PITCH BLACK



(一)

 空になった弾倉を入れ替えながら、ハンクは己が視ているものに対して首を傾げた。
 "研究所"と手軽な方法で訂正された看板には"ラクーン大学"と書かれている。懐中電灯を仕舞って、マスクを被り直す。
 白と黒で構成された世界に鎮座する、風格を感じさせる洋館めいた建築物。その三階部分にちらちらと光が見えた。先客がいるようだ。
 ハンクは溜息を吐いて、方向を変えた。
 誰かがいると分かった以上、正面から侵入するのは得策ではない。もし、三階にいる人間がこちらに害意を持つ相手であれば、格好の狙撃ポイントを取られたことになる。
 そうでなかったとしても、こちらの位置を既に把握されるような事態だけは避けたかった。有利にことを運ぶためには、如何に相手よりも情報を多く集められるかにある。
 なにより、相手を過小評価しないこと――。
 もっとも、相手は既にハンクに居場所を知らせるような悪手を打っている。そこから、少なくとも狙撃のために三階にいるわけではないと推察できる。
 しかしながら、襲いかかってきた"U.S.S."の同胞たちや、気の触れた東洋人のようなケースを除外できるほど楽観的にもなれなかった。
 少し通りを行くと、大学の裏側に出た。柵を乗り越え、ハンクは放置された車両の影に潜みながら校舎に近づいていく。
 周囲に気を張りながらも、芽生えた奇妙な感覚を消すことはできなかった。
 額面通り受け取れば、あれが"ラクーン大学"ということになる。
 それが腑に落ちない。他所の土地にも"ラクーン大学"というものはあるのかもしれない。しかし、"アライグマ"の大学に通う学生の羞恥は想像に余りある。まともな考えの親なら、そんな大学に子供を通わせたりはしまい。
 マンハッタンでもないのに、わざわざ"酔っ払い"の大学と名づけるようなものだ。
 どちらにせよ、そのような大学施設は経営的に存在しえないことは火を見るより明らかだ。紛らわしいので必ず訴訟の対象となるだろう。なにせアメリカ人は訴訟が大好きだ。
 そうなると、これは紛れもなく"ラクーン大学"という可能性しか残らなくなる。だが、それはそれで納得しがたい。
 だが、任務の前に頭に叩き込んだラクーンシティーの知識――その中に含まれていた"ラクーン大学"の校舎やその関連施設と目の前の風景は一致するのだ。おそらくは構造も一緒だろう。違うとすれば、河ではなく湖が傍にあることぐらいか。
 何か大がかりな悪戯に巻き込まれているのか。それとも、単に悪い夢を見ているのか。
 前者は、己が盤上にいる内は確かめようがない。
 後者は頬を張れば分かるらしいが、かつて夢の中で実行して痛みがあったことを思い出して直前でやめた。
 構えていた拳を解き、十分に接近した建物を観察する。一階の窓ガラスにライトのものらしき光が見えた。別の入り口をと首を巡らすも、目視できる扉は建物の中央付近の一つだけだ。しかも、電子ロックらしき機器が備え付けられている。
 待つことは苦でないが、しかし肝心の侵入経路に支障が出来てしまった。
 扉は如何にも頑強に作ってあり、蝶番を破壊するのも現状の装備では難しいだろう。下手に音を鳴らせば、先客に気付かれるだけでなく、要らぬ来客を引き寄せてしまうかもしれない。
 電子ロックが機能していない可能性を期待するのは元より愚かでしかない。
 もっと迅速かつ理知的で合理的な手段が必要だ――。

「……ひとまず、その辺の窓撃ち抜くか――」

 ふと、聞き慣れたローター音を耳が拾った。ハンクは上空を見上げた。その響きは、段々と夜の空気を大きく震わせていく。
 音は大学のすぐ上空ほどで漂っているのに、視界には星ひとつない夜空が広がるだけだ。
 ただただ夜の静寂が乱されていく。眠りを妨げられたか、駐車場の奥から怒りに満ち満ちた吼え声が上がった。
 即座に銃を構えたハンクの目に映ったのは、重々しい響きと共に突進してくる禿頭の大男だった。



(二)

