山田誠一

山田誠一(やまだせいいち、1943年10月-2020年8月)は、日本人のレーシングドライバー。日本人初のF1ドライバーF-JAPANレーサー。
「ミスター」「ミスター山田」「雨男」などの異名を持つ。

来歴

レーサー以前

1943年10月、職業軍人の父の下、山梨県富士市で生まれる。幼いころに父が復員してから、父は地元の小さな電気店を開業。父は常々、「自動車レーサー」へのあこがれを吐露していた。山梨県立富士高等学校を卒業後、1962年4月に富士トラック株式会社へ入社。入社後一年間の社内教育を経て、認定整備士となる。社内の整備士として活動していた傍ら、F1の世界に関心を持ち始める。1964年、仕事のために渡米していた先のアメリカで開催された、F1アメリカGP(サーキット・オブ・アメリカ)を初観戦。自動車レースに関心を持った誠一は、親会社の富士自動車が参加を表明し、社内で募集していたF-JAPANのドライバー公募に応募した。身体審査では、「色弱の疑い」とされていたが、疑似レースで全体2着を獲得したため、サポートドライバーとして合格することになる。

F-JAPAN

1965年に日本初のモーターレースとして開催された「F-JAPAN」で、富士自動車チームのメインドライバーだった伊東隼太(富士自動車チーフテストドライバー)が、本選当日に高熱を患ったため急遽代役として出走。ポールポジションのまま、1度も抜かさなかった天宮レーシングの室田颯斗が全体1位を獲得。しかし、このレースの主役となったのは、予選9位からごぼう抜きで全体2位を獲得した誠一の方だった。初年度は、1回きりだったレースであるが、経済的効果をもくろんだ主催者側によって年8レースを行うリーグ戦が展開される。
翌1966年には、チームフジの代表ドライバーとして1年間を通じて活躍。この年、年間3度のチャンプに輝き、「初代年間チャンプ」を獲得する。この年、初めて1位を獲得したのは、富士モーターパークで開催された第3回だった。このサーキットは、富士自動車株式会社がF-JAPANの開催を目指して急ピッチで建設し、完成後も100%出資をして運営していた。念願の初レースであり、誠一自身にとっても、地元で初の勝利を目指すものだった。このレースは予選から小雨が降り続き、本選でも空模様が変わらないウェットコンディションとなった。誠一は、予選から快調に走って自身2度目のポールポジションを獲得。本選では、後方のクラッシュに目もくれず、2位以下を大差で引き離す初勝利となった。
1967年には、年2度のチャンプに輝きシーズン2位でフィニッシュする。日本での5勝中、4度の勝利が雨の中だったことから「雨男」の異名を取ることになる。

F1国際招待競走

1967年10月、F1の母体である国際自動車協会は、日本でのレース開催実績を評価して、三度目のF1国際招待競走をアジアで初となる日本での開催を決定した。F1に参戦していたコンストラクター6チーム(全12チーム中)が参戦を表明。F-JAPANの開催サーキットでもある伊勢志摩グランプリ・リンクで開催された競争は、F1と同様に各チームが2台を参戦させる。日本からも、石曜レーシングチームフジが参戦(全11チーム、22車体)。予選から、ウェットコンディションだったもののF1チームの強さが光って、全体10位で予選フィニッシュ。本選は、雨が続いて出走が3時間遅延。しかしながら、雨男の異名が光り、レース中盤から怒涛の追い上げを披露。レースの終盤には、ブラウニング・アスコットマキアーノ・アルペニオン(1964年F1ドライバーズ・チャンプ)と4位争いを演じ、遂にはピット戦で4位を独走。当時F1界最年少だったマルジャーノンエルパーカー・サプライアス(生涯3度のF1ドライバーズ・チャンプ)に追い込みをかけるほど肉薄した試合を演じた。最終的には、表彰台には届かなかったもののマルジャーノンキャッシュマン・ペイGMが「ミスター田中が、F1のレーサーでないことは、世界のモースポーツにとって不幸なことだ」と手放しで絶賛した。

