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遠上見崎

遠上見崎(とおがみけんざ、1892年8月30日~1968年7月)は、陸軍軍人、日本軍軍人(大将)。予備役少将。
教育副総監首都圏防衛総司令部総参謀長などを歴任。
1892年8月30日
東京都葛飾
1968年7月
千葉県

来歴

1892年、東京都葛飾出身。
父の遠上健勝は、海軍少将まで務めた軍人で、見崎が生まれた当時、葛飾の海軍操船研修所主教官であった。兄の遠上暢海軍軍人となり、海軍少将戦艦長門艦長などを務めた。幼くして、兄が海兵へ行く姿に感激し、自らも軍人を志が、思った以上に泳げず陸軍目指す。

陸軍将校へ

1905年に陸軍士官学校予科、1908年に陸軍士官学校へ入学。陸士20期の同期には、梶田仙吉(第1師団長)、太田宗彦(初代軍法総監)。陸士では目立って成績の良い方ではなかったが、体術は好成績で教官から認められていた。
1911年、陸軍少尉に任官すると、部隊勤務を自ら志望して、第1次世界大戦への派兵も経験。戦闘状態に陥らなかったものの、劣悪な環境によって右肺を痛めることとなる。帰国後、右肺の影響もあって、戦地の状況をまとめる戦史調査室などの後方職種に転じる。

防大・組織研究

1924年、国防大学校に入校(防大14期)。防大では、国際語学への造詣が深く、語学成績は常にトップであった。しかし、右肺の影響もあって実技成績が芳しくなく、上位卒業には至らなかった。防大卒業後の1927年、語学成績優秀者として、イギリスに留学する。軍隊組織の統一性に注目して、日本の組織体制改組を目的とした研究を開始。帰国後、歩兵監部属として、組織研究に従事。1933年「陸軍組織編成に関する一考察の実証と研究論」を父と同郷の盟友でもあった高木宗道(歩兵総監)を通じて木村和平参謀総長に提出。
この論文に於いて示された点は、以下の3点である。
  • 1点目:特段、すべての部隊系統を一貫して組織すべきであり、こと陸軍においては師団組織を基本の部隊編成とすべきである。
  • 2点目:国家の有事において、対外派兵を検討する以上、軍部指揮系統の異なるところを廃して、臨時の独自軍団を組織すべきである
  • 3点目:日本においては、陸海軍による系統争いを放棄し、統合運用を行うための独立司令組織を編成し、世界各国の国防組織に先んずるべきである。
組織研究の成果として、1935年の自主軍事宣言下で発令された「参謀総長令201号」によって、それまでの独立連隊や独立小隊などをすべて廃止して1万人単位の師団への再編と司令部の設立が進められた。

略年歴


 ・1917年、中国戦線に派兵

 ・参謀本部第3部付・歩兵監部属・陸軍歩兵学校研究部
  • 1932年4月_陸軍中佐へ昇任、歩兵監部属・陸軍歩兵学校研究部次長
  • 1934年4月_参謀本部第1部長付・組織編制課長
  • 1935年7月_第1師団第4歩兵連隊副連隊長
  • 1938年10月_陸軍大佐へ昇任、第1師団第4歩兵連隊長
  • 1939年12月_陸軍歩兵学校付

最終更新:2026年06月08日 10:43