スコットメン・秋吉〈1873ー1934〉は、外国人実業家。明治大正時代に日本における、自動車産業の重要人物である。
来歴
1873年、米国オクラホマの農家の息子に生まれる。子供のころから、農夫である父や叔父とともに周辺農家のトラクター修理などに明け暮れる日々を過ごした。当時のトラクターは、開発されたばかりで非常に高価であり修理を必要とするものであった。叔父は、米国のトラクターシェアでトップを独走していた
センチュリーモーターズのエンジニアで、地域産業に影響力を持つ地元の名士であった。自らも、20歳を超えたあたりからセンチュリーモーターズでエンジニアとして働くことになった。1895年、オクラホマ地区工学校に入学。機械工学の基礎理論を学び、半年後に退学。翌年から
カリフォルニア州立大学バークレー校にて機械工学を専攻する。当時の世界の最先端は、バークレーにあるといわれるほどの名門校だった。1901年、UCバークレーを卒業。センチュリーモーターズの整備工部長として技術監督の最高責任者を務める。
1915年、
商工省製造局の専属顧問技術者として来日。日本の機械産業を新しい段階へと昇華させた。1920年、センチュリーモーターズ極東総支配人に就任。日本の名門財界人である
富岡正二郎(
天宮商会不動産部理事官)、
福屋新城(
白瀬財閥薬剤流通部社長)などと深い交流を持つ。センチュリーモーターズが開発した世界初の民間向け自動車である「
レガーⅠ」を100台以上日本国内に流通させた。日本に自動車をもたらした張本人であるが、その姿は陰に隠れたままとなった。
第1次世界大戦の戦後景気によって自動車はある程度流通したが、その量は圧倒的に少なかった。1930年以降、センチュリーモーターズ極東総支配人を退いて、日本とアメリカを往復する日々を送る。1934年、太平洋航路上で肺結核のため死去。亡骸は、太平洋に流された。
最終更新:2025年03月06日 17:47