独立と成立
900年頃、当時世界屈指の海洋国家であったアカトルイス連邦が他国に攻め入るようになると、瞬く間に植民地を増やしていき、1400年頃にはリュドスカヤ王国と肩を並べる大国になっていった。
しかし過剰な植民地拡大により、戦費や植民地に派遣している軍の費用を賄えなくなりつつあったが、それを連邦の中心であるエポナ王国を除く6カ国への増税で解決しようとし、各王国の怒りを買うことになった。
1451年の記録的冷夏の影響で、1452年、リュドスカヤ王国で独立運動が起きると、アカトルイスを含む周辺諸国はこれをチャンスと捉え、一斉にリュドスカヤへ侵攻した。
この侵攻の影響でアカトルイスでは、戦費を賄うためにさらなる増税を余儀なくされ、冷夏で影響を受けた上での増税に各国の首脳、国民の怒りのボルテージは上限に達した。
そして1453年、ケルヌンノス国、トータティス国、エスス共和国、ルゴス国の4カ国が独立し、ケルヌンノス国を中心とした連邦立憲君主制国家、ファーニケス公国が成立した。
独立した各国が所有していた植民地もファーニケス領となり、結果的にアカトルイス連邦は領土を3分の2も失うこととなった。
唯一海に面していたケルヌンノス国が独立したことで、アカトルイスの海洋国家としての歩みはここで終焉を迎えた。
公国として成立後早速、独立運動で弱ったリュドスカヤ王国に追い討ちをかけるように、北東側へじわじわと領土を延ばしていった。東側の諸国も次々とリュドスカヤへ侵攻していった。
ファーニケスの侵攻により、西側に存在していたザーパドナブルグ要塞はファーニケス領となり、以降ファーニケスの重要拠点の一つとなった。
西部開拓
独立から140年たった1593年、海洋国であったケルヌンノスの経験を生かしバルドソス大陸に侵攻、バルドソシニアン戦争の勝利により領土及び領海を西側に大きく拡大することができた。
ほとんど未開拓の地であったが、技術大国であった公国の構成国の一つ、エスス共和国の影響もあり、鉄鋼業や石油業が繁栄し、鉄道網も発達したことにより、経済的に大きく躍進した。
この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、南海にも進出、世界屈指の海軍力を持つグレートレリア王国と国交を開始、大陸の裏側、アカトルイスの東に位置する芹華国とも国交を開始する。
ファーニケスへの侵攻
1615年、アカトルイスの軍備強化が活発になってきたことを危惧し、芹華国と密かに軍事同盟を結ぶ。かねてから交流があったグレートレリアとも軍事同盟を結び、密かにアカトルイスを牽制することができた。
そして1630年、アカトルイスが失った領土を取り戻すことを目的とし、ついにファーニケス公国に対して宣戦布告、侵攻を開始するも、アカトルイスが西に侵攻すると同時に東側から芹華国が侵攻した。
突然の侵攻によってアカトルイスは対応することができず、ファーニケス公国の領土を一部手にすることができたが、皮肉にも東側領土を大きく失ってしまうこととなった。
先住民との確執
1593年から続く西部の開発は1700年代になっても続けられており、ファーニケスの北西部は、本土並みに発達した大都市群と化していた。
1754年には、飛び道具が届かない空を制するために、有人気球など史上初の航空戦力が発明、投入され、技術的にも発展の一途をたどっていた。
更なる領土拡大を狙い、1882年に西部のバルドソシニアンの部族が多く居住しているクーベラに侵攻、一時的に占拠するも、西部に残されていた部族が連合軍となり決起する。
度重なるゲリラ攻撃に疲弊したファーニケス軍は、一時撤退を決定した。
しかし今度は逆に連合軍が大都市群に侵攻し、槍や剣などの旧式の装備を持つ部族民と、背景には大都市という非常にミスマッチな光景が広がったといわれている。
結局ファーニケス軍が防ぎきるが、この出来事がかねてからあった有色人種に対する差別を助長させる原因の一つとなった。
このような先住民との抗争は数次にも渡り、民間人にも被害が及んだことが要因となり、西部への領土拡大は完全にストップした。
この抗争において、有人気球に対して先住民の弓矢やジャベリンなどの攻撃がまったくもって届かず、空を制することは有利とされ、「制空権」という概念が生まれることとなった。
制空権の確保は、当時はそれほど重要性の無いものだったが、後に航空機が開発されてからは非常に重要な目標とされるようになった。
