Implication
べたつく髪を手で無理やり梳かして、それっぽい体にする。
普段なら絶対に入ろうとは思わないであろう、不気味な女子トイレで身嗜みを整える自分に、
奈保子は嫌気が差した。これでも自分はアイドルなのだ。
本来なら宛がわれた楽屋で、専属のメーキャップアーティストによって整えられるべき美貌なのだ。
それを、こんな……。
(まあいいわ。幸いカメラは回っていないようだし、観客もスポンサーもプロデューサーもいない)
長い目で見れば、いつまでも上品ではいられない。事実、狡猾かつ卑劣な手はすでに打っている。
体裁を気にするのは褒美をもらった後で構わない。しかし、染みついたアイドル根性がそれを否定しているのも事実であった。
そんな欲求を褒美という希望でねじ伏せ、奈保子は手を髪から銃へと移す。
これからやることは女優の演技とはかけ離れた、狂人の凶行。
それが罪だと頭でわかっていても、心はそれを望んでしまっている。
常識など一連の異常でとうに崩壊し、後に残ったのは執着と願望だけ。
獲物を求める狩人は、視界ジャックのために意識を集中させた。
¶
「オレはよ、その日は酒場にいたんだ。いつものように酒飲んでたよ。
今思えば、あれが人生の終着点だったのかもな」
「何があったんですか?」
「簡単に言っちまえば、ウィルスの流出だな。それで皆化け物に転職だ」
遠き地であるアメリカ、ラクーン・シティで起きた「生物災害(バイオハザード)」。
もちろんそんなニュースは覚えがないし、口さがない後輩も口にしていない。
主観的に言えば、そんな事件は存在しないものだ。ただのフィクション、妄想の産物。
にわかには信じがたい話だが、チサトはとりあえず受け入れることにした。
スピリチュアルな話とは違う、フィジカルな分野。埒外な彼女がそれを完璧に否定することはできないし、
否定した所でこの男――ジム・チャップマンとの関係が悪化するだけだ。信じなくとも、話を聞くだけに済ませることだってできる。
「無事でよかったですね」
しかしチサトの慰めに、ジムは顔を暗くした。彼の話は続く。
ケビンという名の警察官と共にラクーン・シティの脱出を試み、そして脱出のできる直前まで自分は来たが、
身体は確実に蝕まれていた。人をゾンビへと、怪物へと姿を変えてしまう元凶、T-ウイルスに。それはケビンも同じで、
ウィルスを他の人間にバラまくわけにはいかない。結局、ラクーン・シティを離れていくヘリコプターを黙って見送ることしかできなかったのだ。
チサトはわずかに身構える。彼の話が全て真実だとすれば、目の前の男はその悪魔のようなウィルスの感染者であり、感染源と成り得る存在ではないか。
「ああ、悪い。別にうつそうって気はないし、ヤバくなったら決着はつけるつもりだ。心配しないでくれ」
「すみません」
そう苦笑するジムに、彼女は頭を下げた。本当は彼の方が不安だろうに、自分は何てことをしてしまったのだろう。
申し訳なさで胸がいっぱいになりつつも、そこには不安が混在していた。
一つはもちろんジムのことだが、他にも花子さん、あの怪物……。
その中でも最も気掛かりなのが、あの火炎瓶の主だ。ジムが誰だかわからなかったと言っている以上、推測でしか測れないが、おそらくは人間だろう。
学校の守護者――言いかえれば支配者ともとれる花子さんや、性質の異なる怪物がいたあの場に、無理に介入しようとする霊はいないと見ていい。
本来、亡霊というものは、大抵が静寂を好み、雑踏を嫌う性質がある。ゆえに心霊現象は、廃墟にはよくあるが、繁華街にはそうそう存在しない。
そうなると、考えられるのは悪意ある人間の所業である。その原因が日常でもあり得る狂気か、ジムのいうウィルスによるものかはわからないが、
用心しておくに越したことはない。問題は花子さんにしても、あの怪物にしても、その人間にしても、全員が未だ健在である可能性が高いということ。
その全てを警戒するのは、さすがに不可能だ。
「しっかし、何の因果で日本のハイスクールなんて……」
チサトがジムの疑問に反応するより早く、轟音が周囲を木霊した。
サイレン。
異世界の序曲。
「これは、へん。こんなの、へん」
背後の呟きに振り向けば、そこにいたのは花子さんだった。両耳を押さえ、首を振っている。
「『ここ』が、『ここ』じゃなくなる。あそべななななななあななんああなあなあな」
言葉の終わりはすでに人語ではなく、吃音でしかなかった。それを最後に、その女の子は消えていった。
