航海誌・トーキョー2020
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もう一つの地球。もう一つのトーキョー。私たちの知らない、もう一つの物語が紡がれたなら――
高架橋の下で、少女は足を止めた。電車の行き過ぎるけたたましい音が胸のざわめきに重なって、更に息苦しさを強める。車道の側に身体を翻し、側壁にもたれかかる。荒々しい息は次第に収まり、世界が鮮明に映し出される。
一つ大きく深呼吸し、力なく視界を落とす。胸の高鳴りを抑えつけるように右手を胸に当てる。――やっぱり、こんなことはよそうか。呼吸の落ち着きとともに甦る理性が踏み出そうとする足を縛り付けている。――でも、これで終われるのなら。この息苦しさが永遠に続くなら、この程度の痛みなんて。
ぼんやりした意識が、手にかけたガードレールの冷たさに引き戻された。もはや後戻りできないところまで来ていると感覚させられた。歪んだ視界の中、ガードレールを右足がまたいだ。朝靄の中から大きな音をたてて鉄塊が押し寄せる。既に彼女の視界は何も捉えることができないほどに歪んでいる。
数秒の後、甲高い音が鳴り響き、華奢な体は横へ突き飛ばされた――
「よし、こんなもんですかね」
テーブルを綺麗に拭き終えて、華楠が言った。朝の五時半、次第に明るくなる武蔵野の街並みが喫茶店『AR‐K』の窓辺に映る。燕の群れが駅の方へと忙しなく飛んでいく。
私は店内のテーブルを見回ってから「ああ」と華楠の得意げな声に相槌で答えた。
「そうしたら、入口に看板を出しておいてくれるか。あと、燃やすごみの袋を切らしていたんだ。コンビニに売っているはずだから、ついでに買い足しておいてほしい」
「はーい。乃蒼姉もうっかりさんでごぜぇますね」
「ははは、すまないな」
「良いってことです。それじゃ、行ってくるですよ」
看板を担いで華楠は店を後にした。赤色のオーニングが張られた入口に、華楠は看板を置いた。ブラックボードには営業時間と、モーニングメニューの宣伝が書かれている。こうした細々とした開店準備は、妹の華楠の役目だ。看板を置き終えると、いつものように裏玄関から戻るのではなく、駅の方へと歩き出した。
私はカウンターの奥で帳簿と睨めっこをしつつ、妹を待っていた。ここから一番近いコンビニまでは徒歩で五分とかからない。すぐに帰ってくるものと思っていたが、時計の長針は四時の方向を差そうとしている。思わずボールペンが手元を滑り落ちた。
まさにその時、手元のスマートフォンが騒がしく震え出した。画面には華楠の名前。慌ただしく人差し指を滑らせた。
「華楠! 何かあったのか?」
「ひゃあ! そんな大きな声出さねぇでくださいよ乃蒼姉……」
「す、すまない……」
思わず力んで声をあげてしまった。
「それで、何があったんだ、聞かせてくれ?」
「それが……ちょっと電話口だと説明し辛いんで、一旦外に出るですよ」
「外?」
曖昧に濁したような紡がれる華楠の言葉を訝しみつつも、軒先に出る。華楠が進んで行った方角に目をやると、なんということだろうか、その背中に人を担いでゆっくりと歩みを進める華楠の姿があるではないか。脳がこの不可解な状況を理解するより先に、私は妹の許へ駆け出した。
「大丈夫だったか?」
「華楠はなんともねぇですけど、この子が……」
担がれていたのは歳の若い少女だった。高校生くらいだろうか。気を失ってはいるようだが目立った外傷はない。さらりと伸びた黒い長髪と、その間から垣間見える白い肌が鮮烈なコントラストを放っている。彼女の右腕を肩に回して、華楠と二人で抱える。裏玄関から入って、二階の居住スペースにゆっくりと上がっていく。少女をベッドに横たえて、改めて私は口を開いた。
「……さて、何があったのか。説明してくれるね?」
「ええと、高架下にこの子がいて、ちょっと様子がおかしかったんです。何か困ってるのかな、って思って声をかけようとしたんですけど……。そしたら急に柵を乗り越えて車道に飛び出ようとしたんでもうびっくりでしたよ。ちょうどトラックが通りかかるところで、なんとか突き飛ばすような感じで止められたんでよかったものを……」
「そうか、車道に飛び出して……」
「一体何を考えてやがるんですかねぇ? こーんなに可愛い子が自分からそれを無駄にすることなんてねぇですよ」
「何かトラブルに巻き込まれているのかもしれない。他人の事情というものは、中々外からは見えないものさ」
「そんなもんですかね? 華楠にはわからねぇです」
「まあ、大人になれば自ずと見えてくるものもあるさ」
私がそう笑って右手を軽く華楠の頭の上に置くと、「そうやって子供扱いして……」と頬を膨らませる。この豊かでいとけない表情がまた子供らしさを演出しているのだが。
「華楠だってもう高校生なんですぅ! 華のJKですよ!」
「はいはい。それじゃあそろそろ支度しましょうか、華のJKさん? 今日も朝練あるんだろう?」
はっとした表情で、華楠は壁にかかった時計を見た。まもなく六時を迎えようとしている。
「朝食の用意をしておくから、先に着替えておきなさい」
「はーい……」
主張を上手く躱されて釈然としない表情のままに部屋を駆け出していった。
テーブルを綺麗に拭き終えて、華楠が言った。朝の五時半、次第に明るくなる武蔵野の街並みが喫茶店『AR‐K』の窓辺に映る。燕の群れが駅の方へと忙しなく飛んでいく。
私は店内のテーブルを見回ってから「ああ」と華楠の得意げな声に相槌で答えた。