 深紅の持つライトの光が"研究所"の纏う夜闇を剥いでいく。しかし、その光の輪は心許なく、返って"研究所"の広大さと不気味さを増幅させているように思えた。
 静寂に包まれた敷地は大半が闇の中にあり、取り返しのつかない袋小路に迷い込まされてしまったような不安感がしこりの様に広がっていく。
 植物か何かのように壁面を覆う血錆の装飾も然るところながら、"ラクーン大学"と記された看板に上書きされた血文字を見てしまったことがそう思わせるのだろう。
 警戒とは裏腹に、問題なくホテルから出られたこと、そしてこの大学に来るまで特段何もなかったことが罠という印象を強固なものにしていく。
 何かがいるはずなのだ。ゾンビたちを潰れた肉片に変えるような大物が――。
 誠は背中にかかる気障りな重みに内心舌打ちしながら、先行する深紅の背中を追った。圭一のどこか軽い足音がすぐ後に続く。
 幽霊が教える、得体の知れない薬――。それに頼らざるをえない状況が非常に腹立たしかった。日野が提案した、"クラブ活動"の余興を思い出し、臍を噛む。これまで使い捨ててきた玩具たちの嘲笑が今にも聞こえてきそうだ。

「――あれ、行き止まり?」

 深紅の戸惑いの声があがる。目を凝らせば、数メートル先に鉄柵が立ちふさがり、その先で石畳が途切れているようだ。
 ライトの移動に合わせて視線を這わせると、光の中に弧を描く縁が現れた。広場に大きな穴が空いているようだが、行く手を寸断するほどのものではない。別のルートを探す必要がないことに安堵の吐息をつく。
 穴の縁に、コンソールの様な影が視えた。

「……何の穴なんだろうな。やたら深いみたいだし」
「知るかよ。薬と無関係なことに気ぃ逸らしてねえで、もっと集中しろ」

 好奇心のままに呟いた圭一に対し、棘を隠さずに誠は告げた。襲撃を受けた際、一番不利なのは己だ。当然ジェニファーは捨てるにしても、そのために回避行動が遅れることは否めない。
 これまでのように圭一が応戦してくれるとは思うものの、それを信用しきることは愚かだ。万が一はどのようなときも存在する。それをカバーできるのは、結局己自身でしかない。

「――あっ!」
「今度はなんだ?」

 こちらの舌の根が乾かぬうちにまた声を上げた圭一に、誠は思わず足を止めて振り返った。一拍遅れて、上方に向けられた圭一の顔が照らし出される。

「上の方で何か光った……ような」
「光ったのか光ってないのか、どっちだ?」
「いや、目の端にチラッてしただけだから……気のせいかもしれないけど」

 語気の荒さに驚いたのか、圭一はばつが悪そうに言葉を濁した。

「誰かいるのかも。これまでも銃声が聞こえてきましたし」
「雛咲、"ヨーコさん"に偵察頼めるか?」
「………………。無理そうです。ここに来てから何故か感情が昂ぶってて、まともに答えてくれません」
「役立たずめ。だから地に足のついてねえやつは信用できねえんだ」

 吐き捨てる。ホテルを無傷で脱出できたのはヨーコの存在が大きかったが、"今"使えないのならば無意味だ。深紅が僅かに息を詰まらせた。
 緩やかな階段を上がり、深紅が年季のこもった扉を開ける。
 潜ると、弾力すら感じられそうな血生臭い空気が誠たちを出迎えた。
 エントランスホールは二階部分まで吹き抜けになっており、廻廊がこちらを見下ろしている。
 中央には受付らしきカウンターと大きな階段が据えられており、大学というよりも金持ちの屋敷かホテルのような装いだ。ビバリーヒルズ青春白書に出てくる大学もこのようなものであったが。
 内部も外と変わらず、不気味な静けさに包まれている。

「ヨーコさんが言っています。ここの三階に、薬を生成する機械……? があるみたいです。向こうの扉から行くんだとか」
「……この階段じゃ行けないのか? てか、何でわかるんだ? 偵察できねえってのは嘘か」
「……分かりません。ヨーコさんはずっと呟くばかりで……あとは頻りに"T‐ブラッド"と」

 舌打ちし、誠は深紅の示す扉に目を向ける。
 どこまで信用しきれるのか。深紅に視線を戻す。彼女は不安げな表情で腕を掻いていた。その様子が更に苛立ちを募らせる。
 行動を誘導されているような、この状況が気に入らない。
 勿論、感染していない可能性もある。そもそも、感染すること自体が出まかせかもしれない。ただし、存分に狩りを楽しむ以上は薬が必要だ。
 それが例え偽薬だとしても――。
 それでも他者に操られているような閉塞感は拭えない。

