少女はあてのない助けを求め、覚束ない足取りでただひたすら走っていた。
絶望は少女に泣くことすらも許さず、その事実が彼女の絶望をさらに深くする。
「……っ!?」
足がもつれ、日差しで熱せられたコンクリートの路面に倒れこみそうになるのを必死で踏みとどまる。
今倒れてしまったら、再び起き上がるだけの気力は既にない。
「……っ!?」
足がもつれ、日差しで熱せられたコンクリートの路面に倒れこみそうになるのを必死で踏みとどまる。
今倒れてしまったら、再び起き上がるだけの気力は既にない。
(もう、だめなのかな……)
少女の心に一瞬、諦めがよぎる。
(わたし、どうしてがんばっていたんだっけ?)
じりじりと肌を焼く日差しは、容赦なく彼女の思考能力を奪っていく。
「ごめんなさい……ごめん……なさ……」
謝ったのは、一体誰に対してだったのだろう。
彼女自身それを知るすべもない中、折れた心に従うように、彼女の膝がかくん、と折れた。
周囲から向けられる奇異の視線と嘲笑の中、彼女はゆっくりと意識を手放そうとして、
「ごめんなさい……ごめん……なさ……」
謝ったのは、一体誰に対してだったのだろう。
彼女自身それを知るすべもない中、折れた心に従うように、彼女の膝がかくん、と折れた。
周囲から向けられる奇異の視線と嘲笑の中、彼女はゆっくりと意識を手放そうとして、
「…………え?」
困惑する。待ち受けていたはずの地面との衝突は、誰かの力強い手で正面から受け止められることで回避されていた。
「なぜ、泣いているのであるか」
少女は涙など流していない。にもかかわらず、男はそう言った。
口調にいたわりはなく、こちらを安心させるような笑みを浮かべているわけでもない。
にもかかわらず「信頼に足る人間だ」と思わせるのは、常に誰かのための戦いに身を置いてきた彼の生き様によるところか。
気が付くと、少女はぽつりぽつりと自分が置かれている状況を語り始めていた。
今まで決して流れることのなかった涙で頬を濡らしながら。
口調にいたわりはなく、こちらを安心させるような笑みを浮かべているわけでもない。
にもかかわらず「信頼に足る人間だ」と思わせるのは、常に誰かのための戦いに身を置いてきた彼の生き様によるところか。
気が付くと、少女はぽつりぽつりと自分が置かれている状況を語り始めていた。
今まで決して流れることのなかった涙で頬を濡らしながら。
「事情は理解した。微力ではあるが、力になろう」
力強く頷くと、男は戦場に向かう決意をその目に湛え、こう口にした。
力強く頷くと、男は戦場に向かう決意をその目に湛え、こう口にした。
「心配しなくても良い。ゴルフは英国紳士の嗜みである」
その少女――三戸浦祝(みとうら いわい)が語った話はこうだ。
一か月前、彼女の両親が原因不明の病で急逝した。
彼女の実家は郊外のカントリークラブを経営しており、今年で成人を迎えた彼女の兄、三戸浦時人(ときひと)もプロの若手ゴルファーとして
クラブに名を連ねていたため、他に身寄りのない兄妹でもなんとか生計を立てられていた。
彼女の実家は郊外のカントリークラブを経営しており、今年で成人を迎えた彼女の兄、三戸浦時人(ときひと)もプロの若手ゴルファーとして
クラブに名を連ねていたため、他に身寄りのない兄妹でもなんとか生計を立てられていた。
……両親が残した借金の抵当に、カントリークラブが入っていることが発覚するまでは。
父の古い友人を名乗るその男は、両親の借金という寝耳に水の現実に困惑する兄妹にこう提案した。
「君たちに返済能力があることさえ証明できれば、差し押さえなくても特に問題はない。
どうだろう、ここはひとつ、君の力に賭けてみないか?」
どうだろう、ここはひとつ、君の力に賭けてみないか?」
要は「代表を一名ずつ出して勝負し、勝てれば差し押さえは取りやめる」ということだった。
胡散臭いと知りつつ乗らざるを得ない兄とは対照的に、祝は内心でひそかに安堵していた。
プロになってからというもの、兄が負けたところを見たことがない。両親の大事にしていたクラブは守られ、これからも大好きな兄と一緒に
暮らしていける。幼い祝がそんなふうに楽観的に考えたことを、一体誰が責められるだろう。
