概要
大洋映画は、1935年、
新日本映画株式会社の映画興行の成功を背景として、当時
帝国商船社内の一部署に過ぎなかった映像作成チームを独立させて設立された。
劇場用映画の制作・配給・興行を基幹業務とし、洋画の買い付け・劇場配給・テレビ放送権販売、テレビドラマの制作、広報映画の制作や教育映画の制作・販売などを行う総合映像企業である。
設立の背景から、現在も親会社として君臨する
帝国商船株式会社を中心に
サクラ商事などの資本が流入しており、サクラ系列の
サクラとともに歩む会の常任会員に名を連ねている。映画の絶頂期ともいわれる1950年代以降は、文化芸術路線・任侠路線を唱えて競合他社と全面的な競争状態にあった。共に
サクラとともに歩む会の常任会員である
テレビ関東と開局以降友好関係が続いている。同局及び系列局に多くの作品を供給している。また、映像制作関連子会社を共同で数社設立しており、人材育成面においても共同体制を構築している。
1980年代以降、「日本映画の天皇」と呼ばれた
勝俣歳三(7代目社長・12代目会長・名誉会長)が提唱した「大洋再建31か月計画」によりアニメーション・大衆活劇復古路線を標榜して他社との差別化を進める。勝俣の下、総合映像企業へと脱皮するため、メディア関連子会社を次々に設立。今日、親会社として多くの関連子会社・完全子会社を持つ。
組織
役員
社長(1名)
会長(1名)
副社長(1名、時折2名になる)
常務取締役(1名-3名)
取締役(6名-12名)
制作局
- 制作局長
- 次長(分野ごとに3名程度)
- プロデューサー(統括1名)(3名程度)
- 映画部
- 音楽部
- 脚本部/演出部/撮技部()
- 俳優部/女優部()
- 配給営業部(1942年設置)
- テレビドラマ事業本部(1972年設置)
- アニメーション企画部(1983年設置)
広告局
営業局
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歴代社長
関係会社
沿革
草創期
1923年、
帝国商船アメリカ輸入代理人事務所から帰国の途に就いていた
津戸教治が趣味で持ち帰った映像機器が、後の映画部門設立につながる。津戸の帰国後に直属の上司になったのが、
待宮信春(帝国商船取締役・営業部)であった。街宮は、当時特権階級の一部が趣味的に行っていた映像記録を会社として残すべきだと考えていた。1925年に、津戸が持っていた映像機器を会社として買い上げ、営業部内の一部署として営業部記録課を設置した。この課員の1人で、後に映画監督に転身する
小松基邦が映像記録だけでなく、映像演劇として無音映画を作成するべきだと考え、社内上映向けの映画製作を行う。1931年、
帝国商船映画部を設立し、初代部長に
待宮信春が兼務する形で就任して映画制作業務を社内で行う体制を作り上げた。1934年には、
帝国商船熱海倉庫を改築して専門撮影施設(後の
大洋熱海撮影所)を開設する。同年には、アメリカ輸入代理人事務所内に、映画部アメリカ映画課を設立して米国から直接的に買い付けを行う体制を整えた。
会社化
1935年、
桜田財閥系列でメインバンクだった
東京銀行からの出資を受けて、帝国商船映画部が独立し「大洋映画株式会社」が発足する。初代社長に、
桜田財閥出身で東京銀行副頭取の地位にあった
福富数が就任。広報局と制作局の二大部局を設置して、制作局の機能の大部分を
大洋熱海撮影所に設置することになる。しかしながら、会社設立の背景からも宣伝用記録映画の撮影がメインの仕事となってしまい、記録作品を作りたい
津戸教治らの社長派と映画製作を熱心に考える
小松基邦らの現場派で対立が激化。1937年には、現場派が蜂起して大洋熱海撮影所に制作局から分離した、大洋熱海撮影部に結集。1938年に、
