。
でも――えと、意味なくない? 今此処でそんな嘘つく理由って……ある?」
「ふわっとしたことしか言えないなら黙ってなよ。そんなだから君は――」
「ないでしょ……!? だって、……こういう言い方はしたくないけど。
たぶん、アヴェンジャーの方があっちのアサシンより強いじゃん。
それなのに信じてもらえないような嘘で切り抜けようとするなんて、それこそヘンな話だよ」
信じるにも値しないような、荒唐無稽な"世界の秘密"。
が、あまりに現実離れしているからこそ、逆説的にそこへ説得力が生まれる。
シャクシャインのように怒りを覚えていない天梨は、だからこそそこに辿り着けた。
「……だからお願い、もう少しだけ待って。
戦うなら、話を全部聞いてからにしたいの」
「……本気で言ってんの? それ。
アサシンとそのマスターに対して言うに事欠いて"お話"するって?
お花畑もここまで来ると悲惨だね。自分の命を狙う凶手にも博愛主義を貫くつもりかい?」
「――いいから! 私は、この子の話を聞いてみたいの!
話も聞かないで、何も知らないで、決めつけるとか、そんなの…………っ」
その先の言葉を、天梨は紡がなかった。
口にしたらきっと、黒くなってしまう。
――そんなの、あいつらと同じじゃん。
顔のない大衆の悪意を知る彼女故の言葉は、誰の耳にも聞こえぬままであったが。
果たしてそんな弱さが、シャクシャインの言葉を借りるならば悲惨な博愛主義が。
今この場では、あるホムンクルスを窮地から連れ出す導きとなる。
『……非現実的な話なのは百も承知だ。だが、これが真実。誓ってひとつの嘘もない』
そう、嘘などではない。
この世のどんな嘘でもあの神話を騙れない。
事実は小説より奇なりとよく言うが。
ミロクの見た事実は、神話よりも奇怪極まりないナニカであった。
『私は今も、我が主君――神寂祓葉への〈忠義〉をもとに存在し、活動している』
元より用が済めば臨終を迎えるだけの肉人形。
願いは持たず、仮に聖杯が手に入ることがあるならその用途は主のために。
それは揺るぎなく、存在の意味も朧気なホムンクルスの唯一の支柱としてあり続ける大志の筈だった。
だが。そこに楔を打ち込んだのは、忌まわしく笑うひとりの奇術師(マジシャン)。
――過去の焼き直しなんてやめた方がいい。今のままでは、君の忠義が行き着く着地点は前と同じだろう。
『だが。今のままでは真の忠節は果たせぬ。
噛み砕いて言うならば、彼女の意に添えぬ。
だからこそ此度、私は"その先"を望んでいる。主従の間柄だけに完結しない、"その先"を求めるように自らを再定義した』
己の死後、黒白は何をしたのだろう。
あれら宿敵どもは、彼女とどう決着したのだろう。
思うたびに、情を知らぬ炉心(のうずい)が鼓動する。
その鼓動の名を、ホムンクルスは知らない。
だがこのままではいけないことだけは本能的に解していた。
忌まわしくも鬱陶しい〈脱出王〉が己に唱えた戯言。
それが、永遠に続く筈だった停滞を動かす油となって歯車を回す。
『祓葉(かのじょ)は未知を愛しているという。
己が筋書きを凌駕し、魅せてくれるモノを待望しているという。
であれば彼女の従者たる私にできること、目指すべきことはひとつしかない』
そう、すなわち。
『彼女の想定を超え、ともすれば上回りさえする光を。
我が魂を今も焦がしてやまない最美の星と並びすべてを圧する重力を。
新たなる恒星として輝く未知を。探し出し導くべきであると、私は熟考の末に得心した』
ミロクは、人付き合いを知らない。
彼がまともに関わったことのある人間は自分を見下ろす魔術師達と、光輝く少女だけだ。
だとしても今。見出した真の大義を目前にして、ミロクは目の前に座る新たな人間を見据えていた。
『私が御身に触れた理由。触れ、その可能性を拓かせた理由。すべてを、今此処に形容する』
――我が大義。
――我が狂気。
――我が身のすべてを賭して。
『――――私は、御身という星が欲しい。それを魅せたいのだ、我が主に』
断じた言葉に誓って嘘はなく。
だからこそ、英雄は今度こそ剣を抜いた。
浮かぶ殺意は、此処までで最大のモノとして煮え滾っている。
次に口を開けば殺すと、その精悍なる凶相が告げていた。
故にミロクは黙る。そうするしかない。
必然、次に紡がれる音は〈天使〉の聲。
「……なんで、私なの」
『眩しかったから』
「他にも、凄い子ならいっぱいいるよ」
『御身の輝きは、彼女に似ている』
「……わかんないよ。私、そんな大した人間じゃない」
ふるふる、と首を横に振る動作はどこか自虐的で。
ミロクは故に、一考する必要があった。
想定外だったのは見初めた彼女の、自己肯定感の低さ。
いや、だからこそ彼女は星の資格を有するに至ったのか。
このわずか数分の接点では本質を見抜くには到底至れず。
彼女の従える復讐者は、もう殺意の爆発を目前にしている。
であればこそ。
ミロクに取れる選択肢は、もはやひとつだった。
『……理解した。ではこちらも新たな誠意を示そう』
継代の彼が身構える気配。
だが構いはしない。
説明は後に置く。
『名は』
「え。あ……天梨。輪堂、天梨。だけど」
『承知した』
今優先すべきは何よりも、誰よりも。
目の前に座る彼女であると判断し、その上で口を開き。
『――我が従僕、アサシンへ令呪を以って命ずる。
ホムンクルス36号が輪堂天梨へ意図的に虚言を弄した際、速やかにこれを抹殺せよ』
狂気のままに、決して覆せぬ誓いの言葉を吐いた。
◇◇
「おい――正気か、あんた」
継代のハサンが絶句の中絞り出す声が、虚しく響く。
無理はない。その証拠に、天梨もシャクシャインも言葉を失っていた。
令呪とはすなわち、英霊に対して要石が保持できる絶対の命令権。
些細な言葉遊びで覆せるモノではなく、一度口にすれば不変の縛りとして永久に戒める枷だ。
であるというのに、今、ホムンクルスの彼はその一画を切った。
魔術師にとって生命線でさえあるそれを、自身の誠意の証明として躊躇なく捨てたのだ。
これで絶句しないなら、それはもはや聖杯戦争の何たるかを知らないことと同義である。
そう断ぜるほどにあり得ぬ選択。しかしこと己の心を示すならば、この上なく最上であろうジョーカー。
『これより私は御身へ嘘を吐けない。聞きたいことがあるならば存分に聞くがいい』
道理に照らすなら自殺行為以外の何物でもないが、復讐者の凶刃を抑えるには適解だった。
何故ならこの時点で、ミロクの言葉には嘘がないという証明ができてしまった。
つまりその吐く言葉はすべてが嘘偽りのない彼の本音で、忠誠のすべてで。
本来暗殺者を従えるマスターが弄するような奸計が一切ないことを、開け広げにするものであったから。
「な……なんで? 駄目だよ、そんなことしたら……」
『何も駄目ではない。対価は払うと言った筈だ』
「でも――」
『それよりも、疑問があるなら尋ねてほしい。私の知ることであれば何なりと答えよう』
魔術師ではない、ずぶの素人でさえ分かる致命。
が、ミロクには真実何ひとつ秘めた計略などなかった。
強いて言うならば、目の前の彼女こそが計略(それ)。
見出した新たなる存在意義を果たせるならば、それにすべてを捧げることに欠片の躊躇いもない。
「…………っ」
天梨は、示された誠意に対して押し黙るしかなかった。
無理もない。彼女からしてみれば、総じて何がなんだか分からないままなのだから。
神寂祓葉。世界の主役。極星。この世界の、絶対なる太陽。ホムンクルスの主。
話に聞くだけでも頭の痛くなるような、出鱈目な人だと思った。
そんな相手に自分なんかが何かできるはずもない。謙遜でも何でもなく、事実としてそう思うしかなかった。
なのに、自分を見据えるガラス瓶の中の赤子(かれ)の瞳はどこまでもまっすぐで。
「私は、何をすればいいの……?