「そうしたら、入口に看板を出しておいてくれるか。あと、燃やすごみの袋を切らしていたんだ。コンビニに売っているはずだから、ついでに買い足しておいてほしい」
「はーい。乃蒼姉もうっかりさんでごぜぇますね」
「ははは、すまないな」
「良いってことです。それじゃ、行ってくるですよ」
看板を担いで華楠は店を後にした。赤色のオーニングが張られた入口に、華楠は看板を置いた。ブラックボードには営業時間と、モーニングメニューの宣伝が書かれている。こうした細々とした開店準備は、妹の華楠の役目だ。看板を置き終えると、いつものように裏玄関から戻るのではなく、駅の方へと歩き出した。
私はカウンターの奥で帳簿と睨めっこをしつつ、妹を待っていた。ここから一番近いコンビニまでは徒歩で五分とかからない。すぐに帰ってくるものと思っていたが、時計の長針は四時の方向を差そうとしている。思わずボールペンが手元を滑り落ちた。
まさにその時、手元のスマートフォンが騒がしく震え出した。画面には華楠の名前。慌ただしく人差し指を滑らせた。
「華楠! 何かあったのか?」
「ひゃあ! そんな大きな声出さねぇでくださいよ乃蒼姉……」
「す、すまない……」
思わず力んで声をあげてしまった。
「それで、何があったんだ、聞かせてくれ?」
「それが……ちょっと電話口だと説明し辛いんで、一旦外に出るですよ」
「外?」
曖昧に濁したような紡がれる華楠の言葉を訝しみつつも、軒先に出る。華楠が進んで行った方角に目をやると、なんということだろうか、その背中に人を担いでゆっくりと歩みを進める華楠の姿があるではないか。脳がこの不可解な状況を理解するより先に、私は妹の許へ駆け出した。
「大丈夫だったか?」
「華楠はなんともねぇですけど、この子が……」
担がれていたのは歳の若い少女だった。高校生くらいだろうか。気を失ってはいるようだが目立った外傷はない。さらりと伸びた黒い長髪と、その間から垣間見える白い肌が鮮烈なコントラストを放っている。彼女の右腕を肩に回して、華楠と二人で抱える。裏玄関から入って、二階の居住スペースにゆっくりと上がっていく。少女をベッドに横たえて、改めて私は口を開いた。
「……さて、何があったのか。説明してくれるね?」
「ええと、高架下にこの子がいて、ちょっと様子がおかしかったんです。何か困ってるのかな、って思って声をかけようとしたんですけど……。そしたら急に柵を乗り越えて車道に飛び出ようとしたんでもうびっくりでしたよ。ちょうどトラックが通りかかるところで、なんとか突き飛ばすような感じで止められたんでよかったものを……」
「そうか、車道に飛び出して……」
「一体何を考えてやがるんですかねぇ? こーんなに可愛い子が自分からそれを無駄にすることなんてねぇですよ」
「何かトラブルに巻き込まれているのかもしれない。他人の事情というものは、中々外からは見えないものさ」
「そんなもんですかね? 華楠にはわからねぇです」
「まあ、大人になれば自ずと見えてくるものもあるさ」
私がそう笑って右手を軽く華楠の頭の上に置くと、「そうやって子供扱いして……」と頬を膨らませる。この豊かでいとけない表情がまた子供らしさを演出しているのだが。
「華楠だってもう高校生なんですぅ! 華のJKですよ!」
「はいはい。それじゃあそろそろ支度しましょうか、華のJKさん? 今日も朝練あるんだろう?」
はっとした表情で、華楠は壁にかかった時計を見た。まもなく六時を迎えようとしている。
「朝食の用意をしておくから、先に着替えておきなさい」
「はーい……」
主張を上手く躱されて釈然としない表情のままに部屋を駆け出していった。
早朝の思わぬトラブルに巻き込まれ、華楠はバタバタと支度をして『AR‐K』を発った。高校までは徒歩で二十分、急いで走っていけば十余分の道程だ。七時を回り、開門を迎えたばかりの校舎内は昼間の騒がしさとは対照的に静寂に包まれていた。朝の瑞々しい空気と合わさって、清新な心持ちにさせられる。
華楠は校舎に入るや、まず更衣室に向かった。さっと練習着に着替え、いつもの練習場所、体育館前へと向かう。春からこの都立北武蔵高校に進学した華楠は、ダンス部に入部していた。もとより身体を動かすことが好きで、仮入部期間に見たパフォーマンスに魅了されたことが縁だった。以来誰よりも早く練習に参加し、誰よりも活動を楽しんでいた。
今日は珍しく、体育館前には先客がいた。華楠のよく見知った顔だった。スマートフォンの画面を覗き込んで、神妙な表情を浮かべていた。
「あれ、晴佳ちゃん。今日は珍しく早いですね」
「あっ、華楠」不意を突かれたように顔を振り上げて晴佳と呼ばれたその少女は答えた。
「おはよっ。いやー、今日はちょっと早く目が覚めちゃってさ、折角だし開門時刻に間に合うように来ようかなって。やっぱり気持ちがいいもんだね、朝の空気って」
「おおー、わかってくれるですか? こういう空気の中で身体を動かすのが、とっても気持ちいいってもんですよ」
ここまで話が合うと気が良くなるものだ。華楠は目を輝かせて件の先客――浜口晴佳の言葉に相槌を打った。決して多くない同期の部員の一人である晴佳は、ダンスの腕前では初心者揃いの同期では頭一つ、いや三つほど抜けた経験者だった。やや生真面目な性格で淡々と練習をこなしているのが常で、周りとも距離をあけるようなところがあった。それゆえに、こうして一対一で話ができて、なおかつ意気が合うことに喜びを感じるところがあった。
「ところで」華楠は晴佳のスマートフォンを覗くようにして切り出した。「さっきは何を見てたんです? 随分集中して見てたようですけど……」