胡散臭いと知りつつ乗らざるを得ない兄とは対照的に、祝は内心でひそかに安堵していた。
プロになってからというもの、兄が負けたところを見たことがない。両親の大事にしていたクラブは守られ、これからも大好きな兄と一緒に
暮らしていける。幼い祝がそんなふうに楽観的に考えたことを、一体誰が責められるだろう。
そして、試合前日の夜。彼女のそんな幻想は無残にもぶち壊されることとなった。
時人の緊急入院。それも両親と同じ原因不明の病状という最悪の形で。
時人の緊急入院。それも両親と同じ原因不明の病状という最悪の形で。
時間は午前9時。試合開始まであと4時間の余裕がある。
アックアは祝を伴い、意識不明の時人を見舞いに来ていた。
アックアは祝を伴い、意識不明の時人を見舞いに来ていた。
「お兄ちゃん、昨日の夜から目が覚めないの」
見ている方がつらくなるような、沈痛な面持ちで俯く祝。
「お父さんたちもそうだったの。時々苦しそうにして、それでも目が覚めなくて、一週間もしないうちに……っ」
泣きそうになる祝を励ますように、アックアの大きな手が彼女の頭にそっと置かれる。
「わからないではないが、気を強くもて。お前の兄も両親との思い出も、私が必ず取り戻す」
言って、懐から十字架を象った小さなネックレスを取り出し、彼女の手に握らせる。
「これをお前の兄にかけてやれ。必ず助けになる」
祝は小さくうなずくと、ぐしぐしと目元をこすり、兄の首にそっとネックレスをかけた。
そんな彼女に満足し、アックアはひとり思索する。
見ている方がつらくなるような、沈痛な面持ちで俯く祝。
「お父さんたちもそうだったの。時々苦しそうにして、それでも目が覚めなくて、一週間もしないうちに……っ」
泣きそうになる祝を励ますように、アックアの大きな手が彼女の頭にそっと置かれる。
「わからないではないが、気を強くもて。お前の兄も両親との思い出も、私が必ず取り戻す」
言って、懐から十字架を象った小さなネックレスを取り出し、彼女の手に握らせる。
「これをお前の兄にかけてやれ。必ず助けになる」
祝は小さくうなずくと、ぐしぐしと目元をこすり、兄の首にそっとネックレスをかけた。
そんな彼女に満足し、アックアはひとり思索する。
(さて……どうしたものであるか)
近いうちにヴェントが学園都市に侵攻すると聞き、標的となる上条当麻という少年を一目見ておくつもりで自ら
日本へ渡ったものの、学園都市に着く前にとんだ足止めを食ってしまった形になる。
(だが。私の魔法名にかけて、この事態を見過ごすことはできん)
これは彼の矜持。傭兵として剣を振るおうと、「右席」に名を連ねようと、それだけは変えようない彼の真実だった。
日本へ渡ったものの、学園都市に着く前にとんだ足止めを食ってしまった形になる。
(だが。私の魔法名にかけて、この事態を見過ごすことはできん)
これは彼の矜持。傭兵として剣を振るおうと、「右席」に名を連ねようと、それだけは変えようない彼の真実だった。
「……おじちゃん?」
そんな彼の真剣な表情に気付いた祝が、恐る恐る声をかけてくる。
そんな彼の真剣な表情に気付いた祝が、恐る恐る声をかけてくる。
「何でもない。それよりお前は昨晩眠っていないのだろう。まだ時間はある。ベッドを借りて少し休んでおけ」
助けを求めて一晩中走り回っていたのだろう。
彼女は潔く頷くと、病室の簡易ベッドに横になると、小さな寝息を立てはじめた。
助けを求めて一晩中走り回っていたのだろう。
彼女は潔く頷くと、病室の簡易ベッドに横になると、小さな寝息を立てはじめた。
試合開始まで、残り3時間。
「あれ? 三戸浦プロじゃないんだね。なんだ、ちょっと楽しみにしてたのになぁ」
綿貫(わたぬき)と名乗った相手プレイヤーは、開口一番にそう言った。
「俺の雇い主も今日は急用で来れないから、謝っといてくれって言ってたけど。
さすがに選手がドタキャンってどうなんよ?」
「ご、ごめんなさい。お兄ちゃんは昨日から、その、病気で……」
次第に尻すぼみになっていく祝の弁解に、綿貫はつまらなそうにため息をつく。
「まあ、代理が出るってんならそれでもいいけどさ。この人、上手いのかい?
