あそぼう






 軽く、目眩がした。
 天と地が一瞬ひっくり返り、それからふらふらと数歩。
 立ち止まって、息をつく。


 それだけで、「何か異変が起きた」 事を理解する。


 雛城高校2年、逸島チサトはそういう少女だ。


 昔から、変わった力を持っていた。
 見た目は、同世代の女子よりやや小さめで、少しばかりふっくらとしていて、飾りのない真ん中分けの長い黒髪をしている。
 いかにも「一昔前の文学少女」然とした目立たない少女。
 そのチサトが、ほとんど誰にも教えたことのないささやかな秘密。
 それが、この力だ。
 俗に言う霊能力というものだと、一応は解釈している。
 とはいえ、それが具体的にどんな原理で、どんな事の出来るものかを、自分自身明確に理解しているとは言えない。
 ひとならぬものの気配を感じる。
 日常の人の世の理を越えた現象を識る。
 あるいはときとして、それらに働きかけ、理を正すこともある。
 正す、と言ったところで、それはやはり人の理、あるいはエゴとも言える。
 この世界には、人の理などとは関わりあいなく、より大きな法則、あるいは世界があることも、逸島チサトは識っている。
 幾度となく体験しているからだ。
 霊と呼ばれる存在。精霊と呼べる存在。呪い、恨み、あるいは祟り。
 そういうものに働きかけ、それらを鎮め、助けられ、平穏な日常へと回帰する。
 良く言えば、そういう事が出来る事もある。


 出来ることもある、等と自分で言うのは、やはり逸島チサトにとって、霊やそれらに属する存在は、大いなる存在であるという畏敬の念があるからだ。
 霊を退治する、除霊する、等という、傲慢な姿勢は彼女にはない。
 出来ることがあれば手助けをする、お願いが出来るならお願いをする。
 そして、どうしようも無いのならば、関わらない。
 身の丈を越して霊に関わり合うことは、破滅を意味するからだ。
 自分にはそれほどの力はない、と、そう思っている。


 それでも、関わらざるを得ないときはある。
 そして多分、「今」もそうなのだと思っている。
 経験から来る直感。
 幾度となくそういう事に遭遇している逸島チサトにとって、慣れたいことではないが、ある意味慣れていることだった。
 しかし、今回は違った。
 彼女は見る。
 窓の外を埋め尽くすかのような濃密な霧を。
 彼女は感じる。
 その中に潜む、言いようもなく禍々しい気配を。
 いつもとは違う、その気配を。




 両開きの扉を閉め、側にあったテーブルを倒しバリケード代わりにする。
 しはするが、まるで頼りない。
「駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、こんなんじゃ全然役に立たねぇ!」
 何か役に立つ物はないかと素早く見渡すが、整然と金属製の大きな棚が立ち並ぶこの空間でめぼしい物はない。
 たしかにこの金属製の棚らしき物を使えばバリケードとしては最適だろうが、高さだけでも6~7フィートはあるそれを、一人で動かす力はない。
 ジム・チャップマンは仕方なくここを諦め、この建物の奥へと逃げ込む。
 手にあるのは鉄パイプ一本。
 それで、つい先ほどから自分を追いかけてきている出来損ないのブッシュドノエルのような化け物を倒せるなどとはとうてい思えない。
 ブッシュドノエル。あの、クリスマスのときに食べる丸太を模したケーキ。
 その一端に貌が貼り付き、四本の脚で這うように、うねうねと動く化け物 ―――。


