生田恭三郎

生田恭三郎(いくたきょうざぶろう、1860年1月-1936年8月)は、生田財閥の名君。

来歴

木材海運商である島原了平生田マサの長男として、知行藩灘藩に生を受ける。6歳から藩校に学ぶも、1868年から小学校開校に伴って小学校へ入学。1870年3月に小学校を卒業し、高等科へそのまま進学。1873年に小学校高等科を卒業。卒業の翌月に、元灘藩士族の尾崎法堂が教授を務めていた神戸の水産講習所(1900年廃止、大阪大学海事学部の起源)に学ぶ。ここでは、操船技術から海洋・水産まで学ぶ。

入社

1876年に水産講習所を修了して、母の言いつけ通り生田海運株式会社へ入社、入社後に海運部長となる。海上輸送や船舶管理を主業務としたが、繊維事業への進出とともに経営副部長(経営部長は新舘有)を兼務。1882年から東京支店長・海運部長という肩書で東京在勤となり、東京での営業活動を担当した。

社長時代

1886年4月、26歳の若さで生田海運代表取締役社長に就任。以降、40年に及ぶ一強体制が継続されることになる。恭三郎は、政府系の金融機関である、日本勧業銀行大阪勧業銀行に急接近し巨額の借り入れを行って事業を急拡大。1896年には、日本が占領した初の海外領土である釜山に水産加工場を開業。他の財閥が政府の手足となって事業規模を拡大する中、政府の近代化政策を推進する一翼として国際市場に挑戦を続けた。1902年から、生田殖産代表取締役会長へ就任(前任の鈴木真から譲られる)。1904年の日露戦争開戦では、あえて日本政府の指定商を回避して、朝鮮政府と緊密な関係性を構築。朝鮮半島で木浦港仁川港興南港の開発事業に出資して、朝鮮経済へ利権の触手を伸ばすことになる。1910年代には、日本人の民間人として初めてとなる朝鮮政府から受勲する。1919年9月、山陽銀行設立。同銀行の取締役会長に就任。自社の金融事業や持株などの債権を山陽銀行に移管した。1924年10月、日本政府の求めに応じて、北海道での事業開発を進めていた生田殖産が、東日本拓殖銀行の経営株式を38%政府から買い取り。同行の取締役・副頭取に就任。1926年に生田海運代表取締役社長、生田殖産代表取締役会長、山陽銀行取締役会長、東日本拓殖銀行取締役副頭取の役職を退く。血統を避けたかったが、後継筆頭候補の長男である生田譲吉が社内外からの評価も高かったため後継に就任した。

1936年8月に、瀬戸内海総合病院にて逝去。

親戚関係

最終更新:2025年06月11日 23:49