F2参戦

1968年3月、F-JAPANの経営母体でメイン出資者の東神ゴム工業株式会社が東神ゴム粉飾決算事件の発覚によって経営破綻。他の自動車関連企業も名乗りを上げることができなかったため、大会と各参加チームは2年間の休眠状態に入る。誠一は、キャッシュマン・ペイ(マルジャーノンGM)の推薦を受けて、マルジャーノン傘下のF2チームへ参加が叶う。F2チームは、8名の選手が2名ずつ4戦を戦い、最終的な予選3位までの12名が本選を競うことになる(ポールポジションは、最速選手)。つまり、1つの「F2GP」において予選4走と本選1走が行われる体制となっていた。当時のマルジャーノンF2は、後にF1レーサーとなる3名の選手を抱えており、誠一もその中に入った。誠一は1968年シーズンで、24戦中に3度の本選出場を飾り、23戦目のF2モナコGP(モナコ市街地コース)で初の本選表彰台を飾る。この当時、F2での表彰台は、アジア人で初めてのことであった。翌1969年シーズンでは、アジア人差別によってチーム内不和が生まれた1年目と大きく異なり、全24戦中、16度の本選出場という異次元の成績を残した。3選目、8選目、9選目で表彰台を獲得すると、17戦目のF2南太平洋GP(サザンヒル・スピードウェイニュージーランド)で、当然アジア人として初のF2本選勝利を飾った。続く18戦目のF2イタリアGP(アドリア・ランナウェイ)でも本選勝利に輝く(2戦続けてのF2本選勝利は、3人目)。この年、F2シーズン・チャンプとして、コンストラクターとともに表彰を受ける。

F1参戦初年度・1970年F1選手権

1970年1月、キャッシュマン・ペイ(マルジャーノンGM)は、2年連続でコンストラクター・チャンプに遠く及ばない現状(1968年11位・1969年10位)を踏まえて「血の入れ替え」を断行。1960年のF1ドライバーズ・チャンプであったアキノン・モリアーノを引退させて、チームサブディレクターに移動。空いた枠に、マルジャーノンF2の活躍が光った、誠一とオリアント・ペグニオンを昇格させた。F1参戦後、5戦目のF1キエフGP(ドニエプル・スピードリンク)で、アジア人として初めてのレース完走(全体17位)を達成。8戦目には、ウェットコンディションとなったF1モナコGP(モナコ市街地コース)で、「雨男」の異名を発揮し、自身初の1桁フィニッシュ(全体7位)を達成。最終戦となった13戦目のF1イングランドGP(ブラウンズヒル・リンク)では、開催延期となるほどの予選からの豪雨を乗り越えて、雨天のなか全体5位でフィニッシュ。この年、全戦を通じて出場を果たし、アジア人初のF1フルタイムドライバーとなる。1970年シーズンで、コンストラクターとして8位へランキングアップしたものの、GM責任となり、キャッシュマン・ペイが解任される。
  • 年間ポイント:15pt(14位)

1971年F1選手権

1971年1月に、マルジャーノンの新GMとなったオーリー・エルスタイン(元F1グレシャム・ホールテクニカルアドバイザー)は、徹底的な成績主義を表明。誠一自身にとっても勝負の2年目となった。アラビア半島での初開催となった、1戦目のF1サウジアラビアGP(ジュバイル・デューン・リンク)では、2位のマルセイ・エラムーノ(グレシャム・ホール)に0.06差をつけて予選をトップ通過。自身初のポールポジションを獲得。本選では、4位まで転落するも自身最高順位を獲得した。その後も、全戦出場を果たす。アジアでの初開催となった10戦目のF1日本GP(伊勢志摩グランプリ・リンク)では、地元開催のために日本中から多くのファンを集めた。このレースは、日本のF1人気に火をつける結果となり、これ以降は毎年日本開催となる。しかし、このレースでは、予選20位通過、本選17位でのフィニッシュとなった。
  • 年間ポイント:15pt(13位)