少なくとも、大会なんかでは見たことない顔だけど」
小馬鹿にするというよりは本気で疑問に思っているような顔で、アックアを眺め回す。
綿貫(わたぬき)と名乗った相手プレイヤーは、開口一番にそう言った。
「俺の雇い主も今日は急用で来れないから、謝っといてくれって言ってたけど。
さすがに選手がドタキャンってどうなんよ?」
「ご、ごめんなさい。お兄ちゃんは昨日から、その、病気で……」
次第に尻すぼみになっていく祝の弁解に、綿貫はつまらなそうにため息をつく。
「まあ、代理が出るってんならそれでもいいけどさ。この人、上手いのかい?
少なくとも、大会なんかでは見たことない顔だけど」
小馬鹿にするというよりは本気で疑問に思っているような顔で、アックアを眺め回す。
「プレイするのは初めてだが」
「ええーーーー!?」
驚愕の声は綿貫ではなく、祝のほうから上がった。
「さ、さささささっき『ゴルフは英国紳士の嗜み』とか言ってませんでした!?」
「私は紳士ではない。傭兵崩れのごろつきである」
「な、なんかものすごくだまされた気がしますが! いいんですか信じても!?」
「当然だ」
「今の会話の後でなんでそんなに自信満々なんですかこの人!」
一眠りして本来のテンションを取り戻したのか、意外と賑やかな祝を見てアックアはひそかに胸をなでおろした。
子どもというのは、やはりこのくらい元気な方がいい。
「それより、さっきから気になっているのだが。普段の恰好のまま来てしまったが、浮いてはいないだろうか」
「いやものすごく溶け込んでますから今更気にしなくていいですそんなの」
爽やかな青の長袖シャツの上に白の半袖を重ね、下は薄手のスラックス。
休日に郊外を歩いていたら、どこからどう見てもゴルフ好きの精悍なお父さんである。
「あー、まぁ、そんじゃそろそろお手並み拝見と行こうか。そっち先攻だなー」
なんだか早くも投げやりになりかけている綿貫に促され、アックアは気を取り直して
周囲を見渡した。
(……ふむ)
1番ホール、343ヤード。PAR4。
グリーンは右側から張り出した林の陰になっており、小さく刻むかフック気味の打球で迂回させなければならない。
「さ、さささささっき『ゴルフは英国紳士の嗜み』とか言ってませんでした!?」
「私は紳士ではない。傭兵崩れのごろつきである」
「な、なんかものすごくだまされた気がしますが! いいんですか信じても!?」
「当然だ」
「今の会話の後でなんでそんなに自信満々なんですかこの人!」
一眠りして本来のテンションを取り戻したのか、意外と賑やかな祝を見てアックアはひそかに胸をなでおろした。
子どもというのは、やはりこのくらい元気な方がいい。
「それより、さっきから気になっているのだが。普段の恰好のまま来てしまったが、浮いてはいないだろうか」
「いやものすごく溶け込んでますから今更気にしなくていいですそんなの」
爽やかな青の長袖シャツの上に白の半袖を重ね、下は薄手のスラックス。
休日に郊外を歩いていたら、どこからどう見てもゴルフ好きの精悍なお父さんである。
「あー、まぁ、そんじゃそろそろお手並み拝見と行こうか。そっち先攻だなー」
なんだか早くも投げやりになりかけている綿貫に促され、アックアは気を取り直して
周囲を見渡した。
(……ふむ)
1番ホール、343ヤード。PAR4。
グリーンは右側から張り出した林の陰になっており、小さく刻むかフック気味の打球で迂回させなければならない。
「この距離なら、2番アイアンであるか」
呟くと同時、アックアの右手には5mを超す巨大なメイスががっしりと握られていた。
「「ちょっと待てぇぇぇぇぇっ!!!」」
綿貫と祝の声が重なった。
「ちょ、ちょっと何ですかそれ!? っていうか今どこから出しました!?」
「ゴルフクラブであるが」
「それをゴルフクラブって言い張るかお前!? つーかよく片手で持てるなそんなの!」
むう、と手元のゴルフクラブ(では決してありえないもの)に視線を落とし、呻くアックア。