飛行機の開発
これまでにいくつも、熱気球やそこから派生した飛行船、すなわち「空気より軽い飛行機」は存在していたが、「空気より重い飛行機」の動力飛行は全く発展途上で、暗中模索の状態であった。
多くの研究家は飛行のための理論を確立するに至らず、一部は「科学的に不可能」とし、研究を断念するケースもあった。
しかしこの「科学的に不可能」という考えは、自転車屋を稼業としながらも飛行機の研究を続けていた、ブラックバーン三兄弟によって覆された。
ブラックバーン三兄弟は当時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、また同時に技術的工学的に着実な手法を取った。
風洞実験によって得たデータを元にし、何機かのグライダーを試作、実験、改良を行っていった。
そして1903年、ザーパドナブルグ近郊のバートウィッスルヒルにて、12馬力のエンジンを搭載したフライングバーナー号によって有人動力飛行に成功した。
ちなみにこの三兄弟の末っ子の妹であるグレイシー・ブラックバーンは、後に女性として初めての飛行機による北西洋単独横断飛行に成功した人物である。
8年戦争
西部への領土拡大を断念したファーニケスは、本土から東部方向ににかけての領土拡大にスイッチした。
しかし東部にはアカトルイス、小国ながらも大国のリュドスカヤを打ち負かした実績のあるロルクスタン公国とアストラル帝国があり、一筋縄ではいかないことは目に見えて分かっていた。
そこで、かつての栄光を取り戻そうとしていたリュドスカヤ王国と、1935年に軍事同盟を結び、地下資源を保有しているアストラルとロルクスタンを挟み撃ちし、地下資源及び領土を手に入れる計画を立案した。
1940年3月3日、ファーニケス公国とリュドスカヤ王国は、まずアストラル帝国に対し宣戦布告。
宣戦布告と同時に攻撃受けたアストラル帝国は一気に国境を突破され、わずか一週間で首都であるユジノブルグまで攻め入られることとなった。
アストラル帝国を援護すべく、ロルクスタン公国が二国に対し宣戦布告した。これはまさに計画通りであった。しかしここで南のアカトルイス連邦はアストラル帝国とロルクスタン公国に宣戦布告した。
思わぬ事態ではあったが、アカトルイス連邦は同盟関係ではないものの、ファーニケスとリュドスカヤの連合側に参加し、これでアストラルおよびロルクスタンを完全に包囲することができた。
しかし、この三国の連合軍が枢軸側領地に対する略奪行為を行うようになり、次第にその行為が目立ち、問題視されるようになる。
だが、枢軸軍の怒涛の抗戦によって、1942年には宣戦布告時の国境線まで後退することになった。
しかし、アストラル、ロルクスタンは包囲されているためにライフラインが絶たれており、次第に資源が足りなくなっていった。
その頃ファーニケスとリュドスカヤでは、既にジェット戦闘機の開発が進んでおり、1947年、遂に戦場にジェット戦闘機が現れることになった。
ファーニケスとリュドスカヤがそれぞれ開発したF-86、Mig-15両機はその速さを生かし、弱った枢軸軍に追い討ちをかけていき、その戦力差は明確になっていった。
1948年4月2日、徹底的な抗戦も空しく、ついに枢軸軍は降伏し、8年に及んだ戦争に終止符が打たれた。
戦後
戦後、アストラル帝国はリュドスカヤ王国と アカトルイス連邦で分割占領、ロルクスタン公国はファーニケス公国にそれぞれ占領され、皇帝が失われたアストラル帝国は消滅した。
アストラル帝国の元領地の空軍基地にはMiG-15が並び、ロルクスタン公国の元領地の空軍基地にはF-86が並んだ。
その後、ロルクスタン公国の君主、アンドレ・ベルンハルト公が戦犯として処刑された為、ロルクスタン公国は消滅、両国は再び"地方"へと戻った。
軍は解散し、各兵士は退役、もしくはリュドスカヤ王国軍、ファーニケス公国軍、アカトルイス連邦軍にそれぞれ転身していくことになった。
しかし1983年、アストラル帝国の首都であったユジノブルグにおいて、8年戦争時のルスラン騎士団航空隊のパイロットの息子であり、リュドスカヤ空軍所属のオスカー・エールリヒ中佐を筆頭とする大規模なクーデターが発生した。
彼らは「ルスラン騎士団」を名乗り、ルスラン騎士団の正当性を支持するリュドスカヤ軍人、ファーニケス軍人が多数参加した。