そんなこと言われたって、私にできることなんて、何も……」
故に切って捨てることもできず、たどたどしくこんなことを言うしかなかった。
それに対しても、ミロクは律儀に答えるのだ。
『先ほども話したが、私は彼女に未知という可能性を示せればそれでいい。
前回とは異なるモノを、光を。示し彼女の微笑みを引き出せれば、それだけで私は冥利に尽きる』
「だ、だから……! 私なんにもできないよ……!?
魔術だって使えないし、アヴェンジャーがいなかったら戦うこともできないし……!」
『そうだな。確かに先ほどまではそうだったろう。
が、無礼を承知で私がその前提を書き換えた。
同調にして調律(tuning)。先刻御身が私に触れた時、その魔術回路を調律させて貰った。
御身のアヴェンジャーはそれを分かっているから、ああも怒り狂っているのだ』
「ちょう、りつ……?」
『然り。御身は今、最低でも並以上のレベルで魔術を行使できるようになっている』
……そんなことをいきなり言われても困る。
天梨の混乱はもっともで。
それを見通せないホムンクルスでもなくて。
『では試してみよう。私に意識を集中させてほしい』
「……、こう?」
天梨が、言われるがままにミロクを見つめる。
宝石のような瞳が、造り物の命を見据える。
やはりその輝きは、どこか"彼女"に似ていた。
情を知らない心臓が、理解不能(きたい)の鼓動を打つ。
『――その上で、更に意識を先鋭化させてみろ。
魔術を使う、不可能を成す、道理をねじ伏せる……あるいは、世界へ己という存在を示す。
そんな確かな意識をもって、スイッチを押すイメージだ』
ミロクが解析した際、彼女の魔術回路はひどく微弱で未熟だった。
閉塞した血管のようなものだ。澱みが溜まり、正常に巡っていない状態。
彼がやったのは、その澱みを取り除いて舗装する行為。
魔術ひとつで他人の回路を強化増設できるならこれ以上はないのだが、残念ながらそこまでホムンクルスは逸脱していない。
あくまでも背中を押す程度、障害物を除去する程度のことがせいぜいだ。
「……う――」
ミロクを見つめて唇を噛み締め、集中を高めていく天梨。
そうしている姿さえ絵になるのは、流石〈天使〉と呼ばれる少女と言ったところか。
白い肌にじわり、と脂汗が滲み始める。
今のところ、まだそれらしい異変は起こっていない。
(スイッチを押す、って言われても……ぜんぜん、分かんないけど……)
天梨は、集中を切らさないままに考える。
未だに混乱の方が勝ってはいるのだが、そんな中ですら向けられた期待に誠心誠意応えようとしてしまうのは職業病か。
(それに通じるものだったら、他のことでもいいのかな……?)
少女は自力の発想で、そこに行き着く。
ミロクが調律するまで、天梨の魔術回路は言うなれば半開きの蛇口だった。
自分の意思とは無関係に常に漏れ出し、魔術を行使し続けている状態。
その時点でも才覚の片鱗は滲んでいたと言えるが、半開きでは所詮威力はささやかなものだ。
が、今の天梨はそれを完全に開くことができる。
魔術回路の開閉という概念を会得したわけだ。
であれば後は、残りの蛇口を捻り切るだけでいい。
――魔術回路は"開く"ことで初めて術の行使が可能になる。
開き方は千差万別。故に、ミロクの言葉に縛られず独自のイメージを見つけようとしたのは慧眼だったと言える。
ある魔術師は、撃鉄を描き。ある魔術師は、想像の中で己が心臓を貫くという。
では、輪堂天梨にとっての"スイッチ"とは。オンオフ、開閉。そのイメージは――
「……すぅ……」
……描いたのは、ステージに立つ自分の姿だった。
壇上にひとり立ち、マイクを握り、息を吸い込む。
そして口を開き、声を吐き出す。
「――はぁ……!」
少女から偶像へ。
天梨から天使へ。
自己を切り替え、蛇口を開く。
天性のアイドルたる彼女にとっての撃鉄(トリガー)は、歌うこと。
瞬間、天梨は自分の中で何かが弾ける音を聞いた。
火花の音に似ている、とそう思った。
自分の中を巡る幾本もの線の、その内側を色とりどりの火花(サイリウム)が走る。
なのに不思議と痛みはなく、意識が冴え渡る感覚だけがあった。
同時にその場へ、異変が起こる。
目に見える異変ではない。
炎は出ないし、雷は鳴らず、何かが壊れたわけでもない。
されど場の全員――ミロクのみならず、シャクシャインも継代のハサンも、同時にそれを知覚した。
「……へえ。こいつは」
「……、……」
継代は驚いたように髑髏面の口元へ手を当て。
シャクシャインは相変わらず不機嫌そうに、だが微かに視線を動かす。
天梨はそんな周りの反応にも気付かず、小さく息を切らしている。
ミロクは――汗を垂らして呼吸を整える天梨の対面で、自分の短い腕を動かし。
『なるほど。こういう形で発現するか』
声色はいつも通りに淡々と、しかし確かに天梨が成功したことを確認していた。
「はあ、はあ……。どう、かな……?」
『身体能力に向上が見受けられる。しかも私だけでなく、サーヴァント達にも影響が及んでいるようだ』
「えっ。言われた通り、あなたのことだけ見てたつもりだったんだけど……」
『何も失敗ではない。それどころか、ある意味では期待以上の結果と言える』
ミロクは未だ、彼女がどういう人間で、何をして暮らしているのかを知らないが。
要するに輪堂天梨という少女は、どこまでも至高のアイドルだったらしい。
『自身が友好的に認識している相手に対し、強力な身体強化作用を及ぼす。
強化魔術の類だな。しかし、初回にして既にこのような……』
「……えっと。つまりゲームで言うバフ魔法、みたいなこと?」
『認識としては正しい。が、これは御身が思っている以上に高度な芸当だ。非凡と言う他ない』
魔術師にとって物質の強化は基礎の基礎、初歩の初歩である。
だがこの強化対象が無機から有機、"生物"相手となると難易度は天井知らずに上昇する。
理由としては単純で、生き物に対しては自分の駆使する魔力が通りにくいからだ。
にもかかわらず天梨は回路をまともに開いて初回で他人へ、それも複数人へ強化を施すことができた。
「うーん……。なんか、あんまり自分じゃピンと来てないけど……」
その上で、当人は大して疲労している様子もない。
息切れはどちらかというと回路を開く際の集中に伴うものであり、魔術の行使自体にはまったく反動を感じていないように見える。
〈古びた懐中時計〉を介して後天的に獲得した回路だというのもあるかもしれないが、だとしても驚異の才能と言う他はなかった。
しかし、そこには一切の攻撃性が見られない。
こうまで他者強化に特化している辺り、天梨の魔術師としての適性に"攻撃"は含まれていない可能性が高いと、ミロクは推測する。
魔術として力(こえ)を届け、それを受け取った者の肉体に呼応とでも呼ぶべき反応を生じさせる。
後に天梨の職業を知ったミロクは強い納得を覚えることになるのだったが、それほどまでに彼女らしい形での能力発現だった。