「あ、いや……これは……」返ってきた晴佳の声はバツが悪そうだったが、華楠は特に気にする様子もない。
「あ、ダンスの動画?」僅かに見えた画面から華楠が推察した。
「あっ! そうそう! この曲にちょっと気になってる振り付けがあってね、今度真似してみようかなってさー」
「へえ……。流石晴佳ちゃんは勉強熱心ですねぇ」
「そんなことないよ、これも部活関係ないただのお遊びみたいなもんだしさ」
「それでも立派だと思うですよ? 自分で曲を探して好きな振り付けを見つけるなんて華楠にはちょっと難しいですもん。――あっ、その動画、華楠も気になります! 一緒に見てもいいですか?」
「えっ……それはちょっと……」
「えー? なんでですか? 別に減るもんじゃないし良いじゃねぇですか」
「まあ、そうだけど……。ほら、練習! 課題曲の練習しないと! ね?」
「まだみんなが来るまで時間はあるですよ? それに、一人で練習するより二人で一緒にやってみる方がわかることも多いと思うです! ほらっ!」
半ばひったくるようにして晴佳のスマートフォンを手に取って、再生ボタンを押した。
「あっ……ちょっと!」
晴佳の制止も虚しく、二人きりの体育館前に音楽が響き渡る。
「あれ……?」華楠はその液晶に映る姿を見て眉をひそめた。そして、晴佳がこうも必死にこれを隠そうとしていた理由を理解した。
「これって……晴佳ちゃん? ですよね?」
「もう……だから嫌だったのに……」
顔を赤らめて画面から目を逸らしながら晴佳は抗議した。
画面の中には、可憐な衣装に身を包み、どこかのライブハウスの舞台上、笑顔で踊る晴佳とその他数名の少女の姿が克明に描かれていた。華楠は音楽界隈にはあまり明るくなかったが、それにしたってあまりにも解りやす過ぎる光景だった。舞台の上で可愛らしいダンスを踊る少女たち、デザインの統一されたガーリーな意匠を凝らした衣装、元気の弾けるようなポップなメロディに乗った明るい歌詞。これではまるで――
「アイドル……?」
不意に言葉が漏れ出た。いつも見ている練習の虫でクールな性格の晴佳とは似ても似つかないスマートフォンの中のアイドルを見て、驚かないわけがなかった。
「びっくりした――っていうか、幻滅したでしょ」
一段と低いトーンで晴佳が問う。言葉だけが華楠に投げつけられた。
「そう、私、地下アイドルやってるんだ。まあ、ほとんどファンもいない自称アイドルくらいのもんなんだけどさ。だからこそ、知り合いには知られたくなかったんだけどね……」
まるで独り言を呟いているかのように、明後日の方を向いたまま続ける。
「笑っちゃうでしょ? 似合わないよね、私にアイドルなんてさ。私が一番よくわかってるよ」
「そんなことねぇですよ!」負の言葉の鎖を、華楠の強い語気が断ち切るようにして割って入った。
「えっ?」
「華楠は、とっても似合ってると思いますよ? 晴佳ちゃんのアイドル姿。この動画の晴佳ちゃんだってすごく楽しそうに踊ってるじゃねぇですか」
「それは、そういう表情を作ってるだけで――」
「それに、晴佳ちゃんがアイドルやりたいって決めたんでしょ? それならそれでいいじゃねぇですか。この世界に晴佳ちゃんは一人しかいねぇんですよ? 自分がどういう存在なのか、それを決めていいのは自分だけです! 晴佳ちゃんがやりたいようにすればいいんですよ! 華楠も応援するです!」
「…………。変わってるね、本当に」
「面白れぇ喋り方するとはよく言われるです」
そういうことじゃなくて、と力なく頬を緩めて晴佳は続けた。「そんな真っすぐに『応援する』なんて言ってくれる人、全然いなかったからさ……。なんなら親にも反対されて、隠れながらやってるくらいだし。あんたは本当に優しいんだね」
「当たり前じゃねぇですか。友達のことは応援するに決まってるですよ」
「……そっか。ありがとう。ちょっと勇気もらったかも」
「えへへっ」晴佳の表情に元気が戻ったのを見て、華楠もこれ以上ない笑顔をつくって見せた。「どう? これくらい笑えれば華楠もアイドルになれますか?」
「うーん、華楠はもうちょっとダンスの練習が必要かな? あとアイドルは歌も歌えないとね」
「はっ、そうでした! 華楠は歌うのは苦手です……。それじゃあ、やっぱり華楠は晴佳ちゃんのファンとして応援するですよ!」
「ありがとう。――あっ、でも私がアイドルやってることは他のみんなには内緒にしてね? やっぱり、騒ぎになったりすると面倒だし……」
「もちろんです! 約束は絶対守るですよ!」
晴佳の目をじっと見ながら、華楠は右手の小指を差し出した。
「……やっぱ、あんた変わってるよ」
苦笑にも似た、しかし清々しい表情を浮かべながら、晴佳も自分の小指を差し出して、華楠の小指に絡めた。グッと力を込めると、向こうからも返ってくる。心の底から打ち解けることができたような気がした。
「――あっ、そうだ」ふと華楠が何かを思い出したかのように問いかける。「この子は――?」
華楠が指さしたのは、動画の中のアイドルたち、その中でも中央でひと際目立つように陣取っている少女だった。さらりと靡く黒髪に、新雪のように白い肌、引き込まれるような大きな瞳。見間違いではあるまい。今朝方トラックに身を投げようとしていた、あの少女だ。
「ああ、愛奈のこと?」
「マナちゃん……っていうんですか、この子?」
「うん。真宵愛奈。私らのグループ――『ノクターン』っていうんだけど、そのリーダー」
「へえ……この子がリーダーなんですか」
「そうだけど……何? 知り合いなの?」
「いや、そういうわけじゃねぇですけど――」
