神隠し
懐中電灯を片手に長谷川ユカリが眺めているのは“2枚の用紙”だった。
ソファに座ったまま、用紙の表面を少々頼りない光源でゆっくりとなぞり、目線でその後を追う。
大学ノートを切り取ったものと見られるそれらの用紙に書かれているのは、
ユカリ達を含めた50人分程の人の名前と、殺し合えという馬鹿げた内容のルールだ。
幾度か名前を確認し直し、ルールを読み返す。そうして漸くユカリは顔を上げた。
「なんなのこれ……。ワケわかんないんだけど……」
それは、強がり。ユカリの声は微かに震えていた。状況は飲み込めているのだ。
言葉の中から隠し切れない不安が漏れている事は、彼女の側に居る2人の大人達、
ソファの前に置き直したチェストに座り無表情で煙草を燻らせている霧崎水明も、
ユカリの隣で長い足を組んで座り神妙な顔付きを見せているシビル・ベネットも、確かに感じ取っていた。
「確認するが、逸島チサトと岸井ミカ以外に、長谷川。あんたの知ってる名前は無いんだな?」
「無いよ。無いけどさ……」
懐中電灯3つだけの光量では、狭い部屋だとは言え充分に室内を照らす事は出来ていない。
薄暗さと煙草の煙でぼやけている水明の顔から荒れ果てている室内へと視線を移すと、ユカリは続けた。
「チサトもミカも1年だよ? 1年もこんなおかしな街にいたっていうの?」
ユカリが目覚めた後、水明とシビルはこれまでの経緯の殆どを彼女に話していた。
話は、既にサイレントヒルに到着しているという前置きに始まり、
事故で気を失ったユカリを現場から近くの骨董屋まで運んだ事。
かつてこのサイレントヒルで今回と同じような事件があった事。
現在のサイレントヒルでのルールが書かれた“用紙”が見つかった事。
そしてその“用紙”の信憑性――――水明、シビルの知人の名前が
その“用紙”に記載されているという説明で締めくくられ、
今はユカリにも名簿とルールの確認をしてもらっていたところだった。
ちなみにこの“用紙”は、実の所、骨董品屋内で見つけた“チラシ”ではない。
水明が本物のチラシに書かれていた文章を自前のノートに書き写したものだ。
本物の方の名簿には、いくつかの名前の上に赤い線が引かれていた。
或いは水明達の見ている最中に浮かび上がってきた。
それは嫌でも2人に赤い線が引かれた人物達の死を連想させ、
その中にユカリの友人『逸島チサト』の名前を見つけた時、
どちらからともなくこのチラシはユカリには見せない方が良いとの提案がなされたのだ。
ユカリの睨むような、それでいて泣き出しそうな視線は、水明とシビルを交互に移り渡った。
表情を曇らせて口篭るシビルは、助けを求めるかのように水明を見やる。
水明は2人の視線を真っ向から受け止め、煙草を深く吸い込むと、
煙をゆっくりと吐き出し、煙草の火を携帯用灰皿で消しながら口を開いた。
「シビル。あんた『神隠し』という言葉を聞いた事はあるかい?」
「神隠し?」
「……また始まった……」
オウム返しに呟き両手を上げ、知らないとも、知ってはいるが
質問の意図が分からないとも解釈の出来るポーズを取るシビル。
苛立ちを隠そうともせず、うんざりとした様子を見せるユカリ。
そんな2人の態度には構わず、水明は唇を少しなめると、学生達を相手にするかのように講義を始めた。
「『神隠し』とは人間が忽然と消息を絶ってしまう現象の事だ。
『鬼隠し』『天狗隠し』等といった別称もあるが、基本的には同じ現象を指している。
その現象の理由や原因としては、行方不明者は神域に迷いこんでしまった。
或いは山の神である天狗や、山姥等の妖怪に攫われ戻ってこれなくなった等、諸説があり、