 逃げながらも、頭の隅で考える。
(ありゃ、ゾンビの変種なんかじゃあ絶対にねぇぜ。
 何だか分からねぇが、もっとヤベェ何かだ…)
 ゾンビ ――― Tウィルス によって変異し、ゾンビ化した "生ける死者" 達は、総じて知能がない。
 知能、と言うのも曖昧な表現だが、言い替えれば人間性と呼べるものが欠落している。
 痙攣と同じだ、と、ジム・チャップマンは考える。
 肉体が何らかの作用で反射的な反応をするとき、意志や感情は存在しない。
 同じように、T-ウィルスによって作り出されたゾンビは、ただウィルスの作用で動いているだけだ。
 しかし ―――。
 さっきのは違う。
 明確に理屈として考えているわけではないが、ただそう"感じた"。
 アレは違う。
 ゾンビの様な生ける死者とは違う。
 もっと禍々しい何かだ。
「畜生め! ジーザス! なんだって、こう、立て続けに、こう、なん、だ、ろう、なぁっ!」
 そう、後先も考えずわめき散らしていたら、突然天地がひっくり返った。
 落ちた、のである。
 反射的に両手で頭をかばう。
 数回、身体が硬い何かに打ち付けられ、転がった。
 肺腑から空気がはき出される。
「ふぅ…ぐぐ…い…痛ぇ…ぞ…この…くそ…ッ!」
 呻いて、手を突いて上体を起こそうとするが、その手が滑る。
 床に、液体が撒き散らかされているのだ。
 数瞬の間に意識と感覚がはっきりとして、鋭い刺激臭に気がつく。
 ガソリン…いや、灯油だ。
 辺りを見る。
 行き詰まりの地下階。背後に鉄の扉があるだけのどん詰まり。
 その床一面に、揮発性の強い油の匂い。
 ――― 最悪だ。
 今ここにアレが来たら、逃げ場は ―――。


「   あそぼう   」


 背後から、声がした。




 ラッキーだ。
 美浜奈保子はひりひりする喉を鳴らして、そう考える。
 あの黒人がどう動くか、視界ジャックを数回使っておおよその見当はついた。
 それでも確実ではない。一か八かで仕掛けた罠だ。
 あの異形の化け物と一緒に、焼き殺すための。
 勿論、黒人を殺すことはこの場合の目的ではない。
 むしろ、どうせなら生きていてくれた方が良いとは思う。
 助けたいからではない。
 ただ、気がついたらこのどことも知れぬ校舎の中にいた自分にとって、外から来た彼の知っているであろうことは必要だろうとも思う。
 冷静に考えれば、だ。
 もとより激しやすく流されやすい奈保子の精神状態は、今このとき、とうてい冷静とは言えない。
 勿論パニックを起こしているわけでもない。
 パニックというのは恐慌状態を指すが、奈保子の今はそれではない。
 ただ、物事の損得勘定基準がおかしくなっているだけだ。
 俗に言う狂気とは、社会的な背景から来る真っ当な損得勘定を考えられなくなることを指す。
 犯罪を犯すとき、人は犯罪を犯すことによる損と、犯すことによる得との計算が出来なくなっている。
 自殺を図るとき、死ぬことの損と生きることの得が計れなくなっている。
 人を殺す狂気も、己を殺す狂気もその意味では同じだ。
 奈保子の損得勘定は、今少し歪にずれている。
 その意味では、彼女は緩やかに狂っていた。
 羽生蛇村で立て続けに経験した異常な出来事により追いつめられ、日頃の鬱屈に苛まれ、そしてここに来て目の前にもたらされた "救い"。
 それは、ただの落書きともいえぬ走り書きだった。
 まっとうな人間、まっとうな状況ならそんなものは信じない。
 それでも、直保子はそれを"信じて"、"縋った"。
 まるで、生まれたての雛が初めて見た動くものを自分の親だと認識するかのように、目覚めて初めてみたあの文面を、天から与えられた啓示のように捉えていた。


 化け物にはもう飽いていた。
 何度も蘇り、うつろな空洞の目で何処ともしれない果てを見ている屍人たち。
 それに比べれば ―――。
 あんなふうにみっともなく逃げ回っている黒人一人殺すことなど、容易い。