帝国商船の創業家で大株主である
浅見武(元
衆議院議員)の孫で
神戸少女歌劇団に所属していた当時16歳の
浅見由香子を制作局女優部に移籍させたことを皮切りに出演俳優・女優を全国からかき集める。1938年、大洋映画初の自主製作映画として、
風のなかの灯を発表。
帝国劇場演出部主任だった
久我辰太郎が移籍してから、現場派に加わって人材を日本中から集めることになった。この時期の制作局演出部に所属する著名な映画監督は、前述の
久我辰太郎や元
神戸少女歌劇団演出部の
椎名昌之助の2名で、この2人はそれぞれ交互に看板映画の製作を担当し、大洋映画の黎明期を支えることになる。このほか、当時一世を風靡した
東京新時代劇場看板女優の
山路初子や
雷門一座の興行師だった朗読役者の
真城由衣を
久我辰太郎が口説き落として女優部にスカウトすることになった。
1939年10月、映画統制の流れに従って産業協会に下るも、映画の国策化に反対する一部の社員が反発して退社するという事態に見舞われる。これらの社員は、後に
東洋シネマ株式会社を設立して戦後の映画産業発展を支えるライバルとなる。この中には、日本人初の
ウィーン国際映画祭監督賞受賞者となる
喜多見啓介などが存在する。産業協会への参加とほぼ同時期、
帝国商船取締役・経理部長だった
島津豊が、2代目社長に就任。島津は、たぐいまれなる先見性から戦争記録映画の制作能力を強化するため、映像部スタッフの人材育成を進めることになる。島津は、先祖代々からの資産として所有していた
千葉県館山市の山間部を会社に提供して、当時日本で初となる映像スタッフ専門の育成所である大洋映画学校(現在の
関東文化大学映像学部本部・館山キャンパス)を開校。ここで育った多くの撮影技師は、戦時中に戦争記録を担当するカメラマンとして、
従軍記者の一員となり戦地に送られた。大洋映画の戦時中におけるスタッフの戦没数は、他の映画会社(
新日本映画や
帝日映画など)と比べて極端に多い。その理由には、この背景が存在する。
産業協会への参加後、
日本映画産業規則の4条ルールに基づいて自社でのスター育成に時間と労力をかけることになる。特に、劇場系出身の映画会社が乱立してきたこともあって、これまで通りの劇場所属俳優の引き抜きが困難を極めており、独自の少年少女歌劇団設立を急ぐことになる。1944年、戦火が収まらない中、
横浜大洋歌劇団がスタート。団長には、元
衆議院議員で
横浜市市長の
大下かげきが就任。大下は、官界の地位にあって2代目
日本映画産業協会会長を務めた、日本映画界最初期の重鎮である。1944年12月、
熱海大火で
大洋熱海撮影所が全焼。当時撮影所で寝泊まりをしていた数名の社員もなくなってしまたっため、この火災から終戦まで映画の製作は完全にストップする。また、
陸軍や
海軍の記録要員として戦線に飛ばされていた映画スタッフの戦死も日を追うごとにその知らせが多くなる。そのような最中、1945年1月の
千葉空襲で、1939年から会社を支えてきた、2代目社長の
島津豊が死亡。後継社長には、取締役・広報局長として会社の記録映画部門を守ってきた
津戸教治が、政府などの意向もあって就任する。津戸社長は、社長就任後からかつての派閥対立関係を一切放棄し、映画製作に携わっていた一線級のプロを次々と役職者に加える。また、水面下で動いていた
大洋熱海撮影所再建計画を承認し、建築資材などの収集を進める。1945年8月の終戦は、会社機能を疎開していた館山で、多くの職員が迎えることになる。終戦の翌月には、かつて本社が建てられていた
東京都芝公園の
増上寺を見下ろす位置に建設することとなる。
戦後期・勃興期