いずれも人ならざる者の力によって引き起こされているといった共通点があるが、
具体的な事は一切不明だというのが実際のところだな。
こうした事例は日本に限らず世界各地に存在し、様々な形で語り継がれている」
「オジサン。あたしお勉強はもういいから――――」
「まあ聞け。――――さて、消息を絶った人間はその後どうなるか。これは大きく分けて2つ。
そのまま二度と発見されないか、ある日突然帰ってくるかだ。
発見されない例としては、メキシコで消えた作家『アンブローズ・ビアス』の話が有名だが、
まあこちらは今は然程重要じゃない」
そこで言葉を切ると、水明は新しい煙草を取り出し、咥えて火を点けた。
人を苛立たせようとも、彼は自身のペースは崩さないらしい。
「重要なのは、戻ってきた時の事例だ。
例えば1900年のオーストラリア、メルボルン。この出来事は映画にもなったんだが、
ハンギング・ロックという山に遠足に行った女学生の内の数人と引率の教師が行方不明となった。
大規模な捜索が行われたにも関わらず少女達の手がかりは全く見つからなかったが、
事件から7日以上経過した時だ。行方不明者の1人が山中で発見された。
その少女は1週間以上飲まず食わずで山中をさ迷っていたはずだというのに、
然程衰弱した様子もなく、着衣や靴、肌には殆ど汚れも傷もみられなかった。
少女は当然のように質問攻めにあったが、事件の間の事は何も思い出せなかったという……」
水明は顔を顰め、実に不機嫌そうに煙草を吸うと、灰皿に灰を落とした。
「江戸時代の書物『耳袋』には、こんな話が記されている。
ある夜「便所に行く」と言って部屋を出た男が、いつまで経っても戻ってこない。
心配になった女房が厠を見に行くと、男の姿は厠にはなく、何処を探しても見つからなかった。
男が再び発見されたのはそれから20年後だった。
ある日厠で人を呼ぶ声が聞こえてきたので行ってみると、
男が行方不明となった時の格好と少しも違わず、厠に座っていた。
女房は男に訳を聞いてみたが、やはり男にはこれまでの事を覚えている様子はなかった……」
話の中で時折、水明の手は何かを取ろうとするかの様に動いていた。
普段の講義での癖で、チョークでも握ろうとしていたのかもしれない。
「割と最近の話では、日本での事例がある。
1983年6月。中部地方のH村で分校に通う4人の小中学生が突如行方不明となった。
彼等の足取りは何一つ掴めずに事件は迷宮入りとなったが、2005年の5月、
その内の1人の少女だけが失踪当時と全く同じ姿、年齢で旧友たちの前に突然現れたんだ。
少女は自分よりも20歳も年を取った旧友たちの胸で泣きじゃくってはいたが、
例によって失踪中の記憶は抜け落ちていて、自分が何故泣いているかも分からないでいた……。
さて、長谷川。これら3つの話には共通する点があるんだが、分かるか?」
唐突に話を振られたユカリは、思わず言葉に詰まっていた。
助け舟を出すように、水明に疑問をぶつけたのはシビルだ。
「……待って。2005年ってどういうこと?」
「どういうこと、とは?」
「そ、そうだよオジサン。今年は1997年じゃん。なに、やっぱりただの怪談話なわけ?」
ユカリの言葉に、シビルは怪訝そうな顔を向け、水明は興味深そうに頷いた。
大人2人の視線に些かの居心地の悪さを感じ、ユカリは仄かに赤面した顔で目を泳がせた。
「なるほど、1997年か。だったらこっちの方が話は早そうだ」
水明は灰皿に煙草を置くと、自分の旅行バッグに手を突っ込み、中をまさぐった。
彼はあまり整理整頓を得意としていない性格だ。
例えば自身の研究室の机の上なども、教え子の間宮ゆうかが片付けてくれない限りは