 だから、美浜奈保子はそうすることを選んだ。
 逃げ回る黒人の行く先を予想し、ささやかな罠を貼る。
 薬品棚からは武器に使えそうなめぼしいものはなく、消毒用アルコールでは火力としては心許ない。
 そこで運良く見つけたのは、地下のボイラー室にあった灯油の缶だ。
 中身の、まだたっぷりと入ったそれ。


 それを階段の上からぶちまける。
 走ってくるあの黒人が "運良く" このルートに来てくれれば、まず転ぶだろう。
 さらには、"運良く"地下階まで落ちてくれれば上出来だ。
 そして、待つ。


 黒人を殺すことが目的ではない。
 あの黒人を追いかけてきていた化け物。
 これは、あれを殺すための罠で、黒人はいわば囮、あるいは餌だ。
 化け物が黒人を襲っている隙に、纏めて始末する。
 あんなみっともない黒人一人を殺すことなど容易い。
 難しいのは、化け物だ。
 もしかしたらあの村にいた屍人のように、倒しても倒しても起きあがる様な化け物かも知れない。
 というより、奈保子が実際に知っている化け物というのは全てそう言うものだ。


 だから、あの出来損ないの伊達巻きに顔と四肢の生えた、ともすれば滑稽な姿の化け物も、まず間違いなくそう言う存在だと思っている。
 そう考えることが彼女にとってはごく自然なことだからだ。


 何度もよみがえる屍人。
 しかし、灯油で焼き尽くされたらどうだろうか?
 それならば、よみがえるための肉体そのものが焼き尽くされてしまったのならば ―――。
 そこに、勝機はあるだろう。
 そう考える。
 いや、あるはずだし、あらねばならないのだ。
 なぜなら、あれだけの目に遭い、何度も死ぬ思いをして、ようやくもたらされた救いなのだ。
 それは正しくなければならないし、又、奈保子にとって幸運をもたらすものであるはずなのだ。


 そうでなければ、話がおかしい。


 奈保子は再び視界をジャックする。
 黒人の視界は、地下ボイラー室の前をさまよっている。
 少し離れたところから、おそらくはあの化け物らしき視界が移動し、近づいてきている。
 その上方、一階と二階を繋ぐ階段の踊り場、手すりの陰に隠れている奈保子は、火を点けた即席の火炎瓶の熱さも気にせずに、きつくそれを握りしめる。
 揺れる。揺れる。
 視界が揺れる。
 これはあの化け物の視界。
 流れるように、漂うように。
 跳ねるように、滑るように。
 近く。
 もう、すぐ、近く。
 今。
 見える。
 黒人の。
 近く。
 来た。
 今。
 降り ―――。


「   あそぼう   」


 何処かから。
 声が聞こえた。


4 


 声がしない。
 常ならするはずの電子音。
 あるいは、機械的な音声メッセージ。
 それが、まるで何も聞こえない。
 何かを引きずる様な、あるいはざわめくような雑音、ノイズ。
 それだけが、逸島チサトの耳の奥を、不快に這い回る。
 そのざわめきの奥に、嫌な感覚が増幅される。
 常ならあるはずの音では無く、常なら聞こえることなど無いはずの音 … あるいは、声、囁き、呻き…が、聞こえてくる。
 そんな感覚。


