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とある教師の進路相談

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とある教師の進路相談

 肌寒さに急かされて重いまぶたをゆっくりと開く。
 月明かりのスポットライトに照らされて、星屑と身を寄せ合うように埃(ほこり)たちは輝き、部屋中を舞い踊る。
 夜は好きだ。
 恥ずかしさもなく、素直にそう思う。
 無粋な呼吸一つで静けさを失ってしまうその儚さは、世界をより鮮明により先鋭に変化させる。がらにも無いがそれはとても美しい
光景だ。
 けれど、だからこそ——、
 夜は怖い。
 強調された世界では、曖昧に生きている自分がひどく浮いてしまう。
 病室にいるときはいつもそうだ。
 誰かを救うことができたという充実感。誰も本当の自分を知らないという孤独感。
 二つの感情が飽きもせずメリーゴーランドのようにやってくる。
 こんなときはひたすらに眠り続けるのがいい。そう思って掛け布団にくるまろうとしたときだった。
 夜のとばりを揺らす小さな足音。
 室内の無個性な壁掛けは午後九時を知らせている。看護師の巡回にはまだ早い。普段なら同じ入院患者が散歩でもしている、と無視
したことだろう。けれど——今日はそう思うことができなかった。
 なんとなくだが……この病室のドアを叩くのでは、そう思った。
 それは予想だったのか、それとも期待だったのか。
「失礼するですよー?」
 遠慮がちな申し出と同時に、焦らすようにドアが開き、
「——あれれ、起こしちゃったですか? 十分静かにしたつもりだったのですけど」
 幼顔(おさながお)の小柄な担任——月詠小萌が訪れた。

 一〇月中旬。上条当麻は毎度のごとく入院していた。
 もはや常連とまで言える入院回数に担当の医師も院内の看護師も呆れるばかり。お見舞いの人間すら顔を覚えられている。
 その日もそれなりのお見舞いがやってきて上条を笑い、けなし、噛みついていった。
「小萌先生にもお仕事があるのですよ。お見舞いに来たくても終わってからじゃ時間が遅くなっちゃいますからねー。今日は上条ちゃ
んのカワイイ寝顔だけ見て帰ろうと思っていたのです」
 小萌は慣れた手つきで林檎を剥いていく。
 一緒に置いてあった蜜柑や葡萄、白桃などはことごとくインデックスに食べられてしまった。唯一残されたのが二つの林檎。ここま
できたら残されたことを哀れにさえ思う。まぁ、これはインデックスのちょっとした反逆……いや、優しさの裏返しだと願っている。
「わざわざすみません」
「ふふっ、気にしなくていいのです。そんなにしおらしいのは上条ちゃん『らしくない』ですよ?」
 滑らかに動くナイフをとめると、小萌は幼い顔でふんわりと笑いかけてきた。
 『らしくない』
 つらい言葉だ。特にいまの上条にとっては。
 記憶喪失にもなんとか慣れ始めたから、こんなときは軽口でも言えばなんら問題ないことくらいわかる。それでも『記憶を失う前の
上条』と自分は違う。小萌の表現は『記憶を失った上条』と『記憶を失う前の上条』を暗に比較しているふうに聞こえてしまう。
 自分らしさ……『記憶を失った上条』にとって、それはどのようなものだろう。
 こんなことを考えると、どうも意識が自分の内側ばかりに向いてしまう。小萌といる現状ではそれは芳しくない。
「らしくないのは小萌先生ですよ。そんな子供っぽい顔してお料理スキル満点だなんて……上条さんはそんなギャップに屈しませんか
らね、えぇ屈しませんとも!」
 『子供っぽい』など、わざとちゃかすような発言をして話を濁す。
「な、なに言ってるのですか! こう見えても……いえ、小萌先生は見てわかるように家事全般は大得意なのですよ!?」
 案の定つっかかってくれた。
 とはいえ自分のした行動が、わざと好きな女の子をいじめる小学生くらいの男の子みたいで、無性に恥ずかしくなってくる。
 そんな上条を知ってか知らずか……、
「まったく……上条ちゃんは仕方ないのです、えへへ」
 年上とは思えない——いや、実際問題として小萌の容姿は小学生と言っても通用するだろうが——ような愛くるしい表情で、林檎を
さっきの倍以上のペースで剥きだした。ダメな子ほど絶大な効果が発揮される世話焼きスキルである。
 結局それから上条が小萌をなんとかして帰すまで、これでもかというほど介抱された。
 小萌とのやりとりに疲れたのか、その夜はいつもより穏やかに眠れた気がした。


