来歴
父の
相山博親が
北海道大学旭川分院分院長を務めていた、1915年8月に
北海道旭川市で生を受ける。その後、父の
北海道大学への帰任を機に、
札幌市に家族で移る。祖父の
相山久秀は、共生社会学者として、
東京大学・
カルフォルニア大学オークランド校で教授を歴任した。1938年に
北海道大学法学部を卒業後、
NHKにアナウンサーとして入社。ラジオ実況、ラジオ速報のアナウンサーを長らく経験し、1947年よりNHK北海道放送局に配属。「
北の夜汽車」のメインパーソナリティーとなり、「北海道の夜の顔」として注目を浴びるようになる。
1956年4月、
北海道文化放送株式会社へ転勤。報道局アナウンス部次長に就任。アナウンサー教育に力を注いだ。1963年から、
東京五輪の開催に合わせて、東京に臨時に設置された五輪特別センターのトップに就任。五輪の終幕後、アナウンス部長に就任。
1970年の親会社変更により、新設された人材研修センター長に就任。1972年に取締役へ昇格。報道部門の最高責任者となる。メディア路線への転換を目指していた「HCB」の中で、報道メディアとしての地位を確立するため、「北辰ニュースライン」を主導(1975年放送開始)。1977年から人材研修センター長を兼務。1981年3月に65歳定年制設置に伴い退職。
経歴
1938 |
3 |
北海道大学法学部 |
|
4 |
NHK入社・アナウンサー枠 |
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アナウンス部 |
1944 |
4 |
アナウンス部速報長 |
1945 |
10 |
報道部 |
1947 |
4 |
NHK北海道放送局報道部 |
1950 |
4 |
「北の夜汽車」メインパーソナリティー |
1956 |
4 |
北海道文化放送株式会社・転属 |
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報道局アナウンス部次長 |
1960 |
4 |
報道局東京支局アナウンス室長 |
1962 |
4 |
報道局東京支局統括・アナウンス室長 |
1964 |
4 |
放送局東京支局統括 |
1964 |
10 |
五輪報道特別センター長(臨時併任) |
1965 |
1 |
報道局アナウンス部長 |
1965 |
4 |
報道局アナウンス部長・社長室秘書課長 |
1969 |
4 |
報道局アナウンス部長 |
1970 |
4 |
人材研修センター長 |
1972 |
4 |
取締役・報道局長 |
1975 |
4 |
「北辰ニュースライン」初代プロデューサー(併任) |
1977 |
4 |
取締役・報道局長・人材研修センター長 |
1981 |
3 |
退職 |
最終更新:2025年05月17日 15:37