「新堂さん、ひとまずその機械のとこ行ってみようぜ」
「そう、だな」

 頷くと、圭一が先行し扉の先の安全を確かめた。問題ないという圭一の仕草を待って、誠は足を進めた。
 警備室か何かだろうか。電源の入っていないパソコンや監視用のモニターが設置された部屋を抜け、ロッカーの並ぶ細い通路に出た。
 その奥にエレベーターの扉はあった。しばし待って、降りてきたエレベーターの中に乗り込む。
 血錆に覆われた操作パネルに、深紅が一瞬躊躇いを見せた。圭一が小さく詫びて、代わりに三階のボタンを押した。
 唸り声のような駆動音と共に籠が上がっていく。
 到着後、素早く周囲の安全を確認し、深紅が急かされるように対面にある扉を開けた。薬品棚が並ぶ部屋――準備室だろう――を抜ける。
 流し台付きの机の並ぶ大部屋は、機器の電源が幾つも入っていて仄かに明るい。お互いの影が闇から浮き上がって見える。しかし、肝心の電燈はスイッチに汚れが詰まっているのか、ぴくりとも動かなかった。
 この部屋の奥に生成装置はあった。大きめの洗濯機のような無骨な姿だが、これに材料さえ供給できれば自動で薬を生成してくれる優れものらしい。
 下ろしたリュックサックから二つの容器を取出し、深紅がたどたどしい手つきで装置にセットする。

「これで薬作る場所は確認できたわけだな」
「ええ……」

 深紅の同意が返ってくるが、なぜか顔をゆがめている。とりあえず彼女のことは無視し、手近な机の上にジェニファーを下ろす。床に放り捨ててしまいたいところだが、どうにかその欲求を自制する。

「……こいつはこれでいいだろ。"T‐ブラッド"ってのを探しに行こうぜ」

 肩を揉みほぐしながら、誠は圭一に目を向けた。圭一もまた、似つかわしくない表情を浮かべている。何かを言うか言うまいか、悩んでいる顔だ。
 視線で促すと、圭一は小さく頷いた。

「材料探しは俺と雛咲さんで行くよ。新堂さんはここに残ってくれないかな?」
「……理由を聞こうか?」

 睨みつけながら、抑えた声音で問う。圭一は真っ直ぐにこちらを見ながら微笑して見せた。

「新堂さんは雛咲さんをまだ信用できていないんだろ? それじゃ、お互いにいいことはないと思う。だからって、女の子二人を置いていく訳にもいかないじゃないか。だから、役割分担しようぜ。新堂さんは、ジェニファーさんと装置を守ってくれよ」

 成程と、誠は胸中で呟いた。誠が深紅を信用していないから、圭一は深紅と行くのだという。つまり、圭一は己よりも深紅の方を信用しているわけだ。尤もらしく言い繕ってはいるが、要点はそこだ。
 加えて、自分の意志をその程度のことで遮られたことが何より腹立たしかった。澱が音を立てて、自分の中に溜まっていくのを感じる。
 圭一は裏切り者だ。その判断を下すと、膨れ上がっていた怒気は急速に萎んでいった。圭一もまた、その他のどうでもいい有象無象と同じだっただけのことだ。

「そうかい。分かったよ。さっさと行きな」
「……頼むぜ、新堂さん」

 無理やり笑ってみせると、圭一は屈託のない笑みを返した。戸惑った様子の深紅の背を押しながら、部屋を出ていく。
 残されて、誠は唾を床に吐き捨てた。机の上に転がるジェニファーの影が目に入る。彼女を壊すか。ざらついた衝動が首をもたげた。手を伸ばせばすぐ届く脆い獲物。その誘惑は抗しがたいものがあった。
 どうやって壊すか。ここは実験室だ。大概の器具はあるだろう。バットで叩き壊すだけでは詰まらない。
 しかし、誠は首を振った。魅力的な案だが、まだ圭一は利用価値がある。感情に任せて下手を打つわけには行かない。ましてや、今回の件でほぼ無関係のジェニファーを巻き込むのは若干気が咎めた。
 深呼吸を数度し、誠は隣の準備室に向かった。
 薬品棚は品質の変化を抑えるために冷却機能も付けられているようだ。唸るような駆動音が部屋に満ちている。
 軋みを上げるガラス戸を開け、誠は蛍光灯で照らされた小瓶を手に取る。ラベルは周囲と同様に汚れていて読めない。ひんやりとした空気が足元を流れていく中、漸くの目当てのアンモニア溶液らしき小瓶を探し当てた。ついでに生きているペンライトも見つけた。
 それらを手にジェニファーの元へ戻ると、誠は蓋を取って小瓶の口をジェニファーの鼻に近づけた。
 目が見開かれ、ジェニファーは咳き込みながら身を起こした。その激しさに、少々憂さが晴れる。
 漸く発作が止まり、彼女は辺りを見渡した。涙目になりながら、眩しそうに誠を見上げる。

