伊東蔵十

伊東蔵十(いとうくらとお)は、日本の暴力団組長。極盛会4代目組長、伊東一家2代目総長、伊東組2代目組長。

来歴

1921年生まれ。詳細な期日は不明。生後数か月で、神奈川県の寺に預けられた。少年時代から悪童として知られており、10代になると的屋に出入りする。
的屋で知り合った、兄貴分のような存在である池田相範(五十嵐屋)の仲介を受けて、1940年ごろには五十嵐組部屋住みへ。部屋住みを数年経て、五十嵐小平と親子盃を酌み交わす。1944年には、兄貴である伊東金彦の誘いを受けて、自身も「伊東姓」へ改称。伊東一家の旗揚げに参加。

伊東一家2代目総長

1946年、伊東一家二代目総長へ就任。以降5年間は精力的に活躍。多くの親子盃を交わすことになる。後の極盛会の中枢である植松太郎(植松組初代組長)、林行末(林組初代組長)の二名。加賀谷宗六介(極盛会統括本部長代行・華健組四代組長)が特に著名。1947年の極盛会旗揚げに参加。会長室長代行・若頭補佐を兼務。盟友伊藤健也とともに若頭補佐を務める。若頭には、池田相範という兄貴分がついた。1950年に伊東金彦が没し、依願して会長室長代行を専任。極盛会の一次団体として最大の勢力を誇る。
1955年、極盛会最高顧問となった五十嵐小平の勧めから会長室長へ就任。同年に没した松尾利八郎の後継候補とされるも、年齢を理由に辞退。大兄貴である舎弟頭の金山五郎(金山組組長)をバックアップする。1957年、極盛会の上位4団体の代表者として五十嵐小平と五分兄弟盃を交わす。1960年、金山五郎小松剛一(加納一家所属)の襲撃に遭い死没。極盛会副会長の山田和也が怒り、華健組伊東一家加納一家を壊滅寸前まで追い込む。加納一家は、五十嵐小平の親子関係である加納剛蔵が率いていたが、その後極盛会の門を離れる。

極盛会4代目会長

加納剛蔵の厳罰を強硬に主張した山田和也とともに金山五郎を追悼。極盛会4代目会長に就く。傘下で特に勢力を持っていた山内組松平組片桐組稲垣組金山組華健組の6団体組長を「6奉行」、古豪で名門の池田組岡本組松尾組を「3老中」として9名を中心に政治を担った。植松太郎に独立を勧めて、植松組の最高顧問。
金山組3代目組長の人選に関して、金山五郎の愛弟子であった竜巻信一郎(後に極盛会統括本部長代行)を推薦。1977年には、林組林行末組長(極盛会若頭補佐)が内紛の中で逝去。林組が解散状態になり、自身の責任問題として林組の構成員を伊東組に移籍させた。この背景から伊東組2代目組長に就任する。1980年、関東総連元構成員で羅門会構成員の谷克也に夜討ちに遭い植物状態となる。この年、松平組片桐組岡本組が解散。極盛会で中心的な権力を握っていた中核勢力が次々と崩壊。極盛会会長の権力を欲しがる関東総連華健組池田組連合によって「花輪抗争」が勃発。抗争で最初の犠牲者となった岡本組元若頭の花輪幸三は、抗争名の由来となったが、伊東と親子盃を交わした元親子でもあった。最終的に、会長の座は関東総連3代目総長の大高團が継承。極盛会内部での伊東一家及び伊東組の勢力が弱体化する。
1982年に逝去。

役職歴

最終更新:2025年06月19日 23:19