「上条ちゃんっ、病室に引きこもってばかりでは体に悪いのですよー! いまから小萌先生とお散歩に出かけるのです!!」
 昨日より少し早い、まだ月が建造物で顔を隠している時間。小萌はそう宣言して車椅子を持ってきた。
 その表情は昨夜に見た眩しいほどの笑顔である。
 世話焼きはまだ続いていたわけだ。
「はぁー」
 二の句を告げられなくなった上条は、溜息一つをお土産にして小萌には帰ってもらうことにした。
 布団に潜り込もうとしたが驚異的なスピードで腕をつかまれ、現実逃避をこばまれる。
「……もう夜なんですけど?」
「むむっ、小萌先生だってそれくらいわかってます。昨日も言いましたけど、小萌先生には時間がないのです」
「あと数ヶ月で死んじゃう悲劇のヒロインみたいなこと言わないでください……」
 あまりの傍若無人っぷりに呆れてしまう。
「えへへ……まぁ、冗談はここまでにしといて」
 あろうことか小萌はそんなことを言い出した——が、夜の散歩が流れてしまうなら、との思いでツッコミたいのを我慢する。
「——上条ちゃんは温かい格好をするのですよ?」
「結局行くんかいっ!!」
 相変わらず小萌の瞳は一昔前のLED光源のようにわざとらしいほどまぶしく輝いている。どうやってでも上条を外に連れ出したい
ようだ。このまま拒み続ければ最終的には女の武器を使用するだろう。そうなったら上条に退路はない。
 秋の涼しさは街中に広がっているとはいえ、今日は比較的暖かいほうだ。上条は寝間着としてジャージの下に長袖のTシャツといっ
た格好だったので、少し見栄えは悪くなるが薄手のカーディガンでも羽織れば問題ない。
 腹をくくる必要がありそうだった。
「……外出許可は取ってあるんですよね?」
「あ、その……上条ちゃんが本当に嫌だったら小萌先生も諦めますよ?」
 そうは言っているが、自分がいまにも泣きそうなのをわかって言っているのだろうか? まぁ、きっと無自覚だろう。
 上条としても、ここまでしてくれた小萌をそのまま帰すのは……まぁ、それなりに忍びない。
「いいですよ、散歩くらい。ちょっと準備するんで廊下で待っててもらえますか?」
「あの、平気です? やっぱりやめましょうか?」
「……小萌先生が誘ったんでしょ。それとも……生徒の生着替えでも見たいんですか? キャッ、小萌先生のエッチ!!」
 それでも少しだけからかってみれば、
「なっ、なに言ってるんですか、上条ちゃん!!」
 小萌は小さな両手で朱に染まった顔をなんとか隠しながら病室を飛び出していった。
 なんというか……あんなことで真っ赤になるなんて本当にちっちゃい子みたいだ。きっと土御門や青髪ピアスにしたら、そこが小萌
の魅力なのだろう。上条には理解できない世界だ。
 ……とはいえ、あの仕草には上条自身もグッとくるものがあったのも現実なのだが。

