変身ロワイアル




80 YEARS AFTER……




世界はそれでも変わりはしない




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 ――どれだけ時間が過ぎれば、事のすべてを冷静に話せるだろう。



 変身ロワイアル。
 かつて、六十余名を中心にいくつもの人々と世界を巻き込んだバトル・ロワイアルは、既に遠い過去の時代の物語となっていた。
 今や、その殺し合いの事を感情を交えて語るのも少々恥ずかしいほどである。時が経てば、それは教科書の一文になり、それはただ「そういう事があった」という事実に変わっていく。詳しい感情を掘り下げるのは、なんだか嘘くさくなってしまっていた。
 八十年もの時間が経ったのだ。この歴史の中では他にもセンセーショナルな出来事はいくつもあった。そしてすべてその次代を席巻し、一つ前の大事件を遠くに追いやっていた。
 そんな事の繰り返しである。

 だから、八十年過ぎたからといって、その後の世界の変容について語る必要はないと思っている。せいぜい、あの事件が影響を残した事といえば、世界と世界がつながりを持ち、一部の人は自由に行き来できるようになった事。それによる技術革新や対立はあっても、それもまた問題の一つとして定着してしまった。
 あとは、八十年という歳月を隔て、人は次の世代へ、また次の世代へとバトンタッチを繰り返していくだけだ。
 結果的に、生き残った戦士も、あるいは殺し合いに巻き込まれる事すらなかったその友人・父母も、多くはもうこの世にいない。血祭ドウコクら外道は八十年の間に、ある戦乱の末に居場所を亡くして滅び、彼らに相対した戦士たちもまた時の流れの中で順番に終わりを迎えていったのである。
 子を残したものもいれば、残さなかったものもいる。

 すべてが入れ替わろうとしていた。
 脱皮した皮がはがれるように彼らの物語は忘れ去られ、今度は彼らの戦いを本の上でしか知らない人々が新しい歴史を作り出していく。
 変身ロワイアルは歴史の中で遠ざかっていき、そこで戦った人々の姿もまた古ぼけた写真の中にだけ残されていく。

 あの大きな殺し合いイベントも、世界の危機も、過ぎて見れば何ら特別な事ではなかった。
 異世界同士がつながった事、多くの人々が支配の下に屈しかけた事、凄惨な殺し合いが平和な暮らしをしていた人々の前に突き付けられた事……それらの影響力は、確かにその当時は大きかったのだろう。
 しかし、その後も世界にはまた多くの血が流れ、多くの悪意が渦巻き、そして、多くの侵略者が地球を狙い続けた。そんな中で多くの人々はまた逃げまどい、ヒーローを待った。
 ヒーローが現れる事もあれば、現れぬ事もあった。
 あるいは、待ち続けた者こそがヒーローになる事もあった。
 あるいは、ヒーローが現れたとして、敗北する事もあった。


 実感として、世界は、変わらなかった。


 彼らの長い長い戦いをすべて見つめてきた者には特別な物語に見えたかもしれないが、彼らの青春もまた、世界の歴史の一部に過ぎないのだろう。
 彼らの築き上げた、彼らの中で特別な物語も……歴史の端っこで、誰かにそっと伝えられるだけに留まっていく。

 八十年、という月日の中で、現代にその言葉を残せているのは二人だけだった。
 そして、二人ともまた近いうちに死ぬ事が確定している。
 一人は病でベッドに伏し、あとは今日死ぬか明日死ぬか……もってあと数日というところまできていた。
 あとの一人は……どこで何をしているのかわからない。



 この八十年後の物語は、変身ロワイアルの参加者が、残り二人となり、一人の死とともに残り一人となり、そして最後に誰もいなくなるまでの、本当の終わりの時間を記したものである。



【残り 2名】






 ――鳴海探偵事務所。

 風都に知らぬ者はおるまい。鳴海壮吉より築かれた、今や老舗の探偵事務所だ。
 かつて変身ロワイアルで生還した名探偵・左翔太郎、又の名を仮面ライダーダブル。あの男が、殺し合いから帰ってきた場所だった。
 あれから先、何名かの探偵がここに憧れ弟子入りをもくろみ、あるいは何名かの経営者が鳴海探偵事務所のネームバリューをビジネスに誘った。しかし、それらすべてが断られた結果、ここはいまだ小規模なまま、かつてのようなアンダーグラウンドな風都を支えている。
 翔太郎然り、その次代、その次代然り、弟子を取るなどという方向には特別な事情がない限りほとんど行き着かず、またこの事務所には人件費を払う余地もなかった。
 何せ、百歳目前までこの事務所の財布の紐を握り続けた鳴海亜樹子は、あまりにケチな性質だったのであるから、それはまた仕方のない話だ。やれ拘りやら、やれリスクがあるやらと、良くも悪くも旧態依然とした事務所経営を続けた結果、潰れもせず大きくもならず、今に至るのである。
 そうこうしているうち流れた八十年という歳月で、遂にここを頼る者も減っていき、依頼は元のような犬探し、猫探し、亀探しに偏りはじめ、時に(当時で云う)ガイアメモリ犯罪のような特殊な高額依頼が舞い込むといった具合だ。
 尤も、このくらい元の鞘に収まってくれていた方が、故・翔太郎らもあちらで安息できる事だろう。

