人でなしの愛

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『人でなしの愛』



 地獄があるとしたら、きっとこんな所なんだろう

  びちゃびちゃと、胃の中のものを剥き出しの床にぶちまける。
 今日はちゃんとしたものを食べられたんだっけーーほとんど胃液しか出てこなかった己の吐瀉物を、少年は冷たい床に這いつくばって呆然と見つめていた。
 薬が抜けて正気に戻るときの気分はいつまでも慣れない。それなら頭の芯まで蕩けている方がまだいい。何をされているのかよく分からなくなるから。
  少年の失態に客の男はさも汚らしいとでも言いたげに顔を顰め、唾を飛ばして怒鳴り散らす。
 「てめェなに吐いてんだ!!!誰が口使うとッ!思ってんだよッ!!!!!」
 無防備な腹を強かに蹴りあげられてまた吐きそうになる が、すんでのところで堪えることが出来た。だめだ 吐いたらまた、けられてしまう。やだ、それはいやだ。
 ぐっ、と逆流してくるものを飲み下して、精一杯の笑顔を浮かべる。客に媚び、相手の機嫌を損ねないこと。それが少年が覚えた、この地獄で生き残る術だった。およそ人としての尊厳を差し出すことで、明日家畜の餌になるような末路を免れることが出来るのなら安いものだとーー上手くやるから、満足させるから、お願いだから殺さないでと切に願い続けた。

 地獄があるとしたら、きっとあんな所だったんだろう。

✳️

 久方ぶりに見た昔の夢は、思っていた以上に最悪な寝覚めを鳳龍にもたらした。
 おかげでコンディションは最底辺、レッドエリアでたむろしていた河渡系のチンピラで運動してもその気分が晴れることは無かった。
 だから、そう。突拍子も無い問いかけが口をついて出てきてしまったとしても、仕様のない事なわけで。

 「ねぇ大哥。愛って、なんだと思います?」

 仕事の終わり、鳳龍はここ最近自分の中で引っかかってしょうがない疑問を暁龍にぶつけてみた。
 ひと仕事終えたあとの現場は誰が見ても惨状そのものであったが、「誰も見ていない」のでまぁ問題はないだろうと思う。多分。
 暁龍を見やれば、目を伏せ唇に指をあてているー彼の考え込む時の癖だった。
 「何か」
 一拍置いて唇が開かれ、暫しの沈黙。
 「…悪いものでも食べたのか?」
 数秒の間を置いて返されたあんまりにもあんまりな返事に肩を落とす。なんですかそれ。私の事なんだと思ってるんですか大哥。
 「いやまぁ??別に?別に大した理由はないんですけどね?」
 しまった。じわじわ恥ずかしさのようなものがこみあげてきた。「鳳龍」らしくないと言えばらしくない質問だったのかもしれない。さわさわと腹を内側から撫ぜられるようなばつの悪さに足元の死体を爪先で小突いた。

 暁龍にこの質問を投げかけたのは本当に何となくだ。
 本人に言おうものなら顔を顰められるだろうが、暁龍はその生業に反して――鳳龍が今まで出会ってきた人間の誰よりも〝正常〟であったから。
 昔一度だけーーまだ自分に求められている能力について懐疑的だった頃、彼の閨に潜り込んだことがあったのだが、その時も彼は「私が拾ったのは殺し屋であって娼婦ではない」と鳳龍を閨からつまみ出した。

 「変わったな」
 「…何がですか?」
 「お前が」
 ぱちぱちと翡翠の瞳を瞬かせ、鳳龍は言葉を反芻する。変わった?誰が…自分が?
 「以前のお前なら、疑問すら持たなかった概念だ」
 「私がどうか、と言うより…そういう人達との関わりが多かったですからね。最近は」
 この1年半、本当に多くの出来事に巻き込まれたものだと思う。なまじN◎VAとの関わりを密にしてしまったせいだろうか、上層部は鳳龍をしきりにこれらの面倒事に回してくるようになった。おかしい、自分の本業は暗殺のはずだ。暗殺者は世界など救わない。
 「関わりを持つことは悪いことじゃない」
 目を細め、こちらを見つめる大哥と視線がかち合う。笑っているのかいないのか、よくわからない表情だった。
 「しかし…愛というものに関しては…ふむ…お前の期待するような答えは私にも、出せそうにない」
 「そういえば私、大哥のイロ見た事ないです」
 いないからな。と、なんてことないといった語調で返される。さもありなん。いつ死ぬか分からないような仕事に就いて、跡取りの心配もない我々が無理に情人をこさえる必要はないと言えば、無い。房事の経験は豊富でも、こと愛情とは何ぞや、という話となると…どうしていいか分からないというのが、目の前の男と自分の共通認識であろう。
 「私は大哥のこと、好きですけどね。…私を掬い上げてくれたのは、間違いなく貴方ですから。」
 「お前のそれはまた違う気がするが…」
 なんともすげない返事である。ちょっと眉を顰めないでほしい。流石に傷つく。
 「…うーん……」
 しかしまぁ、いい年をした大の男二人が血の海の真ん中で考えることがこれとは、中々滑稽なのではなかろうか。鳳龍は早くもこの議題に終着点を見出すことを諦め、早々に切り上げようと話を締めくくりにかかった。
 「まぁ、我々のような人でなしには及びもつかない次元なんですよ。きっと。」


 人でなし。

 自分で言ったこの言葉が、すとんと胸におちた気がした。
 そうか。あの探偵やAIの少女でもーー機械でも分かることが、人間であるはずの自分に分からないのはなぜなのか。その答えは至極簡単なものだったのだ。
 「ひとじゃないから、ね…」
 あるいは人未満の欠陥品か。だって彼らが焦がれてやまない人の感情の最たるものを、自分は持ち合わせていないのだから。人を愛するとはどんなことだ。胸を焦がす恋とはなんだ。あそこにあったのは薄汚い底なしの欲だけだ。愛も恋も、そんなところではついぞ育たなかった。
 自覚した己のぽっかり空いた穴はひどく空虚だが、それを埋める術を、生憎と鳳龍は持ち合わせていない。
 なんてことだろう。それもこれも、彼等と関わらなければ気付かずに済んだかもしれなかったのに。
 「鳳龍?」
 無言で立ち尽くす鳳龍に業を煮やしたのか、暁龍から声がかかる。
 「……なんでもありません。帰りましょう。大哥。」
 くるりと踵を返し、暁龍に背を向け先陣を切る形で出入口を目指して足を踏み出した。

 自覚してはいけなかった。人でなしのままでよかった。
 変わった、などと暁龍は評したが、否。否。さにあらず。
 変えられてしまったのだ。
 だって、そうでも思わないと、
 この感情の、説明がつかない。

 この鳳龍が悲しいなどとは、

 この、鳳龍が

 ―――淋しい、などとは!


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