黒田常道(くろだつねみち)〈1925年9月ー2001年1月〉は、指揮者、音楽家。
来歴
音楽の世界へ
1945年8月の終戦後、
陸軍軍楽学校校長の
田崎時東(陸軍大佐)の仲介で、
シンガポールの
日本軍捕虜収容所で派遣翻訳官となる。黒田は、英語の素養があったわけではなく、日常会話程度しか話せず、筆記については得意ではなかった。当初は、翻訳官ができないと伝えて断っていたが、田崎から「音楽に国境がないことは、君がその生涯を持って伝えていかなければならない」「英語が話せなくても、指揮棒を振るって翻訳官をすれば良い」と押し切って翻訳官に推薦した。母は、「息子は、戦死したと思います」と送り出し、黒田自身もその死に目に会うことは叶わなかった。
シンガポールの現地住民に楽器などの指導をする傍ら、指揮者として小楽団を率いた。
アメリカ合衆国の
合衆国軍太平洋南方作戦軍の事務総監であった
ホーマスト・オエットマンが主催する晩餐会で楽団を率いたことから知遇を得た。ホーマストの旧友で、米国の音楽史家であった
レナード・バーンスタインを紹介され、1952年に
ニューヨークジュラトン音楽学校で指揮を学ぶ。20世紀アメリカ音楽に関心を持ち、音楽史や音楽建築などへも興味の幅を広げた。
日本音楽界の革新派
人物
指揮者として
指揮者としての素養は、
陸軍軍学学校時代に教官であった
松崎多田吉郎に見出され、当時担当楽器であったホルンから転籍する形で指揮を専任する。技術的な熟達は、
ニューヨークジェラトン音楽学校と紹介されることが多いが、音楽学校入学時の評価は「先の大戦における我が国(米国)最大の功績は、この男を五体満足で音楽の世界に導けたことである」と残されており、指揮専攻以外も含めて、トップレベルの評価であったことがわかる。
革新派の音楽家
日本帰国後、
日本大学横浜校に職を求めたのち、音楽家としては、20世紀アメリカ音楽に注目して、その分野を日本に伝えた。それまで、欧州音楽の懐古に明け暮れていた日本音楽界の新星として注目されたが、その評価はメディアによってなされたもので、専門家の間からは不平不満を買っていたとされる。
NHKで長い間その職を得ることができたのも、メディアでの評価が高かったからに他ならない。没するまでに、
NHK出版社を中心に多数の著書を発表しており、そのほとんどは、日本の音楽史におけるアメリカ音楽の必要性を謳ったものである。
指導者として
音楽指揮の指導には、必ずしも定評があったと言えず、
日本大学横浜校の在職中も、熱中したのはアメリカ音楽史や音楽構造建築の分野であった。同世代の有名指揮者である
平松洋太郎や
遠藤昴などが、個人塾で後世の有名指揮者を輩出したのに比べると、音楽界への貢献が高かったとは評価されていない。しかし、
日本大学横浜校時代の教え子で、
NHK東京楽団などで活躍した
古森琢彦は、黒田のことを「生涯ただ1人の師」と述べており、黒田自身も師匠であることを認めている。
陸軍士官学校仙台予科への進学は、学費捻出に苦しむ母子家庭ゆえであった。そのため、入学後も職業軍人とい道を一つの選択肢程度としか考えておらず、学費全額免除の基準となる10年間の勤務を終えた後、退官する心づもりであった。しかし、
陸軍軍学学校への
行幸で、
天皇陛下個人への敬愛が育まれることとなり、個人的敬愛を生涯贈ることとなる。1988年には、
NHK交響楽団首席指揮者として、「御前コンサート」での指揮を経験。
天皇陛下と言葉を交わしたのち「より一層の敬愛の情が湧いた」と述壊している。没後、
勲三等菊花大綬章を下賜されており、弔問客として、
勅使が派遣された。
最終更新:2025年09月28日 20:50