「ここは? み、ミクとケーイチ……は!?」
「ここは研究所だ。そこにあるのが薬の生成機だそうだ。あの二人は残りの材料を探しに行った。俺は……あんたのお守りだ」

 ジェニファーが安堵したように深く息を吐いた。無意識に傍らの虚空を手で撫でようとして、彼女は動きを止めた。

「……ツカサは?」
「おまえの想像通りだよ」
「…………。そう」

 泣き叫ぶかと思ったが、ジェニファーは小さく呟いただけだった。感情を全部抑え込んでしまったらしい。
 舌打ちし、誠は腕を組んだ。
 風でも強くなってきたのか、外から断続的な重低音が聞こえる。音はどんどんと大きくなっていく。いや、近づいてきているのか。
 風などではない、もっと機械的な――。

「ヘリコプター?」

 誠とジェニファーが口にしたのは同時だった。
 窓を見やるが、星ひとつない闇が広がるだけだ。また、不思議なことに音が反響していて方角がつかめない。
 窓に駆け寄ったジェニファーが格子を持ち上げ、自分の存在を報せようと大きなジェスチャーで声を張り上げる。

「ここよ! 気付いて! お願い!」

 その様に、誠は皮肉気に口をゆがめた。
 どれほど声を上げてもコクピットまでは届きやしないだろう。それに、こんな早くにヘリコプターで救助されるなんて終わりは求めていない。ケチはついたが、まだこのサイレントヒルを楽しみ切っていない。
 と、近くで立て続けに銃声が響いた。他にも人がいるのだ。
 斬り下げるような風切音が混ざる――

「圭一の見間違いじゃなかったのか――」

 そう呟いた直後、耳を劈く破砕音が轟き、建物を振動が襲った。衝撃で窓ガラスが砕け散り、天井の一部分が軋みを上げながら崩れ落ちる。甲高い不協和音と粉塵の舞い散る中、実験準備室の中央付近に大きな人影が存在していた。
 影はゆっくりと立ち上がる。さらりと衣擦れの音が鳴った。
 全体像は分からないが、ホテルで襲ってきた三角頭と同じような巨体であることが分かる。煙霧の中で爛と光る双眸が誠を捉えた。
 その瞬間、誠は身体が硬直するのを感じた。指すら自由に動かせない。ただ視界に入っただけだというのに、巨人から漏れる鬼気に当てられてしまった。
 殺意も何もなく、ただ虚無そのもののような瞳――。
 これが畏怖というものだろうか。
 震えすら走らない。ただただ心と体が冷たく――無感覚になっていく。まるで周囲の大気が凍てついてしまったかのようだ。
 ジェニファーが悲鳴を上げた。
 巨人の視線が逸れた。途端、身体を抑えつけていた圧力が霧散するのを感じた。誠は踵を返すと脇目も振らずに実験室を飛び出した。
 半透明のカーテンが幾つも吊り下げられた部屋を駆け抜ける。ジェニファーは勿論、薬のことも、圭一たちのこともどうでもよくなった。
 死んでしまっては意味がない。
 あれはそういう相手だ。
 相対してはならない相手だ。
 己は上位の存在でもなんでもなかった。
 ただの、狩られる兎だ――。
 血流にのって怯怖が全身を駆け巡っていく。前方をふさぐカーテンをバットで振り払いながら、誠は漸く悲鳴を上げた。



(三)

 圭一がパネルを操作し、箱が効果を始める。旋毛を引っ張られるような独特の浮遊感は何回経験しても慣れるものではない。
 深紅は背負ったリュックの中にある、あのノートブックのことを思った。
 中年男性のこと以外にも読み取れたことはあったのだ。
 視えたのは中年男性だが、感じ取れたのは父親を慕う子供の心だ。狂おしいまでに純粋な、奔流のごとき父親への思慕――それは深紅がずっと抑え込んできた兄への想いを膨れ上がらせた。込み上がる熱いものを堪えるのに精いっぱいで、そこまで告げる余裕がなかった。
 だが、告げられなかった理由はもう一つある。
 そのイメージの奥から結ばれる像は一つではなかった。幼い子供と、己とそう変わらない年頃の少女の二つだった。
 噛み合わない異なる魂が混ざり合っているような、奇妙な感覚。
 そのことに戸惑い、結局その後も口にすることができなかった。
 あれはおそらくはハリー・メイソンなる人物の娘なのだろうが、ああも違って視えるものだろうか。