終戦の痛みが本土を覆う1945年12月、制作局映像部のスタッフを中心に、戦前戦中に撮りためていたフィルムデータを編集した完全新作映画「
灯りを求めて」を発表。
久我辰太郎がメガホンを握った。この映画は、戦災によって憔悴していた日本国民全体を主人公として、戦後日本の復興と国民の再起を訴えた。この映画は、街中シアターという形で焼け野原になった空き地で無償で公開され、北は
北海道天塩村(一説には
樺太泊村)、南は
沖縄県南那覇市での映画放映が記録として残されている。終戦のこの時期、一貫して戦中批判を展開する一方、戦中に従軍した撮影技師が持ち帰った戦争記録を歴史資料として保管することを決定している。1946年10月に、
大洋熱海撮影所が復活すると、念願の映画製作を本格的に再開。この復活を聞きつけて、復員した多くのスタッフたちが社業に復帰する。1947年、津戸社長を中心とした映画産業界の幹部らによって戦中組織の産業協会に代わる「
日本映画協会」を設立、同会会員となる。また、1947年4月から、大洋映画学校に演劇科・撮技科・演出科を新設しそれぞれ1期生が入校する。1948年、大洋任侠路線を支える
藤巻錠一、
九条継彦の二大看板と文化芸術路線を率いた
水島奏平が1期生としてデビュー。1949年10月、津戸社長ら経営幹部らを前に、大洋映画労働組合が発足。今日まで続く独立系
労働組合となる。
1950年代・日本映画絶頂期
日本映画黄金期となる1950年代には、
椎名昌之助、
牧原幹夫、
中尾圭吾ら名監督を擁した任侠路線で
新日本映画や
昭栄と真っ向から対立。全8作に及ぶ
昭和任侠伝シリーズ(
椎名昌之助監督)でヒットを飛ばし、主演
藤巻錠一とともにによる「藤やんブーム」に火をつけた。文化芸術路線では、1953年入社の
高森千穂、
中沢玲子、
石狩雄三を中心とした映画学校6期生を「華の6期生」としてデビューさせると、この名優たちが文化芸術路線を牽引することになる。任侠路線出身の
大牧大介がメガホンを取った1954年公開の「
白い蛍」(
高森千穂主演)、1958年公開の「
雨月の森」(
石狩雄三主演)は、それぞれ
日本アカデミー賞6冠を獲得。1955年には、
昭栄所属で世紀の歌姫だった
南條沙世子が大洋に移籍。大洋文化芸術路線の趨勢を決めただけでなく、大洋映画のヒットを生み出す大きな原動力となった。南條は移籍初年度となったこの年、脚本部出身の
長坂周次郎が監督を務めた「
楢山節考」で映画初主演を飾ると
日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得して脚光を浴びる。南條が歌った、劇中歌「
楢山節」は、
日本レコード大賞最優秀賞を受賞した。
1958年には、
テレビ関東の開局に合わせて、映画のテレビ放映に向けた戦略を立てることになる。しかし、戦後の大洋映画を支えてきたと自負する
津戸教治会長の反対から実現は不可能となった。しかし翌年、大洋映画取締役・制作局長で
テレビ関東取締役を兼ねる
小山正憲が中心となってクーデターを決行。
日本映画協会の出資元でもある
帝国商船の意向によって、映画協会会長の地位を追われた津戸は、そのまま
帝国商船取締役の地位も失った。当時の帝国商船は、11代目社長の
前田吟行が新時代主義を提唱して役員を含めた経営幹部の若返りを目指している時期であり、小山などの意向と合致したことによって追われることになった。津戸は、政界の重鎮である
梶山彦六(元
大蔵大臣)を仲介に立てて帝国商船との交渉を行うが、結局帝国商船側は祖業でもある
呉造船最高顧問の地位を用意することで事態を収拾。津戸の息がかかっていた、大洋映画の
若宮正治4代目社長が自ら退任を申し出たこともあり、津戸が作り上げた帝国は完全に崩壊した。5代目社長には、
