Secret Window
水明が電話を切った。その口元には、これまで浮かべたことがない優しい微笑みが刻まれていた。
それほどまでに、彼の弟は心を許せる相手なのだ。母親との関係を修復し切れていないからこそ、それがユカリは正直羨ましかった。
彼から一旦目を逸らす。波音が耳朶を満たす。砕け散る飛沫が旋律に度々変化を差し込んでいく。東に広がる赤い海は、ある程度近づくとそれ自体が微かに昏く光を放っているのが分かった。
水明が湖の沖合に蠢く大きな影を目にしたために、ユカリたちは一度東へ進路をとった。
最短経路を辿れなかったことに――それがユカリ自身の安全も考えた結果とはいえ――もどかしさはあるものの、水明に抱いていた畏怖は、もうユカリの心の中から消失していた。
鬼の表情に見えたのは、水明が辛さに耐える表情だったのだ。命を傷つけ、奪う――その行為の罪深さと痛みに歯を食いしばる。それを怖いと拒絶するのは、あまりに卑怯だ。フェアじゃない。
鼠であっても、殺して気持ちのいい人間は少ないはずだ。まして、それよりも大きく、苦痛を表現する生き物ならば尚のことだ。
命を嬲ることに喜びを見出す類の人間はいるが、少なくとも水明は違う。
ふてぶてしくて、皮肉屋だが、それは彼の持つ優しさの裏返しだ。
水明は優しい。無関心に見えて、しっかりと周りを見て他人に心を配っている。それはタイプこそ違えど、友人のチサトを思い起こさせた。
ミカと同じく、彼女もこの町を彷徨っているはずだ。それを思うと、鼓動が――幾許か早くなる。
水明に視線を戻す。彼の背後、映画に出てくるような装甲車が置かれた広場の向こうに、大きな建物の影がある。近くを通った時、病院というよりも大学だなと水明は言っていた。地図の表記に従えば、あそこが"研究所"に当たるのだろう。クーンツ通りにて実際目にした看板にも、辛うじて研究所という文字が読み取れた。
落書きのような地図の情報の方が正しいとは、なんとも皮肉的だ。
「ねえ、ここから抜け出せるって本当?」
南に向かって歩き出した水明を追い掛けつつ、問い掛ける。
水明の電話は殆ど最初から付いていけなくなったため、内容の大半は聞き流していた。
ただし、脱出できるという、その部分だけはしっかりとユカリの記憶に引っかかっている。
振り返ることなく、水明は滔々と述べ始めた。
「"氷室邸"に"黄泉の門"というものがあるらしい。拾った地図で"屋敷"と書かれている所だろうな。黄泉っていうのは分かるとは思うが冥府――死者の国のことだ。
つまりは、こちらではない、あちらの世界。異界ということだ。古来より、異界ってのは険しい山の頂や海の向こう――そして、地下の奥深くにあると考えられてきた。だが、一方で、その異界に通じる扉、異界との繋ぎ目ともいうべきものは人の生活の近くにあるとも考えられてきたんだ。
六道珍皇寺という寺を知っているか? そこの井戸は冥界に通じていて、小野篁という役人が夜な夜なそこを通って、地獄で閻魔大王の補佐をしていたらしい――」
「いや、そんなデンセツはどうでもいいんだけどさ」
半眼で告げると、水明は肩を竦めて見せた。
「異界ってのは、そこまで隔絶されたもんじゃないってことさ。必ず、現世との接点があり、ふとしたことで混ざり合ってしまう。そのことを、日本人は理解するまでもなく感性として受け入れ、文化に取り入れてきた。
たとえば、能は過去の召喚だ。楽士はその演目の人物そのものとなり、舞台は過去の一篇を浮き世に召喚している。舞台で繰り広げられるのは過去の再現ではなく、過去そのものだ。
百物語もそうだ。閉め切った部屋に蝋燭を百本立て、暗闇の中で人々が集う。日常と異なる空間。それを作り上げることが、百物語の目的の一つなんだ。異界は簡単に呼び出せ、作り上げることができる」
「いや、言ってることは分かるけど、それって今のこことは違うでしょ? オジサンが言ってるのは、あくまで建前というか――」
「観念的、か? そうだな。そのとおりだ。だけどな、そいつをその場にいる誰もが信じていることが重要なんだ。ただそれだけで異界なんてものは、容易に現れ、現実を侵食する。その入り口もな。いとも簡単に、裂け目は作られる。襖、階段、穴、辻――あらゆるものが、裂け目となることができる。更に言えば、入り口がなければ、異界は"異界"にならない。何かに観測されなければ、異界は存在できないんだ。異界は、確かな形を以て存在するものではないからな。だから、完全に閉じて、その世界だけで完結することはできない」