アイドルとは歌って踊り、ファンへ笑顔を与えるもの。
まさしくこれは、そのままの力だ。傷つけるのではなく高めることにのみ秀でた天使の羽ばたき――名付けるならば。
『【感光/応答(call and response)】、といったところか』
感光と応答。
コールアンドレスポンス。
「コーレス……そう言われるとちょっと飲み込めたかも。もしかしてこれ、技名とかも大事な感じ?」
『魔術のイメージを掴む上では有用だろう。再現性の担保に一役買うのは間違いない』
「あっ、割とちゃんとした理由あるんだ? 必殺技は名前があった方がかっこいいとか、そういうことじゃないんだね」
『魔術師として日が浅い御身であれば尚更、イメージの固定で得られる恩恵は大きい。決めておいて損はないだろう』
……周りの人にバフを与える魔術。
まだ微妙に頭は追いつききっていないが、天梨としてもこの成長は少し嬉しかった。
脳裏に蘇るのは、傷ついて帰ってきたアヴェンジャーの姿。
この力があれば、これからはあんな悲しい姿を見なくても済むかもしれない。
この期に及んでも、さっきあんなに追い詰められても、天梨は人理の果てから自分のもとへやって来た相棒のことを案じていた。
その安堵が伝わったのか、シャクシャインの眉間に刻まれた皺が不快そうに深みを増したが――話はそれに構わず進んでいく。
『ただしもうひとつの力に関しては、その必要はないな』
「……もうひとつの、力?」
『やはり、自覚はなかったか』
静観していたシャクシャインの殺意の桁が、瞬間にして膨れ上がる。
それを感じ取れないのは天梨だけ。
ミロクを覆うガラスの檻が物理的な圧力で軋み、継代が戦慄するほどの地獄が間近で脈動している。
その先を言えば殺すと比喩でなく告げていたが、しかしミロクにはもはやどうしようもない。
虚実を禁じると誓ったのは他でもない彼自身。
であれば二重の狂気に憑かれた白痴の赤子に、問いの答えを遮る権利はなく。
天使と悪魔の善悪闘争、ねじれ絡み合う歪の絆へ、真実という名の泥を垂らす。
『平時はきわめて弱く、しかし有事には爆発的に効果を増す魅了(チャーム)の魔術だ。
それを御身は無自覚に、途切れることなく展開し続けている。
なんの消耗もすることなく、驚異的な効率で――恐らくはこの都市を訪れてから今に至るまでずっとな』
斯くして爆弾は、壮絶とは無縁の静かな声音でこの部屋に投下された。
◇◇
――天梨も、そこまで鈍くはない。
思えば違和感はずっとあった。
元の世界と、この針音の都市で自分を取り囲む環境は限りなく同じだけれど、ひとつだけ決定的に違っていたから。
アイドル・輪堂天梨は、活動休止寸前だったのだ。
無理もない。事実無根のゴシップは、大衆の悪意で伸ばされて、泥のように社会へ広がっていく。
問題発言のひとつで表舞台を追われるのが当たり前の世界は、如何に実力があろうが、埃まみれのスターを重用などしない。
手早く切り捨てて、誠実(クリーン)をアピールする。どこの事務所だって当たり前にそうしている。
なのにこの世界では、一向にその気配がない。
仕事は常に舞い込み、自分へ皮肉を吐いてくる関係者もいない。
ネット上では絶え間なく燃え盛り続けているのに。
リアルの天梨に面と向かって悪意をぶつける者は、天使の羽ばたきを嘲笑する者は、誰もいない。
どうして?
その答えは今、ガラス瓶の中の赤子によって示された。
「――――そっか」
天梨は、どこか茫然とした声で言った。
ショックを受けている風ではない。
かと言って、凄い力だと喜んでいるのでもない。
ただ、すべてに納得したような声だった。
「そういうこと、だったんだ」
顔を合わせている時は、みんな優しい。
誰もが、〈天使〉を愛してくれる。
けれど顔の見えない相手は、変わらない。
誰もが、〈天使〉を穢す言葉を吐き続ける。
矛盾の答えは、単純だった。
他でもない天梨自身が、そのすべてをねじ伏せていた。
歌でもなく。踊りでもなく。
ただ、その力で――〈天使〉のような輝きで、すべてを魅了していた。
『どの程度意識的に行使できるのかは未知数だが……』
ミロクは語り続ける。
シャクシャインの暴力は吹き荒れず、吹いたとしてももう遅い。
爆弾は投下され、既に弾けた後だ。
仮に此処で暗殺者の主従を挽肉に変えたとして、天梨の心からその真実が消えることはもはやないのだから。
『少なくとも、都市の人形どもは誰も御身に敵意を抱かないだろう。
直接顔を合わせているならば。その天使の如き魅惑が届く相手であるならば』
世界は何も変わっていない。
社会は何も変わっていない。
大衆は何も変わっていない。
変わったのは、輪堂天梨ただひとり。
懐中時計に触れ、魔術師となった少女だけだ。
『……やはり、告げない方がよかっただろうか?』
問いの答えを伝えたミロクは、少しの間を置いて言った。
力の抜けたように椅子へ凭れる天梨の様子に気付いたのだろう。
が、天梨はそんな彼に向けてへにゃりと笑った。
「ううん。むしろ教えてくれてよかったかも」
それは、嘘偽りのない本心だった。
投下された爆弾は、確かに少女のこれまでの常識を破壊する衝撃を生んだが。
されども、彼女の英霊が危惧するような事態を生みはしなかった。
世界と、自分自身への失望。段階を踏まずの、急激な堕天。
英雄の愛憎と、そこにある歪んだ絆を一撃で台無しにする最悪はもたらさなかった。
「なんか……これじゃほんとに〈天使〉みたいだね。
嘘も吐き続けたらほんとになるって言うけど、流石にちょっとびっくり」
ただそこにいるだけで、誰かを笑顔にする。
何の技術もなく努力もなく、存在そのものが世を華やがせる。
うぬぼれでもなんでもなく、それは人間の在り方ではない。
天上のモノ――〈天使〉の姿だ。神の使いではなく幸福の象徴としての、在り方だ。
だからこそ、迷えるホムンクルスは彼女を自己の行く末を支える柱と認識した。
神をも貪る害虫の群れでさえ魅了させ、ねじ曲げる力。
人の枠に収まらない、されど"太陽"のものとは明確に違った優しい光。
恒星の核。もしくは幼体。〈天の翼〉。希望であり、同時に未知。
『少々、想定と違う反応だ』
「え?」
『自身が無自覚に周りのすべてを魅了する術を行使していたというのは、日常のすべてが嘘であったと突き付けられるのに等しい。
誓って悪意を持って告げたわけではなかったが、ともすれば絶望に膝を屈しても不思議ではないと思っていた』
「……全部伝えてから言う? それ」
『今でなければ、互いにとって致命的な事態を招く恐れがあったのでな』
淡々と語りながら、ミロクは内心で目の前の少女への評価を改めていた。
認識を誤っていた。ただしそれは下方修正ではなく、むしろ逆だ。
――これほどまでに、悪意を示せないのか。
英霊の虫を殺せず。
奇襲同然に回路へ干渉した自分に不信さえ示さず。
世界に対する認識の崩落に等しい"真実"にすら、力なく笑う。