 ……八十年後、という時間。

 ここで、この鳴海探偵事務所に弟子入りした『ハードボイルド体質』な探偵。
 それが、これからこの物語の語り部となる。
 彼のパーソナリティを予め話しておこう。

 特徴、百八十メートルを超える長身にして、華奢な体格。
 趣向、コーヒーはブラック、タバコはマルボロ。
 性格、『ハードボイルド体質』。
 憧れ、『ハーフボイルド』。
 嫌いな物、子供、女の涙。
 左翔太郎が築き上げた『ハーフボイルド』に憧れながら、しかし、意固地であまりに恰好が付いてしまう、様になってしまう『ハードボイルド』な運命にあった。
 それが、この『探偵』であった。

 これから彼が語るのは、八十年前のバトル・ロワイアルと、この時代とを結ぶ一つの奇妙な事件。
 その出来事は、この『探偵』自身の言葉を借り、その通称は、彼がタイプライターに綴ったこの名前を借りるとしよう。



 ――『死神の花』事件――



 さあ、変身ロワイアルの最終章を始めよう。






【『探偵』/風都】



 ……その日、軽い暇をしていたおれのもとに小さな天使から舞い込んだ依頼は、おれの五年間の探偵人生で最大に奇怪なものだった。
 まさかおれも、この小さな天使――かわいらしい十数歳の少女――の依頼が、あの『死神の花』などと名付ける事になるおどろおどろしい事件に結び付く事など、夢にも思っていなかったのである。
 それも、あまりにもその結びつきが突飛なもので、おれは八十年前にこの街にばらまかれた『ガイアメモリ』なんていう化石が、おれの精神に干渉しちまっているのかと疑った。しかし、どうやらそれはおれの思い違いだったらしい。
 昔よりか、ずっと平和になったはずのこの街だ。
 ガイアメモリなんてどんな悪人だって手に取れるわけがない。何億という金を積んだってあんなものはもう手に入らないし、そうまでして使うメリットはあるまい。余程の物好きか、拘り屋か、骨董屋か、あるいはミイラ人間か――いずれにせよ、この街の売れない探偵に白昼夢を見させる理由はない。

 と、後に繋がるような話を今のうちからしていても仕方がない。この時点でおれは、まだこの依頼が死神を呼ぶ事になるなど想像もしていなかったのだから。
 話は、おれがその依頼を受けるハメになったところまで戻そう。

「……つまるところ、きみはおれに骨董品探しを手伝ってもらいたいわけだ」
「はい」

 おれと向かい合っている依頼主は、角度によって薄っすらと赤色に光る綺麗な髪の少女だった――これがおれの先述した「小さな天使」だ。顔の作りも良く見ると端正で、十年後が楽しみだが、今の彼女とは仕事以上の関わりは避けたいものである。
 おれにとって、年頃の少女は天敵だ。扱いがわからないのである。下手に穢れがないだけに、何が機嫌を損ねるかのバランスがとても難しく、すっかり理解できない。
 更に、この娘は気弱で口下手なタイプな事だけは明確にわかってしまうので、こちらとしても話しづらい。保護者同伴で来てくれた方が、おれにとって都合が良かったように思う。
 ただ、今のところは、どこにでもいる普通の少女、というのがおれの受けた印象だ。この年頃の少女がこんな廃れた探偵事務所に一人で来て快活でいられるわけもない。おれの代から社会に言われてきた事だが、面と向かってのコミュニケーションが得意な人間なんてすっかり減ってしまったような気がする。正直、おれもそのクチだ。

 それから特殊なのは、彼女のパスケースだった。
 その住所を見るに、この風都どころか、仮面ライダーなる伝説が各地に残る「この世界」の住民ではないのだ。――この事務所を頼ってはるばる異世界旅行にやって来たようである。
 道理で、というか、少し風体が風都民らしくなかった。こう言っては何だが、品があるが少し幼く、クライム・シティには慣れていない顔つきは直感的にわかる。人種が違うわけでもないのだが、どうしてなのか、出身世界も区別できる人には区別できるものだ。
 ……そんな彼女の依頼である。

「私のおばあちゃん……厳密には、ひいおばあちゃんなんですが、そのおばあちゃんが今おかれている状況をお話します――」

 と、まず語られたのは、彼女の曾祖母が、今現在、闘病中で病床に伏しているという話だった。順調に九十歳を超えて俄然元気だった曾祖母は、この数年で何度も病気に罹り、治療と再発を繰り返し、遂には本当に余命僅かと宣言されたのだと云う。
 人間誰しもに訪れる永久のお別れが近い、というわけだ。

 そんな曾祖母の病院を訪ねると、毎回ベッドの上で、遺言の如く、生きているうちのいくつかの後悔を口にしている。この少女は、それをひとつひとつ丁寧にメモを取って聞いたらしい。それをおれに見せた。
 だが、残念ながらその殆どは、この依頼主にとって叶えられるものではなく、彼女は既にその多くにバツ印をつけている。確かに、誰に頼んでもどうしようもない物や過去に誰かを傷つけた出来事などを話していて、彼女の後悔を叶える事はできそうもない。
 亡くなる曾祖母にせめてもの恩返しがしたいのに、それが出来ない無力で彼女も相当落ち込んだ……らしい。



