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0109■9.11同時多発テロ
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0109●9.11同時多発テロ
01年9月11日午前、米国で民間航空機4機がハイジャックされ、相次いでビル等に激突し多数の被害者を出す驚天動地の事件が発生した。
ボストン空港を離陸した2機はニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センタービル)に向かい、午前8時46分(日本時間11日午後9時46分)にアメリカン航空11便がノースタワー(北棟)に、9時3分にユナイテッド航空175便がサウスタワー(南棟)に激突した。南棟はハイジャック機の突入から56分後、北棟は1時間42分後に上から崩れるように倒壊した。
3機目のアメリカン航空77便は、ワシントンのナショナル空港を発ち、午前9時37分にバージニア州アーリントン郡のペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)に激突し、建物の西側を部分的に倒壊させた。4機目のユナイテッド航空93便は、ニューヨーク州のニューアーク空港からコロンビア特別区に向けて飛行していたが、乗員乗客がハイジャック犯の制圧を試みた結果、ペンシルベニア州ストーニークリーク郡区の野原に墜落した。
一連の事件で3000人以上の死者、25,000人以上の負傷者が出た(ほとんどがワールドトレードセンターの現場での犠牲者で、消防・救助のための消防士や警察官の殉職を多数含む)。
合計19人といわれる犯人は、ほぼ同時刻に離陸した民間機を離陸後まもなく乗っ取り、それぞれの目標に突っ込み、乗員・乗客もろとも自爆した。
ブッシュ大統領は速やかに非常事態を宣言し、さらなるテロに備えて州兵、予備役が動員された。数日間、全ての国境が封鎖され、米国内の民間航空路の封鎖、領空内への民間機の入域・通過が禁止された。
激突前の客室乗務員と地上の交信などから、ハイジャック犯たちはすぐに特定された。9月15日、米政府は捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人のウサマ・ビン・ラディンをリーダーとする国際テロ組織「アルカーイダ」によって計画・実行されたと断定した。実行犯らはいずれもエジプト、サウジアラビアなど中東国出身で、ヨーロッパなどでアルカーイダにリクルートされて、このテロのために米国に召集されたのであった。
米国は、ビン・ラディンらが潜伏するアフガニスタンのタリバーン政権に彼らの引き渡しを要求した。しかし、ビンは嫌疑を否定し、タリバーン政権は「証拠がない」として引き渡しを拒否した。9月20日、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言すると共に、タリバーン政権に対し、ビンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた。
10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始、さらに地上軍を派遣し、12月にはタリバーン政権を崩壊させた。だが、ビンラディンの所在はつかめなかった。
01年9月11日午前、米国で民間航空機4機がハイジャックされ、相次いでビル等に激突し多数の被害者を出す驚天動地の事件が発生した。
ボストン空港を離陸した2機はニューヨークのワールドトレードセンター(世界貿易センタービル)に向かい、午前8時46分(日本時間11日午後9時46分)にアメリカン航空11便がノースタワー(北棟)に、9時3分にユナイテッド航空175便がサウスタワー(南棟)に激突した。南棟はハイジャック機の突入から56分後、北棟は1時間42分後に上から崩れるように倒壊した。
3機目のアメリカン航空77便は、ワシントンのナショナル空港を発ち、午前9時37分にバージニア州アーリントン郡のペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)に激突し、建物の西側を部分的に倒壊させた。4機目のユナイテッド航空93便は、ニューヨーク州のニューアーク空港からコロンビア特別区に向けて飛行していたが、乗員乗客がハイジャック犯の制圧を試みた結果、ペンシルベニア州ストーニークリーク郡区の野原に墜落した。
一連の事件で3000人以上の死者、25,000人以上の負傷者が出た(ほとんどがワールドトレードセンターの現場での犠牲者で、消防・救助のための消防士や警察官の殉職を多数含む)。
合計19人といわれる犯人は、ほぼ同時刻に離陸した民間機を離陸後まもなく乗っ取り、それぞれの目標に突っ込み、乗員・乗客もろとも自爆した。
ブッシュ大統領は速やかに非常事態を宣言し、さらなるテロに備えて州兵、予備役が動員された。数日間、全ての国境が封鎖され、米国内の民間航空路の封鎖、領空内への民間機の入域・通過が禁止された。
激突前の客室乗務員と地上の交信などから、ハイジャック犯たちはすぐに特定された。9月15日、米政府は捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人のウサマ・ビン・ラディンをリーダーとする国際テロ組織「アルカーイダ」によって計画・実行されたと断定した。実行犯らはいずれもエジプト、サウジアラビアなど中東国出身で、ヨーロッパなどでアルカーイダにリクルートされて、このテロのために米国に召集されたのであった。