普通ならば、度を越したお人好しとは馬鹿の同義語だ。
しかし聖杯戦争という、命さえ賭け金にしなければならない状況でもそれを貫けるというなら、それはもはや単なる悪癖の領域を過ぎている。
――ひとつの、狂気だ。
生物として明確に軸が違っていると、そう認めざるを得ない。
『日常の崩壊は加速し続けている。我々もつい先ほど、近隣の病院で大規模な戦いを演じてきたばかりだ』
「っ――病院で……!?」
『社会機能の維持は、そう遠くない内に限界を迎えるだろう。
そうなればもはや交戦の意思に関わらず、誰でも舞台に引きずり出される乱世の幕開けとなる。
そうなってから真実を知ったのでは遅すぎる。頭を抱えて蹲るところを轢き潰されては、笑い話にもなるまい』
この聖杯戦争は、前回にさえ輪をかけて異質すぎる。
前回の聖杯戦争は自陣営含めて横紙破りの温床だったが、今回はもはや
ルールそのものが存在していない無法地帯だ。
盲目の従者のままでいたなら、ミロクはそこに疑問さえ抱かなかったろう。
けれど今は違う。〈脱出王〉の言葉が、彼に気付きを与えた。
考えるまでもなく明らかな話だったのだ、最初から。
何故この世界の神は無法も含めて前回を再現し、それどころか悪化すらさせたのか。
決まっている。
見たいからだ、未知を。
前回のように熱く熾烈で先が読めず。
それでいて、前回とはまるで違うイレギュラーだらけの聖杯戦争を。
だからミロクの王は、ホムンクルスの神は、世界の創造に敢えて六日を掛けなかったのだ。
『ついては、此処からはマスター同士として話をしたい』
新たな可能性を模索し、新たな忠義の形を造り上げることは大前提。
だが、彼女に素晴らしき忠を届けるための道中で他の屑星どもや、未知の敵に踏み潰されては意味がない。
『――単刀直入に申し上げる。ホムンクルス36号は、御身へ同盟を申し込む』
模索すべき可能性は、自身の忠の形だけに非ず。
この混沌そのものたる都市を生き延びる、そのための可能性も引き出さなければ必ずどこかで限界が来る。
既に一組の同盟相手を持つ身でありながら、ミロクは堂々と新たな契約を提示する。
しかしそれは、魔術を倦厭する少女に対して提案したものとは明確に意を異にする交渉だった。
◇◇
アンジェリカ・アルロニカとの同盟を結んだミロクは、次に何をするべきかと考えた。
そこで彼が参考にしたのは、他でもないかつての仇敵にして、今の怨敵。
ノクト・サムスタンプという詐欺師の思考回路である。
前回、彼の脳幹であるガーンドレッドの魔術師達は件の男が弄してくる手練手管に大層頭を痛めていたと記憶している。
悪辣そのものの戦術は間違いなく前回の最優であった
蛇杖堂寂句をさえ凌駕し、東京は事実上ノクトの手によって掌握されていた。
だが、そんな男の手口に着想を得ようと思った理由は単に前苦しめられたからというだけではない。
此度ミロクが召喚したサーヴァント……何の因果か、前回は敵に回っていた筈のある〈山の翁〉の存在が大きかった。
最初は気が付かなかった。当然である。よほどのことでもない限り、自分から敵にサーヴァントの真名を明かす理由などない。
しかし彼の宝具を実際に運用し、諜報、工作、情報収集その他諸々におけるあまりの利便性を実感すれば、自ずと勘付くものはあった。
前回――ノクト・サムスタンプは間違いなく、今自分に仕えている〈継代のハサン〉と共に戦っていたのだと。
それを悟ったなら、恐らく彼をミロクの比でなく上手く使いこなした詐欺師の手腕に学ぶのは当然の流れだった。
継代の奥義は、彼が自由に動ける状況であればあるほど最大の悪辣さを発揮する。
つまりミロクという常に行動に一定の不自由が伴うマスターの許では、まずその真価は発揮しきれない。
穴蔵に籠もって吉報を待つ魔力炉心と化すやり方は、ガーンドレッドの的確な指示と人員あってのものだ。
今回の針音都市であれを繰り返したところで通用しないのは見えているし、都市がかつて以上の速さで焦土になる見込みの強い現状ではそれは緩やかな自殺にしかならないだろう。
ではどうするか。幾度かの修羅場を経てミロクが至った結論は、次のようなものであった。
――継代のハサンを、最優の暗殺者として行動させられる環境を作る。
――となるとその前に、自分が彼の庇護なしに生存できる環境が要る。
ミロクことホムンクルス36号は、事実上マスター資格を持つただの"物"である。
自律行動はできないし、誰かに持ち運んでもらわなければ移動もできない。
だからミロクは、継代のハサンにその役を任せる必要があったのだ。
しかし逆に言えば、運搬役さえ他に確保できるなら、もはや継代に自分の子守りをさせる必要はなくなる。
「信用できないね」
投げ出した踵で強かにテーブルを打って、シャクシャインは疑念もあらわにそう言った。
「君さあ、さっきからどの口で殊勝ぶってんの?
初手で勝手に人の身体を作り変えてくるような陰湿な生命体が同盟? 和平? 寝言は寝てから言うもんだよ」
そこにあるのは、自分の〈天使〉に要らない干渉をやらかしたことへの怒りだけではない。
北海道は日高の首長を務めたひとりの将としての側面が覗いていた。
彼は決して他人を信じない。
特にこの手の言葉に対しては、常に疑いと殺意の表裏一体で応じる。
ましてや暗殺者を従えた礼儀知らず。端的に言って、信用する理由がない。
「令呪による虚言の禁止、いやはや実に白々しいじゃないか。
三画使って絶対服従でも誓うってんなら別だが、言動の縛りなんていくらでも抜け道があるだろ。
それに」
歓迎は罠と思え。
甘言は毒と思え。
……それは、アイヌの英雄が生涯最期に学んだ疵痕だ。
「お前、もうとっくにどこかと組んでるよな?」
シャクシャインは、まるで見透かしたように指摘する。
天梨は彼とミロクの間で、ひっきりなしに視線を移動させていた。
「近場で戦があったのは俺も感知してた。和人の病院で殺し合いがあったんだっけ?
だとすると俺達が遭遇したあの飛蝗(バッタキ)どもはそこから流れてきた奴なんだろうな。
おかしな話じゃないか。人形師のアサシン単独で、そんな地獄絵図にどうやって食い込んだっていうんだよ」
『…………』
「誰かと組んで絵を書いたか、それに乗っかって狩りに興じた。
で、最後はそいつにおっ被せて悠々と敵前逃亡。
そんなとこじゃないのかな? 答えてみろよ、人形。嘘は吐かないんだろ?」
『貴殿と交わした誓いではない』
「チッ。……おい、マスター」
煩わし気なシャクシャインの視線に、天梨はおずおずと口を開く。
「……、そうなの?」
『経緯に多少の差異はある。いささか露悪的な曲解も見られる。だが』
「…………」
『既に我々に同盟者が存在し、それを軸として病院での攻防を演じ――形はどうあれ逃げ延びて此処にいるのは事実だ』
「……!」
ミロクは偽らず、先の戦いについて答える。
そして、既に作っていた同盟者に関しても。
