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和合二仙(わごうにせん)
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gensousyusyu
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和合二仙/わごうにせん
中国の浙江省杭州市で祀られていた2柱和合の神。
明代の田汝成『西湖游覧志余』巻23では万回哥哥(ばんかいコーコ)という神が和合二仙であるとしている。万回哥哥(ばんかいコーコ)は、駐屯する兄に会うため1日で1万里往来したという伝説があることから、家人の和合の神として宋代に祀られた。しかし、「和合」の本来の意味は婚姻による姓の統合であるため、和合の神は婚姻の神として祀られるようになったという。
清代の翟灝『通俗編』巻19には、「万回哥哥(ばんかいコーコ)は1人であるため和合の神ではなく、雍正11(1733)年に天台山の「寒山」と「拾得」(ともに唐代初期の人)を和合二聖とした」と書かれている。
『民間文学』1979年第7期所載「和合二仙、友情を伝える」では「寒山」と「拾得」を和合二仙としている。2人は北方の村に住んでいた。彼らは姓が異なるうえ、寒山の方が年上だったが、実の兄弟のように仲が良かった。ある時、拾得がある女性と結婚することになった。2人の結婚が間近に迫った時、寒山は相手の女性が、自分が好意を寄せていた相手だと知った。寒山は家を捨てて江南・蘇州の何山にある楓橋に行き、剃髪して出家し、庵を結んで修行に励んでいた。やがて拾得は女性と別れ、彼の庵を探し当てると、荷(ホー)の花を持って礼を言いに行った。寒山は拾得がやって来るのを見ると、慌てて托鉢用の盒(ホー)を持って出迎えた。2人は抱擁し、飛び回って喜び合った。やがて2人は僧侶になって山を開き、寒山寺という庵を建てた。寒山寺の石碑には今でも2人の姿と名が掘られているが、字が読めない庶民たちは荷と盒を持った2人の図像しか分からず、それを和合二仙と呼んだのである。
清代の李汝珍『鏡花縁』には、福・禄・寿・財・喜の五人の星君が木公・老子・彭祖・張仙・月老・劉海蟾・そして和合二仙と連れ立って遠方からやって来たと書かれている。その時の和合二仙の姿は、髪の毛を方々に伸ばした笑みを浮かべた2体の神で、1人は荷(ホー、蓮)の花を、もう1人は丸い盒(ホー、箱)を持っている。この姿は、婚礼の時に掲げる和諧合好(ホーシエホーハオ)を表しているとされる。
明代の田汝成『西湖游覧志余』巻23では万回哥哥(ばんかいコーコ)という神が和合二仙であるとしている。万回哥哥(ばんかいコーコ)は、駐屯する兄に会うため1日で1万里往来したという伝説があることから、家人の和合の神として宋代に祀られた。しかし、「和合」の本来の意味は婚姻による姓の統合であるため、和合の神は婚姻の神として祀られるようになったという。
清代の翟灝『通俗編』巻19には、「万回哥哥(ばんかいコーコ)は1人であるため和合の神ではなく、雍正11(1733)年に天台山の「寒山」と「拾得」(ともに唐代初期の人)を和合二聖とした」と書かれている。
『民間文学』1979年第7期所載「和合二仙、友情を伝える」では「寒山」と「拾得」を和合二仙としている。2人は北方の村に住んでいた。彼らは姓が異なるうえ、寒山の方が年上だったが、実の兄弟のように仲が良かった。ある時、拾得がある女性と結婚することになった。2人の結婚が間近に迫った時、寒山は相手の女性が、自分が好意を寄せていた相手だと知った。寒山は家を捨てて江南・蘇州の何山にある楓橋に行き、剃髪して出家し、庵を結んで修行に励んでいた。やがて拾得は女性と別れ、彼の庵を探し当てると、荷(ホー)の花を持って礼を言いに行った。寒山は拾得がやって来るのを見ると、慌てて托鉢用の盒(ホー)を持って出迎えた。2人は抱擁し、飛び回って喜び合った。やがて2人は僧侶になって山を開き、寒山寺という庵を建てた。寒山寺の石碑には今でも2人の姿と名が掘られているが、字が読めない庶民たちは荷と盒を持った2人の図像しか分からず、それを和合二仙と呼んだのである。
清代の李汝珍『鏡花縁』には、福・禄・寿・財・喜の五人の星君が木公・老子・彭祖・張仙・月老・劉海蟾・そして和合二仙と連れ立って遠方からやって来たと書かれている。その時の和合二仙の姿は、髪の毛を方々に伸ばした笑みを浮かべた2体の神で、1人は荷(ホー、蓮)の花を、もう1人は丸い盒(ホー、箱)を持っている。この姿は、婚礼の時に掲げる和諧合好(ホーシエホーハオ)を表しているとされる。
別名
参考文献
- 袁珂著/鈴木博訳『中国神話伝説大事典』大修館書店