 ――――だが、そのメモの中に大きなマル印で囲まれた願いがあった。

 彼女の曾祖母が失くした、「ある骨董品の回収」だった。
 彼女はどうやら、この願いに関しては叶えられる希望があると感じているらしい。
 なんでも、彼女の曾祖母のそのまた祖母から預かった品を、彼女の曾祖母が失くしたぎり、生涯返せなくなってしまったのだと云う。
 無論、百歳近くの老婆のそのまた祖母など、とっくに冥土にいるに決まっている。あくまで、彼女の曾祖母がそれを祖母に返す事はできないのは彼女らも承知だろう。だが、確かにそれを見つけ出せれば、せめて一つの後悔に決着を付ける事が出来ると踏んだのだ。
 この少女は、そんな曾祖母の最期の願いの一つを必ず叶えてやろうと意気込んで、「骨董品探し」をおれに依頼したのである。

「お願いします、この願いだけ……依頼できませんか?」

 ……まったく、家族想いで健気な美少女である。
 佇まいから何から古風で丁寧。今時珍しいくらい健気で純粋である。
 彼女に対し、おれの出せる答えは一つだ。


「――悪いが、その依頼は断る」


 そう、拒否である。
 おれの返答に、少女は目を丸くした。

「えっ」
「きみの祖母がきみと同じ年頃に失くしたと云うのなら、残念だが、紛失というよりは既に処分されている可能性が高い」

 単純な話だが、当然だ。
 彼女の曾祖母の年齢から逆算すると、それは今から遡って八十年ほど前に失くしたという事になる。彼女が家探ししても見つからなかったというのだから、ほとんど間違いなく、それはもうこの世にない代物だろう。
 まして、古物的価値があるものではなく、それはあくまで彼女の曾祖母にとって大事なモノだったに過ぎず、誰かの手に渡って保管されている可能性も薄い(勿論、ないとは言い切れないがそう上手く探り出せるはずもない)。
 可能性が高いのは、家族の誰かが間違えて処分してしまったとか、引っ越しの際に置き去りにしてしまったとか、そんなところだ。
 彼女ら一家の家や敷地がどんな場所なのかはわからないが、それ以外の場所がまったく手つかずのままで八十年眠っているとは思えない。
 そのうえ、誰かの手に渡って存在するとしても世界は広すぎる。何の手がかりもなしにそれを見つけるのはあまりに困難だった。

 そうでなくても、彼女の依頼の場合、ただの物探しというには、あまりに特殊なケースなのである。
 おれの見込みでは、その探し物が偶然見つかる確率も極めて低い――というわけだった。

「おれは、叶えられない依頼は受けられない」

 下手に希望を与えて何も見つからず、そのうえで依頼料だけ受け取るなどという所業はおれのポリシーに反するものだ。感情に流されて安請け合いした方が恰好はよろしいかもしれないが、むしろそちらの方が失敗した時に冷酷だ。
 何も見つからず、何も成果を出せず、ただ美しい言葉だけ並べて、良い人の面をして、許されながら、誰も傷つけず、金だけ受け取って自分だけ得をする世界で一番せこいやり方である。――このまま依頼を受けるのは、おれ自身がそうなる可能性が極めて高い事だと思った。

 では、金を受け取らなければ良いか?

 残念ながら、それも出来ない。すべての依頼主は平等である。これが商売である以上、いくら温和な十代の少女でも、安くする事は出来ないのである。他の依頼主もいる手前、おれは相手が子供でも、余命僅かな老人でも、必ず報酬を受け取る。うちにはそういう割引システムやサービスは設けられていない。
 おれは、あくまで話を聞いて自分が達成できると踏んだ依頼のみを見定めて、それだけを受領し、それをすべて叶える形で探偵をやってきたのだ。言い訳をするつもりはないが、これでも大方の依頼は受けてきたつもりだ。そこらの探偵がしっぽを巻いて逃げるような危険な依頼だってこなしてきた。
 それに比べれば、探し物は比較的安全な依頼だろう。
 だが、何度も言うが、リスクの有無を問わず、おれは達成できる依頼のみを受ける。だからこそ報酬を得られるし、だからこそ信頼されると思っている。
 世の中は未だ資本主義だ。おれは、気に入っている。

 こういう娘にも、はっきりと現実を見せてやった方が良いのだ。



 バシッ――!!



 ――と、そんなおれの額に、突如として何かが叩きつけられた。
 額を駆け巡る鋭い痛み。おれは、それがまた、うちの所長が投げつけたスリッパの一撃だとすぐに悟った。こんな事をする人間は一人しかいない。

「痛ェな! 何すんだよクソババア!」
「そのくらいの依頼叶えてやりなさいよ、男でしょうが」

 鳴海亜樹子――それは、この事務所の所長である百歳の老婆であった。てっきり、奥でつまらないネット動画でも見ながら猫と戯れているのかと思いきや、依頼内容を全部聞いていたらしい。
 淑女亜樹子の動きと喋りは随分とスローモーだが、叩きつけられるスリッパの痛みは本物だ。すっかりスリッパの効果的な投げ方を覚えている。
 いつものように、「さっさとくたばれババア」と悪態をつきたいところだが、この少女の手前、口が滑ってもそんな事は言えない。
 とにかく、額を抑えながらおれは仕切り直す。

「……嬢ちゃん。残念だが、おれには所長にああ言われても、依頼を受けるのは難しいんだ。何しろ、見つけられると断言できない。『見つかるかもしれない』なんて嘘もつけない。タイム・マシンがない以上、おれはきみの依頼を達成できないと思っている。力不足で申し訳ないが、それがこのへぼ探偵の実力だ」