 駄目だ ―――。
 チサトは耳から受話器を離し、ガチャリと乱暴に戻す。
 こんなとき。
 いつも真っ先に拙いことに遭遇しているはずのミカ。
 それを知ればなんだかんだ言って手助けせざるを得ない性分のユカリ。
 この二人に、なんとか連絡を付けたかった。
 長谷川ユカリとは長い関係になる。
 小学生の頃からのつきあいで、かれこれ9年ほどだ。
 口幅ったい言い方をすれば、親友というやつだと思ってはいる。
 岸井ミカとはここ半年ほど。
 1年後輩の彼女は、半ば押しかけるかたちでユカリとチサトに ――― 主に、チサトでは無くユカリにだが ――― 付きまとっていた。
 はじめは、正直歓迎してはいなかった。
 そこに、一番の親友の自分を差し置いてユカリに馴れ馴れしくするのが不愉快だ、という、些か歪んだ依存的友情がまるでなかった、と言えば嘘になる。
 しかしそれをさしおいても、軽々しくオカルト話や都市伝説を持ってきて、無闇に霊の場を乱そうとする彼女の行為が、チサトにとって危なっかしく、また好ましくないものでもあった。
 とはいえ、当初は心霊に対するスタンス、いや、「理解」の大きな違いから、どちらかというと険悪になりがちな関係であったが、なんだかんだでつきあい続けているうちに、チサトにとっても 「放っておけない」 存在として、ミカは大きな位置を占めていた。
 決して外交的でもつきあい上手でもないチサトにとって、内にこもりがちな自分のテリトリーに入ってこられることは些か苦痛でもある。
 でもあるが、だからこそ一度深く関わってしまった相手を無碍には出来ない。
 そして何よりミカ自身、決してただ浮ついた軽々しい気持ちだけで霊的な存在と接しているわけでもないし、彼等を冒涜しているわけでもない事も、よく分かったからだ。
 ミカは、本来的に優しい。
 チサトはそう思う。
 浮ついて見えるのは、言い替えればミカ自身のキャラクターだ。
 考えてみれば、人と接するときも全く同じ調子なのだ。
 それが結果として拙いことに巻き込まれる原因となることもあるが、それでもそれがミカの性分なのだから、ある意味仕方がないとも思う。
 ここ数ヶ月ほどのつきあいだが、チサトはミカの事をそう把握している。
 そしてだからこそ今、そのミカになんとしてでも連絡を取りたいと思っている。
 しかし。
 ポケベルの番号にダイヤルしようとしても、受話器からはざわついたノイズしか聞こえてこない。
 ミカとは、数刻前に別れたきりだ。
 そのときは、またいつもの調子のミカと、テスト前で多少苛立っていたユカリが、些細なことから口論となり、ケンカ別れのような形になってしまった。
 それからしばらくしてユカリが帰り、一人図書室に残っていたチサトがようやく帰ろうかと立ち上がったとき、目眩がした。
 目眩と、いつの間にか校舎をスッポリと覆うようにして存在しているこの濃霧。
 明らかな異変の顕れに、チサトは心がざわつき、落ち着かないで居る。


 現に ―――。
 一階の事務室前に降りてくるまで、まるで人の気配がしなかった。
 自分以外の誰もかもが死に絶えた、静寂の世界。
 そんな妄想が頭を過ぎる。


 どうしよう。


 今までとは違う。


 明確な根拠もなく、チサトはそう確信する。
 これは、今までにあった怪異とは違う。
 今までが、例えば襖一枚の向こう側を不意に垣間見るような異変だとしたら、今回のこれは ―――。


 鼓膜を貫くかのような叫び声に、チサトの思考は中断する。




 自分の声か、誰かの声か、ジム・チャップマンにはそれすらも区別が付かなかった。
 ただ腹の底にある空気が全て吐き出される程の勢いで声を出す。
 両手足をばたつかせ、まるで地面を這うようにするが、床の灯油の影響もあって、まるでまともに動けては居ない。
 階段。
 目の端に映るそれに向かい、逃げだそうとする。
 逃げだそうとするが、恐慌の中、その裏側にいる冷静な自分が疑問を呈する。
 どこから聞こえた?
 アレは、俺を追ってきていたんじゃないのか?
 その視界に、小さな脚が映りこむ。
 赤い、小さな、靴。
 いかにも子供用の小さな靴が、やはり子供の小さな足を包んでいるが ―――。
 誰だ?
 何故だ?
 何故ここに子供が?
 いつの間に?
 いや。
 違う、そうじゃない。
 何より、何故…。
 何故この足の向こうが、幽かに透けて ―――。


