何とかなった。
 何とかなってくれた。
 流石はわが息子だ。
 "写真のおやじ"……吉良吉廣は心からの安堵に胸を撫で下ろしていた。
 写真の人間が胸を撫で下ろすというのもおかしな話だが、事実なのだから仕方がない。
“流石は吉影……わが息子。あれしきの癇癪などトラブルの内にも入らんということか”
 吉廣は俗に言う親バカの部類だ。
 息子を溺愛する余り善悪の区別も付かなくなった、ほとんど悪霊のような存在だ。
 だがその贔屓目を抜きにしても、先ほどの吉影の手腕は素晴らしいものだった。
 もはや奇行とか発狂とか呼んでもいいだろう突然の思いつき。
 それが本格的な暴走になる前に、吉影は見事マスターを鎮圧した。
 武力など使わずにだ。
 熱くなったマスターの脳に言葉の冷や水をぶっかけた。
 そして止めに脅しの楔を打ち込んで、彼は生まれかけたトラブルの芽をしっかり摘み取ってみせたのだ。
“一時はどうなることかと思ったが……これで一先ず安心か”
 さっきのは本当に危なかった。
 写真の身で出来ることには限りがある。
 今はスタンドも使えなければあの"矢"もない非力な状態だ。
 それでも、力ずくで止めにかからねばならないかと覚悟した。
 峰津院は、峰津院大和は……危険過ぎるのだ。
 マスターであろうことは分かっているが、分かっているからといってどうにもならないこともある。
 無論いつかは乗り越えなければならない相手ではある。それは確かだ。
 しかし、物事には順序というものがあろう。
 その順序を、この戦場となった東京では命綱にも等しい優先順位を。
 あろうことか初手から飛び越えようとしたのだ……この田中というマスターはッ!
“愚かな男だとは思っていたが…こうも早々にわが息子を危険に晒しかけるか、田中一……”
 割れ鍋に綴じ蓋という言葉がある。
 吉影が割れた鍋なら田中は数少ないそれを綴じられる蓋だ。
 殺人衝動という致命的な性を抱える吉影を許容出来る存在は、当然ながら少ない。
 下手に鞍替えを考えた結果受け皿が見つかりませんでしたでは取り返しがつかない。
 だから吉廣も、田中の愚かさには目を瞑って来たのだが……。
“きさまのような人間が真っ昼間から酒なぞ呑むなッ! これだから最近の若者は……!”
 さっきの件で改めて確信した。
 この男は劣等感と衝動の塊だ。
 吉廣が生きていた頃にも、人を殺して"ムシャクシャしていた"と供述する殺人犯のニュースがよくワイドショーに取り上げられていたが……
 田中はまさにそういう男で、事実吉廣は彼が道を踏み外すその決定的瞬間を目撃していた。
 あの瞬間、田中という凡人の中のブレーキが粉々に壊れてしまったのだろう。
 それはマスターに飢えと執念を求める吉廣にとって願ってもないことの筈だった。
 しかし田中の中で始まった"革命"の無鉄砲さを、吉廣も心のどこかで見誤っていたようだ。
“とにかく、今後はわしがもっとこの男をコントロールしていかなければ……”
 さもなくば愛する吉影にストレスを与えてしまうだけでは済まないかもしれない。
 その事態だけは何とか避けなければなるまい。
 頭を悩ます吉廣だったが、その一方。
 彼の胃痛の原因である田中は、実に涙ぐましいメッキで心の綻びを補修していた。