 病院を後にすると、小萌はデートプランを練ってきたかのように迷いもなく歩を進めた。
「小萌先生、どこに向かってるんですか?」
 素直にそう問いかける。
「特には決めてませんよ? 今日はお散歩なので着の身着のまま赴くままに、といった感じなのです。……それとも、上条ちゃんはど
こか行きたいところがあるです?」
「特にはないですよ。それじゃ、小萌先生にまかせますね」
 なんだかはぐらかされたような気もするが、変な勘ぐりはやめることにした。
 もし上条に内緒で行きたいところがあるいのなら、それは小萌にとって本当に知られてはいけないのだろう。
 自分の意思とは関係なく景色が動いていく。
 ここのところ怪我ばかりの上条だったが車椅子に座ったのは初めてだった。
 上条は自分が座っている車椅子を小萌が押すのは少々無理があるのでは、と松葉杖で行くことを勧めた。なにせ身長一三五センチの
体格では、ほぼ全自動の駆動輪付き車椅子でさえ扱いづらいはずだ。それなのに上条の言葉を一蹴して看護師から車椅子を略奪した。
よほど上条を連れて行きたいところがあるのかもしれない。単なるお節介という線もなくはないが……。
「えへへ、まかせてほしいのです!!」
 肩越しに見た小萌は、左手を小さく握り締め、息巻いて頷いた。
 この担任は教え子である上条にこんなにも無邪気に笑いかけてくる。そんなあどけない笑顔をじっくり見ていては小萌にも失礼かも
しれないし、なにしろ上条自身が恥ずかしい。
 車輪の行方を小萌に任せ、月明かりに照らされた科学の街を眺める。
「なんか……この辺りは静かですね」
「そうですねー、やっぱり病院が近いせいだと思うのですよ。……それに、どこかの誰かさんみたいに不良さんと追いかけっこするよ
うな子もいないと思うのです。有り余ってる体力は勉強の方で発散してほしいですねー。上条ちゃんも、そう思ないです?」
「……ははは、そうとう元気な人ですね」
 どこか乾いた声になってしまう。
「まったくもってその通りなのです。なんとですね、その子ったらなにかといろんなことに巻き込まれてたのです。不良さんと遊んで
るのもその一つみたいで……女子中学生にもちょっかい出されたりするらしいのですよ? ほんと……とっても楽しそうなのです」
 小萌の声は弾んでいて、明らかに上条をからかっていた。
「そ、そうですか?」
 なんとか返事をしたが……心中穏やかではなかった。
「そうですよ。正直……学園都市は子供にとって住みよい場所だとは思えないのです。小さい頃から強度(レベル)による上下関係が
生まれるですし。傷ついてしまう子、傷つけてしまう子。どちらにとっても悲しいことです。……でも、その子は笑っていました。痛
いのは嫌だけど他の誰かが痛いのはもっと嫌、そんなことを言っていたのです」
 いま、小萌の顔を見たら築いてきたものが崩れてしまう、そう思った。
 記憶喪失以来、上条はそんなことを小萌に言った憶えはない。つまり小萌の話は『記憶を失う前の上条』のことだ。
 小萌は上条が知っている教師の中でも、学園都市にいる大人の中でも、とてもとても素晴らしい人物だ。年端もいかない上条に対し
てでも、まっすぐな気持ちと言葉をぶつけてくれる。
 きっと頼ってしまう。どうしようもない想いを吐き出してしまう。
 それだけは耐えなければいけなかった。
「——上条ちゃんは憶えていますか?」
 この街の無機質な律動の音、その中で小萌の澄み切った声はやけに大きく聞こえた。
「初めて会った日のことを」

 病院さほど遠くない小さな公園で小萌は足を止めた。
 所々にある遊具たちは本日の業務を終えて故障したかのように動きを止めている。閉館後の遊園地も同じ雰囲気なのだろうか。外界
から切り離されたような、どこか違う時間を流れている感覚。
 上条も彼らと同じ空間にいた。
 縫いつけられたように車椅子に座っている。膝の上で絡ませていた両手が小刻みに震えだす。
「——は、初めてって『あの時』……です、か?」
 『あの時』? それはいつだ!? 俺はなにを言っている!
 小萌の不意打ちで思考は完全に止まっていた。しかし、身体は動くことをやめなかった。
 知りもしない幻想を吐き散らしてまで小萌を事実から遠ざけようとする。
「……憶えてるです? 小萌先生は『あの時』、『あの場所』で出会えたのが『上条ちゃん』で本当によかったと思ってるですよ」
 投げかけられる言葉が何度も胸をえぐる。
 悲鳴を叫び続ける心とは裏腹に、不自然なほど滑らかに言葉が流れていく。
「なに言ってるんですか……俺だってそうですよ」
 やめろ! これ以上『上条当麻』を演じるな! もう、この人だったらバレたっていいじゃ——、
 上条の脳裏に焼きついて離れない、向日葵のような笑顔。
 それを守らなければいけない。陰ることすらあってはならない。
「本当に……本当にそう思ってるです? 小萌先生に気を使ってるんじゃないです? お世辞とかじゃなくて……上条ちゃん……いえ、
『上条当麻』として言っていますか?」
 いつの間にか小萌が目の前にいた。
 上条が車椅子に座ってちょうど同じくらいの目線。心の奥まで覗き込むように、じっと上条を見つめている。
 『能力』と『学力』で全てを評価される学園都市で小萌ほど学生に真摯な態度をとる大人はいないだろう。上条は記憶を失ってから
の数ヶ月足らずで心からそう思っていた。
 バカなクラスメイトにも、怪しげな外国人のシスターにも、無鉄砲な上条にも小萌自身ができる精一杯のことをしようとしてくれる。
表面的な印象だけで決め付けず、ちゃんと向き合ってくれる。
 だからこそ、この人には誠実でありたい。
 たとえ言えないことでも、向けられた想いだけは返したい。
 なのに、
「——もちろん、です」
 『上条当麻』はそう答えていた。
「そう、ですか……それならいいのです。えへへ、なんか変なこと聞いちゃいましたね」
 やめてくれ……そんな笑顔で俺を見ないでくれ。俺はあなたに嘘をついたんだ。笑いかけてもらう資格なんてもうないんだ!!
 小萌の笑顔は心から守りたいと思う少女にどことなく似ている。それがいま、嘘にまみれた上条に向けられている。
 喉が枯れる。胸が痛い。心が軋む。
 とり返しがつかないことをしてしまった思いが全身を支配して、まともなことを考えられない。
「正直、小萌先生は不安だったので——」
 小萌の顔に一瞬だけ影が走った。しかし、それは本当に一瞬で次の瞬間にはまったく別の表情になっていた。
「ちょ、ちょっとどうしたのですか? 上条ちゃん、どうして泣いてるです!? あぁっ、やっぱり小萌先生のせいです!?」
 急に慌てだした小萌がそうまくしたてる。
 泣いている? 俺が? ……俺はまだこの人に迷惑をかけるのか!?
 笑いかけなければ。
 霞がかった意識の中でそう思った。
 ふざけたことでも言わなければ。いつも通りの冗談だと、心配する必要などまったくないのだと。
 そう確信できたのに——、
「あ、あぁ……」
 『上条当麻』はことごとく裏切った。
「——うわぁあああああ!!」
 堰(せき)を切ったかのように泣き叫んだ。
 唇を噛んで嗚咽を殺そうともせず、目元を隠さずこぼれ落ちる涙で頬を汚し、恥ずかしげもなく子供のように泣きじゃくった。崩れ
そうな心を支えるために小萌の服のすそを掴んだ。からっぽの心を誤魔化すために小萌の気配を感じていた。
 溢れ出した『弱さ』を全身で受け止めて、小萌はそっと上条に寄り添った。