「  おじちゃん、あそぼう  」


 赤い靴。赤いスカート。白シャツ。ショートボブ風に切りそろえた黒髪。
 青白く、そしてまるで幻影のように朧気な姿。
 見上げる視線の先、薄暗がりの中、まるで中にたゆたう映像のように。
 その少女は、居た。


 今度こそ、声が出ない。
 吐き出されるのはひゅうひゅうというかすれた息。
 気化した灯油に喉が痛む。
 はっ、はっ、はっ。
 息が早くなる。
 はっ、はっ、はっ。
 短く、浅く、それでいて規則正しく。
 そして、そのときにようやく。
 あの丸いのが。
 ジムの視界に、入り込んでくる。
 歪んだ女の顔をべったりと貼り付けた円筒。
 這い回る四肢を持つ、あの化け物が。
 あれは、ゾンビとは違う。
 ジムは先程感じたことを反芻していた。
 あれはゾンビとは違う。
 ゾンビはただの反射的、痙攣的なモノ、物体に過ぎない。
 あれは違う。もっと禍々しい何かだ。
 そしてこれ … この、少女は …。
 階段の上に、ゆっくりと。
 ゆっくりと。


「  わぁるい、鬼が来た  」


 囁いた。


 それは、囁きとしか言えない幽かな声。
 しかしなのに何故か、まるで脳の中に直接語りかけられているかのように、はっきりと明確に響く。
 あの化け物はゾンビとは違う。
 そしてこの少女は、それともさらに違う。


 少女はゆっくりと、階上を見上げながらジムに背を向ける。
 あれが、前面に貼り付いた貌をこちらに向ける。


 「ねーえ、遊びましょう」


 相変わらず貼り付いたような笑みで、そう嗤う。
 ぬらり。
 ぬるり。
 ぬらり。
 芋虫が這うような動きで、それは降りてくる。
 その前に、あの朧気な姿の少女が居る。


 なんだ、これは。
 ジムはただ圧倒され、その有様を見続けている。
 ラクーンシティで、ゾンビの群れと戦い、逃げ、この世の地獄を見たと思っていた。
 いや、確かにアレは、この世の地獄だ。
 しかし。
 今の此処は、この世の外の出来事だ。
 もしかしたらここは既に ―――。


 スローモーションの様に、その光が落ちてきた。
 小さな、火。
 それはガラス製の容器で作られた、即席の火炎瓶の様なモノだった。
 一瞬。ただ一瞬の事であろうその落下が、やけにくっきりと目に残り ―――。


 「こっちに!」


 背後から伸ばされた、新たな声の主らしき手で、腕を引かれ。
 そして呆然としていたジムはなぜだかその声にそのまま従って。
 重い、鉄の扉をくぐり抜けた。
 背後で、あの球体の悲鳴らしき声と、扉の閉まる音と、炎の熱が感じられた。




