長谷場頼敏

長谷場頼敏(はせばよりとし)〈1725年7月ー1778年12月〉は、肥後国主、熊本藩主。
従二位近衛府蔵部長官などを歴任。

来歴

1725年7月、熊本藩54万石の藩主である長谷場家の嫡男として生誕。家系的には三男であるが、父である長谷場頼延の正妻の下に唯一生まれた子供であるため、嫡男となった。

藩校である時習館教授から直接の手ほどきを受け、儒学国学に精通する。1739年に、正三位久留米府兵部卿桂宮家3代目当主「桂宮定安」の長女をめとった。1744年に父から所領を継承して、「正四位肥後国主・熊本藩主」となる。

1750年に「久留米府法部次官」となる。この時の法部長官は、妻方の叔父にあたる西桂宮家5代目当主の西桂宮高鳴であった。1756年に従三位を賜り、「久留米府法部長官」となる。

1759年、正三位を賜って、「久留米府副宰相」の地位に上り詰める。1763年に、近衛府の要職である「蔵部次官」に推されて、上京。上京以後、桂宮家の京都下屋敷を長らく居宅とした。京都に上がると、熊本藩の実務は、時習館館主の地位にあった、腹違いの兄である桂永京が主席家老として務めることになる。

1765年、従二位を賜り、宮家出身者以外(ただし、宮家と縁戚関係)として初めて、蔵部長官となる。大島宮家鷹塚宮家の上屋敷を買い上げ、熊本藩上屋敷を洛中に建設した。このころ、洛中に屋敷を持つ宮家の多くは没落寸前といったありさまで、洛中の腐敗は相当のものとなっていた。これを経済の問題として解決しようとした宮中官僚から押し切られる形で全国統一貨幣流通などを基軸とする「大蔵改革」を進めるが、最終的な解決には至らなかった。結果的に、1768年から、皇籍令公布にかかる諸準備を進めることになる。
最終更新:2025年10月06日 07:32