資料やら何やらが乱雑に放置されている。当然バッグの中も同様なのだろう。
水明は懐中電灯で中を照らし、しばらく目的の物を探していた。
そして手を引き出した時、握っていたのは淡い臙脂(えんじ)のような色の小さな帳面。
それは日本国が発行しているパスポートだった。
身元の表記されているページを開くと水明は、それをシビル達に見えるように向けた。
「……200X年……?」
「ああ、そうだ。これは偽物でも玩具の類でもない。歴(れっき)とした本物さ。
ここに書かれている通り、俺は200X年の人間なんだ。
あんた達も何かしら身分証明の出来る物を持ってるだろう? 出してみてくれないか」
何でもない事のように説明する水明とは対照的に、シビルとユカリは唖然としていた。
2人は何度も水明のパスポートと彼の顔を見比べるが、不審な点は何も見つからない。
やがてユカリはバッグから紺色のパスポートを、シビルは制服のポケットから警察手帳を、
それぞれ取り出し、水明同様に開いてみせた。
「ほう、シビルは80年代の人間だったのか。
長谷川は…………写真写りが今一良くないな。上手く写るコツ、教えてやろうか?」
「やだ、ちょっと! 今そんなのどうでもいいし!」
「……みんな、時代が違う? でもどうして……? 前にはこんな事なかったのに……」
煙草を咥え直した水明は、やはり不機嫌そうな表情で煙を吸い込んだ。
そんなに不味いのなら吸わなければいいのに、とは彼を知る誰もが思う事であり、
それはつい先程出会ったシビルとユカリも例外ではなかった。
「話の順序が逆になったが、今俺が話した神隠しの事例の共通点とはこの事なんだ。
耳袋とH村の例ではどちらも失踪当時の姿で発見されているのだから言うまでもない。
ハンギングロックの例でも、発見された少女が1週間の時を飛び越えたのだと考えれば、
少女が衰弱していなかった理由も、着衣に汚れが見られなかった理由も説明がつく。
つまりこれらの場合神隠しの正体はタイムスリップ、或いはそれに近い現象だと考えられるのさ。
俺達がそれぞれ違う時代からこのサイレントヒルに迷い込んでいるのも、そういう事だろう」
水明の視線は、説明の後半でユカリに向けられていた。
俺の言わんとする事が分かるか。そう問いかける様に。
「それじゃあ……チサト達も……?」
「ああ。あくまでも推測の域を出ない考えだが、
おそらくここに連れて来られているのは失踪直後の逸島チサトと岸井ミカだろう。
少なくとも、このイベントの主催者様が1年もの間あんたの友人を何処かに監禁、幽閉し、
この日の為に生かし続けていたと考えるよりは可能性は高い。…………俺は、そう思う」
それは、ユカリが1年間抱えていた不安を和らげてくれた初めての言葉だった。
端から見ればただの馬鹿馬鹿しいオカルト話だ。
そんなオカルト話なのに、霧崎水明の言葉にはユカリがこれまで知人にかけられてきた
どんな気休め、励ましの声よりも説得力があり、彼女の心を優しく揺らしてくれた。
長い講釈への苛立ちは、いつの間にか鳴りを潜めていた。
水明の言葉をゆっくりと、少しずつ反芻し、頭に滲み込ませると、
ユカリは名簿に視線を落とし、チサトとミカの名前で止めた。
「な、に……? じゃああたし、チサトよりも1こオバサンになっちゃったんだ」
それも、強がり。先程と同様に彼女の声は震えていた。
それでも、そこに篭る想いが喜びと希望である事は、徐々に強張りの溶けていく表情を見れば明らかだ。
観察でもするかの様にユカリを眺めていた水明は、いたずら心を込めて口端を吊り上げた。
「ちなみに、日本童話の浦島太郎。