 余計なことは考えるな。
 何も考えなくていい。
 俺は俺で、俺のやることは何も変わらない。
 "田中革命"。それが俺の此処にいる意味だ。
 あのクソみたいな日常から抜け出して遠路はるばるこんなところまでやってきた。
 そして人を殺した。
 比喩でも誇張でもない。
 この手で、確かに、殺した。
 つまらない、ある意味では人様の反面教師として大変有用だろう人生を無意味無価値に重ねてきた。
 そんな俺に殺されたあの女は、最後に何を思ったろうか。
 どうでもいいし興味もない。
 ないが――あの瞬間、俺はスタートを切ったんだ。
 クソみたいな人生と日常を巻き返すためのクラウチングスタート。
“俺は何も変わってない。あの時のままだ。俺は何も、変わってない”
 そう自分に言い聞かせる。
 その上でもう一度命じるんだ。
 余計なことは考えるな。
 アサシンに言われたことなんて、思い出さなくていいんだ。
“あぁ、そうだ…そうだよなぁ。革命って言ったって、いきなりキングは取れねえよなぁ……”
 アサシンのおかげで酔いも冷めた。
 確かに、俺がさっきまでやろうとしてたことは無謀だったのかもしれない。
 元の世界じゃ聞いたこともないが、峰津院財閥ってのは相当デカい組織らしい。
 そこに無策で、サーヴァントもなしで突っ込むなんてのは……確かに少し分の悪い話だ。
 そうだな。そう考えるとアサシンに止められたのはいいことだったのかもしれねえ。
 レベル1でラスボスに挑むようなものだったんだろう、アサシンや写真のおやじにしてみれば。
 とりあえず分かったよ、納得は出来た。
 峰津院のいけ好かないガキを殺すのはまだ先だ。
 それまでは、もっと格下の敵を殺して革命の下地を作ろう。
 峰津院大和がラスボス、それに準ずる強敵だってんなら、今必要なのはレベル上げだ。
 この世界じゃ、ただ決まった相手を殺しただけじゃ田中革命は完成しない。
“そうだ、何も急がなくたっていい。殺せる奴からしっかり殺していって、メインディッシュは最後に取っとけばいいしな”
 そうだ、そうしよう。
 むしろ気付けてよかった。
 そう考えればアサシンと直接話した甲斐もあったってもんだ。
 運命は俺に味方している。今までもこれからも、ずっと。
 だから安心しろよ、田中一。
 何も怖がることなんかない――そう、怖がることなんかないんだ。
 俺は怖がってない。恐れてなんかない。
 そんな意味のないことを……田中革命に目覚めた俺がわざわざするわけがないんだから。
「おやじ。……悪かったな。峰津院のことは一旦諦めるよ」
『そうしてくれ。奴らを標的にするのはまだ早すぎる』
「ああ。まずは白瀬咲耶とかいうアイドルの周りを調べて、マスターがいたらその都度殺していくくらいにするよ。そうやって革命を進めていけば、最後にはあのボンボンもぶっ殺せるようになるんだろ?」
『そうだ、ようやくわしの言う意味が分かったか! 確かに峰津院のマスターもいずれ直面するかもしれない問題ではある!』
 分かってるよ。
 それはもう俺の中で考え終わったことなんだ。
『だが今のきさまでどうこう出来る相手ではない! 奴を倒そうと思うならば、まずは他の主従と潰し合ってくれることに懸けて――』
 ああ、うるさい。
 なんだってこんなに口ウルセえんだ、この写真は?
 せっかく人が立ち直って心機一転頑張ろうとしてるのによ。
 なんだって、そこに冷や水をぶっかけるみたいなことを言ってくんだ。
 頭の中に、沸々と苛立ちが湧き上がってきたのはきっと気のせいじゃない。
 どいつもこいつも俺のやることに口出しをする。
 もう分かってることをわざわざ改めて言ってくる。
「分かってるよ。あんたなんかに言われなくても」
『いいや分かっておらん! そもそもだ、きさまは――』
「だから……」
 分かってるって言ってんだろ。
 そう吐き散らそうとした。俺は確かに、そうした筈だ。 
 でもその言葉は途中で途切れた。
 ヒュッ、て情けない声が喉から出た。
 なんでそんなことになったか、って?
 俺が今まさに、写真のおやじに怒鳴り散らかそうとした時――出たんだよ。出てきたんだ、そいつが。
 化け物みたいな、何かがよ。