「……ヨーコさんは何て言ってる?」

 圭一が階層を示すパネルを見上げながら呟いた。

「……"T-ブラッドを探して"って。あとは人の名前。多分、ヨーコさんにとって大切な人たちだと思う」

 深紅は眦のあたりを抑えた。ヨーコはずっと急かし続けている。思念は前後の繋がりが曖昧で、感情そのものをぶつけられているような形だ。混乱しているようでもあり、歓喜しているようでもある。
 それでも単語は拾い上げることができる。特に"ここ"、"ケビン"、"アリッサ"、"T-ブラッド"、"時間がない"の四つの単語は繰り返し呟かれている。偶に"ジム"という名前が思い出したようにそこに加わる。
 腕のかゆみは気障りなほどに悪化していた。ゾンビに引っかかれた場所だということが気にかかる。
 ――時間がない。
 ヨーコの独り言は、深紅自身にも向けられている気がしてならなかった。
 本当に――。
 深紅は皮肉気に口を歪めた。本当に、己の人生はひとつも思い通りにならない。悪いことだけが積み重なっていく。

「探してって言ってもな。具体的にどんなものか分からねえもんな。ここのどこかにあるもんなのか? ゾンビ化させるウイルスに感染した奴の血ってことならゾンビ自体も当てはまるけど、それならとっくにヨーコさんそう言ってるはずだろうし」

 圭一は腕組みしながら首をひねった。
 "T-ブラッド"が具体的に何なのか、ヨーコ自身から聞いていなかった。圭一の言うとおり、ウイルスに感染した者の血でよければ深紅のものでも代用できるはずだ。
 メモには"サンプルを受け取る"とあった。きっと、何か特別なものなのだ。
 しかし、それが分からない。ヨーコはといえば、急かすばかりで要領を得ない。
 焦燥ばかりが募り、不安が胸を締め付けていく。
 電子音が鳴り、エレベーターが停まる。開いた扉から伸びるライトの中に動くものはない。
 それでも、圭一はいつでも振り下ろせるようにバットを構えてゆっくりと歩き出した。
 成長期特有の華奢な背中を見つめながら、深紅は素朴な疑問を投げかけた。

「……圭一さんは、ヨーコさんのこと信じてるんだね」

 圭一は立ち止まって、深紅を顧みた。

「勿論。俺、雛咲さんを信じてるからな。だから、ヨーコさんのことも信じられるよ」

 事もなげに、むしろ何故問われたのか分からないといった表情で圭一は答えた。
 その簡潔さに深紅は苦笑を浮かべた。

「何を根拠に? 居るかどうか確かめられないものを、どうやって信じられるの? 私が嘘を言っているっていう方が現実的でしょう?」

 意地の悪い問い掛けだと、深紅は認めた。
 圭一は事あるごとに"信じる"ことを強調してきた。その言葉に、彼がこれ以上ない拘りがあることは容易に想像がつく。
 ただ、だからこそ訊いてみたかったのかもしれない。兄以外の誰とも分かち合うことのできなかった秘密を抱えてきたからこそ、"信じてもらう"ことへの抵抗があった。
 圭一はドアノブに手を掛けながら頭を振った。

「根拠なんて、人を信じる理由にならないよ。どんなに情報を揃えたって確信にはならないだろ」

 圭一が慎重に扉を開く。深紅は隙間に懐中電灯を差し込んだ。エントランスホールは、変わらぬ静寂に包まれている。
 ふうと、圭一が息を吐いた。

「……根拠なんてさ、結局自分を納得させるだけの都合のいい材料でしかないんだ。その人を自分が本当に信じたいかどうかなんだよ。大事なことはさ」
「それって、とても危ないことのように思えるんだけど。悪い人に会ったら格好の餌食だよ」
「かもね。でもさ、信じるってそういうリスクも呑み込んじまうことだろ。騙されることはあるかもしれない。だけど、例え騙されても許すって覚悟を決めていればそんなのは全然怖くないんだ。そんなことよりも、信じなかったことで大切なものを無くしちまうことの方が、俺は怖いな」
「………………」