 それから一〇分ほど上条は泣き続けた。
 涙が静まると、とめどなく溢れていた感情も影を潜め、冷静な思考と身体の自由が戻ってきた。
 やってしまった。
 思った以上に追い詰められていたことには驚いたが、それを堪えきれないほどに自分が脆かったことを痛感した。記憶喪失を隠し通
せていたと油断していた。
 横目でベンチの方に視線を向ける。小萌はなにを考えているかわからなかったが、一応は笑顔で天頂に上り始めた月を見上げている。
 上条が泣いている間は、ぽつりぽつりと小さな言葉を紡いだ。
「小萌先生はずっとそばにいるですよ。だから……上条ちゃんは泣いてもいいのです」
 なに一つ思い出を持っていないことを知った上で。
 上条は感情の昂ぶるまま記憶喪失のことを吐露していた。
 あの日より前の記憶がなにもないこと。それが決して戻ってこないこと。記憶喪失ということを知られてはいけないこと。それでも
自分のこと以外——インデックスや魔術に関することを言わなかったのは、インデックスを想ってか、それとも小萌を巻き込まないた
めか。
 上条の視線に気づいて小萌がおだやかに微笑む。
「……『あなた』は自分のことをどう思うです?」
 普段の呼び方——『上条ちゃん』ではなく『あなた』だった。
「俺は……気づいたら真っ白な病室だった。なんかのマンガみたいな、信じられないことばっか説明された。全然実感がなかったけど、
インデックスが……あの女の子が俺の前で泣くのを見たら……すごく、辛かった。だから、あの子を泣かせちゃいけないって思った。
だから——俺は『上条当麻』になった」
 その言葉は小萌に説明しているようで、上条自身に言い聞かせるようでもあった。
 事実を追いかけ、感情を鮮明にしていく。
「最初は、ほんとわけがわかんなかった。『上条当麻』って人間が……台本がないまま舞台に立たされてる、っていう感じ……かもし
れない。そういうの、よくわからないけど……でも大変だった」
 目を背けていた想いに再び出会う。
「——自分のことを考えてる暇なんてなかった。あの子と『上条当麻』の知り合いたち……いろんなことが起きたけど、俺は見て見ぬ
振りなんてできなかったし……やっぱ、したくなかった。知識だけしかなかったけど身体は動いてくれた。バカみたいなことだけど、
どっかに残ってたのかも、って思う。……俺は少しずつ『上条当麻』に近づいた」
 小萌はなにも言わない。
 いきなり自分の生徒が泣きだしたら、記憶喪失だなんて言い出したら、事情を聴きたくなるはずなのに——、
 ただ、そばにいてくれるだけ。
「だけど……近づいたのは外側だけだった」
 目頭が熱を帯びていく。
「みんなが俺を『上条当麻』って認めると、その度に自分がわからなくなった。記憶がなくなっても『上条当麻』は『上条当麻』だと
か、そんなこと言われなくてもわかってる。けど、でも……納得なんてできなかった! 俺の中で『上条当麻』はちゃんとした形にな
っていくのに……俺自身は空っぽのまま」
 揺らいだ世界に気づいて顔を隠すように俯く。もう、泣き顔は見せられない。
「結局……俺は誰、なんだよ」
 情けなさと、苛立ちと、虚しさと——混然した感情に思わず開口する。
「……」
 不意の気配。
 かわいらしい小萌の革靴が視界にはってきた。
 怖い。
 視線をあげることが怖い。小萌の顔を見ることが怖い。『上条当麻』ではない——初対面の人間と向き合う小萌が怖い。
「『あなた』は……」
 肩が震える。惨めな上条を嘲るように膝が笑いだす。
「『あなた』は『上条当麻』です。おバカさんで、どうしようもなくて……でも一生懸命で、ちっともめげない。小萌先生の大事な大
事な教え子です」
 小萌は笑っていた。いや……『あの日』自分に向けられた笑顔のように……精一杯、笑おうとしていた。
「——っ、だからっ!!」
 荒ぶる感情が声となって吐き出される。
 小萌が放った言葉はどうしようもなく正しいのだろう。記憶喪失になったからといって異なる人物に成り代わることなどありはしな
い。『記憶を失った上条』も『記憶を失う前の上条』も所詮は同一人物だ。
 けれど……それは偽善だ。慰めにすらほど遠い。