 はっ、はっ、はっ、はっ。
 短く、浅く、それでいて規則正しく。
 まるでスタッカートのような呼吸。
 何処とも知れぬ校舎の中、美浜奈保子はただ走っている。
 やった。
 やってやった。
 確かに感じているであろうはずの恐怖と吐き気を、興奮と歓喜で押し戻す。
 やったんだ。やってのけたんだ、アタシは。
 ほら、やっぱり人を殺すなんてたいしたことはない。
 そして多分あの化け物だって、なんとかしてやったはずだ。
 ――― あの、声が。
 あの少女の声がしたときに感じた戦慄。
 それは、屍人との戦いや、また先ほど外からやってくる奇怪な怪物を見たときのそれとも違う、異質なものだった。
 異質ではあるが、別の意味でそれは分かりやすいものでもある。
 分かりやすく、分かりやすいからこそ、抗えない。
 その声が自分に向けられているのではないことが分かったときには、緊張のゆるみから僅かながら失禁をしていた。
 辺りをうかがい、視界ジャックを試みて、また下を覗き見る。
 大丈夫だ。まだ大丈夫だ。
 予定通り、予定通りに動いている。
 あの黒人は地下階から動けていない。
 あの化け物は確実にこちらに向かっている。
 タイミングは。
 タイミングは、あの化け物の視界の中に、あの黒人がしっかりと入り、そして ―――。
 投げた。
 手にしていた即席の火炎瓶。
 甲高い悲鳴。瓶の割れる音。燃えさかる炎の音、断末魔の叫び…。
 聞こえた、と、そう思いこんでいただけかも知れない。
 確認する暇も余裕もない。
 あとはただひたすらに、走っていた。
 とにかくあの場所から逃げる。
 逃げて、逃げて、逃げた先で。
 奈保子は転んで、うずくまり、胃液を吐き出した。
 咳き込み、吐き出し、嗚咽し、そしてまた吐いた。
 痙攣を繰り返し、ようやくそれが収まったときには、辺りの薄暗さが増しているのに気づく。
 長い廊下の途中。
 記憶にある、ごくありふれた学校の中。
 ガラス窓に映る自分の姿に呆然と視線をやり、それからずいぶんと髪が乱れメイクも落ちているていることが気になった。
 ――― やだ。こんなんじゃ、カメラの前に立てないじゃない。
 さらに周囲を見回して、その場所を探す。
 保健室で見つけた救急バッグに、とりあえず使えそうな物は突っ込んでおいた。
 けれども、肝心のメイク道具は見つからず、これでは化粧直しも出来ない。
 それでもとりあえず、鏡さえあれば、手櫛でも乱れた髪を直すことは出来る。
 だから、奈保子は躊躇無くそこに入る。
 見慣れたマークの掲げられた、女子トイレ。
 そうだ。
 奈保子はぼんやりと思い返す。
 あの子は、そう ―――。



「ハナコ…サン?」
 廊下を早足で歩きつつ、ジム・チャップマンはそう聞き返す。
「多分…そうです」
 答えるのは逸島チサト。
 どうやらただ一人、この雛城高校の校舎に取り残されたであろう少女。
 トイレの花子さん。
 それが、あの子の名前だ。
 雛城高校七不思議の一つであり、また初めてミカに連れられて行った、既にお馴染みとなってしまった 「ミステリーツアー」 最初の探索の対象。
 実際に、花子さんがどんな存在か。それを巧く説明するのは難しい。
 ただ俗に言われる自縛霊……というよりは、ある意味では雛城高校の守護者のような存在である。
「彼女は、この学校に住んでいて ――― だから決して、害意のある存在ではない…はずなんです」
 思い返す。初めてこの学校で花子さんに遇ったときの事を。
 ミカに連れられ、夜の校舎に入り込み、呪文を使って呼び出したときのことを。
 さんざん追いかけられ、迷わされたが、それらは悪意によるものではない。
 だが、今のこの状況は ―――。
 これも、あの花子さんの力なのだろうか……?
 違う、と思う。思うが、断言できない。
 何かがおかしい。
 何かが狂っている。
 それでも、あの花子さんの力が何らかの形で今ここに作用していることは分かる。
 先ほどの事が、その証明。
 悲鳴を聞き、何事かとそちらへ向かおうとしたチサトは、再びこの校舎の中で迷わされた。
 前のときと同じ。
 空間が歪んでいたのだ。
 戸を開けて進むと違うところに向かい、降りれば昇っている。
 空間と空間のつなぎ目がバラバラで、整合性がない。
 人を迷わせる、花子さんの仕業だ。
 そしてだから、教室から廊下への戸を開いたらボイラー室から出たところになり、そしてそこには身も知らぬ黒人男性と、花子さんらしき少女の姿と、そして。
 奇怪な、鳥の脚の生えた茶筒の様な…。
 なんとも形容しがたい、化け物がいた。
 霊的な現象に何度となく遭遇しているチサトでさえ、あんなものは見たことも聞いたこともなかった。
 まるで、そう。
 例えばミカの好きなオカルト雑誌に載っている、未確認生物特集にでもありそうな………いや、それ以上に忌まわしい、何か。
 忌まわしい。
 不意に浮かんだこの言葉が、チサトの中でやけにしっくりときた。
 霊とは、チサトにとって決して忌まわしい存在ではない。
 しかしアレは違う。
 自分たちとは、ある意味地続きで存在している霊達とは異なる、何か根本的に異質な、決して交わりようのない存在…。
 少なくとも、チサトにとってあの怪物は、そういうものに思える。
 あそこで、躊躇無くこの見知らぬ黒人男性に声をかけられたのは、そのあまりの異質さと、そしてその眼前にいた少女霊、チサト自身その存在を知る、花子さんの影響でもある。
 誰であろうと、あの化け物に追いつめられているのなら助けねばならないと、そう感じた。
 そしてそこに花子さんが居たからこそ、行動に移せた。
「花子さんは…。この学校の守護者…のようなもので…だから多分、大丈夫」
 言葉を慎重に選ぶが、あまり巧く言えたとは思えない。
「つまり、その、あのゴーストが、俺たちを守ってくれるってのか?」
「それは…」
 予想していた反応に、言葉が詰まる。
「分かりません…。多分彼女は "学校を守る" ことはすると思います…。
 けど、"私たち" を守ってくれるかまでは…」
 分からない。というより、自信がない。
 今経験している異常は、これまでのものとは違う。
 それは既に、疑念から確信へと変わっている。
 むしろ、花子さんの姿と力を見て、よりその確信は深まった。
 あの異形の怪物は何なのか?
 何故ここに、見も知らぬ黒人男性が居るのか?
 明らかに英語を喋っている彼の言葉の、伝えようとしている意味が耳ではなく頭で理解できてしまうのか?
 そして、今もまだ "あの"花子さんの力が働いているとしたら ―――。
 私たちは此処を出てゆくことが出来るのだろうか?
 この長い廊下は、何処へ繋がっているというのだろうか?