それと同時に、変わる世界。風景、雰囲気、気候……そうした環境が激変していく。
「なんだってんだ、いったい!」
「私にもわかりません」
号音が通り過ぎ、悲鳴を上げる男に対し、少女は答えを持ち合わせてはいなかった。
記憶の中で一番該当しそうなのが、戦争の時代から抜け出せない亡霊のいた世界の空襲警報だが、これとは性質が違う。
あれはただの回顧録であって、こんな風に環境を激変させる力はないはずだ。
それとは別に、花子さんの消失はその能力の無効を意味するらしく、空間の歪みはなくなり、雛城高校は元の姿を取り戻していた。
内装が凶悪なほど変質しているので、正確には元の姿そのままというわけではないが、それでも、空間相互の整合性が復活したことに変わりはない。
永遠に続くと思われた廊下に終わりは見え、教室の扉もいくつか散見される。
「花子さんの影響がなくなったようですね」
「だったら早くここから脱出しようぜ。嫌な予感がするんだ」
チサトも同感だった。好意的かどうかは別にしても、花子さんの加護がなくなった以上、この場所は『危険な存在がいる』という事実しかない。
外部と連絡が取れない以上、早々に避難するべきだろう。
しかし、彼女が同意する前に、危機は現れた。
「今度は逃がさないよ」
そばの階段、下の踊り場に、その球体はあった。忘れようとしても忘れられないあの笑みを伴って、
髪の毛を燃やしたような異臭を纏って、布をかぶった巨大なボールがそこにいた。
「クス、クスクスクスクスクス」
花子さんによる空間歪曲。それはデメリットであると同時に、メリットでもあった。
方向感覚、土地勘、索敵能力を無力化されるのは、自分だけではなく、相手も対象となる。
発見しにくくなると同時に、発見されにくくなるのだ。力量から考えれば、今までその異常において得をしていたのはチサトたちの方である。
つまり、この状況回帰は皮肉なことに、二人を追い詰めることになってしまったのだ。
「逃げろ!」
少女が行動を起こすより早く、彼は動いた。男の腕がチサトを突き飛ばし、突進してきた球体をジムの鉄パイプが受け止める。
結果、チサトは難を逃れ、ジムは背中で窓ガラスを割る格好となり、怪物と一緒に校外へ飛び出した。
幸い、ここは一階だったらしく、落下による衝撃はそれほど大きくはなかったが、それは化け物も同じことである。
(逃げなきゃ。逃げて、助けを呼ばなきゃ)
校内に残された彼女は我に返り、走りだす。ここに連絡手段がないのなら、学校から出て、自宅なり友人の家なりに駆けこめばいい。
ジムにケビンがいるように、自分にだって長谷川ユカリや岸井ミカがいる。一人ではないのだ。
玄関が見えてきた。外は暗闇で視界が悪いが、覆っていた霧はもうない。何とか帰れるだろう。友達にだって会えるはずだ。
(ユカリちゃん、ミカちゃん)
最初に感じたのは、風船が割れる音だった。次に、右のふとももに感じる熱。
チサトはバランスを崩し、倒れる。通学鞄が手を離れ、どこかにやってしまう。
焼かれるような痛みを大腿に感じ、見遣れば、そこは血で赤く染まっていた。
「頭を狙ったのに、外したか。弾がもったいないわ」
後ろから聞こえてくる足音。まずい。理性で考えるより早く、本能が告げた。
腕だけを頼りに、前へ、外へ。急げば間に合うかもしれない。
遅れてやってきた激痛に顔を歪めながらも、チサトは学校の外――友人の元へと這っていく。
その進みは流れる血より遅く、後方を歩く足より鈍い。それでも、彼女にはそれしか方法がなかった。
「今度は確実に仕留めないとね」
足音が耳元で止まる。ああ、この人が火炎瓶を投げたんだ。彼女は朦朧とする意識の中で理解しつつも、その姿を確認する気にはなれなかった。
――だってそうでしょう? きっとユカリちゃんが心配しているもの。急いで会いに行かなきゃ。
激痛が思考を阻害し、視界を狭める。もう彼女には一寸先の闇しか眼中にはない。
「ユカリちゃん……ユカリちゃん……!」
慣れ親しんだ下駄箱を通ったら、外へ続く扉を開けよう。それから校門を抜けて、街に下りれば、後は……。
「うるさいわね」
ごりっ。何か硬いものが後頭部に押し付けられる。
それが何なのか、チサトにはわからなかった。
けれど、それが『終わり』を意味するのは、心のどこかで感じ取っていた。
「さっさと死ね!」
その言葉を最後に、彼女は『終わり』を迎えた。
¶
(うえっ。グロ過ぎでしょ、これ)
数秒前まで女性の頭部だったものから目を背け、奈保子は銃に弾丸をつめる。