まさか、ついさっき自殺未遂から救い出しただなんて言えるわけがない。その程度の分別もつけられない華楠ではなかった。
「どこかで見たような気がして……人違いだったかもしれねぇです」
「ふーん、そっか……」
少し華楠を訝しむ素振りを見せたものの、すぐ元のトーンに戻って手を叩いた。
「さっ、そろそろ練習始めないとね。みんな来ちゃうよ?」
「そうですね! また今度、色んな話聞かせてほしいです!」
華楠は校舎に入るや、まず更衣室に向かった。さっと練習着に着替え、いつもの練習場所、体育館前へと向かう。春からこの都立北武蔵高校に進学した華楠は、ダンス部に入部していた。もとより身体を動かすことが好きで、仮入部期間に見たパフォーマンスに魅了されたことが縁だった。以来誰よりも早く練習に参加し、誰よりも活動を楽しんでいた。
今日は珍しく、体育館前には先客がいた。華楠のよく見知った顔だった。スマートフォンの画面を覗き込んで、神妙な表情を浮かべていた。
「あれ、晴佳ちゃん。今日は珍しく早いですね」
「あっ、華楠」不意を突かれたように顔を振り上げて晴佳と呼ばれたその少女は答えた。
「おはよっ。いやー、今日はちょっと早く目が覚めちゃってさ、折角だし開門時刻に間に合うように来ようかなって。やっぱり気持ちがいいもんだね、朝の空気って」
「おおー、わかってくれるですか? こういう空気の中で身体を動かすのが、とっても気持ちいいってもんですよ」
ここまで話が合うと気が良くなるものだ。華楠は目を輝かせて件の先客――浜口晴佳の言葉に相槌を打った。決して多くない同期の部員の一人である晴佳は、ダンスの腕前では初心者揃いの同期では頭一つ、いや三つほど抜けた経験者だった。やや生真面目な性格で淡々と練習をこなしているのが常で、周りとも距離をあけるようなところがあった。それゆえに、こうして一対一で話ができて、なおかつ意気が合うことに喜びを感じるところがあった。
「ところで」華楠は晴佳のスマートフォンを覗くようにして切り出した。「さっきは何を見てたんです? 随分集中して見てたようですけど……」
「あ、いや……これは……」返ってきた晴佳の声はバツが悪そうだったが、華楠は特に気にする様子もない。
「あ、ダンスの動画?」僅かに見えた画面から華楠が推察した。
「あっ! そうそう! この曲にちょっと気になってる振り付けがあってね、今度真似してみようかなってさー」
「へえ……。流石晴佳ちゃんは勉強熱心ですねぇ」
「そんなことないよ、これも部活関係ないただのお遊びみたいなもんだしさ」
「それでも立派だと思うですよ? 自分で曲を探して好きな振り付けを見つけるなんて華楠にはちょっと難しいですもん。――あっ、その動画、華楠も気になります! 一緒に見てもいいですか?」
「えっ……それはちょっと……」
「えー? なんでですか? 別に減るもんじゃないし良いじゃねぇですか」
「まあ、そうだけど……。ほら、練習! 課題曲の練習しないと! ね?」
「まだみんなが来るまで時間はあるですよ? それに、一人で練習するより二人で一緒にやってみる方がわかることも多いと思うです! ほらっ!」
半ばひったくるようにして晴佳のスマートフォンを手に取って、再生ボタンを押した。
「あっ……ちょっと!」
晴佳の制止も虚しく、二人きりの体育館前に音楽が響き渡る。
「あれ……?」華楠はその液晶に映る姿を見て眉をひそめた。そして、晴佳がこうも必死にこれを隠そうとしていた理由を理解した。
「これって……晴佳ちゃん? ですよね?」
「もう……だから嫌だったのに……」
顔を赤らめて画面から目を逸らしながら晴佳は抗議した。
画面の中には、可憐な衣装に身を包み、どこかのライブハウスの舞台上、笑顔で踊る晴佳とその他数名の少女の姿が克明に描かれていた。華楠は音楽界隈にはあまり明るくなかったが、それにしたってあまりにも解りやす過ぎる光景だった。舞台の上で可愛らしいダンスを踊る少女たち、デザインの統一されたガーリーな意匠を凝らした衣装、元気の弾けるようなポップなメロディに乗った明るい歌詞。これではまるで――
「アイドル……?」
不意に言葉が漏れ出た。いつも見ている練習の虫でクールな性格の晴佳とは似ても似つかないスマートフォンの中のアイドルを見て、驚かないわけがなかった。
「びっくりした――っていうか、幻滅したでしょ」
一段と低いトーンで晴佳が問う。言葉だけが華楠に投げつけられた。
「そう、私、地下アイドルやってるんだ。まあ、ほとんどファンもいない自称アイドルくらいのもんなんだけどさ。だからこそ、知り合いには知られたくなかったんだけどね……」
まるで独り言を呟いているかのように、明後日の方を向いたまま続ける。
「笑っちゃうでしょ? 似合わないよね、私にアイドルなんてさ。私が一番よくわかってるよ」
「そんなことねぇですよ!」負の言葉の鎖を、華楠の強い語気が断ち切るようにして割って入った。
「えっ?」
「華楠は、とっても似合ってると思いますよ? 晴佳ちゃんのアイドル姿。この動画の晴佳ちゃんだってすごく楽しそうに踊ってるじゃねぇですか」
「それは、そういう表情を作ってるだけで――」
「それに、晴佳ちゃんがアイドルやりたいって決めたんでしょ? それならそれでいいじゃねぇですか。この世界に晴佳ちゃんは一人しかいねぇんですよ? 自分がどういう存在なのか、それを決めていいのは自分だけです! 晴佳ちゃんがやりたいようにすればいいんですよ! 華楠も応援するです!」
「…………。変わってるね、本当に」
「面白れぇ喋り方するとはよく言われるです」