あの話も視点を変えれば、主人公の浦島太郎は神隠しにあったと解釈出来るが――――。
良かったな。浦島太郎のように老ける前にはお友達を見つけられるぜ」
「……なんか、それムカつく」
素直になれない年相応の感情表現に水明もシビルも微笑ましさを覚えるが、
笑顔の裏に真実を隠す2人にとって、それは同時に痛みでもあった。
やはり彼女にはチラシの事は話せない。
同じ思いを確認するかの様に、水明とシビルの視線は自然と絡み合っていた。
そんな2人の様子には気付く事なくユカリは、彼女の中で新たに生じた疑問を口にした。
「でも、チサトから手紙が来たんだよ。
いなくなった直後のチサトがここにいるとしたら、手紙なんておかしくない?」
「手紙? ……それ、今持ってるなら見せてくれるか?」
「ちょっと待って。……あれ――――――――無い……?」
ユカリは自分のバッグの中を隅々まで探すが、チサトからの手紙は見つからなかった。
確かに入れていたはずなのだが、何処にも見つからない。
「マジ? …………落としたかな?」
「それは、本当に持ってたのかい?」
「うん……。ちゃんとここに入れといたんだけど……。
そうだ。ねえ、シビルさんにはさっき見せたよね? チサトの手紙」
「ユカリの友達の……? いえ、見てないわよ……?」
「え……嘘、でしょ? ほら、最初に会った時に見せたじゃん。友達が待ってるからって」
最初に出会った時、ユカリはシビルに手紙を見せた。その記憶ははっきりとある。
だがシビルは、やはり首を横に振った。ユカリに手紙を見せられたのは確かだが、
シビルの読んだそれは、ユカリの言っているような内容の物ではなかったはずなのだ。
狐につままれた気持ちというのはこういう事をいうのだろう。ユカリは目を丸くしていた。
「……手紙に書かれている内容は、長谷川だけにしか見えていなかったという事か……?
どうやら、それがこのサイレントヒルへの片道切符だったらしいな。
無論逸島チサト本人が書いた物ではなく、サイレントヒルからの贈り物といったところだろう。
……なるほど。暮らす時代が違うはずの俺達が、まだこの街には入っていなかったにも関わらず
一堂に集められたのも、もしかするとその手紙の力に招待されたせいなのかもしれない。
そして、手紙は役目を終えると自然と消滅した……」
「……なんだよ、それ……」
小さな呟きは、暗い室内に何とも言えない気まずさを残し、消えていった。
ユカリがサイレントヒルに来るきっかけとなったチサトからの手紙。
消息を絶ったはずのチサトが、ミカと一緒にサイレントヒルに居ると知らせてくれた手紙。
それを読んだ時、ユカリは素直に喜んだ。ホッとした。2人に会いたいと、切実に思った。
だからこそ、彼女は他の何よりもサイレントヒルに向かう事を優先し、ここまでやって来たのだ。
だというのにその手紙は偽物で、ここにユカリを呼び込む為の罠だったという。
馬鹿にされている――――ユカリはそう感じた。
友人達への想いを無下にされたようにしか思えず、ユカリはつい荒い声を上げていた。
「なんなの!? 何でこんなことに巻き込まれなきゃなんないの!?
サイレントヒルでも何でもいいよ! でもあたし達、何の関係ないじゃん!
それなのにどうしてこんなとこ呼ばれなくちゃなんないの?!」
憤りを顕にして頬を紅潮させるユカリに対し、
水明は、尤もな意見だな、とあくまでも冷静に受け答える。
そして、やはり冷静に言葉を紡いだ。
「確かにあんたの友人も俺の友人もこの街とは無縁だし、殺し合いにノミネートされる理由も無い。
だけど、こうして招かれてしまった以上はそうも言っていられないだろう?
