水田一哲

水田一哲〈1887.12ー1955〉は、日本の軍人。

幼少期

1887年、長崎県出身。7歳(1894年)の時に、父の水田桐が東京の第1師団長に配属を受けたため上京。小学校高等科を経て、1903年4月陸軍士官学校の第15期生として入学。陸軍砲兵科の将校教育を受け、父と同じ陸軍軍人の道を志す。1906年3月、陸士15期卒業。

陸軍将校

「陸軍砲兵少尉」として、第7師団第3重砲兵連隊の副小隊長に配属。1909年1月1日付で「陸軍砲兵中尉」に昇進、小隊長に任官した。1911年4月、設立されたばかりの国防大学校に試験を経て入学。1914年3月、防大1期。在学中の成績は良いほうではなかったが、何とか栄誉を得ることとなった。卒業後、神戸に新設された第14師団第8重砲兵連隊小隊長としてシベリア鉄道戦争に派兵。派兵中の1914年8月1日付で「陸軍砲兵大尉」へ昇進。1918年4月、参謀本部第3部ロシア課に配属。1919年、「ウィーン条約」を締結する日本政府代表団に選任され、ウィーンの地に渡る。条約締結後、在オーストリア日本大使館駐在武官補として在勤。

留学

1920年4月、「陸軍砲兵少佐」に昇進。イギリスドイツで軍隊組織や砲兵戦のシステム構築を学ぶことになる。当初は、英国の陸軍士官学校に入学する予定であったが英国人以外の入学が例外なく認められなかった。そのため、英国陸軍の組織担当参謀などを務めた軍事史家のコーリー・エストニアの私邸で軍隊組織を学ぶことになった。この学びは、後の日本軍隊組織につながることになる。1923年3月、帰国船の中で「陸軍組織の変遷」を執筆して、英国やドイツにおける陸軍組織の混在化など負の側面を洗い出した。1923年5月、参謀本部第1部組織編成課に配属。日本の陸軍組織について研究を行う。1928年1月1日付、「陸軍砲兵中佐」へ昇進。第3師団第1重砲兵連隊連隊付、翌々年から、第1重砲兵連隊副連隊長に任官。1930年4月、弘前の第12師団第1雪上砲兵連隊副連隊長に配属、日本初の本格的な雪山作戦に対応した作戦組織を作った。1932年1月、参謀本部第6部寒冷地軍備研究課に配属。同年8月1日付で「陸軍砲兵大佐」へ昇進、時に50歳であった。昇進とともに、参謀本部第6部寒冷地軍備研究課長に就任。翌1933年1月1日付、参謀本部第1部組織編成課長に就任。
1934年8月、「陸軍高官アクラマカン事件」の中、火の粉を浴びないように野本武一参謀副長の配慮から在エジプト日本大使館駐在武官としてエジプトに渡る。1936年1月の「自主軍事宣言」に伴い帰国。参謀本部第3部嘱託などを務めた後、1936年8月1日付で「陸軍少将」へ昇進、第3部副部長に就任する。1939年1月の第2次世界大戦開戦前夜に釜山特務機関機関長に就任。その後、大戦の最中、南京特務機関長、参謀本部第6部副部長、第4師団副師団長、第1軍兵務参謀と歴任。1944年1月1日付で陸軍中将へ昇進し、参謀本部第3部長、参謀本部特務部長。1945年1月から、原子爆弾計画委員会委員長に就任。1945年8月の終戦により、職責を退き参謀本部第3部長に就任。

戦後

1946年1月1日の「武装解除令」の草案起草を担当した。翌年の1月には、大本営近代化本部本部長に就任、軍事リベラル派の中核となる。1952年1月、統合参謀会議の構成員となったため「大将」へ昇進。1955年3月に退官。翌々月に没する。
最終更新:2025年04月21日 20:57