 ババアに言われずとも、おれはおれなりに男という性に向き合っているのだ。
 無為な理想を求めるファンタジックな男性像ではなく、大局を見る理性的なリアリストとしての男性像に。
 と、依頼主の少女は項垂れて、口を開いた。

「――わかりました。無理を言ってごめんなさい」

 物分かりが早くてありがたい。理解を示してくれたらしい。
 ……と、思ったが。

「……えっく……諦めるしか、ないですよね……えっく……。そうです……わかってました……」

 ……最悪だ。泣きやがった。
 女の涙は苦手だ。放っておくのも苦手だし、拭うのも苦手なのだ。
 この場合は、「放っておけないうえに、依頼を受けて甘やかせない」という厄介な状況だ。クレーマーやヤクザの方がまだ対処しやすい。
 おれは、クレーマーを上手くいなす交渉術についてはすぐに覚えられた。ヤクザは法律を上手く盾にすれば良いし、殴りかかってきたならばそれこそ拳を叩き込めば良い。
 だが、女は交渉術も法律も聞かない。自分の感情を直球でぶつけて、奇妙な理屈を当たり前に通そうとしてくる。そのうえ、殴れない。
 横から、その場にいたもう一人の「女」――所長が口をはさんだ。

「おい、ハードボイルド探偵」
「は?」
「ハーフボイルド、目指してるんじゃないのか」

 ……これも女の特徴だ。奇妙な理屈ばかりのくせに、痛いところを突いてくる。
 実を云うと、おれがこの事務所をわざわざ選んで、何代か前の左翔太郎の「ハーフボイルド」と呼ばれた探偵作法に興味とあこがれを示したからである。
 何せ、生まれながらのハードボイルド思考と、甘さと肩ゆで卵を嫌うハードボイルド嗜好が、板についてしまい、すっかり自分が嫌になったのである。人は自分に無い物を求めるというが、程よい甘さが欲しいという程度にはおれも人に嫌われてきた。
 一時の感情を切り捨てて、最良の決断をしようとするほど顰蹙を買ってしまうのも、この世の理だ。その割り切った性格が原因で、何人の女にビンタを受けたかは聞かないで頂きたい。
 おかげで行く先々で逢う人に冷血漢と呼ばれてしまい、前の探偵事務所(事務所というよりは大きな会社のようだった)は、それが原因でスタッフと話が拗れてクビである。

 つまるところ、ハードボイルドは、時代遅れだ。
 と、なると正真正銘合理的に生きるには、何もかもにラインを引いて平等のルールを押し付けるよりか、強いものには強くあたり、弱いものには施すような程よい甘さ――「ハーフボイルド」こそが仕事に必要だと考えているが、性格上踏み切れないのである。

 ……今回は、まさしくハードボイルドが拗れた時に近い状況だ。「依頼主の女が感情的になる」というシチュエーション――これはこちらの事務所では珍しいケースだが。
 まあ、ほんの少しだけ、踏み切ってみるのも悪くあるまい。
 おれは、すぐに口を開いてある提案をした。

「――わかったよ。そこまで言うなら、所長。悪いが一度、有給休暇を取らせてくれないか」
「は?」
「制度的にはあったが、今日まで一度も取ってないだろう。……おれとアンタだけじゃ臨時休業しなきゃ仕方がないから我慢はしていたが、ここらで一度労働者の権利を証明しておきたい」

 長らく自営業のような気分でいたが、一応おれは鳴海探偵事務所に契約社員として就職している。ここでは、就業規則のうえで契約社員に対しても権利が認められている有給休暇を取得する事が出来るわけだ。
 元々、いつが出勤でいつが休みかもよくわからない職業柄ゆえ(世間的にはブラックだがおれはむしろ気に入っている)、すっかり気にしてはいなかったシステムではある。しかし、雇用者である鳴海所長はこの権利を無視できないだろう。

「なんでこの話の流れで有給休暇を取るんだい」
「おれは、その有給を使い、探偵業ではなく、プライベートでこの娘の話を手伝わせてもらう。ただし、これはあくまで依頼じゃない。私的活動、いわば趣味だ。達成する義務はなく、達成しても報酬は頂かない」

 少しの間、鳴海探偵事務所は臨時休業となるが、ほとんどの人間にとってこんな探偵事務所は開店中だかもよくわからない状態だ。
 実は猫探しの依頼が一件だけ入っている。だが、これも、初めての依頼主ゆえに保留扱いだし、これも大概の猫は帰路を覚えて飼い主のもとに帰ってくるだろうから、放っておいても大丈夫だと見ている。

 残念ながら、他の予定は真っ白。一応この状況では好都合だ。
 これを所長に説明すると、納得はしがたいようだが、ちょっとだけ頭を悩ます様子を見せた後で、回答と質問が戻ってきた。

「……構わないが、あんたがそんな事言うなんて珍しいわね……主義を変えたのか?」
「――いや。そのつもりはない。ただ、彼女は少し特殊なケースだからな。タダで依頼を受けるのでなく、彼女にはおれとの繋がりを利用して貰う」

 言いながら、おれは、少女の方を向いた。
 いまだ泣き止まない彼女に真剣なまなざしを向けながら、

「一つ訊きたいんだが、何故きみはこの探偵事務所を選んだ? きみはこの街どころか、この世界の住人ですらないだろう?」

 と、おれは訊いた。
 彼女が風都の住人ではないのは勿論の事、別の世界の住民であるのは間違いない。鞄にぶら下げた定期券から判別できる「元の住所」が、それを告げている――そこに記されているのは、当然この世界のものではない。それは来た時点でも気づいていたし、どことなくこの古風な街並みに馴染めていない素振りも感じていた。もっと未来的な街並みばかりが並ぶ世界から来たという事である。