「そら見ろ。こういう生き物だぜ、"いつか裏切るけどそれまで手を貸してください"って素直に言われた方がまだ一考に値するね」
手をひらひらと仰ぎながら、シャクシャインが嘲笑した。
天梨の顔も強張る。確かにそれは説明を要する不実だろう。
彼の指摘は性悪説に基づいた決め付けを多分に含んでいるが、ミロクが後ろ暗いものを抱えているのは確かだ。
もっとも。そんな芳しからざる状況にも、ガラス瓶の中に浮かぶ赤子は動揺することなく答えた。
『……必要であれば、同盟者の詳細を明かすことは可能だ。御身が問うならばな、輪堂天梨』
「――え、じゃあ」
『だが個人的には、それは勧めない。私が情報を横流ししたことを知れば、確実に"あれら"は激昂し私への信用を捨てるだろう。大きな損失だ』
「ハハッ、おいおい! 取り繕う余裕もなくなったのか? 形だけでも和平を協議してる相手に言う言葉じゃないなあ!」
からからと響く嘲笑。
室内にじっとりと満ちる、破裂寸前の緊迫。
だが。
『いいや、言わなければならない言葉だ』
「はあ?」
『今後の出鼻を挫く重大な損失だからだ。我々と、貴殿達にとって』
その緊迫を、学び歩むモノが静かに畳む。
『私の提案に頷くのであれば、かの主従と貴殿達をも繋げよう』
既に同盟相手がいるにも関わらず、彼らとは縁もゆかりもない他人へ新たにそれを申し込む。
確かに不実の誹りを免れないコウモリ的な行動だが、ミロクはそもそも、これを問題だとすら認識していなかった。
彼は見た目通り、赤子とそれほど変わらないレベルの人生経験しか持ち合わせていない。
生誕/完成から半年と少し。本当の意味で戦場へ立ったのは、針音都市に訪れたその瞬間から。
だからこそミロクの感性は一般的なものと比べて、それより少しズレている。
ただしそれは"人の心に寄り添う"観点で見た場合の話であり――彼の思考と判断は、常にホムンクルスらしい冷静な合理に基づいていた。
ミロクは、自分が他の星々に比べて大きく劣っていることを自覚している。
老蛇の悪辣には遠く。白黒の烈しさは持たず。赫炎の偏執に届かず。奇術師の変則を読めず。詐欺師の柔軟へ及ばない。
まさに脳幹を切除した伽藍。保護者を失った捨て子。そんな自分に何が必要か、彼なりに考えた結果……
――必要なのはカードの枚数である、という結論に至った。
数を揃え、可能性を吟味し、牙を研ぎ、状況に対処する。
幸いにして、この都市に存在するのは星だけではない。
ミロクが最初に出会った魔術師の少女のような、他の星達なら端役と切り捨てるだろう演者が大勢残っている。
これを擁し、束ね、悪辣に、烈しく、偏執的に、変則形で、柔軟に戦局を馳せる人海戦術。
端役に甘んじるつもりのないデブリを集めて組み上げ、己と目の前の〈翼〉を核に造られる宙(ソラ)への方舟。
銀河の彼方で胸を高鳴らせ従者の帰還を待っているであろう女神へ捧ぐ、報恩の航海――
『……これは開示しても許される情報と判断し公開するが。
恐らく、その主従は善良な御身と相性がいい。少なくとも険悪になることはない筈だ。
アサシンの取る手口に顔を歪める手合いだと言えば、人物像の輪郭は伝わるか?』
――次は、会いに来てもらうのではなく。
こちらから、あなたへ会いに行く。
『それでも信に値せぬと言うならば、潔くこの場は退く。
御身とそこの復讐者を説き伏せられるだけの実績を積み、また出直すとしよう』
手の内の開示を終え、ミロクは裁定を待つ罪人のように口を閉ざした。
復讐者は論外と言うだろう。だが、それを従え――その悪意と相克を続ける少女はどうか。
やれることはやった。思えば、こうまで頭を回した一日は生誕してから初めてだったかもしれない。
選択権は天使に。合意か、拒絶か。返ってくる答えがいずれであれ、諦めるという選択肢はミロクにはない。
誰にも渡しはしない、この翼を。そしてこれは決して己以外には育てられぬ器だと、彼は確信していた。
天の御遣いが、口を開く。
主なき天使。裁くことを知らぬ偶像。
その下す裁定は――――
◇◇
(俺はね、自ら誓ったことを曲げたりはしない。
それをしたら台無しだし、何よりあの和人どもと一緒になってしまうだろう?
俺にとって耐え難い屈辱で、魂の汚辱だ。だから今もこうして、この糞どもに滾る怒りを抑えてやってる)
復讐者からの念話が、少女の脳内に響く。
彼と彼女の交わす誓約。あるいは、この世でもっとも小さな善悪闘争。
それは言うまでもなく、今この瞬間も続いていた。
天梨が自らの口で望まない限り、シャクシャインは命を奪わない。
彼にとって仇の群れに等しい現代日本の街並みを、そこに生きる人々を蹂躙しない。
その誓いは健在だったが、しかし。
(――ただ、俺の奈落に抵触するなら話は別だ。
こいつらが君を、いやこの俺を嵌めたと分かったなら、その時俺が何をするかは知らないよ)
(……、うん)
(それを分かった上で、君はこの生まれ損ない(ホムンクルス)を裁定したんだよな?
だとしたら、ああ、分かっちゃいたけど君は本当に愚か者だ。自分から地獄へのレールを舗装してくれるなんて)
この状況は彼という英霊にとって、あまりにも"地雷"だった。
持ちかけられた和平。
示された、聞こえのいい条件。
誠意という名の甘い罠。
言うに事欠いて、敵方の英霊は"暗殺者"。
否が応にも想起される、屈辱。
心からの失望と、英霊の座に堕ちてすら消えることのない憎悪。
誰より過去に呪われ、同時に呪い続けているシャクシャインがもしも、この符号の上で裏切りに遭ったなら。
和人の謀略で命を落としたあの日の再演が、針音の都市にて再び繰り広げられてしまったとしたら。
――その時天秤が誓いと憎悪のどちらに傾くのか、彼自身にすら分からない。
(……わかってる。けど、大丈夫。私は、この子を信じるよ)
心音の高鳴りを感じながらも、天梨は然と頷いた。
ホムンクルスに対して彼女が下した裁定、出した答えは、同盟の承諾。
疑うことはきっと簡単だったし、その方が手早かったと天梨も思う。
けれど不思議と、天梨にはミロクが嘘を吐いているとは感じなかった。
これは常に他人の心に寄り添い、生態のように善意を撒いてきた彼女だからこそ得られた気付きなのかもしれないが。
ガラス瓶の中から語りかける"彼"の言葉は常に理路整然としていて、無味乾燥を地で行く平坦なものだったけれど。
なんとなく、それが――口調の老練さとは裏腹な、どこかいたいけなものに思えたのだ。
見かけ通りのちいさな子どもが、一生懸命考えて話しているみたいな。
嘘とか、悪意とか、そういうものの入る余地のないような。
言い方は悪いけれど、そんな必死さを天梨は感じた。
それを〈無垢〉と表現する語彙力は、彼女にはなかったが。
(悲惨だな。
自分をヒトでなくすると豪語してる奴のどこを信じられるのか、俺にはとんと理解できないね)
(――アヴェンジャーが何かしようとしたら、私が止めるから。それならいいでしょ?)
