富岡正二郎(とみおかしょうじろう、1845年8月-1917年3月)は、日本の
財政家、
銀行家。明治・大正期における、日本財政権力最高権力者。
来歴
1845年8月、大阪(現
大阪府)出身。大阪で長らく貸金業者や薬屋として莫大な富を得た父は、後世において
白瀬財閥の機関投資部門を担当し、さらなる高みに手を届かせた。父は、学こそなかったが学問の世界に造詣が深く、正二郎の学問的な素養を下支えした重要な人物である。
1856年以降、
大阪文庫基礎科(3年)、大阪文庫附属法科学校(2年)を経て、
湯島大学校(4年)で学ぶ。湯島大学校在学中の1865年1月より、
国費留学生(第5次)として欧州へ留学。
イギリスの
ウェールズ銀行・
ロンドン銀行にて財政運用や金融制度を学ぶことになる。2年間の留学の後、大阪文庫附属法律学校助教授(日英比較法・国際財政法)として、大阪に身を固める。
1868年、府立貿易勧業銀行(1880年より、
大阪勧業銀行に改称)へ入行。財政の全権を預かる財政主幹や資金運用の全権を握る運用主幹といった幹部を歴任。1885年から頭取に就任。1890年以降、
衆議院諮問委員・内閣顧問などを兼務。1897年には、
大蔵大臣(
大場内閣)として初入閣。続く
柏内閣では、
商工大臣の打診を固辞したため、官立の政府系企業で高級幹部を歴任する。
立石内閣・
宇井内閣において、
大蔵大臣として再び入閣。
原田宗次郎(
商工大臣)とともに、
官営企業の再編や緊縮財政による小さな政府の実現を財政家として目指すことになった。1913年8月に没した、
原田宗次郎を生涯をとした盟友とした。以降、
浅見武の後見人を務める。
1917年3月、長らく患っていた肺結核によって逝去。
経歴
1859 |
3 |
大阪文庫基礎科卒業 |
1861 |
3 |
大阪文庫附属法律学校卒業 |
1865 |
1 |
国費留学生(第5次) |
|
3 |
湯島大学校卒業 |
1867 |
1 |
大阪文庫附属法律学校助教授(日英比較法・国際財政法) |
1868 |
4 |
府立貿易勧業銀行入行 |
|
|
財政副主幹 |
1870 |
4 |
理事・頭取室長 |
1874 |
4 |
財政主幹 |
1879 |
4 |
運用主幹 |
1884 |
4 |
理事・副頭取 |
1885 |
4 |
頭取 |
1890 |
4 |
衆議院諮問委員・内閣顧問 |
1893 |
12 |
福岡内閣財政顧問 |
1897 |
1 |
大蔵大臣(大場内閣) |
1910 |
5 |
大蔵大臣(立石内閣) |
1912 |
8 |
大蔵大臣(宇井内閣) |
1917 |
3 |
逝去 |
役職歴
1905年-1910年
- 官営大阪セメント(大阪製作所)理事長
- 官営加古川製鋼所(大阪製作所)理事長
- 官営明石水産加工所(兵庫水産)理事長
- 官営宝塚紡績所(近江紡績宝塚)理事長
- 官営播磨化学工作所(近江新播磨工学)理事長
- 官営阪南航空工学加工所(大阪製作所)財務理事
- 官営阪南造船工学所(近江造船大阪)財務理事
1913年-1916年
最終更新:2025年06月25日 14:39