「ン、ンン、ンンンン……」
 どろりと、そいつは空間から溶け落ちてきた。
 ロウソクの蝋が滴って人の形を結んだみたいにだ。
 俺と写真のおやじが向かう先。
 誰もいなかった筈の路地の先に、突然そいつは現れた。
「ひ、っ……!?」
 思わず漏れた声は我ながら情けないものだった。
 尻餅さえついてしまったが、責められることではないと思う。
 そのくらいそいつは毒々しかった。
 まともに生きたかったら絶対に関わっちゃいけない存在だと……俺でも分かるほどの、とんでもなく濃い禍々しさを放っていた。
 おやじの知り合いか? そう思って写真の方を見たが……
『な――なんだ、きさまはッ……!?』
 どうもこいつにも予想外の遭遇だったらしい。
 ひどく不吉な顔で嘲笑う毒々しい男から目が離せない俺とそいつの目が、一瞬合った。
「不躾なご挨拶となりましたが、どうかご容赦を。マスターと……ふむ。使い魔か何かで合っていますかな?」
『質問を質問で返すなッ! 聞いておるのはわしの方だというのにッ!』
「おっと、これは失敬…と言っても一目見ればお分かりでしょう? サーヴァントでございます。当然真名は明かせませぬが、驚かせてしまった非礼のお詫びにクラスくらいはお教えしましょう」
 その時俺は、もしかすると初めて実感したのかもしれない。
 この世界が、今まで俺が見てきた世界の常識なんて一切通用しない場所だってこと。
 今までのとはまったく違うジャンルの世界に、今俺は生きているんだってこと。
 その二つを嫌でも理解させられた。
「拙僧のクラスはアルターエゴ。便宜上の名としてどうぞ"リンボ"と、そうお呼びください」

“ア…アルターエゴだとッ!? いや、そもそもこの男ッ! どうやってわしらの位置を……!!”
 突然の遭遇に、吉廣の動揺は大きかった。
 吉廣は田中と行動を共にしており、そこにサーヴァントはいない。
 そして吉影のみならず、彼もまた気配遮断のスキルを持っているのだ。
 特定される要素がない。それこそ直接尾行されてもいない限りは……。
 なのに今この男は、此処にマスターがいると確信さえして現れたように見えた。
 少なくともただの偶然で出くわしたわけではない。
 そんな吉廣の見立ては当たっていた。
「そこな写真の御仁。察するに貴殿、死霊の類でありましょう」
 吉廣の動揺を見透かしたように言葉を転がす。
 その言葉を聞いた吉廣が息を呑んだ理由も、彼には手に取るように分かっていた。
 つまり、図星だということだ。
「拙僧は陰陽師ですので……貴殿のような存在には少々鼻が利くのです」
 吉良吉廣――彼は息子・吉影の守護霊である。
 息子に対する愛と執着の強さから死後も現世に留まり、その盲目な親心で吉影を助けた。
 吉影にとっては守護霊。
 世間の人間にしてみれば、悪霊。
 その性質が災いし、彼は偶々近くを通りかかったリンボに存在を感知されてしまったのだ。
 皮肉にも最初にピンチを招いたのは愚かと罵られた田中ではなく、彼の手綱を引く吉廣の方だった。
“陰陽師だと…ぐ、そんなサーヴァントまでおるとは……”
 このままではまずい。
 最悪、吉廣が消滅させられるだけならまだいい。
 だが問題は田中の方だ。
“田中に何かあれば、それはわが息子の危機に直結する…! どうする? 最悪の手段だが、田中に令呪で吉影を呼ばせるかッ!?”
 争いを嫌う吉影をサーヴァントの前に呼び出すなんて真似は勿論不本意だ。
 しかし今回ばかりは背に腹は代えられない。
 そういう状況だった――田中が死ねば必然それは吉影の破滅にも繋がるのだから。
 そうだ、田中は……そこで吉廣は初めて田中の方に目を向ける。
 つい先程には無謀にも峰津院へ喧嘩を売ると豪語していた短絡な革命家は、今……。