 二つの足音がホールに響く。忍び足を意識しても、嘲るように靴は床を鳴り響かせた。 

「新堂さんはさ、まだそういう覚悟はできないんだと思う。リーダーの責任があるし、俺と違って慎重だし。だけど、もう少し時間をおいたら分かってくれる。なんせ、新堂さんは会ったばっかの俺のこと信じてくれてんだぜ? お人よしには変わりねえよな。気長に待とうぜ。なんとかなる。どんなことでもさ」

 圭一が、人を惹き付けるあの笑顔を浮かべているのが分かる。
 望んでいた答えではなかったが、だがそれでも心を縛っていた枷が幾つか消えていく。
 信じるに値しないものを信じる。もしかしたら、それが本当に信じるということなのかもしれない。
 希望もまた、同じものだ。まず、なんとかなると己が信じなければ。
 これからの人生も――。
 孤独も――。
 今の深紅を取り巻く状況の全ても――なんとかなる。

「ありがとう」

 自然と口に出た言葉だが、少しばかり気恥ずかしかった。圭一も照れたように笑った。

「それに、人に言えない秘密って分かるしさ。ずっと秘密にしておく辛さも、話した時の怖さも」

 ふと、ヨーコが文字通り流れるようにしてホールの奥、階段の下にある扉の向こうに消えていった。
 突然走り出した深紅に、圭一が戸惑いの声を上げた。
 ヨーコのことを告げながら、勢いよく扉を開ける。通路に、ばちばちと何かが弾ける音が響いていた。
 ライトで周囲を照らすと、"危険"と書かれた柵の中に大きな機械が見えた。その傍には、裏口にしては立派な扉がある。反対側の奥には白いペンキで"C-3"と記されたシャッターがあった。
 ヨーコはそのシャッターの傍らに立っていた。
 付近に火の粉が舞っている。深紅はヨーコに走り寄った。
 ヨーコは一点を見つめていた。釣られて、深紅はライトをそちらへ向けた。
 切れた配線が蛇のように垂れ下がり、揺れながら火花を散らしている。これが異音の正体か。

「あっぶねえなあ。そこのスイッチで悪戯されちまうじゃんか」

 圭一は壁にあるスイッチにちょんとつついて見せた。
 深紅はヨーコに視線で問い掛けた。ヨーコは深紅に向けて、同じと一言告げた。大分落ち着きを取り戻してきたようだ。
 この建物なのだという。仲間と共に特効薬の材料を求めて歩き回っていたのだと、彼女は告げた。
 改めて"T-ブラッド"のことを問おうとしたとき、遠雷のような重低音が校舎を震わせた。音は段々と、建物と鳴動するように大きくなっていく。

「ヘリコプターかな、これ――」

 圭一がつぶやいた。
 と、大きな吼え声が上がった。それと共に、どこか軽妙な炸裂音が立て続けに響く。ほんのすぐ近くだ。
 一旦外へと出て行ったヨーコが、戻ってくるなり逃げてと叫んだ。しかし、それを圭一に告げることはできなかった。建物を轟音が揺るがしたからだ。天井から埃や塵がぱらぱらと落ちてくる。
 重い何かが降ってきて、校舎の屋根を突き破った。そんな噪音と衝撃だった。
 窓ガラスを影が横切ったような気がした。重い何かが外壁へとぶつかって拉げる鈍い音が耳朶を打つ。銃声と破壊音が交錯し、調べの如く闇に踊った。
 外で光が瞬き、窓ガラスを貫いた。深紅の頬を灼熱を帯びた何かが掠めていく。背後で、シャッターが甲高い金属音を奏でた。