米国は、ビン・ラディンらが潜伏するアフガニスタンのタリバーン政権に彼らの引き渡しを要求した。しかし、ビンは嫌疑を否定し、タリバーン政権は「証拠がない」として引き渡しを拒否した。9月20日、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言すると共に、タリバーン政権に対し、ビンを含む全てのアルカーイダ指導者を引き渡すことを要求する最後通牒を突き付けた。
10月7日、アメリカを中心とする有志連合諸国はアフガニスタンへの空爆を開始、さらに地上軍を派遣し、12月にはタリバーン政権を崩壊させた。だが、ビンラディンの所在はつかめなかった。
ビン・ラディン
ウサマ・ビン・ラディンは、サウジアラビアのリヤドで、1957年、裕福な実業家の家に生まれた。大学では経済学と経営学を学びながら、イスラム原理主義団体ムスリム同胞団の活動に参加した。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻以後、サウジを拠点としてアフガニスタンのムジャヒディン(戦士)に資金や建設機械を提供するしたり、外国から新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を行った。86年以降、自らアフガニスタンに渡り拠点を作り、数十人のアラブ人ムジャヒディンを指揮下に置いてソ連軍と交戦した。戦果を上げ、アラブ世界の一部で英雄視されるようになった。アフガン戦争の間、米国とサウジはパキスタンの軍統合情報局を通じ、アフガニスタンで戦うムジャヒディンへ資金援助を行った。ビン・ラディンの組織も米国から提供された資金を受け取っていた。
88年、ビン・ラディンは「アルカーイダ」を立ち上げた。ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することを目的としていた。89年ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビンはサウジに帰国し、一族の建設会社を手伝いながらアルカーイダを運営していた。
90年のイラク戦争の際ビン・ラディンは、米軍のサウジ駐留に反対し、急速に反米活動に傾斜していった。このため、91年サウジ政府はビン・ラディンを国外追放にした。ビンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、92年までにスーダンに移動した。そこでビン・ラディンは同国の政権を担う民族イスラム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカイダを国際的なテロ組織へと発展させた。92年12月、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡する事件が起こったが、これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている。93年2月のニューヨーク世界貿易センター爆破事件にも関与した。93年、米政府はスーダンをテロ支援国家に指定した。96年、スーダン政府はアメリカとサウジからの圧力に屈し、ビン・ラディンを国外に追放した。ビンらは再びアフガンに戻り、そこでタリバーン政権の庇護を受け、タリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた。同年ビンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した。97年、パキスタンを拠点したジハード団の指導者であったアイマン・ザワヒリがビンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった。二人は連名で「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した。
98年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアとケニアのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した。テロへの報復として米大統領クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された。99年FBIはビンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した。米政府はタリバーン政権に対しビンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、タリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める決議が採択されたが、タリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
2000年10月にはイエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した。安保理は再度決議を採択したが、タリバーン政権はやはり引き渡し要求に応じなかった。
01年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後から、ビンには首謀者の嫌疑がかけられたが、9月16日、ビンは衛星テレビ局アルジャジーラを通じて声明を発表し、事件への関与を否定した。