「は、はい……そうですけど」

 彼女は不思議そうに、答える。
 ビンゴだ。この小さな天使は、おれの推理した通り、別世界の日本から来たエトランゼなのだ。だとすると、いくつか疑問がある。
 そんなエトランゼの少女が、この事務所をわざわざ訪問した時点で、疑問は始まっていたし――その答えをおれは思考を巡らせて導こうとしていた。いくつかの仮説を立てて、その結果として出た推理、その裏付けがおれは欲しかった。

「この事務所を選んだ理由ですか?」
「ああ」
「曾祖母が信頼していた探偵事務所だと聞いていたからですけど――」
「そう。きみは曾祖母からこちらの探偵事務所を推薦されたわけだ。だが、ただ理由もなく選んだとすればきみの曾祖母はよほどの変わり者になってしまう」
「え?」
「こんな辺鄙な地方都市の探偵事務所、まして異世界の事務所を選ぶ理由がないだろう。探偵だって世界を跨ぐようになれば時間がかかる。なのに、何故ここを選んだのか? ――今度は、それが、おれにとって大きな謎になる」
「それは……えっと」

 言葉に詰まったようだ。彼女の性格上、隠し事をしているわけではないが、上手く説明ができないのだろうと思えた。
 おれは、フォローの意味で、まくし立てるように続けた。

「君に代えて答えよう。きみの曾祖母は、八十年前の人間だ。――と、なるとこの探偵事務所の最盛期にあたる。その頃は、ここもおれが想像できないほどたくさんの人だかりが出来たらしい。……尤も、来たのは依頼人ではなかったという話だがね」

 当時、押し寄せてきたのは、依頼人ではなく野次馬や、あくどい営業マンたちである。その時の事なら、隣の老婆から耳にタコができるほど聞いている。
 彼らは、探偵としての技量ではなく、その探偵の知名度と偉業に群がったのである。幸いにも、その探偵はお調子者だったので、しばらくはその状況に酔ってもいたとの事だが、何しろ、探偵には探偵の拘りがあったのだろうと推測できる。
 滅多な事では、「異世界の人間」の依頼など受けないのだ。――そう、俺の知るデータ上のその人物ならば。

「――そのうえ、この探偵事務所の探偵であった左翔太郎探偵は変な拘りを持って、この街以外の人間からの依頼は、よほど放っておけない事情でなければ、ほとんど受けていなかった。そうだよな? 所長」
「え? ああ。翔太郎くんは、なにより、この街が好きだったからねぇ……」

 所長が、感慨深そうに答える。――当時のこの事務所の探偵・左翔太郎がこの街以外の依頼をほとんど受けなかったと説明したのは、あくまで推理推測に過ぎなかったが、こうして当時の立ち合い者に裏付けられたので間違いない。
 左翔太郎なる人物のパーソナリティや、残っている事件のデータからも察する事が出来る話だ。

「――だとすると、ここでの一番の謎は、君の曾祖母は『依頼人』として、ここの探偵を信頼していた事だよ。可能性と考えられるのは、きみの曾祖母がこの街から向こうに越したとか、きみの曾祖母が特例的に依頼を受けてもらえたレアケースだったとか。――尤も、そこから消去法を使わなくても、答えはすぐそばにあったよ」
「……」
「おれはね、きみの曾祖母と、左翔太郎と――それから先々代の佐倉杏子とは、ある繋がりがあった筈と睨んでいる」

 おれは、ソファから立ち上がり、デスクの引き出しから一冊の本を取り出した。
 つい最近、ひまつぶしに読んだ一冊の本だった。手垢だらけで、日焼けまみれ。古びていて読みづらい状態だったが、おれが示したのはその本の内容ではない。

「この写真の中に、きみの曾祖母がいるんじゃないか?」

 おれは、左翔太郎探偵――および、佐倉杏子探偵の遺した古びた本に挟まれた数葉の写真を、彼女に見せた。
 異世界交遊時代を呼び寄せた決定的な出来事を記した、貴重な資料。それが、この『変身ロワイアル』と題された書物であり、この写真はその殺し合いの途上で撮られた写真であった。
 一応言っておくが、別に記念撮影というわけではない。参加者――高町ヴィヴィオが連れていたハイブリッド・インテリジェント・デバイスことセイクリッド・ハートが日常録画機能を用いて残した貴重な資料である。
 それでも、そこには楽しそうな笑顔もきっちり映っている。悲惨な殺し合いの渦中にあるとは思えず、おれはやらせなんじゃないかと疑ってしまったが、当時世界放送されたデータの一部には、参加者が団結する過程でほどほどにリラックスしていた事も確認できている。
 職業柄、あまり感じなかったが、人間というのは存外素敵なものなのかもしれない。
 それに、やらせというにはあまりにも――良い笑顔だ。

 おれが見せたかったのは、この写真群の方である。数枚だけ残されているのは、左翔太郎と佐倉杏子にとって思い入れの深かった場面。
 ある時点までの生存者のうち、チームを組んでいた人間が――左翔太郎、フィリップ、佐倉杏子、蒼乃美希、沖一也、孤門一輝、冴島鋼牙、高町ヴィヴィオ、花咲つぼみ、響良牙がそこに映っており、その中に一人だけ、この少女と瓜二つの人間がいた。

