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極盛会

極盛会(きょくせいかい)は、日本の暴力団。関東以北の東日本に中核的な拠点を擁し、国際的な商取引にも関与する「広域指定暴力団」である。

概要

「博徒・的屋」系の出身で、東日本を中心に展開した組織である、初代会長五十嵐小平は、東京の博徒稼業で莫大な私財を蓄え、歌舞伎町を中心に商圏を展開した。現在でも、初代会長の系譜である五十嵐宗家の血筋を最重要視する。

組織

  • 会長
  • 副会長
  • 会長代行
+ 会長室
会長室
  • 会長室長
  • 会長室長代行
  • 会長室副室長
+ 若頭(会長のおやこ)
若頭
  • 若中
  • 若中補佐
  • 若衆頭
  • 若衆
+ 統括本部
統括本部
  • 統括本部長
  • 統括本部長代行
  • 統括本部長代行代理
  • 統括副本部長
  • 統括副本部長代行

  • 本部長
  • 本部長代行
  • 本部長補佐
  • 副本部長

  • 第一管区(北海道)
 ・第一管区長
 ・第一副管区長
  • 第二管区(東北)
 ・第二管区長
 ・第二副管区長
  • 第三管区(北関東)
 ・第三管区長
 ・第三副管区長
+ 舎弟頭(会長の兄弟)
舎弟頭
  • 舎弟
  • 末舎弟(会長の末弟)

歴代会長

1:五十嵐小平(1947年~1955年、五十嵐組初代組長、五十嵐宗家総長、五十嵐屋出身)
2:松尾利八郎(1955年、松尾組初代組長、五十嵐組出身)
3:金山五郎 (1955年~1960年、金山組初代組長、五十嵐組出身)
4:伊東蔵十 (1960年~1980年、伊東一家2代総長、五十嵐組出身)
5:大高團  (1980年~1992年、関東総連3代総長、総連出身)
6:向田はいり(1992年~2009年、片桐組4代組長、同門会2代会長、片桐組出身)

1次団体

五十嵐宗家 1955年~ 五十嵐小平は、初代会長
五十嵐屋 三浦市の関東三大博徒
五十嵐組 1938年~ 五十嵐小平は、初代組長 五十嵐屋の拡大で設立
伊東一家 1944年~1999年 伊東金彦は、小平の弟 上位4団体
華健組 1947年~ 深浦東は、小平の弟 六奉行・上位4団体 1980年破門
関東総連 1948年~ 谷口正樹は、小平の弟で関東岡本会破門
松尾組 1949年~ 松尾利八郎は、小平の弟で2代会長 三老中・上位4団体
岡本組 1950年~1980年 岡本利左は、小平の弟で関東岡本会出身 三老中・上位4団体 伊東襲撃事件で解散
山内組 1951年~ 山内利斉は、小平の弟 六奉行・三極戦争
金山組 1949年~ 金山五郎は、小平の子で3代会長 六奉行
池田組 1949年~ 池田相範は、小平の子 三老中 1980年破門
加納一家 1958年~1962年 加納剛蔵は、小平の子 1961年破門
岡組 1960年~ 岡和田新右衛門の子、関東総連出身
片桐組 1953年~1980年 片桐勝本は、利八郎の子 六奉行・三極戦争 伊東襲撃事件で解散
松平組 1953年~1980年 松平美保は、五郎の子 六奉行・三極戦争 伊東襲撃事件で解散
稲垣組 1955年~1976年 稲垣弥助は、五郎の子 六奉行
羅門会 1958年~1982年 五郎の子 1980年破門
島津組 1958年~1979年 島津矢哉子は、蔵十の子
林組 1961年~1977年 林行平は、蔵十の子 内紛で解散
新玉木会 1963年~ 玉木豊佳は、蔵十の子で玉水会出身
植松組 1968年~1990年 植松太郎は、蔵十の子
玉水会
極同会 1986年~ 山本新保は、團の子で片桐組出身

