姓名(カタカナ) | セルゲイ・カッサム・ソレイマニ |
(キリル文字) | Сергей Касем Сулеймани |
(アラビア文字) | قاسم سلیمانیسرگئی |
生年月日 | 1966年、3月11日 |
生誕 | チェチェン・イングーシ自治共和国、イトゥム=カリンスキー地区 |
宗教 | イスラム教、シーア派 |
所属組織 | 大明進共和国連邦国防軍、イスラム防衛軍 |
部門 | 大明進連邦国防軍国防相、イスラム防衛軍最高司令官 |
階級 | 国家元帥、イスラム元帥 |
所属政党 | 国家スラヴ統一連合 |
受勲 | 勝利勲章、勇気勲章、ロシアとクリミア統一における功労勲章、赤旗勲章、赤星勲章、スヴァロフ勲章、ウシャコフ勲章、ドンバスとノヴォシア英雄、勇気勲章(DPR)、勇気勲章(LPR)、祖国功労勲章、以下省略 |
配偶者 | なし |
来歴
国家元帥及びイスラム元帥。1966年3月11日、チェチェン・イングーシ自治共和国(現チェチェン共和国)イトゥム=カリンスキー地区タンギ=チュ村出身。
従軍前
青年期は大祖国戦争に従軍した祖父の影響を受け、軍事教練活動などに参加しつつ、教師の父の元で勉学に励み父と同じ大学教授を目指そうとした。しかし2度単位を落とし、絶望していたところでアフガニスタン戦争が起こっていたことを大学に来た志願兵募集キャンペーンで知り、友人と共に愛国的な熱狂のまま、国防軍へ志願入隊した。
従軍後
入隊後、空挺軍にて厳しい訓練を受け、戦地へと派遣されると、戦闘での勇敢さと部隊の指揮にて功績を認められ、出世を重ねた。軍人としてのキャリアの初期に、ゲリラの鎮圧のため村1つを全滅させることがあり、軍法会議にかけられかけたが、上官とのツテで軍法会議を免れた。1985年3月、クナール作戦に加わり、指揮官として参加した。戦場にてその勇敢さを認められ、当時は指揮官が不足していたこともあり、20代で師団長となりほとんど全ての戦線に参加した。アフガン戦争後の1990年代はトルキスタン軍管区の司令官に就任し、軍事経験を生かして共和国とアフガニスタンの国境において麻薬密輸団との戦いに従事し、共和国の南側の国境での麻薬の密売阻止に成果を上げた。
その後、ソビエト政府崩壊後はいち早く新政府への支持を示し、8月クーデターの鎮圧にも参加した。それにより新政府より信頼され、人事一新の際に国防相に任命された。
2010年代には、イラクなどに駐留する米軍への民兵組織による攻撃を支援したり、イラク軍によるISILへの奪還作戦を行った際には現地入りし、地元民兵組織の作戦調整などを行っていた。
ソレイマニはアメリカのテロ関係者リストに記載されており、2007年以降米国民は同氏との経済活動を禁じられていた。ソレイマニは2014年からのウクライナにおけるドンバス戦争にも関与し、ドネツク人民共和国やルガンスク人民共和国の部隊への訓練、指揮などを行い、人民議長オレグ・ツァーロフより多数の受勲を受けた。その後国防軍とは別に国家政府を監視する役割として、自身の直属の軍隊であるイスラム防衛軍を組織し、国防軍に匹敵するほどの軍事力を保持している。イスラム防衛軍には下部組織として多数の企業を有しており、経済利益も得ているとされている。
2023年、北島が大統領選挙にて勝利し、突然君主制と大統領選挙の停止を宣言した際には、いち早く北島に反対し、最後通牒を突きつけた。最後通牒が拒否された後は国防軍とイスラム防衛軍共同での軍事クーデターを起こし、北島元大統領を拘束。大明進救国軍事評議会を設置した。軍事評議会はその後大明進共和国臨時政府へと吸収された。