(飛蝗(バッタキ)ども相手に縮こまってた奴がよく言うよ。
君は蜜で虫を集めるただの花だ。咲き誇るしか能のない花びらに、穢れたる神は止められない)
だから、信じていいかもしれない、と思った。
でもきっとその理由は、それだけではなくて。
――平時はきわめて弱く、しかし有事には爆発的に効果を増す魅了(チャーム)の魔術だ。
――それを御身は無自覚に、途切れることなく展開し続けている。
シャクシャインの言う通り。
輪堂天梨は、蜜で虫を寄せる花だった。
天使の歌も踊りも微笑みも、何も関係などなかったのだ。
半開きで固定された魔術回路が撒き散らすだけの芳しいフェロモン。
生き地獄の日常へ処方された抗生物質。
あるいはそれは、アイドルという存在にとって究極の冒涜。
生きる意味、歩む価値の剥奪そのものに他ならない。
自分に向けられる微笑みのすべては、ただの嘘でしかなかった。
しかしそれを実感した時、押し寄せたものの名前は"絶望"ではなく。
じゃあ、水をくれる人は大事にしないと。
ああ、なら地獄から囁く彼や。
目の前のこの子や。
――悪魔のあの子は、"私"を見てくれていたんだ、という感銘だった。
馬鹿げた話だと自分でも思うけれど。
本当に、ただ嬉しかったのだ。
どれほど芳しく蜜を蓄えた花であろうとも。
誰も水をくれなければ、いつか枯れてしまう。
枯れた花の首はもげて、地面に落ちる。
地獄には、堕ちたくない。
それは、とても怖いことだから。
胸の中にきっと、今も消えず灯っている黒いなにか。
花の枯れた時、溢れ出すのだろう泥のようなもの。
消えぬ黒を抱えながら、白翼の少女は口を開いた。
視線の先には、逆さで漂うホムンクルス。
「……えっと、じゃあ私がこれからあなたを持ち運べばいいのかな……?」
『私はこのガラス瓶の中から出られない。したがって自律行動することができない。
アサシンのサーヴァントを従える上で、移動困難の制約は無視できないほど重い』
「そっか、動けないところを狙われたりしたら大変だもんね……うん、わかったよ」
『ありがたい。御身が力添えしてくれれば、アサシンも自由に活動できるのでな』
「――あ」
いっしょに行動するのはいいけど、どうやってごまかそうかな……と考えたところで。
天梨はふと、どうしても聞いておかなければいけないことがあるのに気付いた。
なあなあにしておくわけにはいかないが、可能なら口にしたくはない疑問。
すなわち。
「やっぱりアサシンさんは――人を、殺すの?」
『アサシン』
「時と場合によるが、まあイエスだな。不殺の暗殺者なんて不具と同義だ」
天梨の質問に、継代が答える。
答えを選んでいる様子はありありと伝わってきた。
彼としてもやはり、主を携帯し保護してくれる同盟相手を逃したくはないのだろう。
シャクシャインの存在は少々どころでなく不穏だが、はっきり言って贅沢を言える状況ではない。
これ以上門外漢の正面戦闘と修羅場潜りを繰り返していたら命がいくつあっても足りない。
下手に断言して、明らかに犠牲を出してほしくなさそうな彼女に同盟を反故にされる展開だけは避けねばならなかった。
何せアンジェリカ達にミロクを任せることは間違いなくできないし、頷いてくれるとも思えないのだ。
「俺もシリアルキラーじゃないからな、意味もなく無闇矢鱈に殺し回る真似はしないが……。
聖杯戦争はその名の通り戦争、殺し合いだ。敵を排除しなきゃ勝てるもんも勝てないし、俺達英霊はそのために現界してる。
だからまあ――必要なら殺す。あんたの気持ちは分からんでもないが、そこは我慢してくれ」
「…………わかり、ました。ヘンなこと聞いて、ごめんなさい」
浮かない顔ではあったが、とりあえず引き下がってくれたことに継代は胸を撫で下ろす。
更に言うなら、此処で自分の大将が追加で誠意の大盤振る舞いを始めなかったことにも。
もしそうなっていたら、いよいよもって鞍替えを検討しなければならなかったろう。
「……あんたもそれでいいな? アヴェンジャーの兄さんよ」
「どうぞご自由に。ていうかこれの顔色なんて窺わなくていいと思うけどね。
見ての通りのお花畑、現実と理想の区別もつかない大間抜けさ。
こんな奴のわがまま聞いてたらにっちもさっちも行かないよ」
は、と嘲るシャクシャイン。
油断ならない男だが、この時ばかりは少し同情した。
『面倒と、苦労をかける。
代わりに、私は御身の生存を保証することに専心しよう』
「ううん、私の方こそ本当にごめん。
どうしてもそういうの……気にしちゃうんだ。アヴェンジャーの言う通り、私馬鹿だから」
『奔放は恒星の共通項であり非凡の証明だ。恥じることはない』
小さく頭を下げる天梨に、フォローになっているんだかなっていないんだか微妙な言葉をかけるミロク。
天梨にしてみればその慰めはあまり嬉しくないし、馬鹿だということを否定されてもいないのだったが、そこまで気の利いたことが言えるほど彼はコミュニケーションに精通していない。
それでも、穴蔵のホムンクルスが此処までやれている時点で、彼の"主人"が見たなら「すごいじゃ~~ん!!! おっきくなったねえミロクも!!!」と無邪気にはしゃぐだろう。
そういう意味ではミロクの新たな在り方を模索する旅路は、思いのほか順調に進んでいると言えるのかもしれなかった。
天梨は。
いまだに、自分がそんな大それた存在だとは思わない。
神寂祓葉。光の剣を片手に、前回の聖杯戦争のすべてを薙ぎ払ったという〈太陽〉。
すごいなあ、と思う。けど同時に、それ以上に、怖いなあ、と思う。
自分がそんな風になれるだなんて、これっぽっちも思えないのが正直なところだ。
今だってそうだ、わがままを言ってこれから一緒にやっていく人たちを困らせてしまった。
対面の彼はそれを恥ずべきことではないと言ってくれたけれど――わがままは言うくせに、開き直るまではできないのが天梨だ。
いつもうじうじして、くよくよしてばかり。
アイドルになる前、クラスの子が「輪堂さんさ、いい子だけど正直ちょっとうざい時あるよね」と陰で話しているのを聞いた時の記憶がふと脳裏に蘇ってくる。
こんなだからエンジェのみんなにも嫌われたのかな、と自嘲したくなった。
「それじゃ、これからよろしくね。ええと……」
『ホムンクルス36号だ』
「ほむんくるす、36ごう……、うー、ちょっと言いにくいね」
『――――』
一瞬の、沈黙。
されど、それは永遠にも等しい重みを持つ追憶。
この一瞬(えいえん)の意味を、ホムンクルスだけが知っている。
36番目のホムンクルスとして運用され、そのままに終わる筈だった彼だけが。
『……識別名にこだわりはない。呼びにくいのなら、好きに呼んで貰って構わない』
――この何気ない会話が、いつかの運命の再演(リバイバル)であることを識っていた。
だから、こだわりはないなんてそんな嘘をついたのだ。
「うーん……。じゃあ、そうだなあ…………、……………………」
◇◇
ガーンドレッドのバーサーカー陣営のゲリラ戦術に対し、サムスタンプのアサシン陣営が打って出た。
より簡単に言うならば、悪辣な詐欺師が売られた喧嘩をとうとう買ったのだ。
相棒たる〈山の翁〉の宝具を最大まで活かし、社会基盤のすべてを津波のごとくに操って。
蛇杖堂のアーチャー陣営という特級の爆弾までもを、ノクトはガーンドレッド殲滅のための兵器として投入した。
標的となったのはバーサーカー陣営。
誘導されていることを知りながら、敢えてそれに乗ったのがアーチャー陣営。
単純に巻き込まれたのが、既に同盟を結んでいたセイバー陣営とキャスター陣営。
当時まだ前これらの陣営と対蛇杖堂同盟を結成していなかったランサー陣営は見を選択し。
ライダー陣営の〈脱出王〉と彼女の使役する、"本来なら聖杯戦争をあらん限り凌辱する筈だった英霊"も後の舞台に備えて同じく不干渉を貫いた。
――斯くして繰り広げられる、何度目かの激震。
神秘秘匿を半ば以上にかなぐり捨てた殲滅戦。
地獄絵図の様相を呈する夜の中、36番目のホムンクルスは"彼女"に出会った。
『ああもう、イリスったら……どこ行っちゃったんだろう。
――あれ。もしかして迷子になってるのって私の方? う……うわ~~~ん!! イリス~! ヨハン~! どこ――!?』
ガラス瓶を揺らすやかましい声。
それと共に、少女はホムンクルスの安置されていた仮拠点へと入ってきた。
ガーンドレッドの魔術師達が対応に駆られて出払っていたのも幸運だった。
そうでなければ36号は、運命と出会わずして命を終えていただろう。
『って……んん? 君、もしかして』
涙目で喚いていた少女は、彼の姿を見つけるなりきょとんとしてみせて。
それから一転、目を輝かせながら36号のガラス瓶に駆け寄ってきた。
『やっぱりそうだ! バーサーカー陣営の、えっと……ホムンクルス!』
36号はガーンドレッドの徹底した調整により、やって来た彼女へ対処する術を持っていなかったが。
拠点を覆う結界の機能を用い、出張っている魔術師達に連絡することは可能だった。
今にして思えばそんなことしたところで何も意味はなかったのだろうが――兎角、彼にはそうすることができた筈なのだ。
なのに36号は結局それをしなかった。ともすればすべてが此処で破算になると分かっていて尚、人形のようにその来訪を受け入れた。
『こんばんは! えっと、直接会うのは初めてだよね!