怪異が始まってしまったこの街からは、そう簡単には出る事は出来ないらしいんだからな。
……まあ実際自分の目で確かめたわけじゃないんだが……そうなんだろ、シビル?」
「ええ。おそらくもう街の外への道は大岩や崖で塞がれてるでしょうね。
無関係の人間を巻き込むのは前の時もそうだったから、運が悪かったとしか言えないけど……」
シビルはユカリの肩に、優しく手を乗せた。
振り向いたユカリは、僅かにだが、目を充血させていた。
「ユカリ。あなたの不安な気持ちは分かるつもりよ。
あたしだって前の時、この街とは殆ど接点なんてなかった。なのにあんな目にあったんだから。
でもね、怒ってもチサトやミカは見つからないし、ここから出られるわけでもない。
キリサキの言う通り、嘆いていても何にも解決しないのよ。
……感情的になっちゃ駄目。冷静さを無くしてしまえば命取りになるわ。ここでは特にね……」
この異常事態の中、たった18の少女に感情的になるなという方が無理な話なのかもしれない。
だが、一度この街での怪異を生き延びた経験を持つシビルの言葉の重みは、充分ユカリに伝わってくれたようだ。
八つ当たりを恥じるかのように俯き、小さく「ごめんなさい」と呟くユカリ。
シビルは彼女を軽く抱き寄せて、頭を撫でるように抱きしめた。
同時に、ユカリの目からはこの1年堪えてきた感情がシビルの胸に流れ落ちた。
しばしの間、室内にはユカリのすすり泣く声だけが聞こえていた――――――――。
3本目の煙草を吸い終えた水明は、煙草の火を揉み消し、チェストから立ち上がると、
アイロンのかけられていない皺だらけのハンカチを取り出してユカリの膝の上に置いた。
泣く事で、多少気持ちの整理はつけられたらしい。
ユカリは腫れぼったい目で水明を見上げ、一言礼を言うと、ハンカチで顔を拭い始めた。
「…………さて、怪我人の長谷川には悪いんだが、そろそろ調査に移りたいと思う」
「……オジサンだって、怪我してるじゃん。……調査って?」
「勿論このサイレントヒル、そしてアレッサ・ギレスピーの調査だ。
以前シビルがやったように、俺達も今回の怪異の原因を解き明かさなければならない。
でないとその用紙に書かれているルールの通り、集められた50人が最後の1人になるまで
殺し合いをするハメになりかねないからな」
「……でも殺し合いだなんて、どうしてあのアレッサがこんな事……」
独り言のように、シビルは呟いた。
アレッサ・ギレスピー。
実の母親によって、文字通りの死ぬ程の苦しみを何年もの間味わわされ続けていた哀れな少女。
数奇な運命に見舞われた少女の痛ましい姿を思い出し、シビルの表情は悲しげなものに変わっていた。
「……まあ、まだアレッサが全ての元凶だと決まった訳じゃない。
アレッサの事を知らない俺と長谷川が彼女の姿を目撃している以上は
何らかの形で今回の事件に関わっている事は間違いないだろうが、
それは彼女の意思ではなく、何者かに利用されているだけという可能性もある」
「何者か? ……それって?」
「あんたの話から推測するなら、ダリア・ギレスピーや教団の関係者が妥当な所だろうな」
「教団……。でも、アレッサは生まれ変わってハリーに……」
そこまで口にして、シビルは気付いた。
赤ん坊となったアレッサが教団にさらわれた可能性は充分にあるという事に。
「まさか、また教団の手に落ちた……?」
「そうかもしれない。だが、考えられる事はもう1つあるぜ」
「もう1つ?」
立てられた水明の人差し指を見ながらシビルは手を口に当てて考えを巡らすが、
水明の言うもう1つの“考えられる事”には思い当たる事が何も無い。
考え込むシビルの解答を待たずに、水明は先を続けた。
「単純な事さ。オリジナルのアレッサ・ギレスピーは死んでいなかった」
一瞬、シビルは水明の発言を理解出来ず、ただ水明の顔を見返していた。
だがその意味に気付いた時、彼女は思わず立ち上がっていた。