「ほら、こっち使って下さい!」
祝が差し出してくる(正常な)2番アイアンを渋々受け取ると、軽く振ってみる。
戦場で慣れない得物を使うのは不安ではあるが、ルールだというなら無理も言えない。
「始めてよいか」
「あーはいはい。どうぞどうぞ」
既に投げやりを通り越して「帰っていいですか?」的なオーラを全身から発している
綿貫に頷き返すと、アックアはグリップを握る手に力を籠め、スイングを開始した。
「「ちょっと待てぇぇぇぇぇっ!!!」」
綿貫と祝の声が重なった。
「ちょ、ちょっと何ですかそれ!? っていうか今どこから出しました!?」
「ゴルフクラブであるが」
「それをゴルフクラブって言い張るかお前!? つーかよく片手で持てるなそんなの!」
むう、と手元のゴルフクラブ(では決してありえないもの)に視線を落とし、呻くアックア。
「ほら、こっち使って下さい!」
祝が差し出してくる(正常な)2番アイアンを渋々受け取ると、軽く振ってみる。
戦場で慣れない得物を使うのは不安ではあるが、ルールだというなら無理も言えない。
「始めてよいか」
「あーはいはい。どうぞどうぞ」
既に投げやりを通り越して「帰っていいですか?」的なオーラを全身から発している
綿貫に頷き返すと、アックアはグリップを握る手に力を籠め、スイングを開始した。
念の為に断っておくと、「後方のアックア」ことウィリアム=オルウェルは聖人である。
聖人の常人離れした視力は、林の中を突っ切ることが可能なラインを見つけ出し、
聖人の卓越した身体能力は、期待される結果に直結するスイングの最適解を実現し、
聖人の飛び抜けたバランス感覚は、一切のぶれなくスイングを支え切り、
聖人の途方もない動体視力は、ボールを真芯でとらえる瞬間を見極め、
聖人の非常識な……とにかく、ボールはこれ以上ない完璧なパフォーマンスで林を貫通した。
聖人の常人離れした視力は、林の中を突っ切ることが可能なラインを見つけ出し、
聖人の卓越した身体能力は、期待される結果に直結するスイングの最適解を実現し、
聖人の飛び抜けたバランス感覚は、一切のぶれなくスイングを支え切り、
聖人の途方もない動体視力は、ボールを真芯でとらえる瞬間を見極め、
聖人の非常識な……とにかく、ボールはこれ以上ない完璧なパフォーマンスで林を貫通した。
カァン!と音を立て、カップからピンが弾き飛ばされる。直撃されたらしい。
運動エネルギーを失ったボールはそのまま真下へ落下、コトン!と快音。
「あ、ああああああああ……!?」
「うそ……」
唖然とする二人をよそに、アックアは満足げに息をつくと、
「次は貴様の手番であるな」
運動エネルギーを失ったボールはそのまま真下へ落下、コトン!と快音。
「あ、ああああああああ……!?」
「うそ……」
唖然とする二人をよそに、アックアは満足げに息をつくと、
「次は貴様の手番であるな」
……蹂躙が、始まった。
「なんだよこれありえねーよふざけんじゃねーよどういうことだよ勝てるわけねーよ
チートだろチート何がゴルフ今日初めてだよ俺の20年を返せよ……」
何やらうつろな目でぶつぶつと呟き続ける綿貫を横目に、アックアの最後のパターがボールをカップに沈めた。
終わってみれば、アックアはマイナス13。綿貫は本来の調子とは程遠い(無理もないが)プラス27。
将来有望なプレイヤーに深刻なトラウマを残しつつ、試合はアックアの圧勝で終了した。
「良い戦いであった。感謝する」
差し出されたアックアの手に、応える綿貫の手には力がない。さすがのアックアもやりすぎたことに気付いたのか、若干バツが悪そうに表情を歪める。
「もし貴様が人生に救いを求めるのであれば、バチカンのリドヴィアという修道女を尋ねるがよい。信仰とは何か、三日三晩かけて語って……」
言いかけて、彼女はつい先日大暴走の末にイギリス清教の『必要悪の教会』に拘束されたことを思い出す。
(うまくいかぬものであるな……っ!?)