「雛咲さん、無事か!?」

 壁に張り付くような態勢の圭一が叫んだ。頬に触れると、血が指先を濡らした。深紅は悲鳴を上げながら後ずさった。ぶつかったシャッターががちゃりと揺れる。
 穴の開いた窓ガラスを枠ごと突き破り、黒い何かが飛び込んできた。
 それは黒ずくめの衣装に身を包んだ男だった。顔はガスマスクで覆われていて、歳は分からない。手には拳銃が握られ、肩にも少し大きめの銃を下げている。
 男が床で一回転して立ち上がるのと同時に、裏口の扉が吹っ飛んだ。男が舌打ちする。
 吼え声を上げながら大男が現れる。黒ずくめの男の倍はある巨躯だが、それ以上に大男は異様な姿をしていた。
 右腕は欠損し、その替りとでもいうように肥大した左腕。
 その先端には五指の骨が穂先のように並んでいる。
 ライトに照らされる肌は黒く、顔の半分は火傷でどろどろに溶けて癒着していた。何よりも、上半身の一角を占める剥き出しの巨大な心臓が、大男が"人"ではないことを告げている。
 それでも陰部を覆うブーメランパンツが、大男が"人間"であったことの印のようで嫌悪感が募った。
 照らし出された悍ましい姿に圭一も深紅も言葉を無くした。ヨーコの声は、もう絶叫となっていた。逃げるべきだ。そんなことは分かっている。だが、魅入られたかのごとく体が動かない。それでも無理に動かすと、三歩もいかずに足がもつれ、深紅は尻餅をついた。
 破裂音を轟かせて、大男が床を蹴りあげた。床板を踏み割るような響きが通路に反響する。
 黒ずくめの男が一歩後退して拳銃を構えた。
 銃声と焔が闇を裂く。
 飛び出した空薬莢が床に跳ね、大男の悲鳴が迸った。右目から血を噴かせた大男が、角口で僅かに蹈鞴を踏む。黒ずくめの男は踵を返すと、立ち上がる深紅の横を走り去った。

「こンのぉ!」

 圭一が自分を鼓舞するように声を上げながら、壁のスイッチを操作した。配線の断面から青い稲妻が迸り、圭一の後姿を包む。

「あれ――?」

 圭一が間の抜けた声を漏らした。圭一の背中からは、白い大爪が生えていた。白い先端は血と肉片に飾られ、ぬめりと光っている。
 稲妻は大男を貫かなかった――。
 悲鳴は出なかった。代わりに、逆流した胃酸が深紅の喉を焼いた。
 圭一がごぼごぼと嗽の様な音を零した。その身体がゆっくりと持ち上げられる。独眼が、無感情に圭一の身体を見つめている。痙攣する圭一の真下に、真紅の池が作られていく。
 深紅は廊下を走り出した。壊れた人形の様に吊り下げられる圭一の姿は、抉りこむようにして網膜に突き刺さっていた。
 残ったヨーコが圭一の名を叫んでいる。
 圭一は助からない――。
 自分でも驚くほど冷静に、そう判断を下していた。同時に、彼を見捨てたことも認める。
 無駄と知りつつも助けようとするのが筋だとも思う。
 しかし、それは出来ない――。
 この大学に圭一を導いたのは己だ。圭一を死なせたのは深紅自身だ。
 圭一に縋りつき、"仲間を助けようとする女"として死ねば、心は満足するかもしれない。
 だが、誠とジェニファーはどうなる。彼らはこの事態を知らない。
 真相を知れば、誠たちは深紅から離れていくだろう。しかし、そんなことは些細なものだ。
 彼らまで死なせてなるものか――。
 その一念が、己を引き裂いてやりたいほどの慚愧を抑え込んだ。
 まずは二人の安全を確かめるのだ。あの、建物を揺るがした轟音。それは誠たちのいる実験室の方向に思えてならなかった。
 肉が引き千切られる音と圭一の絶叫が深紅を追いかけてくる。それを振り切って、深紅は開けっ放しの扉に飛び込んだ。
 廊下にはゾンビたちが転がっていた。動く様子はない。どれもが脳漿を壁や床にぶちまけていた。前方から銃声と打撃音が聞こえてくる。
 角を二つ曲がると、待合室の薄明の中に影が躍っていた。
 影は寄ってくるゾンビの懐に躊躇なく踏み込むと、そのゾンビの踝を踏み抜いた。態勢を崩すゾンビの頭部を掴み、無造作に壁へと叩きつける。吐き気を覚えさせる、重い軋みが響いた。硬い物が砕け、その内側に詰まったものが壁に降りかかる。
 踏み抜いた足を軸に影は僅かに方向を変えると、肘鉄で別のゾンビを突き飛ばした。そのゾンビが数歩後退する僅かな時間に、影は半身をずらして三体目のゾンビの背後に回り込んで膝裏を蹴りつける。膝をついたゾンビの後頭部に踵が振り下ろされ、そのまま床に叩き潰される。
 脛骨を踏み折るその遺響の中で、影は軽妙に足を踏みかえて残ったゾンビに向き直った。息ひとつ乱さぬまま、右手に握られた拳銃が火を噴き、先ほど突き飛ばしたゾンビの頭の半分が爆ぜ跳ぶ――。
 瞬く間に三体のゾンビを無力化し、影がエントランスホールへの扉を蹴破った。