 八十年前の時点で、彼女と同じ年頃の少女――。



「花咲つぼみ、だね」



 写真の中で眼鏡をかけている少女は、彼女によく似ていた。
 キュアブロッサムとして戦い、生還後は植物学の研究者として従事し、何度とない病に侵されている――今では九十四歳の老婆。

「……はい。これが、私のひいおばあちゃんです」

 所長が、思わず驚いて口を大きく開け間抜け面を晒していた。
 依頼主は、花咲つぼみの娘の娘の娘――『桜井花華』(さくらいはな)であった。
 現在、十四歳。まさしく、当時の花咲つぼみと同年齢であった。






「……別に隠していたわけじゃないんです。ただ、私は来た事がなかったし、曾祖母の名前を出しても気づいてくれるかわからなくて」
「いや。本当に。すっかり……。うん。言われてみればつぼみちゃんとそっくりだわ」

 鳴海亜樹子にとって、花咲つぼみは遠い昔に出会った一人の少女に過ぎない。
 しかし、何か少しの会話を交わしたり、特別な思い入れこそなくてもお互いを覚えたりする程度の関係ではあるのではないかと思えた。
 と、何かふと思い出したかのように所長はまた慌てておれを見た。

「――もしかして、今回の依頼って……」

 何かに気づいたらしい。年老いてはいるが、勘は鋭い女である。彼女も、この八十年それなりに頭を使って、感覚を磨き生きたのだろう。
 あるいは、彼女にとっても「それ」は「気がかり」だったのか。
 おれは頷いた。

「ああ。この事務所の未解決ファイルの事件だ」

 ――未解決ファイル。
 鳴海探偵事務所は、法律による保管期限を超過した資料は破棄してしまうが、それとは別に未解決・未達成の事件の書類がファイリングされていた。ある意味、この事務所においても戒めとして残しているのだ。
 おれは、そのファイルを参考程度に何度か目にしているが、八十年分の未解決事件がすべて閲覧できる代物で、おれから見るとかなりくだらない依頼まで残されていた。
 今回おれが開いたページも、わざわざ八十年残す内容ではないと思うが、今回はこれが役に立ったと言わざるを得ない。残してみるものだ。

「実は、ちょうど八十年前、きみの曾祖母は左翔太郎探偵に、まったく同じ依頼を残しているんだ。だが、左探偵は依頼を途中で何らかの事情で終了。その数年後、たいへん惜しい事に事故死している」
「え?」
「更に彼の死後に未解決事件をすべて引き継いだ佐倉杏子探偵が再調査している。まあ、花咲つぼみ氏の知り合いだったからかな。しかし、佐倉探偵は、そこで再び、『依頼主に事情を説明』して調査終了しているんだ。それからしばらく後になるが、佐倉探偵も亡くなった」
「……」
「次の探偵は、佐倉探偵と同時期に所属していて事情でも説明されたのか、この事件については引き継いでいないようだな」

 次の探偵、というのはおれの師匠――おやっさんに他ならない。
 名は伏せる。
 だが、厳かで、ハードボイルドで、しかし優しくもあり、妙にバランスの取れた人間であった。飄々としていると言い換えても良い。
 そのおやっさんも既にこの世にいない。この世にこそいないが、おれにとってはいまだ尊敬する人間の一人である。
 そんなおやっさんは、佐倉杏子や左翔太郎を深く尊敬していたようだが、おれはいずれとも面識がないので、彼らについてはなんとも言えない。
 花華が、ふとおびえながら口を開いた。

「えっと……それじゃあ、これってまさか関係者が亡くなる、触れちゃいけない呪いの依頼とか……?」
「そう焦るな。依頼を受けてから終了するまで、そして終了してから担当者が死亡するまでに数年のブランクがある。左探偵はともかく、彼らと一緒にこの依頼を受けていたはずの雇い主・鳴海亜樹子がそこにいるだろう」
「ああ……そうですね」

 呪いの類は、ほとんどこじつけに違いない。都合の良い部分だけ抜き出せば、いかようにでも呪いを作り出せる。逆に、その呪いを成立させるには都合の悪い部分だって、少なくないのである。

 ただ、オカルト以外にも背筋を凍らせるものがある。
 それは、人間の意思の謎だ。――きわめて不可解な、しかし、何かしらの理論で動いている人間が遺したメッセージ。それは、おれの目にも不気味に映った。論理を持つ人間が得体の知れない行動を取った時、どうしてもおれはそこに闇を感じてしまう。
 謎、という闇だ。
 そんなものが無作為に世の中に散らばっているのが気持ち悪い――というのが、おれが探偵という職を選ぶ理由の一つである。
 おれは、花華に言う。

「ただ、オカルトじゃないが、奇妙な点はいくつかある」
「というと?」
「……まず、この未解決依頼に関してだが、そのほとんどは『終了』ではなく『中断』しているんだ。このファイルでは、今後再び事務所が解決できるかもしれないという希望を残して、ほとんどの事件を『中断』と表記しているんだろう。しかし――これは親族にも守秘義務の都合、詳しくは見せられないが、この依頼についてだけは、左探偵も佐倉探偵も『終了』と表記して保留している」
「『中断』と、『終了』で、何か違うんですか?」
「ああ。左探偵は、『中断』としたところをわざわざ書き直して『終了』として纏めているんだ。これを見るに、単に表現が違う同じ意味の言葉というわけではないらしい。それぞれ何か意味がある。そして、この『終了』もすべて解決に至らずに未解決ファイルに仕舞われている」
「――どういう事ですか?」
「わからない。――わからないから、おれには依頼としては受けられない。非常に高い確率で、おれはこの左探偵と佐倉探偵が解決できなかった依頼を達成できないと踏んだんだ。申し訳ないがね」