心の中で苦笑したその時、後ろから誰かに勢いよく飛びつかれた。祝だった。
「む……」
背中にしがみついたまま身を震わせる祝に、肩越しに目を遣る。
「ありがと……おじちゃ、ふええええええええ」
感極まったのかそのまま泣き出した祝に、珍しく表情を緩めるアックア。と、その顔つきが不意に真剣なものへと戻る。
「まだ終わっていない」
「え……?」
「事後処理が残っているのである」
急に歩き出した彼に、背中に寄り添っていた祝が支えを失いたたらを踏む。
「ちょ、ちょっと、おじちゃん!?」
「さらばだ。兄と仲良く暮らせ」
一瞥すらせず、唐突に立ち去ろうとするアックアに、祝は精一杯の感謝を込めて声をかけた。
「また、会えるよね」
「会わない方がいいだろう」
背を向けたまま答える。
「私の矜持を否定するようではあるが……冷たい涙など、本来流さぬに越したことはないのだから」
こうして、アックアは次の戦場へと向かう。
そして、最後の言葉通り、祝がアックアと会うことは二度となかった。
チートだろチート何がゴルフ今日初めてだよ俺の20年を返せよ……」
何やらうつろな目でぶつぶつと呟き続ける綿貫を横目に、アックアの最後のパターがボールをカップに沈めた。
終わってみれば、アックアはマイナス13。綿貫は本来の調子とは程遠い(無理もないが)プラス27。
将来有望なプレイヤーに深刻なトラウマを残しつつ、試合はアックアの圧勝で終了した。
「良い戦いであった。感謝する」
差し出されたアックアの手に、応える綿貫の手には力がない。さすがのアックアもやりすぎたことに気付いたのか、若干バツが悪そうに表情を歪める。
「もし貴様が人生に救いを求めるのであれば、バチカンのリドヴィアという修道女を尋ねるがよい。信仰とは何か、三日三晩かけて語って……」
言いかけて、彼女はつい先日大暴走の末にイギリス清教の『必要悪の教会』に拘束されたことを思い出す。
(うまくいかぬものであるな……っ!?)
心の中で苦笑したその時、後ろから誰かに勢いよく飛びつかれた。祝だった。
「む……」
背中にしがみついたまま身を震わせる祝に、肩越しに目を遣る。
「ありがと……おじちゃ、ふええええええええ」
感極まったのかそのまま泣き出した祝に、珍しく表情を緩めるアックア。と、その顔つきが不意に真剣なものへと戻る。
「まだ終わっていない」
「え……?」
「事後処理が残っているのである」
急に歩き出した彼に、背中に寄り添っていた祝が支えを失いたたらを踏む。
「ちょ、ちょっと、おじちゃん!?」
「さらばだ。兄と仲良く暮らせ」
一瞥すらせず、唐突に立ち去ろうとするアックアに、祝は精一杯の感謝を込めて声をかけた。
「また、会えるよね」
「会わない方がいいだろう」
背を向けたまま答える。
「私の矜持を否定するようではあるが……冷たい涙など、本来流さぬに越したことはないのだから」
こうして、アックアは次の戦場へと向かう。
そして、最後の言葉通り、祝がアックアと会うことは二度となかった。
翌日、とあるビルの一室。
薄暗く陰鬱な雰囲気のその部屋の片隅で、四十がらみの男が若い女を相手に激昂した声を上げていた。
「くそ、どういうことだ! 高い金を払ってあんたに依頼したってのに、結局負けたんじゃどうにもならんじゃないか!」
「いやぁ、そんなこと言われてもねぇ。代役が出てきたのは私のせいじゃないでしょお?」
男は数日前、「祝の父親の友人」を名乗った男である。対する女の方は落ち着いた口調で、