「待って! お願い、助けて! 私に、協力してください!」

 深紅は叫んだ。
 三階が、自分一人ではどうにもできない事態に陥っている可能性に思い当たったのだ。たとえば、二人が瓦礫に埋まっているとか――。
 倒れたゾンビを飛び越え、深紅は待合室を駆け抜けた。ヨーコはまだ追いついてこない。
 影――あの黒ずくめの男は足を止め、肩越しに深紅を見た。後方で、壁を壊すこもった音が鼓膜を揺らす。
 乱れる呼吸を鎮める深紅に、黒ずくめの男は首を傾げて見せた。

「三階にいたのは君たちか。エレベーターはあそこに?」

 低く落ち着いた声音で発せられたのは、しかし、深紅への返答ではなかった。手袋に包まれた指が奥を示す。

「そうですけれど……あの?」
「降りてきてどのぐらいになる?」
「ついさっき、です」

 多少戸惑いながら答える。破壊音は続いていた。あの巨人の足音と雄叫びが聞こえる。
 しばし考え込んでから、黒ずくめの男は頷いて見せた。

「ふむ。協力と言ったな。私の記憶が間違っていなければ、協力とは、互いの役割をこなすことで不可能を可能にすることだ。たしかに、奴から逃げ切るのは難しいだろう。あれは殺戮本能の塊のようなものだ。殺せるものはすべて殺さないと気が済まない。厄介な手合いだな」
「ええと……」

 黒ずくめの男は拳銃から一旦弾倉を引出し、すぐにそれを戻した。音はすぐ隣の部屋に到達していた。

「猶予はないな。私からも頼もう。私に協力して欲しい」
「それは……勿論です。とにかく、私のとも――」
「ありがとう」

 短い礼と重なるようにして銃声が響いた。深紅は先ほどとは比べようもない熱と衝撃を膝に感じた。突き抜けた衝撃に足を払われる形で深紅の身体は突然バランスを崩した。どうにか床に手をついて体を支える。
 からからという金属音が床を転がった。
 熱い液体が膝から流れ出て広がっていくのを感じる。

「時間を出来る限り稼いでくれ」

 子供に使いを頼むような気安さで言い残し、黒ずくめの男はエレベーターに続く扉へと消えて行った。
 深紅は呆然とその背中を見送った。立ち上がろうとし、苦痛に深紅は身を捩った。左膝を拳銃で撃ち抜かれたのだと、深紅は漸く理解した。理解した途端、耐え難い痛みが体の中を暴れまわった。
 ずしんという鈍い響きが二階から聞こえた。次いで、階段を駆け下りてくる足音が耳に入る。
 痛みに耐えながら、深紅は音の方へ顔を向けた。ライトが顔を照らし、深紅は目を細めた。

「し、新堂、さん?」

 降りてきたのは誠だった。ジェニファーの姿はない。誠は深紅を無感情な表情で一瞥すると、すぐに正面扉に向けて走り出した。
 激痛の合間を縫って、深紅は誠の背に向かって叫んだ。

「じ、ジェニファー、さんは!?」
「知るかよ!」

 誠は険悪に吐き捨てると、正面扉を押し開けた。ひんやりとした夜気が床を這って流れ込んでくる。
 ついにエントランスホールの壁が破られた。轟音の幕を掻き分け、材木も鉄骨も区別なく粉々にしてあの巨人が入ってくる。思わずそちらにライトを向けた誠が短く悲鳴を上げ、外へと駆け出した。
 深紅は呆然と誠のライトを見送った。腕の痒みが全身へと広がっていく――。
 横殴りの衝撃が深紅の身体を弾き飛ばした。成す術もなく深紅は宙を舞い、床の上で幾度となく叩きのめされるように転がる。その最中、巨人が正面扉を殴り壊す音が聞こえた。
 漸く止まって、深紅は咥内を満たす血に咽た。だが、うまく腹に力が入らない。しかし一方で、身体を苛んでいた痛みが、波が引くように消えていくのを感じた。
 目を開けると、ヨーコが立っていた。彼女は悲しげに深紅を見つめている。

 ――ジェニファーは……――

 ヨーコが口を開いた。彼女が何を言っているのか、深紅にはもう分からなかった。



【前原圭一@ひぐらしの鳴く頃に 死亡】




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最終更新:2012年06月23日 17:46