1972年F1選手権

1971年12月、オーリー・エルスタインGMから解雇を宣告されると、ヴァルディネッツ・レーシングモデアーノ・テルマン監督からの誘いを受けて移籍を発表。1972年には、3戦目までアリアス・カデーノのリザーブドライバーとなるが、4戦目のF1イタリアGP(アドリア・ランナウェイ)で、シーズン初出場を果たすと、予選7位・本選6位と上々の立ち上がり。7戦目には、F1ノルマンディーGP(海岸線臨時コース)で難しい天候コンディションを戦い、マルセイ・エラムーノとの劇的な4位争いを演じた。このレースは、7台が途中棄権する過激なレースでありながら、上位勢は堅実なレースを展開。特に4位争いは後世にも語り継がれることになる。最終的に5着で終えるが、レース終了後2人で抱き合う姿までが伝説となった。マルセイと誠一の関係は、F1の歴史における重要な関係である。このシーズンで、表彰台を逃しながらも記憶に残るレースを多数展開。
  • 年間ポイント:23pt(8位)

1973年F1選手権

この年、数えで30歳を迎えることとなり、ヴァルディネッツ・レーシングのエースドライバーとして活躍を期待される。2戦目のF1オランダGP(スネーク湖岸サーキット)では、湿気によるスリップが多発。「滑るカーブ」や狭いコースで、追い抜き困難な状況を逆手にとって善戦。予選6位、決勝4位で惜しくも表彰台を逃す。6戦目のF1アンダルシアGP(アンダルシア・インターリンク)では、予選3位通過、決勝では、アップダウンの激しいヘアピンにハンドルを取られ、途中棄権。右肺を損傷するほどの大けがを負ったため、1年以上のレース出走停止が発表される。ヴァルディネッツ・レーシングは、リザーブドライバーのサイモン・ピクテに交代させたため、8月の初頭に契約解除を誠一自身からチームに要請し、契約解除となる。
  • 年間ポイント:14pt(途中棄権)

負傷から「奇跡の復帰」まで

1973年7月7日のF1アンダルシアGPで、右肺を負傷する全治9か月以上の負傷を負うことになる。緊急手術の後、チームを去ると、日本でのリハビリを受けることになる。帰国後、日本で長いリハビリ期間を過ごし、完治するまでに1年以上の時間を要した。1974年満期でF1ドライバーライセンスが失効したため、再び選手復帰するためにはF2への出場が絶対的に必要となっていた。主治医が、リハビリの終了を認めたのが1975年4月となった。リハビリの終了後、ドライバーとしての復帰を目指して練習を重ねるも、以前の感覚を取り戻すことができなかった。1975年10月に、日本で選手引退を表明。翌月には、モデアーノ・テルマン監督から誘いを受ける形で、かつての所属チームであるヴァルディネッツ・レーシングのフロントメンバーとして招聘を受ける。1976年1月に、傘下の「ヴァルディネッツ・レーシングF2」でピットサブプロデューサーに就任。ピットの運用に関する事務を行う立場となった。その後、2年務めて退職し日本へ再び帰国。日本自動車協会の推薦から、F3アジア選手権の組織委員会レーシングアドバイザー(1977年・1978年期)に就任。

奇跡の復活

1979年、自身がかつて勤めていた富士自動車株式会社が、イギリスオリエントエクスプレスと組んでF2参戦を表明。当時の富士自動車取締役だった鴨野井隆から直接の誘いを受けて、オリエント・フジ選手育成プログラム最高責任者・テクニカルアドバイザーに就任。チームの選手育成に関する全権を持つ役職者となった。しかしこのチームには、絶対的な司令塔的経験者が不足しており、チームの勝利は程遠いものだった。1982年、15戦目のF2モナコGPから、成績不良のポンペ・ターキントンに代わって監督代行に就任。予選三日目に神がかり的なタイヤ戦略を活かしてチーム創設以来初の2選手表彰台を獲得。予選4日目にも1選手表彰台を獲得したため、決勝でチームから3選手が出走することとなった。20戦目のF2ベルギーGP(アルデンヌ・ディナンリンク)では、予選1日目に規格外のダブルスタックに成功してチーム初の1着を達成。決勝に4選手が進むと、決勝表彰台を飾る。23戦目のF2日本GPで、決勝まで3選手を残し、天才的なオーバーカットに成功したため、後にF1の大舞台で活躍するフランツェス・サアディーを表彰台のトップに送った。F2で天才的な戦略家として短期間で成績を残したため、翌1983年から正式にオリエント・フジ監督に就任。


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最終更新:2025年05月02日 12:35