 深い知り合いであった彼らにさえ解決できなかったのがこの依頼だ。
 八十年後、曾孫や他人が手を付けたところで、このファイルから該当依頼を捨て去る事は難しいと云える。
 ましてや、左翔太郎も佐倉杏子もその探し物について、深いところまで掴んだうえで、おそらく不可能とみて『終了』を選択した。ただの骨董品探しだというのに、あまりにも不可解な結末だ。
 そんな依頼を安易に引き受けるのは無責任でさえある。

「きみの曾祖母は、佐倉探偵から事情を説明されたにも関わらず、今になって再びそれを見つけられなかった後悔を挙げている。――その意味からして、おれは、他の願い同様に今更叶えられないモノの一つとして挙げたのではないかと思った。たとえば、処分されていた事が確定したとか」
「……」
「――だが、それにしては、おれにはどうも引っかかるんだ。なぜ、依頼は『終了』されなければならなかったのか。……何しろ、左探偵の調査段階で、既に佐倉探偵は助手として行動を共にしている。その時点で、結果が『処分されて依頼達成不可能』であったのなら、左探偵はふつう、佐倉探偵にも花咲つぼみにもそれを報告するのではないかと思う」
「でも、友達だったから言えなかったとか……」
「……いや。確かにその可能性もないわけではないが、おれは違うと思う。依頼人にとってはね、保留されるのが一番怖いのさ。それは左探偵だってわかっているはずだ」

 保留――その恐ろしさは探偵や警察という職業の者が最もよく知っているはずだ。
 それは、永久に依頼人がそれを探し続ける結果を齎す。この事務所の未解決ファイルだって、保留したくて保留しているわけではないだろう。あのいくつもの事件は、探偵の敗北を意味する悔しさに満ちていた。
 おれたちの仕事は、相手が誰でも、見つけた真実を伝える事に他ならない。

「第一、そうならなかったから後に佐倉探偵が再調査をしている。依頼人本人に伝えなくとも、佐倉探偵や鳴海所長には伝えるのがふつうだろう。そうすると、そこから二度手間の調査までする必要はないと思える。……だから、おれには、どうも即座に言えない事情があったとしか思えないんだ」
「確かにそうですね」
「――それに、ここでは、『人探しを依頼されて捜索対象が死亡していた』という結末は、未解決に該当しないものと扱っている。同様に、『探し物が処分されていた』という結末を下した事件は、未解決には該当しないものと扱うのが自然だろう。少なくとも、この世のどこかにあると判断したうえで、それは決して見つけられないと判断したから――このファイルに綴じられているものだと思う」
「なるほど」

 そんなおれを、横から茶化す声が聞こえた。

「……さすが。腐っても探偵」

 所長である。
 他人事のようだが、彼女こそ当時の生き証人ではないか。――尤も、期待はしないが。
 念のため、おれは彼女に訊いた。

「所長はこの当時の事件について何か記憶があるか?」
「うんにゃ。依頼を受けた記憶はあるけど、何しろ特別な事件でもなかったからなぁ……未解決ファイルを読み返してそんな事があったと思ったくらいで……」

 やはりだ。
 八十年も探偵事務所を経営し、その依頼内容をすべて把握できるような人間はそういない。――ガイアメモリ犯罪などという殊勝な事件に巻き込まれるところに始まった彼女の所長人生は、そういった些末な事件を覚えられる具合ではないのである。
 それは無理もない話であるが、そう都合よく話が進むものでもないと思っていた。

「解決は、厳しそうですね……」
「おれもそう思ってはいる。出来るとすれば、きみの曾祖母が一体、佐倉探偵から何を訊いたのか知るくらいだ。曾祖母はいま、話せる状態にあるかい?」
「可能ですけど、親族以外はほとんど会えない状態です」
「きみの曾祖母は、有名人だからな……無理もない」

 いっぱしの探偵では、病院の意向を説得するのも難しい。
 彼女の方からまずは聞いてもらわなければならないわけだが、そうであるにせよ、彼女は曾祖母の後悔として話を聞いた時点で、それについて詳しく掘り下げようとはした筈である。
 ――そうでないとしても、曾祖母がそうして探し物を見つけられなかった事を後悔に挙げている時点で、左探偵や佐倉探偵による『終了』報告に納得はしていないと考えられる。

「……おそらくきみの様子では、曾祖母がその件を覚えていたり、探し物のありかに心当たりがあったりという感じではなかったみたいだな。佐倉探偵から受けた報告について、きみの曾祖母に聞いたところで、何かの手がかりにならないと感じているんじゃないか?」
「……」

 図星らしい。
 花咲つぼみが現在どういう状態かは知らないが、こうした反応を見れば察しが付く。少なくとも健康的な状態ではないし、探し物についてはもはや心当たりもないといった状況なのだろう。
 ぼけている、とまでは云わないが、少なくとも佐倉探偵から当時訊いた事情を忘れたのか承服しないのか、いまだにそれを本気で探したがっていると考えた方が自然だろう。
 続けて、おれは云った。