「違います。そうじゃないのです」
 頭(かぶり)を振って小萌は言った。
「どんな経緯で記憶喪失になったのか、小萌先生に詳しいことはわかりません。……でも『あなた』は……記憶を失ったときから、シ
スターちゃんを守ろうと思ったときから……『あなた』は『上条当麻』になったのです」
 温かい優しさが肩の震えを抑えていく。
「さっき『あなた』が言ったように、きっと……どこかに『上条当麻』が残っていたですよ。シスターちゃんに出会って、姫神ちゃん
と過ごして、風斬ちゃんと仲良くなって、土御門ちゃんたちと笑って、吹寄ちゃんに怒られて……『あなた』の中の『上条当麻』はみ
んなに触れて少しづつ大きくなったはずです」
 ゆっくりと首に腕を回され抱きしめられた。
 ちょっとタバコ臭い……でも陽だまりのような匂いが包み込んでくる。
「それはいままでの『上条当麻』じゃなくて……新しい、『あなた』が成長して創りあげた『上条当麻』なのですよ。以前と同じ必要
なんてありません。なりきる意味なんてないのです。だって……」
 小萌の腕に力が入った。
「だって『あなた』は、いままでの『上条当麻』よりずっと素敵な『上条当麻』なのですから」
 そんなの詭弁だと思った。この場凌ぎの言葉遊びだと罵りたかった。
 だけど——、
 その台詞は心の奥底に突き刺さって決して引き抜けないほどにめり込んでいく。
「小萌……せん、せい……」
 たとえ詭弁でも、たとえ言葉遊びでも……、
「——ありが、とう」
 送られた言葉はひどく嘘っぽくて——そして、嘘みたいに温かかった。
 上条は声を押し殺して再び、泣いた。