“ど…どうすんだよ、これ……?”
 冷や汗が顔やら背中やら、所構わずダラダラ流れ落ちてくのが分かる。
 目の前にはサーヴァント。対するこっちはマスターと役に立つのか分からんおやじ入りの写真一枚。
 俺の革命は遊びじゃない。
 そこら辺の道路で大口叩いて仲間と心をなぐさめあってるような負け犬どもとはわけが違うんだ。
 だから峰津院のボンボンを殺そうとするのにも迷いはなかった。
 何なら今だって殺せると思ってる。
 けどコイツは流石に違う。だって峰津院大和は人間だけど、コイツは人間ですらねえだろ。見りゃ分かるよ。
 人間にサーヴァントは殺せない。
 俺の世界を変えてくれたこの拳銃もサーヴァントにしてみりゃ豆鉄砲だ。
 やるだけやってみるか? と思った矢先に頭の中の知識が無理だと止めてくる。
「そう怯えないでください。何も取って食うつもりで出たわけではございませんので」
「じゃ、じゃあ……何の用だってんだよ」
 絞り出した声は我ながら情けないものだった。
 吃ってるし、声も震えてる。
 何だよこの体たらくは。
 そう思ったけど、サーヴァントが相手なんだから仕方がないと無理やり自分のプライドを守った。
「誘いに参ったのです」
「……同盟でも組もうってのか?」
 だったら悪いがお断りだ。
 こんな見るからに怪しい奴信用出来るわけがない。
 最悪、一か八かでアサシンを――大して出来のよくない頭を使って思案する。
「いいえ。仮にそう持ちかけたとして、あなた方は拙僧を信じますまい」
「当たり前だろ。鏡見ろよ」
「何も同盟なんて大袈裟なものではありません。ただ……少し手伝っていただきたいだけなのです」
「だから何をだよ! 勿体ぶらないでさっさと話せってんだよ……!」
 精一杯の虚勢を張って先を急かす。
 クソ、助け舟くらい出せよ"おやじ"。
 こういうのは本来あんたの役割だろうが。
「絵をね、描きたいのですよ」
「……はあ?」
「美しくもおぞましく、見る者全てが阿鼻叫喚の渦に堕ちる。そんな地獄の絵を」
 何言ってんだ……コイツは。
 そう思ったのは、どうも俺だけじゃなかったらしい。
 写真のおやじの念話が頭の中に響いてくる。
“田中よ…! 時を見誤るでないぞ……!”
“分かってるよ。流石にそのくらいの分別はついてる”
“わしもわが息子にすぐこのことを知らせる。吉影をこのようなイカれた男と引き合わせるのは、ヒドく心苦しいが……!!”
 そんな俺達の会話をまるで聞いてるみたいにリンボはニヤついていた。
 あからさまに見下した、格下の相手に対する顔だった。
 ジャンル違い野郎が。
 すぐにでもお前の棲家(リンボ)に送り返してやるよ、覚悟しろ。
「フォーリナー、アビゲイル・ウィリアムズ。この名に覚えはありますか?」
「ふぉー、りなー……?」
 一瞬面食らうが、俺の頭には聖杯戦争限定の大事典が入ってる。
 フォーリナーってのは目の前のコイツと同じエクストラクラスだ。
 そこまでは分かったけど、アビゲイルとかいう名前の知識は出てこない。
 ……サーヴァントの真名なのか?
 だとしたらそれをわざわざ俺達に共有して、一体何をしようってんだ。
「金毛の実に愛らしい少女です。しかしその役割も秘めたる可能性も、儂や貴方のサーヴァントの比ではない」
 ああ、埒が明かねえ。
 付き合ってもられねえ。
 俺は右手に意識を集中させる。
 令呪を使って、アサシンを呼び出すためだ。
 正直今は顔を合わせたくないが――こんな状況じゃ仕方ない。
「そのマスターは、世にも美しい"透明な手"を持つ――ンン、彼女のマスターに相応しい金毛の――」
 …、……。
 ……、………。
 ………、…………何だって?
『"透明な手"! きさま今、"透明な手"と言ったのか!?』
「ええ、言いましたが……おや。まさか、お知り合いだったので?」
 透明な手を持つ女。
 スカした小説のタイトルみたいなフレーズだと思ったし、それを探すなんて冗談かと思った。