【雛城高校/一日目夕刻】


【美浜奈保子@SIREN】
 [状態]:心身共に強い疲労、軽い興奮状態
 [装備]:26年式拳銃(装弾数6/6 予備弾6)  懐中電灯
 [道具]:志村晃の狩猟免許証 羽生田トライアングル 救急救命袋 応急手当セット(ガーゼ、包帯、消毒薬、常備薬など) 
 [思考・状況]
 基本行動方針:どんな手段を使っても最後の一人となり、褒美を手に入れる
 1:髪を整え、メイクを直す。
 2:落ち着いたら、視界ジャックを使って化け物と黒人の生死を確認する。
 3:校舎内を探索し、まともなメイク道具や安全な場所を確保したい。
 *屍人化の進行が進んでいます。死亡すると屍人化します。また時間経過で屍人に近づいていきます。


【ジム・チャップマン@バイオハザードアウトブレイク】
 [状態]:強い疲労、打ち身、軽い火傷
 [装備]:鉄パイプ コイン
 [道具]:グリーンハーブ×1
 [思考・状況]
 基本行動方針:とにかく助けてぇ!
 1:逃げ切れたと思える場所まで行ったら、この少女と話をして状況を整理したい。
 2:喉が渇いた。休みたい。
 *コインで「表」を出しました。クリティカル率が15%アップしています。
 *T-ウィルス感染者です。時間経過、死亡でゾンビ化する可能性があります。


【逸島チサト@トワイライトシンドローム】
 [状態]:わずかな疲労
 [装備]:なし
 [道具]:通学鞄、教科書と筆記用具など一式、小物ポーチ、財布と雛城高校の生徒手帳
 [思考・状況]
 基本行動方針:何が起きているかを確かめ、ミカ、ユカリの安否を確認して、状況の解決、脱出を目指す。
 1:逃げ切れたと思える場所まで行ったら、この黒人男性と話をして状況を整理したい。
 2:学校から出ることが出来るかどうか確認したい。
 3:ミカ、ユカリの安否を確認したい。
 4:あの花子さんは本当に前にあった花子さんなのだろうか?