「アレッサが、死んでなかった……!? そんなはず……」
「無いとは言い切れないはずだ。
あんたは赤ん坊を託されたハリーと共に崩れ行く異世界から脱出したと言ったな。
その時オリジナルのアレッサの最期を看取る余裕は無かったんじゃないか?」
あの時、シビルが朦朧とする意識の中で見たのは、アレッサが赤ん坊をハリーに託した姿。
そして脱出の際、あの超能力で異世界の崩壊を一時的に止めてくれた姿だ。
アレッサ自身は赤ん坊に転生した事で力を使い果たし、崩壊する異世界の中で死亡した。
そう思い込んで疑いもしなかったが、水明の言う通り、シビルはアレッサの死を確認してはいない。
実は生きていたという可能性も、充分にあり得る話なのだ。
「そもそも俺と長谷川が見たのは赤ん坊じゃない。10代くらいの少女だ。
それが本当にアレッサなのだとしたら、やはり関わっているのは転生した方じゃなく、
オリジナルの方だと考えるのが自然だろう?」
「じゃあ、アレッサはあの時からずっと……今も死ねずに苦しんでいるの……?」
「まあ、アレッサが生きているというのも単なる推測に過ぎない。
……だがその推測が当たっているなら、そういう事になるのかもな……」
未だに教団に捕らわれ、苦しみ続けているアレッサ。
その姿を想像したシビルの背中には、あまりのおぞましさに冷たいものが走っていた。
「繰り返すが、今言った事は全て推測だ。
当たっているかもしれないし、真相は全く別のところにあるのかもしれない。
どうあれ、これ以上の事はこの場で考えていても答えは得られない。実際に調べてみないとな。
……さて、そういう訳で調査に出向きたいところなんだが、
シビル。あんたアレッサと関係のありそうな場所は分かるか?」
「え? ……ええ。それならちょっとこれを見て」
シビルは自分のバッグから1つの冊子を取り出し、近くの棚の上に広げた。
その冊子――サイレントヒルの観光パンフレットのページをめくるシビルの手は、サイレントヒルの全体図が開かれたところで止まる。
シビルの隣に移動し、棚に寄りかかるように手を乗せる水明。
並ぶ2人の間から顔を出し、覗き込むユカリ。
全員が地図に注目したのを確認して、シビルは地図上で指を這わせた。
「まずあたし達の居る所はここ。街の北東にあるアンティークショップ。それで――――」
シビルは幾つかの施設の名称を上げた。
それらは全て前回アレッサと関わり深かった場所、
或いは自分やハリーがアレッサを見かけた場所だ、という旨の説明を加えて。
「――――で、その中でここから一番近い場所はここのアルケミラ病院ね。
……アレッサが何年間も閉じ込められていた場所よ。
今そこにアレッサがいるかどうか分からないけど……調べてみる価値はあると思うわ」
「そうだな。アレッサ・ギレスピーが居ないとしても、
ハリー・メイソンが見たという残留思念の確認は出来るかもしれない。
……良し、じゃあまずは病院からだ。それからシビルが上げた場所を近い順に調べていこう」
やや高揚しているのか、水明の声のトーンは上がっていた。
それを聞き、眉根を寄せたのはこれまで黙って話を聞いていたユカリだ。
「ねえ、ちょっと待って。……チサト達……ううん、みんなの知り合いは探さないの?」
不安気な声が、室内に響いた。
ユカリにとっては、アレッサ・ギレスピーよりも友人達の安否を知る事の方が大切なのだが、
水明のプランは、調査を優先して知人の捜索はしないと暗に匂わせているようにユカリには聞こえた。
「……探したい気持ちはある」
「それって……探さないってこと?」
「現時点では、そうなるな」
どうして!? と、叫ぼうとするユカリだったが、
その雰囲気を察したのだろう。それより早くシビルが左手を翳し、ユカリの言葉を遮っていた。
「あたしもキリサキもユカリと同じよ。知り合いを探したい。
だけど、1つの街の中で誰かを探すという事は簡単じゃないわ。
例えばユカリの友達はどこかの家に隠れてるかもしれないでしょ?