来歴

1870年以降、東京遷都の後に東京都が形成される。東京都の成立後、繁華街を中心に「博徒」産業が拡大すると、それらを取り纏める組織が乱立。横浜市の池澤屋、川崎市の角田屋とともに関東三大博徒として知られていたのが、三浦市を中心に勢力を伸ばしていた「五十嵐屋」であった。1900年代以降、神奈川県として、新たな行政区分に組み込まれると、これらの関東三大博徒が東京都に新たに進出することになる。
1919年の第1次世界大戦終戦以降、「五十嵐屋」の若親分として頭角を現してきた五十嵐小平が「マネー・パワー」を背景に関東近辺の賭場を吸収。1920年代には、「角田屋」「池澤屋」といった名門博徒の勢力圏に乗り込み、一時的な抗争にも発展。1930年代の前半には、歌舞伎町を中心とした「博徒・的屋」稼業を展開。この時期には、暴力団としての機能が成立した。戦時中も、活動自体は継続していたが、軍の影響が強くなっていたため地下に潜る形となっていた。1945年8月の終戦以後も、歌舞伎町を中心とした「博徒・的屋」稼業は継続された。
設立
1947年、五十嵐組を立ち上げた五十嵐小平は、関東一円の広大な支配力をもつ「極盛会」を設立した。若頭の池田相範と舎弟頭の松尾利八郎の間で跡目争いが勃発。北関東一円を勢力下とした池田組と、南東北中心に勢力を伸ばした松尾組間での紛争の中、小平による「関東仕置」によって池田組の勢力は急激に低下する。小平は、関東の暴力団勢力を再統一する目的でそれぞれの縄張りを再編する「関東仕置」を勧めた。1955年に、五十嵐小平が自ら生前退位することを表明して初代会長を退くこととなった。この後、小平は、極盛会の中枢勢力となる五十嵐宗家を興して最高顧問の地位に退くこととなる。跡目争いには、小平の弟分にあたる舎弟頭の松尾利八郎が就くこととなる。2代会長の松尾利八郎は、自身に敵対的な勢力であった岡本組山内組池田組の3団体に距離を置かせるために中枢からの役職外しを進めるも、その過激さゆえに3か月後正体不明の夜討ちにあった。
松尾利八郎の夜討ちの後、舎弟頭の金山五郎、統括本部長の板倉新八、会長室長の伊東蔵十の三者争いがあったのち、伊東が金山支持に回ったために3代会長に金山五郎が就任することとなる。金山会長による支配は、五十嵐小平最高顧問による実質的な五十嵐支配により成り立っていた。政の中心にあった五十嵐小平は、1957年に上位4団体をきめる「五分兄弟盃」を酌み交わすことになる。統括本部長の岡本久美、舎弟頭の伊藤健也、副会長の山田和也、会長室長の伊東蔵十の4名が極盛会の中心を担うこととなる。
1960年、3代会長の金山五郎加納一家小松剛一若頭によって討たれたのち、華健組伊東一家連合と加納一家の抗争に突入し、2か月の後、加納一家は壊滅寸前となる。

五十嵐支配からの脱却

加納一家との抗争で名を挙げた伊東蔵十は、華健組山田和也を副会長に留意させることで、4代目会長を襲名。1961年には加納一家を破門とした。同年、極盛会の精神的支柱とされてきた五十嵐小平が没する。これにより、山内組片桐組松平組間での「三極戦争」が勃発。蔵十は、内部分裂を避けるために、勢力が弱体化していた池田組から、三者に縁のある池田頼本を会長代行に起用して戦争状態の鎮静化を進めた。この後、1960年代後半には、三老中の池田組岡本組松尾組と六奉行の山内組松平組片桐組稲垣組金山組華健組を中心とした9人体制による政治的安定を図った。1970年代になると、三老中が、それぞれ会長代行、統括本部長、若頭を務めたことで六奉行の権力が弱体化したかに思われていた。しかしながら、華健組を除いた五奉行が、関東総連に近づいたことで、事態は大きく変化する。1976年に、後継者不在という名目で稲垣組が畳まれると、大高組に吸収されたことで事態が急速に進展する。
1980年、「伊東襲撃事件」と呼ばれた、羅門会谷克也による伊東蔵十4代会長襲撃により、後継争いが表面化する。三老中筆頭とされた池田組と反総連を意識していた華健組が連合を組み、関東総連との抗争状態に陥る。これに付き従う形で、総連に金山組山内組松尾組が呼応する。この抗争は、「岡山30日抗争」と呼ばれる。また、伊東襲撃事件の責任を取る形で、若頭の岡本組、統括本部長の片桐組、会長室長の松平組がそれぞれ解散となった。

総連支配の時代

伊東襲撃事件、岡山30日抗争を経て、統括本部長代行の大高團が、極盛会5代会長を襲名。これ以降、没する1992年までに総連による支配体制は確実のものとなっていく。大高5代会長は、自身に反発してきた池田組華健組を破門。さらに、伊東前会長を襲った羅門会も破門として処分し、五十嵐宗家から副会長の五十嵐金治郎を呼び出す強硬手段をとった。また、総連に呼応した金山組山内組松尾組岡組を中心とする「四社会」を設立。後、1986年に山本新保が興す極同会につながっていく。
最終更新:2026年08月30日 09:49