二発で一人。残弾は十発。残りの人数はわからないが、単純計算であと五人は仕留められる。
(それにしても、案外うまくいったわね)
視界ジャックで黒人の目を借りた時、あの死に損ないの怪物が襲ってくるのが見えた。
その後、男が化け物の標的になったことを確認した奈保子は、残された少女の始末に動く。
その女子高生が非力なのはそれまでの視界ジャックで充分把握していたし、このまま逃げられれば、『褒美』へは遠のいてしまう。
自分の望みを叶えるためには、そうするのがベストに思えたのだ。
狩人と獲物しかいない校内は、最高のシチュエーションだった。
愚直にまっすぐ走る的は、視界ジャックで疲れていても容易く当てられた。
残念ながら、一撃では仕留められなかったが。
(あとは、あの黒人が死んでくれれば……)
廊下を歩き、件の窓から外を覗く。そこには、仰向けに倒れた例の男がいた。
白目を剥き、生気のない表情だ。周囲にあの化け物は見当たらない。
(死んだようね)
念のためにきちんと調べたかったが、化け物が近くにいるかもしれない。
確かめようにも、視界ジャックをするだけの体力はもう残されていない。どこかで休まなければ。
(そのためには、ここは危険ね)
銃声で人が集まるかもしれないし、あの化け物が近くにいてはおちおち休憩もしていられない。
どこか安全なところへ移動するべきだ。それに、情報・武器・化粧品……必要なものは多い。
すべては輝かしい日々を取り戻すため。
(そう、そのためなら何だって)
奈保子は狂気じみた笑みを浮かべ、暗闇の中へ消えていった。
【A-3/雛城高校/一日目夜】
【美浜奈保子@SIREN】
[状態]:心身共に強い疲労、軽い興奮状態
[装備]:26年式拳銃(装弾数6/6 予備弾4) 懐中電灯
[道具]:志村晃の狩猟免許証 羽生田トライアングル 救急救命袋 応急手当セット(ガーゼ、包帯、消毒薬、常備薬など)
[思考・状況]
基本行動方針:どんな手段を使っても最後の一人となり、褒美を手に入れる。
1:校舎内を探索し、まともなメイク道具や安全な場所を確保したい。
2:体力が回復したら、視界ジャックを使って化け物と黒人の生死を確認し、学校を脱出する。
*屍人化の進行が進んでいます。死亡すると屍人化します。また時間経過で屍人に近づいていきます。
【逸島チサト@トワイライトシンドローム 死亡】
【ジム・チャップマン@バイオハザードアウトブレイク 死亡】
自分は死んだ。そう思いこまなければならなかったし、他者に対してもそう思わせなければならなかった。
生きるために、死から逃れるために、そういった共通認識が不可欠だった。
一見すれば矛盾するその行動が、結果的には自分を生き残らせた。
死んだふり。簡単なようで困難なそれは、他を欺く。
「つつ……。何とかなったみたいだな」
ジムは呻きつつ、そこから立ち上がり、周囲に目を配る。
あの球体はもういないようだ。自分が逃がした少女ももうどこかへ行っただろう。
ここは彼女の地元らしいし、土地勘で逃げ果せたはずだ。
(オレもここからオサラバするとしよう)
ここにめぼしいアイテムはなさそうだし、あんな怪物と遊ぶのはもうこりごりだ。
すっかり変形して武器の体をなしていない鉄パイプを放り投げ、
ポケットの中のコインを取り出す。
コイントスをすると、出てきたのは『表』だ。
今までを鑑みると、あまり当てにならないような気がしたが、
何だかんだでこうして生きてるのだから、結構ご利益はあるのかもしれない。
「死にたくねえな……」
歩きながら、ふと、呟く。自分にあまり時間が残されていないのはわかっている。
だが、そう望んで何が悪いというのか。生きようとするのがそこまで罪なのだろうか。
少なくとも自分はまだ人間として生きたかった。人間として死にたかった。
たとえ解決方法がなかったとしても、それが自分の望みなのだ。
(どうすりゃいいんだよ。教えてくれよ、ケビン)
どこかに消えた戦友に問いかけても、答えが返ってくるはずもなく……。
【A-3バス周辺/一日目夜】
【ジム・チャップマン@バイオハザードアウトブレイク】
[状態]:強い疲労
[装備]:コイン
[道具]:グリーンハーブ×1
[思考・状況]
基本行動方針:誰か助けてぇ!
1:死にたくねえ。
*コインで「表」を出しました。クリティカル率が15%アップしています。
*T-ウィルス感染者です。時間経過、死亡でゾンビ化する可能性があります。