黒田常道

黒田常道(くろだつねみち)〈1925年9月ー2001年1月〉は、指揮者、音楽家。

来歴

1925年9月、宮城県仙台市出身。陸軍士官学校仙台予科を経て、陸軍軍楽学校に進学。先代予科時代に、先輩との博打で勝ち、現金がなかったために先輩の持っているホルンを金代わりに受け取ったことが、音楽への入口となった。1943年3月に陸軍少尉として軍楽科に配属。陸軍第2軍楽隊に配属され指揮者を務める。1945年の東京大空襲で軍楽隊が廃止され、仙台在郷軍人会業務担当員となる。

音楽の世界へ

1945年8月の終戦後、陸軍軍楽学校校長の田崎時東(陸軍大佐)の仲介で、シンガポール日本軍捕虜収容所で派遣翻訳官となる。黒田は、英語の素養があったわけではなく、日常会話程度しか話せず、筆記については得意ではなかった。当初は、翻訳官ができないと伝えて断っていたが、田崎から「音楽に国境がないことは、君がその生涯を持って伝えていかなければならない」「英語が話せなくても、指揮棒を振るって翻訳官をすれば良い」と押し切って翻訳官に推薦した。母は、「息子は、戦死したと思います」と送り出し、黒田自身もその死に目に会うことは叶わなかった。シンガポールの現地住民に楽器などの指導をする傍ら、指揮者として小楽団を率いた。アメリカ合衆国合衆国軍太平洋南方作戦軍の事務総監であったホーマスト・オエットマンが主催する晩餐会で楽団を率いたことから知遇を得た。ホーマストの旧友で、米国の音楽史家であったレナード・バーンスタインを紹介され、1952年にニューヨークジュラトン音楽学校で指揮を学ぶ。20世紀アメリカ音楽に関心を持ち、音楽史や音楽建築などへも興味の幅を広げた。

日本音楽界の革新派

1957年に帰国の途に就き、日本大学横浜校音楽学部指揮科・客員講師に職を得ると、同大建築学部構造学科・客員講師、公益法人横浜フィルハーモニー管弦楽団客演指揮者などを次々に歴任。
1960年、NHK東京ホール建築委員会委員(音楽構造技術)に就任、1965年よりNHK東京ホール音楽総監督。
1962年から名古屋交響楽団3代目常任指揮者・2代目音楽監督。1985年からNHK交響楽団6代目首席指揮者。
1964年の東京オリンピックでは、開会式の芸術総監督を務めた映画監督村田幹雄の指名で、音楽部門副責任者となる。オリンピック閉幕後には、日本の交響楽団レベル向上を旨として、日本オーケストラ協議会設立に尽力。就任以降、死没まで理事を務めたほか、没後には名誉理事の称号を賜る。
晩年に至るまで、大阪城ホール音楽総監督、名古屋芸術文化センター音楽監督、日本大学学術機構理事、日本大学横浜校音楽学部名誉教授などを務める。客演としては、NHK東京楽団仙台杜の都管弦楽団神戸小楽団大阪室内オーケストラ学園同盟音楽団オーケストラ日本大学全国管弦楽団名古屋交響楽団ふくおか市民オーケストラもりおか市民楽団東京フィルハーモニー管弦楽団で指揮を振るった。

人物

指揮者として

指揮者としての素養は、陸軍軍学学校時代に教官であった松崎多田吉郎に見出され、当時担当楽器であったホルンから転籍する形で指揮を専任する。技術的な熟達は、ニューヨークジェラトン音楽学校と紹介されることが多いが、音楽学校入学時の評価は「先の大戦における我が国(米国)最大の功績は、この男を五体満足で音楽の世界に導けたことである」と残されており、指揮専攻以外も含めて、トップレベルの評価であったことがわかる。

革新派の音楽家

日本帰国後、日本大学横浜校に職を求めたのち、音楽家としては、20世紀アメリカ音楽に注目して、その分野を日本に伝えた。それまで、欧州音楽の懐古に明け暮れていた日本音楽界の新星として注目されたが、その評価はメディアによってなされたもので、専門家の間からは不平不満を買っていたとされる。NHKで長い間その職を得ることができたのも、メディアでの評価が高かったからに他ならない。没するまでに、NHK出版社を中心に多数の著書を発表しており、そのほとんどは、日本の音楽史におけるアメリカ音楽の必要性を謳ったものである。

指導者として

音楽指揮の指導には、必ずしも定評があったと言えず、日本大学横浜校の在職中も、熱中したのはアメリカ音楽史や音楽構造建築の分野であった。同世代の有名指揮者である平松洋太郎遠藤昴などが、個人塾で後世の有名指揮者を輩出したのに比べると、音楽界への貢献が高かったとは評価されていない。しかし、日本大学横浜校時代の教え子で、NHK東京楽団などで活躍した古森琢彦は、黒田のことを「生涯ただ1人の師」と述べており、黒田自身も師匠であることを認めている。

天皇陛下への敬愛

陸軍士官学校仙台予科への進学は、学費捻出に苦しむ母子家庭ゆえであった。そのため、入学後も職業軍人とい道を一つの選択肢程度としか考えておらず、学費全額免除の基準となる10年間の勤務を終えた後、退官する心づもりであった。しかし、陸軍軍学学校への行幸で、天皇陛下個人への敬愛が育まれることとなり、個人的敬愛を生涯贈ることとなる。1988年には、NHK交響楽団首席指揮者として、「御前コンサート」での指揮を経験。天皇陛下と言葉を交わしたのち「より一層の敬愛の情が湧いた」と述壊している。没後、勲三等菊花大綬章を下賜されており、弔問客として、勅使が派遣された。
最終更新:2025年09月28日 20:50