そういうことじゃなくて、と力なく頬を緩めて晴佳は続けた。「そんな真っすぐに『応援する』なんて言ってくれる人、全然いなかったからさ……。なんなら親にも反対されて、隠れながらやってるくらいだし。あんたは本当に優しいんだね」
「当たり前じゃねぇですか。友達のことは応援するに決まってるですよ」
「……そっか。ありがとう。ちょっと勇気もらったかも」
「えへへっ」晴佳の表情に元気が戻ったのを見て、華楠もこれ以上ない笑顔をつくって見せた。「どう? これくらい笑えれば華楠もアイドルになれますか?」
「うーん、華楠はもうちょっとダンスの練習が必要かな? あとアイドルは歌も歌えないとね」
「はっ、そうでした! 華楠は歌うのは苦手です……。それじゃあ、やっぱり華楠は晴佳ちゃんのファンとして応援するですよ!」
「ありがとう。――あっ、でも私がアイドルやってることは他のみんなには内緒にしてね? やっぱり、騒ぎになったりすると面倒だし……」
「もちろんです! 約束は絶対守るですよ!」
晴佳の目をじっと見ながら、華楠は右手の小指を差し出した。
「……やっぱ、あんた変わってるよ」
苦笑にも似た、しかし清々しい表情を浮かべながら、晴佳も自分の小指を差し出して、華楠の小指に絡めた。グッと力を込めると、向こうからも返ってくる。心の底から打ち解けることができたような気がした。
「――あっ、そうだ」ふと華楠が何かを思い出したかのように問いかける。「この子は――?」
華楠が指さしたのは、動画の中のアイドルたち、その中でも中央でひと際目立つように陣取っている少女だった。さらりと靡く黒髪に、新雪のように白い肌、引き込まれるような大きな瞳。見間違いではあるまい。今朝方トラックに身を投げようとしていた、あの少女だ。
「ああ、愛奈のこと?」
「マナちゃん……っていうんですか、この子?」
「うん。真宵愛奈。私らのグループ――『ノクターン』っていうんだけど、そのリーダー」
「へえ……この子がリーダーなんですか」
「そうだけど……何? 知り合いなの?」
「いや、そういうわけじゃねぇですけど――」
まさか、ついさっき自殺未遂から救い出しただなんて言えるわけがない。その程度の分別もつけられない華楠ではなかった。
「どこかで見たような気がして……人違いだったかもしれねぇです」
「ふーん、そっか……」
少し華楠を訝しむ素振りを見せたものの、すぐ元のトーンに戻って手を叩いた。
「さっ、そろそろ練習始めないとね。みんな来ちゃうよ?」
「そうですね! また今度、色んな話聞かせてほしいです!」
全身を包む柔らかな毛布の暖かさに、少女は目を覚ました。上体を起こして部屋を見渡す。初夏の日射しが明るいクリーム色の壁紙と、レトロ調な木製の家具を照らしている。時計はまもなく正午を差そうというところだ。自らの置かれた状況を飲み込めないまま彼女はゆらりと立ち上がり、ドアノブに手をかけた。
扉の向こうは広くはない廊下になっている。照明は落とされていて、小窓から覗く自然光で薄暗く照らされている。痛みの残る身体をかばいながら、手すりに沿って進むとやや急な下り階段が現れた。階下は明るく、また人の気配がある。うっすらと聞こえてくる雑音はテレビの音だろうか。ゆっくりと、足音を殺すようにしながら階段を降りていく。視界の端に捉えた人影は、眼鏡をかけた若い女性――二十代ほどだろうか――だった。カウンター裏の流しで何やら洗い物をしている。木製の調度品を基調に落ち着いた内装を見るに、どうやらここは喫茶店のようだ。客らしき人の姿は見えない。
洗い物を終えて、食器の水気をふき取りながら背後の食器棚に向かうその女性と目が合った。女性は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに表情を崩して語りかけた。
「覚めたか。ひとまずは安心だな。まあ、そこに掛けたまえ」
カウンター越しの席を手で示しつつ、店の玄関へ出ていく。軒先に置かれた看板を片付けて戻ってくると、呆気にとられた少女を気にもせずテキパキとカウンターへ戻る。
「え……あの……」
「まあ気にするな。あいにく、うちにはコーヒーしかないが、それで大丈夫か?」
「え……あ、はい……」
勢いに呑まれるままに、少女はカウンター席に腰かけた。程なくしてカウンターに一杯のコーヒーが差し出された。黒の海に陰鬱と戸惑いの表情が映りこんでいる。
さて、と店主は口を開いた。
扉の向こうは広くはない廊下になっている。照明は落とされていて、小窓から覗く自然光で薄暗く照らされている。痛みの残る身体をかばいながら、手すりに沿って進むとやや急な下り階段が現れた。階下は明るく、また人の気配がある。うっすらと聞こえてくる雑音はテレビの音だろうか。ゆっくりと、足音を殺すようにしながら階段を降りていく。視界の端に捉えた人影は、眼鏡をかけた若い女性――二十代ほどだろうか――だった。カウンター裏の流しで何やら洗い物をしている。木製の調度品を基調に落ち着いた内装を見るに、どうやらここは喫茶店のようだ。客らしき人の姿は見えない。
洗い物を終えて、食器の水気をふき取りながら背後の食器棚に向かうその女性と目が合った。女性は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに表情を崩して語りかけた。
「覚めたか。ひとまずは安心だな。まあ、そこに掛けたまえ」
カウンター越しの席を手で示しつつ、店の玄関へ出ていく。軒先に置かれた看板を片付けて戻ってくると、呆気にとられた少女を気にもせずテキパキとカウンターへ戻る。
「え……あの……」
「まあ気にするな。あいにく、うちにはコーヒーしかないが、それで大丈夫か?」