タリバーン政権が倒れたあと、ビンらはアフガンとパキスタンの国境地帯に潜伏したと見られた。04年、ビンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた。
10年NATO当局者からの情報として、ビンが、アフガン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、ビンらは、パキスタン情報機関に保護され、同国北西部の家屋に「快適に」暮らしていると報じられた。そして11年5月2日、オバマ大統領に命じられた米国海軍特殊部隊がビンの住居を急襲、ビンを殺害した。
★2001年
ソ連軍のアフガニスタン侵攻以後、サウジを拠点としてアフガニスタンのムジャヒディン(戦士)に資金や建設機械を提供するしたり、外国から新兵をリクルートしてアフガニスタンに送り出す活動を行った。86年以降、自らアフガニスタンに渡り拠点を作り、数十人のアラブ人ムジャヒディンを指揮下に置いてソ連軍と交戦した。戦果を上げ、アラブ世界の一部で英雄視されるようになった。アフガン戦争の間、米国とサウジはパキスタンの軍統合情報局を通じ、アフガニスタンで戦うムジャヒディンへ資金援助を行った。ビン・ラディンの組織も米国から提供された資金を受け取っていた。
88年、ビン・ラディンは「アルカーイダ」を立ち上げた。ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することを目的としていた。89年ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビンはサウジに帰国し、一族の建設会社を手伝いながらアルカーイダを運営していた。
90年のイラク戦争の際ビン・ラディンは、米軍のサウジ駐留に反対し、急速に反米活動に傾斜していった。このため、91年サウジ政府はビン・ラディンを国外追放にした。ビンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、92年までにスーダンに移動した。そこでビン・ラディンは同国の政権を担う民族イスラム戦線と同盟関係を築くとともに、アルカイダを国際的なテロ組織へと発展させた。92年12月、イエメンのアデンでアメリカ軍が滞在するホテルが爆破され、2人のオーストリア人旅行者が死亡する事件が起こったが、これがビン・ラーディンが関与した最初のテロ事件とされている。93年2月のニューヨーク世界貿易センター爆破事件にも関与した。93年、米政府はスーダンをテロ支援国家に指定した。96年、スーダン政府はアメリカとサウジからの圧力に屈し、ビン・ラディンを国外に追放した。ビンらは再びアフガンに戻り、そこでタリバーン政権の庇護を受け、タリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いた。同年ビンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対して「ジハード(聖戦)」を宣言した。97年、パキスタンを拠点したジハード団の指導者であったアイマン・ザワヒリがビンに合流し、アメリカに対するジハードを共に提唱するようになった。二人は連名で「ファトワー」を発し、世界各地でアメリカとその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言した。
98年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアとケニアのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した。テロへの報復として米大統領クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連施設への攻撃を命じ、トマホーク巡航ミサイルによる爆撃が実施された。99年FBIはビンを大使館爆破事件の容疑者として最重要指名手配犯に指定した。米政府はタリバーン政権に対しビンとアルカーイダの引き渡しを求めたが、タリバーンは応じなかったため、国際連合安全保障理事会において引き渡しを求める決議が採択されたが、タリバーン政権はこれにも応じず、アフガニスタンに対する経済制裁が発動された。
2000年10月にはイエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍の駆逐艦に自爆攻撃を仕掛け、17人の水兵を殺害した。安保理は再度決議を採択したが、タリバーン政権はやはり引き渡し要求に応じなかった。
01年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後から、ビンには首謀者の嫌疑がかけられたが、9月16日、ビンは衛星テレビ局アルジャジーラを通じて声明を発表し、事件への関与を否定した。
タリバーン政権が倒れたあと、ビンらはアフガンとパキスタンの国境地帯に潜伏したと見られた。04年、ビンは新たなビデオ声明をアルジャジーラを通じて発表し、自分が19人の実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた。
10年NATO当局者からの情報として、ビンが、アフガン・パキスタン国境地帯の洞窟ではなく、ビンらは、パキスタン情報機関に保護され、同国北西部の家屋に「快適に」暮らしていると報じられた。そして11年5月2日、オバマ大統領に命じられた米国海軍特殊部隊がビンの住居を急襲、ビンを殺害した。
★2001年