 アサシンの意向だということで仕方なく従っていたが……まさかこんな形で近付けるとは。
『アルターエゴよ。その女を見つけて……それでどうする気だ』
 おやじの焦りが伝わってくる。
 例の女を殺されることを恐れているんじゃない。
 女を、愛息子以外の手で殺されることを恐れてるんだ。
 それじゃアサシンの性を満たせないから。
「マスターの方に興味はありませぬ故、現状では何とも。欲しいのでしたらお譲りしましょう」
 でもその心配はどうやら杞憂だったらしい。
 コイツの関心はあくまでアビゲイルとかいうサーヴァントの方。
 透明な手を持つ女には、大した興味もないようだ。
「……リンボだっけ? なあ、一つ聞かせてくれよ」
「どうぞ何なりと」
「アンタの話…さっきから抽象的な内容ばかりだ。もっと具体的に教えてくれ」
 地獄を作るのだとコイツは言った。
 それが言葉通りの意味なのかそれとも何かの比喩なのか。
 それすら分からない状態じゃ誘いに乗るも乗らないもない。
 酔いの冷めたアタマは、さっきのが嘘みたいに冷静な判断をさせてくれた。
「恥ずかしながら……実は拙僧の描く絵図、"地獄界曼荼羅"は過去に一度頓挫した企てでして」
 そう言われても、コイツの真名を知らない俺には何の感想も出せない。
 ただ説明好きな質なのか、先を促さなくても勝手に喋ってくれた。
「前回の反省を踏まえて、計画には幾重もの改良を施しておりまする。例えば……」
「いいから結論から言ってくれ」
「……ンン、左様で。では率直に言いますが」
 自分の知らないジャンルの薀蓄をドヤ顔で語ってくる人間ほどウザいものはない。
 いいからさっさと本題を分かりやすく要約して話してくれよと心底そう思う。
「フォーリナー・アビゲイルを真の形へと到達させ、その力を以ってしてこの東京を地獄に変えるのです」
「地獄……って、結局何なんだよ」
「名も知らぬマスターよ。貴方は今、地獄と聞いて何を想像なされた?」
「そりゃ…普通に……」
「貴方が想像したそれもまた拙僧の演出する地獄の一形態です。拙僧が夢見るは、万人にとって共通の地獄絵図」
 リンボが引き裂くような笑顔を浮かべた。
 俺の人間としての本能はガンガン警鐘を鳴らしている。
 やめろ、そいつに近付くな、戻れなくなるぞ。
 ああ、うるせえ。黙れよ。戻れないから何だってんだ。
 もうとっくに戻れねえんだよこっちは。今更なんだよ、全部。
「秩序は崩れ、誰も中庸でなどいられず、誰しもが混沌の中を踊る。そんな地獄を築かせるだけの力が彼女にはあるのです」
 心臓が一際高く脈打った。
 秩序。クソ鬱陶しい社会。
 中庸。クソみたいないい子ちゃんの群れ。
 混沌。俺が辿り着いた一つの結論。
 田中革命のあり方そのものだった。
「誰もかもが道理や規範から解き放たれ、ただもがき喘ぐしかない大地獄! それこそが拙僧の描く絵画、地獄界曼荼羅……その第一候補。アビゲイル・ウィリアムズこそは、銀の鍵の巫女こそは。
 この界聖杯戦争の行く末を決めるに相応しい、偉大な偉大な爆弾なれば!」
「……俺は、何をすればいいんだ?」
「貴方のサーヴァントが望む通りのことをすれば宜しい」
 俺のサーヴァント。
 アサシンが、望むこと。
 そんなの……ああ、そういうことか。
「透明な手の女を殺せば、いいのか」
「然り! アビゲイルが秘める可能性は無限大、しかしてあの娘の精神は子女の域を永遠に出ることはないのです」
 であれば、彼女の中の可能性を呼び起こすには守りたいものを奪ってやるのが一番いい。
 そう言ってリンボは、此処にはいない透明な手の女を嘲笑った。
「名も知らぬマスター。貴方は……混沌を夢見ておりますな」
「……」
「隠さずとも宜しい。見れば分かるのです、貴方のような飢えた目をした御仁には……」
 知った風な口を利きやがって。
 そう怒る気には何故かなれなかった。