「え……あ、はい……」
勢いに呑まれるままに、少女はカウンター席に腰かけた。程なくしてカウンターに一杯のコーヒーが差し出された。黒の海に陰鬱と戸惑いの表情が映りこんでいる。
さて、と店主は口を開いた。
ついさっき客が全員店を後にしたところだった。洗い物を終えたところに、ちょうど件の少女が目を覚まして、自力でここまで歩いてきた。どうやら大したケガをしているわけではなさそうだ。私はひとまず安堵して彼女を席に促した。色々聞かなければならないと感じた。何せ自殺を試みた程だ、この少女をこのまま放っておくのは忍びない。
「さて――」
コーヒーをカウンターに置きながら、私は切り出した。
「身体の方は大丈夫か? ケガはしていない?」
「……ちょっとだけ、身体が痛むだけで、あとは特に……」
しばらくの間があってから、俯いたまま、ゆっくりと答え始めた。
「そうか、少し強く突き飛ばしてしまったかもしれないな。まあ、君を守るためだった。そこは許してもらいたい」
「……あなたが、やったんですか?」
「いや、君を助けたのは私の妹だ。今は高校に行っているからここにはいないがね」
「……そう、ですか」
「自己紹介が遅れたね。私は磯上乃蒼。この喫茶店を営んでいる者だ」
「……真宵愛奈と言います。あの……どうして止めたんですか?」
「困っている人、危ない状態にある人は何をおいても助けろ。私も妹もそう聞かされて育ったものでね。まあ、一種の条件反射だ」
「……………………のに」
至近距離にいる私にも聞き取れないほど小さく、不明瞭な声で愛奈と名乗った少女は呟いた。
「何?」
「あなたたちが! 余計なことしなければ! この痛みも感じずに済んだのに!」
バン、と思い切りカウンターを叩いて愛奈は立ち上がった。大きく揺れたコーヒーカップはその上を転がり、手つかずの中身をぶちまけながら愛奈の足元で大きな音を立てて粉々に砕け散った。淡々とニュースを読み上げるキャスターの声だけが後に残された。
「……一体、何が君をそこまで追い詰めているんだ? 解決策を見つけるなどとは無責任に言えないが、話を聞いてやることくらいはできる。何に苦しさを感じているのか、それを話すだけでも少しは気が晴れるぞ?」
一言ずつ、絞り出すような気持ちで語りかけた。追い詰められた人間に無責任な言葉は響かない。心の底からの、力になりたいという気持ちを言葉を選びながら紡いだ。愛奈は立ちすくんだまま、動きもしなければ話もしない。私はシンク脇に置かれた布きんを取って、カウンターにこぼれたコーヒーをふき取った。布きんは瞬く間に黒々とした色に染められた。布きんを流しに置いて、今度は箒と塵取りとを持ってカウンターを出る。愛奈の足元に散らばった、先ほどまでカップだったものを掃きとった。
「まあ、話したくないことは無理に話すこともないな。気が落ち着くまでいつまででもいるといい。気分が乗らなければ、上の布団も使っていいからな」
つとめて優しく宥めるような口調で語りかける。こういう時に無理にコミュニケーションをとるのは得策ではない。
「……もう、生きていくのに疲れて」
私がカップの破片を処分しようとその場を離れかけたとき、ぽつりと零した。
「誰も私を必要としてない……私がいる意味はないのかなって……」
掠れた涙声で、心の底からの悲痛な言葉が紡がれる。愛奈は手元からスマートフォンを取り出し、取り落とすようにしてカウンターに投げだした。
「これは……」
カウンターに戻って画面を覗き込んだ私は思わず言葉を失った。
スマートフォンにはSNSアプリが表示されていた。誰かの投稿だったが、その内容は不愉快極まりないものだった。口に出すのも憚られるような罵詈雑言。純度百パーセントの悪意を叩きつけてくる。それだけではない。同じアカウントからの他の投稿では、常に個人の行動を監視していることが示唆されている。その矛先は私の目の前で苦しんでいるか弱い少女に向けられていた。
「なるほど……これはひどいな……」
まだ大人にはなりきれていない、高校生ほどの年頃の少女にはあまりにも酷な内容に、言葉をひねり出すのが精一杯だった。彼女が受け止めきれないのも無理はない。
「辛かっただろうに、よく今日まで耐え抜いてくれた……それだけでも立派なことだ」
小刻みに震えていた肩が、堰を切ったように大きく震え、大粒の涙がカウンターに降り注いだ。耐えていたのだ。寄り添ってくれる誰かを探していたのだ。その肩を抱いて、落ち着くまで寄り添い続けた。
ひとしきり溜まりに溜まった感情を流し出した後、愛奈は自分から少しずつ身の上話をはじめた。
「私、地下アイドルをやってるんです。『ノクターン』っていうグループで……。まだ駆け出しで、ファンも数えるほどもいないくらいで……。それでも嬉しかったんです。ずっと憧れてたアイドルとしてステージに立てたんだって。メンバーのみんなもすごくいい子で、そんなみんなと一緒にアイドルできるだけで幸せだったのに、誰にも迷惑かけずに、ひっそりと楽しくやってただけなのに……。なのに……それなのに、『この人』は私の心を踏み荒らしにきた。私のすること全部にケチつけて……しかも私のことを見張ってるなんて……。こんなの、耐えられるわけないよ……。もう、『ノクターン』のみんなのところに行くのも怖くなっちゃって……それでもプロデューサーさんには無理やり連れてかれるし、何よりリーダーの私がいなくなってみんなに迷惑かけちゃいけないし……二進も三進も行かなくなって、これなら、もういっそのこと――って……。いけないですか? 苦しいから逃げるのはダメなんですか? 心も身体もボロボロに壊れるまで頑張れないとダメなんですか? どうして――どうして死なせてくれなかったんですか……」