「えーと、これまでの無駄話を全部端折ると、絶対にあるはずの異界と現実の接点が、そのお屋敷にあるってこと? だけど、その屋敷って本当にあったとしても日本にあるんでしょ? じゃあ、ここのは本物じゃなくて偽物でしょう?」
「いい質問だ。長谷川の言うとおり、本物じゃないはずなんだ。だけどな、その門は化け物によって厳重に封印されているらしい。どうしてだろうな?」
答えは既に分かっているという口調で水明は問い掛けてくる。そのことに苛立ちつつ、ユカリは少し逡巡してから答えた。
「……開かれると、何か都合が悪いから?」
「そういうことだな。もう一つ。具現化した以上、それはこの町の一部として機能しているはずなんだ。氷室邸は、この町における異界の繋ぎ目としての役割を引き継ぐには適しているように思う。頭の回転は心配ないようだな。一年ぐらいのハンデ、君なら十分取り戻せるだろ」
肩越しにそう水明は言った。彼が言っているのは来年のことだ。
そんなこと考えもしていなかったことに、ユカリは気づいた。
周囲が受験勉強や就職活動に邁進する中、ユカリはチサトとミカのことで気が気ではなかった。サイレントヒルからの手紙が来てからは、猶更であった。
チサトは留年して、そして進学するだろう。単位は自分も危うい。仲良く留年か。ミカも留年するだろうから後輩のままだ。
だが、自分は――どうしたいのだろう。未来のビジョンを何も作ってこなかった。
変わらぬ日々なんて、どこにもないのに――それを求めてはいけないのだと、あの黄昏の町で悟ったのだから。
いつだって変っていかなくてはならないのだ。時は必ず終わり、誰もが変化していく。
と、水明が面白そうに口を覆っている。眉を顰めて何だと問いかける。
「いや、元の時代に戻れば君は俺より年上なわけだ。それを考えると、こうして教師のように接しているのがおかしくてな。マーティ少年の気分だ」
「……うわ、サイテー。オジサンより年上っても母親って程の差じゃないでしょ……」
呻いたとき、何の前触れもなく周囲にヘリコプターのローター音が響いた。すぐ近くの様な、ずっと遠くの様な――居心地の悪くなる響きが周囲を包む。
上空を見上げても何も見えない。そうしている内に西で大きな物音がした。その前後から敷地内では銃声が鳴り響き、大きく物が破壊される音まで聞こえてくる。
水明は眼差しを厳しくすると、急ぐぞと告げた。
「あっち、人がいるみたいだけど……」
「そいつはどうかね。だがどちらにしろ、銃を持っている相手に俺たちがしてやれることは何もない。的になるか、足手まといが関の山さ。俺たちは神様じゃない。やれることをやっていこう。岸井くんにライオンを引き取って貰わなくちゃな」
最後だけ、水明は冗談めかして言った。しかし、ユカリはそれに食ってかかる気にはならなかった。
騒ぎの遠鳴りを背に受けながら、ユカリは水明の背中を追う。水明の懐で、バイブ音が場違いに悠々と奏でられた。
【E-3/南部/一日目真夜中】
【霧崎水明@流行り神】
[状態]:精神疲労(中)、睡眠不足。頭部を負傷、全身に軽い打撲(いずれも処置済み)。右肩に銃撃による裂傷(小。未処置)
[装備]:携帯電話、懐中電灯
[道具]:10連装変則式マグナム(0/10)、ハンドガンの弾(15発入り)×2、宇理炎の土偶(?)
紙に書かれたメトラトンの印章、自動車修理の工具
七四式フィルム@零~zero~×10、鬼哭寺の御札@流行り神シリーズ×6、食料等、他不明
[思考・状況]
基本行動方針:純也と人見を探し出し、サイレントヒルの謎を解明する。
1:街の南西へ向かい岸井ミカと式部人見を保護する。
2:アレッサ・ギレスピーと関係した場所、および氷室邸を調査する。
3:そろそろ煙草を補充したい。
※ユカリには骨董品屋で見つけた本物の名簿は隠してます。
※胸元から腹にかけて太陽の聖環(青)が書かれています。
神の力で創り出されたクリーチャーに対しては10m以内に近付けば衰弱させられるという効果を持ちます。
※氷室邸の黄泉の門がサイレントヒルからの脱出口になるのではと考えています。
【長谷川ユカリ@トワイライトシンドローム】
[状態]:精神疲労(中)、頭部と両腕を負傷、全身に軽い打撲(いずれも処置済み)
[装備]:懐中電灯
[道具]:(水明が書き写した)名簿とルールの用紙
太陽の聖環の印刷された紙@サイレントヒル3、地図
サイレントヒルの観光パンフレット
ショルダーバッグ(パスポート、オカルト雑誌@トワイライトシンドローム、食料等、他不明)
[思考・状況]
基本行動方針:チサトとミカを連れて雛城へ帰る
1:ミカを助けに街の南西に向かう。
2:とりあえず水明の指示に従う。
3:チサトを探したい。
4:無事とはいえシビルが心配。