「さぞかし――拙僧の詠う地獄が……芳しく見えたのでは?」
『き……きさまッ! これ以上無駄口を叩くな、わしらはきさまを信用したわけではないッ!』
「ンン! これは失礼。そうでしたねえ……そういえば」
 秩序が崩れ、気取った中庸が狂い、結果混沌だらけに染まった社会。
 それを想像した時俺が思ったのは……悪くねえな、という感想だった。
 だってそうだろ?
 固まりきった社会が崩れてどいつもこいつも欲望のままに暴れる世の中、それが地獄だってんならだよ。
 コイツの言う地獄は、俺の革命の道と一致するんじゃあないのか?
 見たい。俺はそう思っていた。
 コイツが言う地獄界ナントカが本当にこの作り物の町を覆い尽くした未来を。
「とりあえず……分かったよ。透明な手の女を探してほしいんだよな」
“簡単に信用するな! おまえには嗅ぎ取れんのか、この男から漂うドブのような臭いがッ!!”
“うるせえよ。コイツが怪しいことなんて一目見れば分かる”
 俺の田中革命はスタートしてすぐに冷や水をぶっかけられた。
 俺には峰津院大和を殺せない。
 あのボンボンに……何一つ苦労せずに生きてきたボンクラ野郎に一泡吹かせることも出来ない。
 じゃあ、どうやったら俺はそういう奴を殺せる?
 考えても分からなかったその答えは向こうからやってきてくれた。
“でもどの道"透明な手を持つ女"は殺すんだろ? それで俺達の得になるイベントが起こるんなら、それは利害の一致って奴じゃねえのか?”
“わしらの得になるとは限らんだろう! こやつの言う地獄がわしらをも巻き込んで広がるものであったならどうするというのだッ!?”
“…うるせえな。最初からそのつもりなんだよ……俺は!”
 面倒なもの何もかも。
 つまらねえ日常ごとブッ壊してくれる地獄絵図。
 このアルターエゴはいけ好かないし気味が悪い奴だったけど、コイツの語るそれは俺にとってあまりにも魅力的だった。
 もし本当にそんなことが出来るんなら、それはとんでもない大革命だ。
 想像しただけで胸が踊る。
“いいじゃねえか……地獄。どいつもこいつも皆、俺と同じ何も持ってないボンクラに堕ちるんだ”
 おやじの咎めるような目も気にならないほど俺は高揚していた。
 今までずっとこの世界には肩透かしを食わされ続けてきた。
 殺したい相手も殺せない。自分のサーヴァントに煮え湯を飲まされる。
 せっかくの革命気分も危うく台無しになるところだったが、ようやくこんな俺にもツキが回ってきたのかもしれない。
 そんな俺のことを見下ろしながら、陰陽師は相変わらずニヤニヤと笑っていた。