再び感情がこみ上げ、眼から溢れ出した。私は彼女の眼を覗き込むようにじっと見つめて答えた。
「いいや、君は間違っていない。誰しもが過酷な環境に耐えられるわけじゃない。一度壊れてしまったものは簡単には治らないんだ。壊れる前に逃げてしまうことは、とても大事なことさ」
「だったら――」なぜ止めたのか。非難するように眼を向ける。
「ただ、君はいくつか勘違いをしている。これだけはハッキリとさせなければいけない。いいかい、逃げる手段は死ぬことではない。君の心を脅かそうとするものから距離を置くことがまず一番の『逃げ方』だ。誰か頼れる大人に相談するのも良い。さっき私にしてくれたようにね。第一、君が死んでしまったら、君が目障りでしょうがない人間の思うつぼだ。そいつは君の死を悔いるどころか、嬉々としてその知らせを聞くだろう。一方で君の今までの努力は全てなくなってしまうんだ。何一つ残らない。こんな不公平な話があっていいわけがないだろう? いいか。死ぬことは『逃げ』ですらない。理不尽に対して白旗を揚げるだけでしかないんだ」
「それじゃあ……私はどうすればいいんですか? この苦しみは生き続けている限り続くんですよ? 相手がどうこうとかって問題じゃないんです、これは私の内面の問題なんです」
「世界は思いのほか広いものだ。君がこの十数年間見てきたもの、聞いてきたものだけが世界の全てではない。今いる場所が苦しいのなら、場所を変えることもできる。何も今の場所でずっと人生が続いていくわけじゃない」
「…………」
「確かに今君が立っている場所は、後にも先にも道のない荒涼たる大地なのかもしれない。だが地面はどこまでも続いている。決して八方ふさがりの断崖絶壁ではない。自分で道を切り拓いて進んでいけるんだ。無限の可能性が残されていることを忘れてはいけない」
「わからないです……そんなこと言われても……」
「そうだな……。気持ちの整理をつけるには時間がかかるだろう、しばらくここにいるといい。心に一区切りつけられるまで、いつまでもいて構わない。君を悩ませているものから一度距離を置くといい」
これ以上、愛奈は何も言うことはなかった。私の言葉が届いたのかも判断がつかなかった。ただ一ついえることは、愛奈は死ななかった。死という選択をとらずとも、彼女の心の崩壊を止めることはできたのだ。それからしばらくは、愛奈はうちに泊まり込み、時には店の手伝いまでしてくれるようになった。徐々に本来の元気な姿を取り戻していったように見える。愛奈が『ノクターン』に戻るつもりはあるのか、元あるはずの家に帰る考えがあるのかはわからない。わからないし、あえて聞こうとも思わない。今はこれでいい。確かに、ここにいては何も解決しないのかもしれないが、今の彼女が求めているのは解決策ではない。居場所なのだ。次の行動を愛奈が自発的に起こすまでは、私たちは見守っていよう。それが、一度手を差し伸べた者として、私にできる最善の手段だ。
「さて――」
コーヒーをカウンターに置きながら、私は切り出した。
「身体の方は大丈夫か? ケガはしていない?」
「……ちょっとだけ、身体が痛むだけで、あとは特に……」
しばらくの間があってから、俯いたまま、ゆっくりと答え始めた。
「そうか、少し強く突き飛ばしてしまったかもしれないな。まあ、君を守るためだった。そこは許してもらいたい」
「……あなたが、やったんですか?」
「いや、君を助けたのは私の妹だ。今は高校に行っているからここにはいないがね」
「……そう、ですか」
「自己紹介が遅れたね。私は磯上乃蒼。この喫茶店を営んでいる者だ」
「……真宵愛奈と言います。あの……どうして止めたんですか?」
「困っている人、危ない状態にある人は何をおいても助けろ。私も妹もそう聞かされて育ったものでね。まあ、一種の条件反射だ」
「……………………のに」
至近距離にいる私にも聞き取れないほど小さく、不明瞭な声で愛奈と名乗った少女は呟いた。
「何?」
「あなたたちが! 余計なことしなければ! この痛みも感じずに済んだのに!」
バン、と思い切りカウンターを叩いて愛奈は立ち上がった。大きく揺れたコーヒーカップはその上を転がり、手つかずの中身をぶちまけながら愛奈の足元で大きな音を立てて粉々に砕け散った。淡々とニュースを読み上げるキャスターの声だけが後に残された。
「……一体、何が君をそこまで追い詰めているんだ? 解決策を見つけるなどとは無責任に言えないが、話を聞いてやることくらいはできる。何に苦しさを感じているのか、それを話すだけでも少しは気が晴れるぞ?」
一言ずつ、絞り出すような気持ちで語りかけた。追い詰められた人間に無責任な言葉は響かない。心の底からの、力になりたいという気持ちを言葉を選びながら紡いだ。愛奈は立ちすくんだまま、動きもしなければ話もしない。私はシンク脇に置かれた布きんを取って、カウンターにこぼれたコーヒーをふき取った。布きんは瞬く間に黒々とした色に染められた。布きんを流しに置いて、今度は箒と塵取りとを持ってカウンターを出る。愛奈の足元に散らばった、先ほどまでカップだったものを掃きとった。
「まあ、話したくないことは無理に話すこともないな。気が落ち着くまでいつまででもいるといい。気分が乗らなければ、上の布団も使っていいからな」
つとめて優しく宥めるような口調で語りかける。こういう時に無理にコミュニケーションをとるのは得策ではない。