横浜大洋歌劇団プロデューサー・大洋映画学校担当役員として育成部門に携わっていた
大友荒助(副社長)が昇進。しかし、就任直後から大友は、自身に近い人物だけを集めた社長室を設置。会社の重要な決断を社長室に委ねる。この社長室には、大友が
サクラ商事から招聘した元
海軍軍人・
海軍中佐である
高橋忠民が総務担当室長として配属。「大友・高橋ライン」ともいわれる経営合理化に舵が切られた。
1960年代・「大友・高橋ライン」
1960年代、
テレビ局の全国展開に伴って、映画産業の斜陽化が社会問題のテーマとなる。渦中の大洋映画は、これまで追求してきた芸術としての映画産業から足を洗い、利益性重視の経営合理化路線に大幅なシフトチェンジを断行。1962年には、「飛ばし屋」「ヒットメーカー」と呼ばれた天才プロデューサー
木暮恒太郎(役員待遇・制作統括プロデューサー)と社内対立が激化。特に、同年3月発表の青春活劇映画「
暁の誓い」(監督
鬼山次郎・主演
高森千穂)を巡って、映画館による劇場配給を主軸に考える木暮とテレビ局を活用した新配給路線を提唱する大友の対立で、公開予定から配給が2か月遅れる事態になる。しかし、大友は、この木暮を高く評価しており、社長特権による要職外しは一切行わなかった。1964年3月、東京を中心に全国公演の営業網を持っていた
スカラ文学座を買収。新人育成機能を文学座に集約するため、自身が設立から携わってきた大洋映画学校を閉鎖。1965年以降、テレビ局を通じた映画放映などの諸問題に関してハードルを越え、映画の配給面で他社と大きく差をつけることになる。1968年には、俳優や女優の自社管理体制を改めるため、
大洋歌劇株式会社と
スカラ文学座株式会社にそれぞれ芸能事務所としての機能を移管。1970年には、広告局と制作局の双方が持っていた営業機能を集約するため、営業局を新設。地方に保有していた系列劇場の管理権問題などの合理化を推し進めるつもりでいたが、自身が指南役と思っていた
高橋忠民が提唱した低予算映画路線で社内の対立をあおったこと、
大洋熱海撮影所縮小案などが出てしまったことから責任を取り、高橋を除名したうえで大友自らも社長業を退任。会長としての役職も約束されていたが、最終的には固辞して野に下る。
1970年代・地獄の70年代
1970年代初めの仕事は、向こう50年間の経営戦略を立てることのできる社長の選任であった。大株主の
帝国商船は、経営戦略に詳しい内部人材として、
金森佳胤(常務取締役・営業局長)を6代目社長におす。金森社長は、
テレビドラマ事業への参入拡大を図るため、制作局内部に「テレビドラマ事業本部」を設置。ここに、すでに60代となっていた任侠映画の名監督である
椎名昌之助・
中尾圭吾に2名を移籍させて制作の主軸に置いた。1973年、会長の
高橋忠民が発表した、制作機能分離案で社内が分裂。大株主でもある
帝国商船や
サクラ商事からの出向によって固められていた社長側近連中は、こぞって分離案を支持。一方で、制作畑の
木暮恒太郎などが強く反発。木暮は、労組を引っ張って制作機能の分離を反対。しかし、そのかい虚しく、1975年には株主提案による
大洋熱海撮影所完全子会社化が行われる。最後まで、子会社化に抵抗していた木暮らは、同年会社を飛び出して政策を専門に請け負う映画製作会社の
木暮映像研究所を立ち上げて独立。映画制作機能を本社から追い出した大洋映画は、テレビドラマ事業に活動主軸を移すようになる。1978年には、日本を代表する長寿ドラマである「
蔵」のテレビ放映を開始。初代監督を務めたのが