※ジム・チャップマン、及び逸島チサトは、美浜奈保子の存在を確認していません。
 また、美浜奈保子は逸島チサトの存在を確認していません。






【キャラクター基本設定】
逸島チサト
出典:トワイライトシンドローム
年齢/性別:16歳/女
外見:158cm、やや小柄で長い黒髪の古風な印象の少女。
環境:雛城高校2年。古風な父のもと、3人指姉弟の長女として育つ。弓道部所属。蟹座のO型。
性格:普段は無口で穏やかだが、人に対してややうち解けにくく壁を作るところがある。
 控えめに見えて心は強く強情で、ある意味母性的な面も。
能力:霊能力。諸々の裏設定などを考慮すると、実はかなり強力なものらしいが、ゲーム中では詳細不明。(※後述)
 弓道部所属と言うこともあり弓術が出来るとは思われるが、それに関しても明確な描写はない。
口調:丁寧だが、さほど冗長ではない。語尾は、「~だよ」 等。
 ごく親しい同性の友人 (ミカとユカリ)は 「~ちゃん」付けで呼称する。
交友:同校の友人、長谷川ユカリとは9年来の友人。1学年後輩の長谷川ミカとも、ごく最近にだが親しくしている。
 他、友人に関する描写はほとんど無く、性格的にも交友範囲は狭いと思われる。
備考:本編終了後、ロワ内ではOPの岸井ミカと全く同じ時間軸から登場。


 ※チサトの霊能力及び、花子さんとの関係。
 トワイライト本編のみでは、「少女ホラーにありがちな霊感少女」的な描写のみに留められているが、外伝的続編
である 『ムーンライトシンドローム』 での描写、及び裏設定などを見ると、「校舎の一部を思念で破壊する規模の
イメージを投影する」 くらいの事が出来る、半ば神の化身の様な強い霊力があるような設定も。
 また、花子さんに関しても、「チサトの能力が作り出した、メッセンジャーとしての化身」 等の裏設定もあるら
しいのですが、この辺りたどっていくと、正確な設定書としてあるもの、というわけでもなさそうなのです。
 というわけで初登場時のSSにおいては、「潜在的には強い霊能力があるらしいが、別に年がら年中それらを使え
るわけではない (かもしれない)」、「雛城高校の花子さんとは何らかの霊的な繋がりがあるが、本人も明確には
分かっていない(かもしれない)」、という前提の描写にしました。実際にどうなのかは、今後の展開次第で。



【クリーチャ基本設定】
花子さん
出典:『トワイライトシンドローム』
形態:一人。
外見:おかっぱ頭に白いシャツと赤いスカートに赤い靴。所謂 「昭和(前半)の子供」 の典型的イメージ。
 基本的にうっすらとした半透明で実体はない。
武器:特になし
能力:所謂霊体なので、物理的な攻撃はおそらく効かない。
 ゲーム内の描写から、空間の繋がりをねじ曲げることが出来ると思われるが、おそらく学校内限定。
 物体に対しての攻撃的な能力があるかどうかは不明。
 よって、ステイタス評価も一切不明。
行動パターン:日済し路高校休校手3階の女子トイレで、3回回った後に、「キックキックトントン、キックキックトン」と唱えると、一緒に遊びたくて現れる、というのが、本編での行動パターン。
備考:チサトの霊能力に関する補足で前述の通り、ゲーム本編に登場する花子さんは、公式ではない裏設定で、「チサトの霊能力によって具現化した化身の一つ」 らしい。
 ただし、今回登場した 「この世界」における花子さんが、その通りの存在かどうかは不明。


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Retry? 美浜奈保子 Implication
Retry? ジム・チャップマン Implication
逸島チサト Implication

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最終更新:2012年06月20日 20:40