「そして、解決すると断言できない依頼は、おれは受けられないというのは先に云った通りだ」
「……じゃあ、やっぱり依頼は受けてもらえないんですか?」
「そう言いたいところだが――――と、ちょっとタバコを吸わせてくれ」

 おれは胸ポケットから取り出したマルボロを咥え、火力を最大にしたジッポライターで火をつけた。女性二名には露骨に不快がられたが、これは衝動だ。
 ヘビースモーカーにしかわからないだろうが、どうしても吸いたくなるタイミングというものが存在する。小さなストレスや頭の中のもやを晴らすのに、その穢れた煙を吸う衝動が必要になるのだ。
 おれは、タバコの香りを吸い込み、大きく吐き出す。

「――しかしだが、個人的にすごく気になる内容なのは確かだ。ここまでのデータを踏まえると、動けば何かの手がかりが入る話に違いない」
「それじゃあ、依頼を受けてくれるんですか?」
「いや、それはできない。――とはいえ、だ。これまで話した通り、かつては変身ロワイアルという営みがあったわけだ。すると、この事務所が存続しているのは、きみのご先祖が左翔太郎や佐倉杏子を生きて帰すのを手伝った事に由来がある。そうなれば彼らの孫弟子であるおれは、きみの家に恩を感じずにはいられない立場だ」
「はぁ」
「ここは、探偵ではなく、私人として無償で手伝うのも悪くはないだろう、と思っている。――きみとしては、どうだろうか」

 そういうと、花華は「そういう事なら」と、戸惑いつつも首肯した。すっかり泣き止み、おれとしては一つ事件解決というところである。
 おれは、笑みを浮かべて灰皿にタバコを押し付けた。華奢なマルボロがL字に曲がって吸い殻の山に重なる。
 ともあれ、おれはこの時点で最大のストレスが消えてくれた気分であった。思春期の少女の涙なるものはなるべく早々に視界から外したい。

「――さて、それじゃあ早速探しに向かおうか」



 おれは、その後、すぐに「今日から有給取得日」として所長に申請している。
 時系列が逆だが、今日の出勤を事後的に有給扱いとしたのである。以後三日に渡っておれは「休暇」を取り、この事務所は臨時休業となる。
 尤も、その間に依頼が来る可能性など僅かだ。この事務所にそう何人も続けて依頼人が来る事など、ポーカーでフルハウスを連続させる程度の可能性しかありえない。

 おれは、さっそく帽子を深くかぶり、出かける準備を整えた。
 と、出かけようとするおれに、所長が口をはさんだ。

「これは主義を崩すのとは違うのかい」
「……おれのルールは崩せない。だが、どんなルールにもこうした抜け穴があるものだ。そこを突いてもらえば、おれは主義を崩さず動ける事になる」
「動きたいように動く、じゃダメなのかね……」
「おれの作法だ。気にするな」

 滑稽で面倒に見えるかもしれないが、それがおれの性格だ。






 ――これまでが、おれのもとに舞い込んだ事件の発端である。



 これまでに出たキーワードは次の通りだ。

  • 八十年前に消えた骨董品
  • 左探偵、佐倉探偵が見つけた事実
  • 花咲つぼみ
  • 桜井花華
  • 風都
  • 鳴海探偵事務所
  • 未解決ファイル

 ……考えてみれば、この時点で八十年前と今とは繋がっていた。いくつものキーワードがそれを証明している。
 しかし、まさか、事件を追うにつれて、更に八十年前と今とをつなぐ言葉が増えていくなど……八十年前の怨念と、その時代の人間たちが遂にたどり着く事がなかった真実にまで足を突っ込むなど、誰が想像しただろうか。
 そう、少なくとも、おれのような弱小事務所の独り身探偵がぶちあたる問題ではない。
 神様がいるとして、花咲つぼみの子孫である彼女になら特別な課題を与えるかもしれないが、おれに人並以上の課題を与えた事など一度もないからだ。

 おれには、犬探しや猫探しでちょうど良い。
 ……と思ったが、この事件を経た今になると、そのポピュラーな依頼も一瞬躊躇させてしまうだろうか。






【『死神』/いつかの時代、廃墟と化した風都】



 ――おれは、無人の街を歩いていた。


 どれだけ探しても、誰もいなかった。
 そこかしこの店には客も店員もおらず、時に荒らされたように物が散乱していた。何かのオフィスもまた無人だったし、公園にも子供はいなかった。住宅街を探ってもやはり誰もおらず、どこを歩いても、その歩みは孤独だけを踏みしめさせた。
 しかし、この感覚にはどこか、なじみ深いものがあるのだった。

 ……そうだ。
 この街――歩いた事があった。

 そうだ。そうなのだ。遠い昔、ここを訪れた覚えがある。
 その時の事は――思い出せないが、他に誰かが居た。多くの人がいた。

 つまり、おれじゃない誰かがこの街に、住んでいた……?

 それならば、この街は何故、誰もいなくなったのだろう。
 災害か、争いか、それとも時代が街を死なせたのか?
 ふと頭痛がして、何か巨大な影が空に浮かんだ。――あれは、怪物?
 いや、思い出せない。

 頭痛を抑えながら、おれはひたすら足を進めた。
 どれだけ歩いても、どこも同じように寂れていて景色は変わり映えしなかった。

 そして、しばらくそのまま町をさまようと、おれは遂に他の人間を見かける事になった。



 そう――――誰か、死体となった男を。






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最終更新:2018年05月29日 18:42