 上条が落ち着いてから、二人は公園を背に帰路を歩む。
 車椅子に揺られながら上条は気になっていたことを尋ねる。
「小萌先生は……俺が記憶喪失だって、気づいてたんですか? それであの公園に行ったんですか?」
 今日、小萌はまっすぐにあの公園に向かっていた。上条と小萌が出会ったのが『あの場所』というのなら記憶喪失のことを知ってい
て連れ出したとしか思えない。
 しかし——、
「あは……あはははは……か、上条ちゃん、それはですねー」
 小萌の反応は妙に落ち着きがない。
 なんというか……教師にいたずらがばれた小学生のようだ。
「小萌先生?」
「お、怒らないで聞いてくださいねっ?」
「……話の内容によります」
 小萌の表情はわからないが、ぐっと息を飲んだことがわかった。どうにも言いづらいことらしい。
 こほん、と喉を整えて小萌は話を切り出した。
「その……最近、上条ちゃんの様子がちょっと変だったので気になっていたのです。少し元気がないようい見えたので、まずはお見舞
いに行ったのですけど……案の定、上条ちゃんに違和感を覚えてしまったのですよー。それでですね……」
 振り向いて視線を合わせる。
「——カマ、かけたんですか?」
 一秒もしないで顔をそむけた小萌。少し頬がひくついている。かと思えば鼻先が触れ合いそうなほど顔を寄せてきた。
「ち、違うのですよー! 上条ちゃんのことなので、小萌先生がなにを聞いても『大丈夫』とかそんなこと言って、絶対はぐらかすと
思ったのです。なので、ちょっとだけ……ちょっとですよ!? その、上条ちゃんをからかっちゃおうと思いまして……」
「……から、かう?」
 予想外の告白だった。
 上条としては最初から小萌が記憶喪失のことを知っていたと思っていた。だから上条の昔のことを話し出したと思っていたのに……。
 からかおうとした?
「どうせ上条ちゃんったら小萌先生と会ったときのことなんか忘れてると思ったので、わざとその話をして焦らせてやろうと思ってた
のです。そしたら……その、上条ちゃんがいきなり泣き出して——」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
 ということはまさか……、
「最初から記憶喪失って知ってたんじゃ……」
「そ、そんなことわかるわけないじゃないですか! 上条ちゃんから聞いて小萌先生だってビックリしてるですよ!?」
 まさか……思いっきり墓穴を掘ったのか?
 盛大な脱力感に襲われ、なにもかも投げ出したくなる。
 しかし、その前にもう一つ聞かなければいけないことが増えた。
「じゃ、じゃあ……俺と小萌先生が初めて会った場所って……」


 一瞬の間。その後、不安に覆われていた顔を眩しい笑顔に塗り替えた。
「もちろん、あの公園じゃないですよー」
「……うだー、マジかよ」
 もはや文句を言うだけの気力すらない。というか、もとから文句を言うつもりなど全くない。
 深く身体を車椅子に預け、黒塗りの天井を見上げる。雲一つない空で月は煌々(こうこう)と輝き、夜の色合いを深めていく。
 今日も静かな夜になるだろう。
 けれど、安らかな眠りが待っている。そう確信できる。
 もう自分はいままでの『上条当麻』とは、仮初めの存在とは違うのだから。


 穏やかな夜。
 視界の隅にはさっきまで泣いていたかわいい教え子の黒髪。
(えへへ、上条ちゃんったら、まだまだ子供なのですよー)
 ナデナデとかヨシヨシとかイイ子イイ子とか、大好きな教え子に色々したい感情を必死に抑える。こうして一緒に歩いていると自然
と気分が高鳴っていった。
 それでも……、
 どうしても表情が曇っている気がする。
(記憶喪失、ですか……)
 なんとか笑顔を作ってみるが、やはり表情筋が固いようだ。たった数十分ではあの衝撃からは立ち直れない。
 本当に側頭部を鈍器で殴られたような鈍い衝撃だった。
 クラスの中でムードメイカーとして、まとめ役の一人として振舞う彼を知っている。
 自分の信念を曲げずに、誰かのために身を削っている彼を知っている。
 どんなにつらくても決して諦めない彼を知っている。
 そして記憶を失っても彼は彼のまま、誰にも迷惑をかけず全てを一人で抱え込んでいた。
(やっぱり……『あの時』となにも変わっていないのですね)
 一つだけ嘘をついていた。
 あの公園。
 いまの高校に赴任して数日足らずの月詠小萌と、学園都市に来たばかりの上条当麻。
 そこは本当に二人が出逢った場所だった。
(ごめんなさい、上条ちゃん……でも、これだけは言えなかったです)
 それは二人だけの思い出。
 『上条当麻』にさえ踏み入ることを許さない月詠小萌の大切な記憶。
 なにかあればいつも思い出していた。
(いつのまにかお別れしちゃったのですね……本当にずるい子です、本当に)
 けれど、その思い出も深く深くしまわなければいけない。
 忘れることなどできないから……一つの想いに添えられた言葉とともに、二度と開くことのない宝石箱の中へ。
(——さようなら『上条当麻』君)
 秋の夜風が慰めるように優しく頬を撫でていく。
 月詠小萌は『上条当麻』に気づかれないように一雫だけ涙を流した。
 たった一雫だけ。

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