椎名昌之助だった。しかし、1970年代は、社内分裂もあって祖業である映画事業は軒並み低迷。この背景には、1970年代に推し進めていた低予算通俗映画路線での映画人気が急落したことが挙げられる。テレビドラマシリーズは、ある程度の成功をおさめたが本業になるまで成功はせず、低迷の一途をたどる。また、1974年に
南條沙世子が
南條プロダクション、1977年に
高森千穂が
森屋として独立。そのほかにも、他社出身のプロダクションに参加する俳優が出てきたことから映画の専業体制が崩壊。この10年間において、
日本アカデミー賞の常連だった名作劇場大洋映画は、大賞受賞作品を制作できなかった。大洋出身の映画評論家である
村瀬徹は、著書の中で「映画業界における地獄の70年代」と評した。1970年代半ばから、社長としての政治機能をすでに失っていた金森であったが、会長が実権を治めるような会社となってしまったことを嘆き、自らの後任を制作畑に預けることにした。
1980年代・「大洋再建31か月計画」
金森佳胤の指名により、
勝俣歳三(制作局統括プロデューサー)が7代目社長に就任。戦後絶頂期の映画製作をプロダクションで支え、「飛ばし屋」
木暮恒太郎のようなヒットメーカーとは対照的に、「熱情家」として演劇への熱い熱情とそれを収益に結び付けるような独自の商業理論を持っていた。俳優や監督からの厚い信頼を背負い、「勝俣組」を形成するほどの大人物であった。しかし、勝俣は当初、自身が担当していた
テレビドラマ「
闇に吠える犬」が長寿ドラマ化していたこともあって、制作現場から離れたくないと固辞。最終的には勝俣組の名優だった
西城剛が「強情もほどほどにおよしなさいな」となだめられたため、7代目社長の就任を受けることになる。会長には、勝俣の依頼から
無道などの任侠映画でプロデューサーを務めた
斎条丈士(副社長)が就任。勝俣は、社長就任直後に、
帝国商船や
サクラ商事の役員などの経営のプロや内部の制作畑などを集めて、経営戦略委員会を設置。委員会を中心とした経営再建プランとして、1981年9月「大洋再建31か月計画」を発表する。これは、1984年3月の満了を目指して行われた計画である。経営戦略委員会は、再建計画の中核司令部としての機能を持った。1950-60年代の任侠・文化芸術路線、1970年代の低予算通俗路線を一切改めて、大衆活劇復古路線を発表。「良作・名優・名監督」に予算を配分する作品主義を表明した。1982年発表の「
夕立ち三太」(監督:
原佳悟、主演:
三村勲)、翌1983年発表の「
俺の兄貴は風来坊」(監督:
井川拓郎、主演「
堀内丈」)は、大衆活劇復古路線を代表するシリーズ作品となる。また、1983年には、大洋映画初のアニメ映画作品として、
スタジオ風舎制作の「
風の国うしろの国」を発表。完全請負制作を担当したスタジオ風舎は、その後数作品の制作を担当する。この成功から、制作局内部にアニメーション企画部を設立し、
テレビアニメやアニメーション映画の設立を本格化させる。大洋再建計画の2本目の軸として、特殊映像撮影会社の
大洋特機映像を創立、映画やドラマ撮影の新技術開発などを行っていた制作局撮影技術部が独立した。1985年には、
帝日や
大東映画に遅れること20年、完全出資のアニメーション会社
大洋動画を設立。1987年、営業局映画興行本部を独立させて
大洋劇場ムービーシアターズ株式会社を設立。また、1980年代一貫して、テレビドラマ事業を中核と置いた。1988年、
勝俣歳三社長は、会長へ勇退。後任に、
大洋熱海撮影所所長を歴任した
大洋歌劇社長の
小田武甲が就任。小田社長は、完成された「大洋再建31か月計画」の最後のピースとして、
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最終更新:2025年09月11日 13:44