私は祓葉。神寂祓葉! 神さまが寂しがって祓う葉っぱ、って書いて、祓葉! キャスターのマスターだよ!』
その理由は単純にして明快。
そして、笑えるほどに愚かで不合理。
戦火の空を背景に立つ、白い少女。
誰も真の意味で正視などしない道具(ホムンクルス)に、宝物でも見つけたような顔で微笑みかける姿。
それが、あまりにも――価値も未来もない人形でさえ分かるほど、あまりにも――
『――ねえ。あなたの、お名前は?』
――キレイ、だったのだ。
もしかするとあの瞬間初めて、36番目のホムンクルスは"美しい"という概念を知ったのかもしれない。
『……ホムンクルス36号。ガーンドレッド家に仕える、ホムンクルスだ』
36号が口にできたのは、そんな簡潔な台詞だけだった。
何を言えばいいかも分からないし、そもそも知らない。
だが名を聞かれていることは分かったので、単に個体名を答えることとした。
すると少女はこてんと小首を傾げ、難しい顔をする。
『ホムンクルス36号? それがあなたの名前? うーん、呼びづらいなあ』
そんなことを言われても困ってしまう。
のだが、36号が何か続ける前に。
妙案でも思いついたような顔で、ぽん!と少女は手を叩いた。
そして、言ったのだ。
『――そうだ、『ミロク』! うん、それがいい! 今日からあなたは、ミロク!』
無骨な個体名とはまるで異なる、生き物としての、ヒトとしての名前。
価値も未来もない、使い潰されるだけが定めのホムンクルスに与えられた"識別名"。
あの夜。あの瞬間、36番目のホムンクルス――ミロクの歯車は大きく狂い始めた。
『ねえミロク。私たち、友達になろうよ』
彼は、その日たしかに――――運命に出会ったのだ。
◇◇
「……………………………………ほむっち?」
『ほむっち』
「あっ、えっと、イヤ!? だ、だったら考え直すけど!
うううごめんね、私昔からネーミングセンスはその、いろいろアレで……!!」
◇◇
私たち、友達になろうよ。
その言葉を憶えている。
その笑顔を忘れることができない。
その意味を何度反芻したことだろう。
友達――友人、それは対等であること。
『今度、私の一番の親友を紹介するよ』
ある夜、彼女はいつも通りの花咲く笑顔でそう言った。
後に約束が果たされたその状況はきっと、彼女にとって本意ではないものだったのだろうが。
『だからさ、いつか、ミロクの友達も紹介してね』
己(ミロク)と祓葉は従者と主人だ。
忠誠で繋がれた縁の間に、友誼など成り立つ筈もない。
神寂祓葉は天上の星であり、こんな塵屑のようなホムンクルスが並び立てるものではない。
今もその認識は変わらない。再定義を経ても尚、ミロクは盲目の従者でしかなかった。
故にミロクは星を探すのだ。
彼女に並び立つ、真に相応しき友を。
いずれ忠義を果たし、至高の未知を魅せるために。
そうして今、彼は"再演"に立ち会った。
かつての運命、過日の命名。
意義の終わり、狂気のはじまり。
それを繰り返す儀礼に直面している。
――そう、思っていた。
だが告げられた名は、神の寿ぎには程遠い。
センスがない、と切り捨てるウィットを彼は持たないが。
心のどこかで、目の前の少女も同じ名を告げるものと思っていた自分に驚く。
『ミロク』、と。36の数字をもじった尊き名を、天使の口は告げる筈だと信じていた。
しかし結果はどうだ。天使はホムンクルスの方をもじり、マスコットキャラクターのような識別名を与えてのけた。
違う。
これは、再演(リバイバル)などではない。
そしてそれでは意味がない。
ミロクは悟る。
同時に理解する。
やはり天使は、〈天の翼〉は未覚醒。
恒星の資格を持ちながら、未だ地球の空を舞い続ける小鳥。
彼女は、祓葉ではない。
己が奉ずる主ではなく。
この世界の神でもない。
脳裏にリフレインするのは、やはりあの言葉。
――だからさ、いつか、ミロクの友達も紹介してね。
ミロクの、友達。
己の、友達。
対等に縁を育み、同じ道を歩む者。
主と従者の間にそれが成り立つ筈がない。
だが、であれば。
ひとりの演者と演者の間であれば、どうだろうか?
《ああ》
《そうか》
《私は、今》
敬虔な従者たる彼は、決して主の意向を蔑ろにはしない。
盲目の忠誠。それは、〈信仰〉と意を同じにするものだ。
故に彼は、理解している。
主が己に、"自分に相応しい友を連れてこい"などと言ったわけではないことを。
あの時主は、こう言ったのだ。
いつかあなたの友達を紹介してね、と――そう、あの雪原に咲く向日葵のような笑顔で命じたのだ。
《我が新たなる存在意義に則りながら――》
ホムンクルス。
土塊と同義の命。電池のような物体。
友など望むべくもない生まれ損ないの人形。
されど〈脱出王〉曰く祓葉は未知を望んでおり。
現に舞台は、あらゆる未知を許容すると両手を広げている。
《――あの日の主命を、真に果たせる僥倖を得ているのか》
ならば。
祓葉に仕える我が〈盲目〉が成すべきこと、目指すべきこと、遂げるべきこと、それは――
◇◇
『…………いや』
少し頬を染めて、うんうんと唸りながら代案を探す天梨に。
暫し沈黙していたミロクは、厳かに口を開いた。
『了解した。その呼び名で構わない』
「え……ほんとに? イヤだったらイヤって言ってくれても」
『識別名にこだわりはない、と言ったのは私だ。
事実、文字数的にも個体名より遥かに少なく音節的にも利便性が高い。
良い名であると判断した。円滑な関係を築くための努力に感謝する次第である』
「う、うん。それならいいんだけど……あの、そんないろいろ考えてつけたわけじゃないからね……?」
天梨は少しばつが悪そうに、もじもじと身をよじる。
ミロクはそれを見つめる。その視線がかえって彼女をもじもじさせていることを、ミロクは知らない。
「あ――私のことは、天梨でいいよ。天使の天に、果物の梨で、天梨」
『では、これよりそう呼称する。改めて宜しく頼もう、天梨』
「……うん。こちらこそよろしく、ほむっち。
私からもいろいろ伝えたいこととか、相談しなきゃいけない人とかいるんだ。
だからもう少しお話させてもらってもいいかな……?」
『無論だ』
同盟は結ばれ、ともすれば決裂からの殺し合いに至っても不思議でなかった協議は一旦の落着を迎えた。
継代のハサンは心底安堵したように嘆息し、シャクシャインは相変わらず面白くなさそうに時折舌打ちをしている。
ただのカラオケルームで行われるにしてはあまりにも意味の大きい、意義の大きな協議だった。
とはいえまだ、この後に控える"悪魔"との会合を含め、すり合わせなければならない事柄は多いのだったが……
〈はじまりの六人〉、そのひとりを味方に擁した事実の大きさを天梨はまだ自覚すらしていない。
恒星の資格者――そう呼ばれ得る者は、現在この針音都市に三人と一体存在する。
自堕落なる月の写し身。北欧の奇術王を魅了し、刀鍛冶と青年将校を自軍に抱き込んだ女。
今は遥か十二時の悪魔。悪辣な詐欺師が見初めた、決戦兵器の素養を持つ可能性の化身。
忌まわしの救済機構。すべて平等に救う可能性を持つ、科学の獣と相反する新造の神。
そして純白純善、天翼の君。太陽の如く眩しく、さりとて誰の瞳も灼かない、最も優しい光の御遣い。
主星・神寂祓葉に届く可能性はどれも未だ未覚醒の埋没状態。
だが、未知を愛する女神の望みは緩やかに満たされつつあった。
そのことを誰より実感しながら、ホムンクルス36号……今や二つの識別名を持つに至った人形は暗殺者の声を聞く。
(英霊に効く胃薬に覚えはあるかい?)