「……もう、生きていくのに疲れて」
私がカップの破片を処分しようとその場を離れかけたとき、ぽつりと零した。
「誰も私を必要としてない……私がいる意味はないのかなって……」
掠れた涙声で、心の底からの悲痛な言葉が紡がれる。愛奈は手元からスマートフォンを取り出し、取り落とすようにしてカウンターに投げだした。
「これは……」
カウンターに戻って画面を覗き込んだ私は思わず言葉を失った。
スマートフォンにはSNSアプリが表示されていた。誰かの投稿だったが、その内容は不愉快極まりないものだった。口に出すのも憚られるような罵詈雑言。純度百パーセントの悪意を叩きつけてくる。それだけではない。同じアカウントからの他の投稿では、常に個人の行動を監視していることが示唆されている。その矛先は私の目の前で苦しんでいるか弱い少女に向けられていた。
「なるほど……これはひどいな……」
まだ大人にはなりきれていない、高校生ほどの年頃の少女にはあまりにも酷な内容に、言葉をひねり出すのが精一杯だった。彼女が受け止めきれないのも無理はない。
「辛かっただろうに、よく今日まで耐え抜いてくれた……それだけでも立派なことだ」
小刻みに震えていた肩が、堰を切ったように大きく震え、大粒の涙がカウンターに降り注いだ。耐えていたのだ。寄り添ってくれる誰かを探していたのだ。その肩を抱いて、落ち着くまで寄り添い続けた。
ひとしきり溜まりに溜まった感情を流し出した後、愛奈は自分から少しずつ身の上話をはじめた。
「私、地下アイドルをやってるんです。『ノクターン』っていうグループで……。まだ駆け出しで、ファンも数えるほどもいないくらいで……。それでも嬉しかったんです。ずっと憧れてたアイドルとしてステージに立てたんだって。メンバーのみんなもすごくいい子で、そんなみんなと一緒にアイドルできるだけで幸せだったのに、誰にも迷惑かけずに、ひっそりと楽しくやってただけなのに……。なのに……それなのに、『この人』は私の心を踏み荒らしにきた。私のすること全部にケチつけて……しかも私のことを見張ってるなんて……。こんなの、耐えられるわけないよ……。もう、『ノクターン』のみんなのところに行くのも怖くなっちゃって……それでもプロデューサーさんには無理やり連れてかれるし、何よりリーダーの私がいなくなってみんなに迷惑かけちゃいけないし……二進も三進も行かなくなって、これなら、もういっそのこと――って……。いけないですか? 苦しいから逃げるのはダメなんですか? 心も身体もボロボロに壊れるまで頑張れないとダメなんですか? どうして――どうして死なせてくれなかったんですか……」
再び感情がこみ上げ、眼から溢れ出した。私は彼女の眼を覗き込むようにじっと見つめて答えた。
「いいや、君は間違っていない。誰しもが過酷な環境に耐えられるわけじゃない。一度壊れてしまったものは簡単には治らないんだ。壊れる前に逃げてしまうことは、とても大事なことさ」
「だったら――」なぜ止めたのか。非難するように眼を向ける。
「ただ、君はいくつか勘違いをしている。これだけはハッキリとさせなければいけない。いいかい、逃げる手段は死ぬことではない。君の心を脅かそうとするものから距離を置くことがまず一番の『逃げ方』だ。誰か頼れる大人に相談するのも良い。さっき私にしてくれたようにね。第一、君が死んでしまったら、君が目障りでしょうがない人間の思うつぼだ。そいつは君の死を悔いるどころか、嬉々としてその知らせを聞くだろう。一方で君の今までの努力は全てなくなってしまうんだ。何一つ残らない。こんな不公平な話があっていいわけがないだろう? いいか。死ぬことは『逃げ』ですらない。理不尽に対して白旗を揚げるだけでしかないんだ」
「それじゃあ……私はどうすればいいんですか? この苦しみは生き続けている限り続くんですよ? 相手がどうこうとかって問題じゃないんです、これは私の内面の問題なんです」
「世界は思いのほか広いものだ。君がこの十数年間見てきたもの、聞いてきたものだけが世界の全てではない。今いる場所が苦しいのなら、場所を変えることもできる。何も今の場所でずっと人生が続いていくわけじゃない」
「…………」
「確かに今君が立っている場所は、後にも先にも道のない荒涼たる大地なのかもしれない。だが地面はどこまでも続いている。決して八方ふさがりの断崖絶壁ではない。自分で道を切り拓いて進んでいけるんだ。無限の可能性が残されていることを忘れてはいけない」
「わからないです……そんなこと言われても……」
「そうだな……。気持ちの整理をつけるには時間がかかるだろう、しばらくここにいるといい。心に一区切りつけられるまで、いつまでもいて構わない。君を悩ませているものから一度距離を置くといい」
これ以上、愛奈は何も言うことはなかった。私の言葉が届いたのかも判断がつかなかった。ただ一ついえることは、愛奈は死ななかった。死という選択をとらずとも、彼女の心の崩壊を止めることはできたのだ。それからしばらくは、愛奈はうちに泊まり込み、時には店の手伝いまでしてくれるようになった。徐々に本来の元気な姿を取り戻していったように見える。愛奈が『ノクターン』に戻るつもりはあるのか、元あるはずの家に帰る考えがあるのかはわからない。わからないし、あえて聞こうとも思わない。今はこれでいい。確かに、ここにいては何も解決しないのかもしれないが、今の彼女が求めているのは解決策ではない。居場所なのだ。次の行動を愛奈が自発的に起こすまでは、私たちは見守っていよう。それが、一度手を差し伸べた者として、私にできる最善の手段だ。