    ◆ ◆ ◆

 リンボが語った"地獄"の構想。
 それを聞いて心を踊らせている田中とは裏腹に吉良吉廣が抱いているのは危機感だった。
 リンボと、そして自分達のマスターに対する危機感。
 峰津院の頭取に手を出すと言い始めた時から生まれていた疑念が今確かな形を結んだ。
“この男は、吉影のことを何も理解っておらん……!”
 確かに聖杯戦争に勝利しようと思うなら、周りの競争相手が大勢潰れてくれるに越したことはない。
 だが、リンボの言うところの地獄界曼荼羅とやらはダメだ。
 そのやり方では、吉影の何より愛する平穏無事な日常までもが壊されてしまう。
 聖杯を狙っているのに目先の平穏を優先して守ろうとする姿勢は勿論矛盾している。
 しかしその矛盾も、この歪んだ親子の中では立派な理屈だった。
“とにかく、田中とでは話にならん。"透明な手を持つ女"のことも含めて、吉影に伝えなければ……”
 リンボは既に失せている。
 田中に万一に備えてということで数枚の護符を手渡し、煙のように消えた。
 もしかすると何らかの魔術や法術で生み出された分身で、本体ではなかったのかもしれない。

 平穏で代わり映えしない日常を自ら飛び出した田中。
 そんな日常をどんな手を使ってでも守ろうとした吉良親子。
 両者の間の溝は着々と開き始めていた。


【杉並区・住宅街/1日目・午後】

【田中一@オッドタクシー】
[状態]:吉良吉影への恐怖、地獄への渇望
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:スマートフォン(私用)、ナイフ、拳銃(6発、予備弾薬なし)、蘆屋道満の護符×4
[所持金]:数千円程度
[思考・状況]
基本方針:『田中革命』。
1:敵は皆殺し。どんな手段も厭わない。
2:地獄界曼荼羅……。
3:SNSは随時チェック。地道だけど、気の遠くなるような作業には慣れてる。
4:峰津院大和のことは、保留。その危険度は理解した。
[備考]
※界聖杯東京の境界を認識しました。景色は変わらずに続いているものの、どれだけ進もうと永遠に「23区外へと辿り着けない」ようになっています。
※アルターエゴ(蘆屋道満)から護符を受け取りました。使い捨てですが身を守るのに使えます。

【吉良吉廣(写真のおやじ)@ジョジョの奇妙な冒険】
[状態]:気配遮断、焦り
[装備]:田中一のスマートフォン(仕事用)、出刃包丁
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:愛する息子『吉良吉影』に聖杯を捧げる。
0:吉影の判断を仰がねば……!
1:『透明な手を持つ女(仁科鳥子)』および『白瀬咲耶の周辺』を調査する。
2:田中と息子が勝ち残るべく立ち回る。必要があればスマートフォンも活用する。
3:当分は田中をマスターとして受け入れるが、より『適正』なマスターへと確実に乗り換えられる算段が付いた場合はその限りではない。
4:アルターエゴ(蘆屋道満)に警戒
[備考]
※スマートフォンの使い方を田中から教わりました。
※アサシン(吉良吉影)のスキル「追跡者」の効果により、仁科鳥子の座標や気配を探知しやすくなっています。

    ◆ ◆ ◆

 父からの再びの連絡を聞き終えて、吉良吉影は小さく息を吐いた。
 その姿は彼のことを知らない人間からはどこにでもいる普通のサラリーマンにしか見えないだろう。
 巷を騒がせる女性連続失踪事件の黒幕であるとは思えない平凡さ。
 スキルに後押しされて人々の認知を歪ませながら、街角の殺人鬼は往来の中歩みを進める。
“透明な手の彼女がマスターなのは予想通りだったが……”
 吉影の感知能力は高くないが、それでもサーヴァントだ。
 あの時吉影は例の女から微かながら魔力の残滓を感じ取っていた。
 そうでなくたって、あんな手をしている時点で聖杯戦争と無関係のNPCということは考え難い。
 とはいえそこまでなら別に問題はなかった。
 多少リスクを抱えることにはなるが、自分ならば殺せるという自信があったからだ。
 しかし父・吉廣から伝えられた情報を踏まえると少し暗雲が漂い始める。
 透明な手の彼女が従えるというサーヴァント、フォーリナー。
 そしてそれを利用し、この地上に地獄を具現させようとしているアルターエゴ。
 どちらも吉影にとっては……煩わしいことこの上ないトラブルの種だった。
“考える必要があるな。色々と”
 自分の身の程と折り合いを付けられないクズほどスリル満点な非日常に憧れるものだ。
 田中と一度直接顔を合わせて話し……もとい面談するのはもう必要不可欠だろう。
 でなければいつか本当に取り返しのつかないミスをしでかされかねない。
 そう思いながら吉影は、足の進む方向を変えることなく群衆の雑音の中にその靴音を響かせていった。