(無い。そしてすまない。奔放が過ぎた自覚はある)
(いいよもう。あんたなりに俺へ思うところがあったってだけで、もう涙がちょちょ切れそうだ)
継代のハサンは胃痛に苦しんでいたが、今はどちらかというと安堵と解放感に浸っている。
その理由はもちろん、ミロクを運搬する役目が自分から輪堂天梨に移ったことにあった。
文句を言いはしたものの、継代とて本当は分かっている。
自力で移動することができないミロクがこの聖杯戦争で活動するためには、もといこの無法そのものな都市の道理(ノリ)に合わせようと思うならば……どうしても己の本領を発揮する機会には恵まれにくい、ということを。
だが、ミロクを守り動かす役目を他へ譲り渡せるのなら話は別だ。
子守りあるいは介護から解放された〈山の翁〉は、存分に本分を果たすことができる。
彼はもはや記憶などしていないが、前回の聖杯戦争で最悪の猛威を奮ったハサン・サッバーハの奥義。
それを駆使し、他の屑星並びに排除に値する危険因子を舞台から蹴落とす、ないし勢力を削ぐ働きが可能となることだろう。
唯一の懸念は輪堂天梨のサーヴァント・アヴェンジャー。
露骨にこちらの陣営を敵視している彼の存在は問題だったが、それを帳消しにするのが天梨……ミロクの言葉を借りるならば〈天の翼〉。
その底抜けの善性だ。復讐の炎には当分、彼女の善良さでもっての戒めが利く。
突然接触からの干渉をかまして気絶された時は本当に天を仰ぎたくなったものだが、事が落ち着いてみれば都合のいい方へ転んでくれた。
(とはいえだ。流石にアレはやり過ぎだったんじゃねえか?)
(アレ、と言うと?)
(令呪だよ。虚言を禁じるなんて、今後の応用がまったく利かなくなるだろ。
この国には取らぬ狸の皮算用、って諺があるらしいが……あんたのやってることはそれだったりしないよな?)
(返す言葉もない)
(マジかよ……)
(だが、貴殿も彼女の才能は理解できただろう。
〈天の翼〉……恒星の資格者。これで目覚めたての発展途上だというのだから恐れ入る話だ)
(……まあ、それはそうだが……)
天梨が初めて意識的に魔術を行使した瞬間。
継代もまた、飛躍的な能力の伸びを自覚した。
一体いつまでこれが続くのかは定かでないが、まさしく"トンデモ"だ。
魔術回路の開き方も知らない素人が、魔術師としての第一歩で英霊含む複数対象に強化を施した。
これがどれほど驚異的なことかは、魔術に対する知識を持つ者であれば自ずと分かる筈だ。
(これはただ一歩の小さき歩み。
されど、いつかソラへ至る一歩と確信している)
運命を超え、銀河へ至り、未知を成す器。
誰も灼かない優しい光という、"彼女"の対極。
その非凡は、継代も認める、認めざるを得ないところだった。
(……ま、太陽サマを知るあんたが言うならそうなのかもな。
俺は未だにあんたらの言葉は、何か質の悪い戯れ言としか思えないんだけどよ)
(アサシン)
(ん?)
(今から私は、もうひとつ"戯れ言"を言う)
(――はい?)
呆気にとられる継代。
しかしミロクの声色は変わらず。
(貴殿に悪し様に働くものではない。
しかしいささか突飛な発言だ。だから、要するにだな)
(……身構えろ、って?)
(然り)
おい――何をする気だ、あんた。
継代の肌に何度目かの冷や汗が伝う。
結論から言うとこれからミロクが言わんとする言葉は、大局的にはそう大きい意味を持つものではないのだが、暗殺者にそれを知る由はない。
困惑する彼をよそに、事前通告を済ませたミロクは〈天使〉へと意識を向けていた。
『時にだが、天梨よ』
「……うん? 何?」
『もうひとつ、御身に要望がある』
戯れ言。
ミロク自身、その自覚はあった。
聖杯戦争で口にする理由のない言葉。
そして、無価値なる己にはまったく不似合いな言葉。
そう理解した上でなお口を開くのも、すべては主に対する忠誠の一環。
『これは同盟者としてのものでも、まして脅しや建前で放つ言葉でもない。
あくまで御身と対等の盟を結んだ、ひとりの演者(アクター)の言葉として聞いてほしい』
おまえの友を紹介しろと、かつて主は従者たる彼に命じた。
承った。必ずやあなたに並ぶ、珠玉の未知(とも)を魅せよう。
そして同時に。
至らぬ我が身と対等に歩み、時を共にした、我が"友"をあなたへ紹介しよう。
「天梨。――――私と、友になってはくれないだろうか」
へ? と、天梨。
あ? と、シャクシャイン。
は? と、継代のハサン。
この場全員の驚きを集めながらも、ガラス瓶の赤子の顔に恥や後悔の色はなく。
今、己はホムンクルスとしての念話ではなく肉声でそれを発言した"という事実にも気付かぬまま――
ガーンドレッドの魔術師が念に念を入れ調整した役立たずの魔力炉が、何故かその身の程を飛び越えたことを見落としたまま――
〈天使〉の声援(こえ)を受けた後に、そのあり得ぬ成長が生じた事実の持つ意味を自覚せぬまま――
――盲目のホムンクルスは、天使と呼ばれた人間に、友達になろうと希っていた。
◇◇
【港区・カラオケボックス/一日目・夕方】
【輪堂天梨】
[状態]:精神疲労(小)
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:たくさん(体質の恩恵でお仕事が順調)
[思考・状況]
基本方針:〈天使〉のままでいたい。
0:へ?
1:一度自宅に帰った後、キャスターとの会合場所にいく――でもこれ家帰る暇あるかなぁ……?
2:ほむっちのことは……うん、守らないと。
3:アヴェンジャーは恐ろしい。けど、哀しい。
4:……満天ちゃん。いい子だなあ。
[備考]
※以降に仕事が入っているかどうかは後のリレーにお任せします。
※スマホにファウストから会合の時間と待ち合わせ場所が届いています。
※魔術回路の開き方を覚え、"自身が友好的と判断する相手に人間・英霊を問わず強化を与える魔術"を行使できるようになりました。
持続時間、今後の成長如何については後の書き手さんにお任せします。
※自分の無自覚に行使している魔術について知りました。
【アヴェンジャー(シャクシャイン)】
[状態]:苛立ち、全身に被弾(行動に支障なし)、霊基強化
[装備]:「血啜喰牙」
[道具]:弓矢などの武装
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:死に絶えろ、“和人”ども。
0:あ?
1:鼠どもが裏切ればすぐにでも惨殺する。……余計な真似しやがって、糞どもが。
2:憐れみは要らない。厄災として、全てを喰らい尽くす。
3:愉しもうぜ、輪堂天梨。堕ちていく時まで。
4:青き騎兵(カスター)もいずれ殺す。
[備考]
※マスターである天梨から殺人を禁じられています。
最後の“楽しみ”のために敢えて受け入れています。
【ホムンクルス36号/ミロク】
[状態]:疲労(大)、肉体強化、"成長"
[令呪]:残り二画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:なし。
[思考・状況]
基本方針:忠誠を示す。そのために動く。
0:輪堂天梨を対等な友に据え、真に主命を果たす。
1:神寂祓葉に並ぶ光を見出し、覚醒に導く。
2:アサシンの特性を理解。次からは、もう少し戦場を整える。
3:アンジェリカ陣営と天梨陣営の接触を図りたい。
4:……ほむっち。か。
[備考]
※アンジェリカと同盟を組みました。
※継代のハサンが前回ノクト・サムスタンプのサーヴァント"アサシン"であったことに気付いています。
※天梨の【感光/応答】を受けたことで、わずかに肉体が成長し始めています。
どの程度それが進むか、どんな結果を生み出すかは後の書き手さんにおまかせします。
【アサシン(ハサン・サッバーハ )】
[状態]:ダメージ(小)、霊基強化、令呪『ホムンクルス36号が輪堂天梨へ意図的に虚言を弄した際、速やかにこれを抹殺せよ』
[装備]:ナイフ
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:マスターに従う
0:は?
1:正面戦闘は懲り懲り。
2:戦闘にはプランと策が必要。それを理解してくれればそれでいい。
[備考]
前の話(時系列順)
次の話(時系列順)
最終更新:2025年01月28日 03:40