そうするとあたし達は一軒一軒の住宅を虱潰しに捜索するしかないけど、
一軒をくまなく探すだけでも相当時間を費やすの。あたし達3人だけじゃとても手が回らないわ」
「だから俺達は捜索ではなく、この怪異を終わらせる為の行動を優先させるんだ。
怪異が終わりさえすればこの街は普通の街に戻る……これも前回はそうだったらしい。
そうすれば危険は無くなり、みんなを助ける事に繋がるだろう? 捜索はその後でも遅くはない」
「でも! その前に……死んじゃったら…………?」
「……残念ながらその可能性が無いとは言えないが、
街を捜索してみんなを見つけるのと、謎を解いて怪異を終わらせるのでは、
どちらが早いかは実際にやってみなければ分からない。
……仮に捜索をする事にして、みんなを見つけたとしよう。
しかし結局俺達はその時点でもこの街に捕らわれている。危険は続くというわけだ。
それなら、みんなの為にも早い所危険から逃れられる方に賭けた方が良いんじゃないか?」
理屈では、水明の言う事は尤もなのだろう。それはユカリも理解している。
それでもユカリの表情から不満気な、そして不安気な色が消えることはなかった。
水明はそんなユカリの顔をしばらく観察していたが、やがて口を開いた。
「……まあ、それはあくまでも現時点の話で、もしもこの先で信用出来る面子が集まるのなら
調査と捜索にチームを分けるつもりさ。その同時進行が一番効率の良い方法だろうからな。
だから、それまでの間は我慢してもらいたい。……どうだ?」
「……うん。分かった」
漸く頷いたユカリに、水明は微笑んで頷き返すと、包帯の巻かれたユカリの頭に軽く手を置いた。
「それじゃあ、行くとしようか」
「あ、その前にキリサキ」
何だ? と振り返る水明に、シビルはキーを見せた。
彼女の白バイのキーだ。
「先にバイクを取ってきたいの。悪いけど少し待っててくれる?」
「……バイクを使うのか? だけどこの街の怪物は音に反応するんだろ?」
「それはそうだけど、サイドボックスに色々入れてるから、あった方が何かと便利なのよ。
大丈夫よ。バイクに追いつける程の怪物は居なかったし、襲われても轢き殺してやるから」
ふむ、と水明はしばし逡巡し、
怪物を呼び寄せる危険性があるのは確かだが、
実際に怪物と対峙した経験を持つシビルが言うのだから任せても良いのだろう。
そう結論付けた。
「なら、俺達も一緒に行こう」
「大した距離じゃないし、1人で良いわよ。
あなた達は一応怪我人なんだから少しでも休める時に休んでて」
そう言うとシビルは狭い室内をすり抜けるように移動し、出口へと向かった。
そして、ドアノブに手をかけようとして――――何かに気が付いたようにハッと顔を上げた。
「そうそう、一応これを預けておくわ。今はまだ使わずに済むと思うけど」
シビルはホルスターから拳銃を引き抜くと、銃身を握りグリップを水明に向ける。
22口径の10連装リボルバーだ。
「……俺は銃を撃った経験はないぜ。あんたが持っていた方が良い」
「22口径だから反動も軽いし、すぐに慣れるわよ。あたしのは別にあるし心配ないわ」
やや強引に、水明は銃を握らされ、簡単な扱い方のレクチャーを受けた。
初めて持つ拳銃は、彼が想像していたよりも随分と重たく感じられた。
「引き金を引く時には相手をちゃんと見極めるのよ。撃つべきか否か。
間違ってもあたしを撃ったりしないでよ。いいわね?」
かつてハリーに伝えたものと同じアドバイスを言い終えると、
シビルはバッグからもう1丁の銃、SIG P226と、小さな箱を2つ取り出した。
銃を右腰のホルスターに入れ、箱は水明へと差し出す。
「その銃の弾よ。これも持ってて。
それから――――大丈夫だとは思うけど、一応言っとくわね」
水明、ユカリを交互に見ると、
シビルは整った口元に少しの笑みも作らず、真面目くさった顔でこう言った。
「あなた達は……消えないでよ?」
以前ハリーがこの骨董屋の中で、それこそ神隠しにあったかのように消えてしまった事を思い出し、言わずにはいられなかった。
「あ、ああ」「は、はい」そう曖昧に頷く2人の反応を見て、ドアを開き、部屋を後にするシビル。
そんな彼女の事情を知らない2人は、シビルの言葉の真意を今一つ理解出来ずに顔を見合わせていた。