【文京区・大通り/一日目・午後】

【アサシン(吉良吉影)@ジョジョの奇妙な冒険】
[状態]:健康、殺人衝動
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数万円(一般的なサラリ―マン程度)
[思考・状況]
基本方針:完全なる『平穏』への到達と、英霊の座からの脱却。
0:ひとまず新宿へと戻る。
1:親父とマスターに合流し、今後の方針について話す
2:『透明な手を持つ女(仁科鳥子)』は一旦保留。フォーリナー(アビゲイル)については要対策。
3:マスタ―(田中)に対するストレス。必要とあらば見切りをつけるのも辞さない。
4:社会的地位を持ったマスターとの対立は避ける。
[備考]
※スキル「追跡者」の効果により、仁科鳥子の座標や気配を探知しやすくなっています。
※仁科鳥子が日暮里周辺に住んでいることを把握しました。

    ◆ ◆ ◆

 誘いに乗ってくるかどうかは五分というところか。
 リンボを名乗るアルターエゴは田中達と別れ、一人そう感じていた。
 サーヴァントの姿は見えなかったが、あのマスターは間違いなく乗り気だった。
 問題は使い魔なのか宝具なのか、彼に付き従うように浮いていた写真の男の方である。
 写真の男は明らかにリンボのことを警戒していた。
 老いた見てくれ通り、田中よりもずっと地に足のついた視点を持っているようであった。
「とはいえ……あれらはあれらで彼女達を狙っていた、というのは嬉しい誤算でしたね」
 リンボの計画はこうだ。
 フォーリナーのサーヴァント、アビゲイル・ウィリアムズを、彼女の真の姿まで再臨させる。
 外なる神に仕える巫女としての力を百パーセント発揮出来る状態まで持っていくのだ。
 そうすれば――そう成れば、この東京を破壊することだって造作もない。
 アビゲイルが持つ可能性は規格外なのだということを、リンボは知っている。
 サーヴァントの限界だの何だのが通用する相手ではない。それは実に好都合なことだった。
“アビゲイル・ウィリアムズを使ってこの東京を超え、界聖杯そのものに干渉させる。それさえ叶えば……ンンン! この界聖杯を新たな空想樹に変えることとて不可能ではありますまい!”
 これこそがリンボの描く絵だ。
 過去一度頓挫した地獄界曼荼羅、その改良版。
 空前絶後の規模と能力を持った界聖杯を母体にすることで、過去最強の空想樹を創り……アビゲイルを新たな神として新生させる。
 とはいえカイドウにも田中にも、聖杯戦争を制圧した後どうするかの部分は教えていない。
 それに、教える必要もない。
 彼らがそれを知る時にはもう何もかもが手遅れなのだから。
“拙僧が描く地獄界曼荼羅――否、窮極の地獄界曼荼羅! ……どうぞご笑覧あれ。皆々様――!”
 力ある者、力ない者。
 力なくとも知恵と人脈で基盤を築く者。
 そのいずれもを嘲笑うように……大禍日の準備は着々と進められていた。


【???・???/一日目・午後】

【アルタ―エゴ・リンボ(蘆屋道満)@Fate/Grand Order】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:???
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:この東京に新たな地獄を具現させる。
0:地獄界曼荼羅の完成に向けて準備を進める。
1:マスタ―には当分従いましょう。今の拙僧はあの幼子の走狗なれば。
2:まさに怪物。――佳きかな、佳きかな。
[備考]
※式神を造ることは可能ですが、異星の神に仕えていた頃とは異なり消耗が大きくなっています。
※フォ―リナ―(アビゲイル・ウィリアムズ)の真名を看破しました。
※地獄界曼荼羅の第一の核としてフォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)を見初めました。
 彼女の再臨を進ませ、外なる神の巫女として覚醒させることを狙っています。


時系列順


投下順



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031:ジャスト・ライク・マリー・アントワネット 田中一 053:奴を高く吊るせ!
アサシン(吉良吉影)
吉良吉廣(写真のおやじ)
030:龍穴にて アルターエゴ(蘆屋道満) 063:まがつぼしフラグメンツ

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最終更新:2023年02月20日 23:43