奪還戦争と称し、旧アストラル帝国領地であるレーク空軍基地を占拠し、同時に旧ロルクスタン領地であるフリッグ空軍基地を占拠。
「ルスラン騎士団」は奪取した航空戦力を用いて、次々と旧同盟側領地の陸軍駐屯地などを占拠、戦力を大きくしていった。三国の各軍内部からも決起するものが現れ、精鋭部隊全員が決起するという事態も起き、混乱を極めた。
3年後の1986年、「ルスラン騎士団」は旧同盟側領地内全ての軍事基地を掌握し、「ルスラン騎士団」と両地方住民は、三国側に対し国家として独立することを承認するように求めた。まさに力技であった。
戦場の真っ只中であった両地方の住民のほとんども「ルスラン騎士団」を支持するという、クーデターという事柄においては稀に見る事象であったのと、時代の流れもあり、過去のように無闇に民間人に対し手を出し難いという状態だった。これらは地域に残る文化の根強さを証明している。
そしてリュドスカヤ王国は、今まで奪取、破壊してきた兵器等を追々賠償することを条件に、国家として独立することを承認し、ファーニケス、アカトルイスもこれに同意、クーデターは終結した。
1987年、アストラル、ロルクスタンを領地とした、「ルスラン共和国」が成立した。
さらに1988年、8年戦争時の連合軍による国家ぐるみの略奪行為を非難する運動が世界規模で活発化し、ファーニケスでは過激派によるテロが発生、公爵の失言により国民からの支持率が急激に下がるなどのタイミングが重なり公爵が失脚、アカトルイスとリュドスカヤでは王家の人間が暗殺されるなど、事態は深刻になっていった。
結果的にリュドスカヤ、ファーニケス、アカトルイスの三国は、君主が統治する体制から国民主権の体制へ移行、1989年に連邦制国家、「ファーニケス連邦」が成立した。
ジバール戦争
1991年にジバールにて政変が勃発し、貧困化・格差の拡大が進む国内の不満を解消すべく「石油利権の独占状態を正す」と大義名分を掲げたジバール軍は8月10日にアハマル国へと侵攻を開始。
かねてよりリュドスカヤ製近代兵器を運用していたジバール軍に対し、アカトルイス製の旧式兵器が戦力のほとんどを占めるアハマル軍は侵攻からわずか16日で指揮系統を壊滅状態にまで追い込まれ敗退、国土の90%を占領された。
石油大国の一つであるアハマルが占領されたことにより石油価格は急激に高騰、世界経済が大きなダメージを受けることとなる。
だがアハマル軍壊滅直後の8月28日、経済大国であり石油関連銘柄の高騰による国内経済への大打撃を受けたファーニケス連邦・アカトルイス連邦を筆頭とする連合軍がジバールへの武力介入を決行する。
その中枢となるファーニケス軍はその凄まじいまでの展開能力を発揮し、陸では現代兵器を用いては初めてとも言える砂漠戦に新型戦車・M1"エイブラムス"戦車を投入しジバール軍主力のリュドスカヤ製T-72M戦車に次々と圧勝。
空でもファーニケス空軍最新鋭のF-117"ナイトホーク"ステルス攻撃機が夜間爆撃を敢行し多大な戦果を上げたのに対し、F-15"イーグル"戦闘機による防空網を突破できたジバール軍機は1機たりとも存在しなかった。
これら連合軍の猛攻でジバール軍は攻撃戦力の6割を損耗、戦線は大きく後退し国境線付近で停滞。翌年1月17日にジバールが停戦協定を申し出、ジバール戦争は終結する。
この戦争を引き起こした首謀者とも言えるジバール大統領ハシム・アル=ラヒールは戦犯として裁かれ、後任には穏健派のラティーフ・ハカム・バッサマン外相が就任することとなった。
終戦後ジバールはファーニケスにより管理される予定だったが、リュドスカヤとの国交に配慮し中止に。それでもこの戦争でファーニケスに反感を抱く者は多く存在し、後にテロへ参加する者も少なくなかった。
現在
2003年にリュドスカヤ首都のペトロスクで地下鉄爆破テロが発生したのを境に、ファーニケスは「テロとの戦い」を宣言し、大規模な多国籍統合任務部隊の必要性を世界に訴えた。
犯人の身元がジバール戦争に従軍した元アル=シオン連合兵士であることが判明し、統合任務部隊の必要性が格段にあがることとなった。
そして2014年に、ファーニケス軍が主体となって多国籍統合任務部隊「JTF109」が編成された。
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