「それに、そんなまどろっこしい計画立てるから、ややこしいことになるんでしょお? 最初からアタシに倍額払って、
妹の方も呪っとけば今頃すんなり行ってたのにさあ」
「くそ、どういうことだ! 高い金を払ってあんたに依頼したってのに、結局負けたんじゃどうにもならんじゃないか!」
「いやぁ、そんなこと言われてもねぇ。代役が出てきたのは私のせいじゃないでしょお?」
男は数日前、「祝の父親の友人」を名乗った男である。対する女の方は落ち着いた口調で、
「それに、そんなまどろっこしい計画立てるから、ややこしいことになるんでしょお? 最初からアタシに倍額払って、
妹の方も呪っとけば今頃すんなり行ってたのにさあ」
女は言葉を切ると、にんまりと笑みを浮かべる。
「何なら今からでも妹の方、呪おうか? お兄ちゃんのほうはもうすぐ死ぬしさあ?」
ちろり、と舌なめずりをする女の手に、奇妙な紋様で装飾された小さな符が現れる。
まるで蛇がのたうつように、自らの長い髪を右腕に巻きつけたその和装の女は、日本国内では名を知られた屈指の術者である。
ただし、あくまで裏稼業の人間としての知名度であるが。
「……頼めるか」
あの土地が今月中に手に入るか否かで、転売額が大きく変わってくる。
男は不承不承といった感じではあるが、それでも兄妹の殺害を簡単に肯定した。
「ま、うまくすれば一週間くらいで片が付くでしょお。そしたらアタシものんびり、海外で羽でも伸ばそうかしらねえ」
「何なら今からでも妹の方、呪おうか? お兄ちゃんのほうはもうすぐ死ぬしさあ?」
ちろり、と舌なめずりをする女の手に、奇妙な紋様で装飾された小さな符が現れる。
まるで蛇がのたうつように、自らの長い髪を右腕に巻きつけたその和装の女は、日本国内では名を知られた屈指の術者である。
ただし、あくまで裏稼業の人間としての知名度であるが。
「……頼めるか」
あの土地が今月中に手に入るか否かで、転売額が大きく変わってくる。
男は不承不承といった感じではあるが、それでも兄妹の殺害を簡単に肯定した。
「ま、うまくすれば一週間くらいで片が付くでしょお。そしたらアタシものんびり、海外で羽でも伸ばそうかしらねえ」
「それは無理であるな」
声。一瞬遅れ、ビルの外壁が粉々に吹き飛んだ。
「第一に、あの兄妹を殺すことが不可能である。術者は今ここで私が斃す。第二に、貴様が行くのは外国ではなく地獄である」
威風堂々、彼が言うところの『2番アイアン』を携えたアックアが室内に足を踏み入れた。
「念のために聞いておくが。あの兄妹の両親を殺したのもお前であるな?」
原因不明の病。アックアは知る由もないが、かつて闇咲と上条当麻が協力して解決した事件と同質の、あるいは更に強化した呪い。
魔術特有の匂いを逆にたどっていけば、おのずと術者の下へ辿り着く。
威風堂々、彼が言うところの『2番アイアン』を携えたアックアが室内に足を踏み入れた。
「念のために聞いておくが。あの兄妹の両親を殺したのもお前であるな?」
原因不明の病。アックアは知る由もないが、かつて闇咲と上条当麻が協力して解決した事件と同質の、あるいは更に強化した呪い。
魔術特有の匂いを逆にたどっていけば、おのずと術者の下へ辿り着く。
「だからなあに? わた」
返事は最後まで言えなかった。
薙ぎ払われたメイスが、まるでハエ叩きを直撃されたハエのように、彼女を軽々と真横へ吹き飛ばしていたからだ。
「……くふ? くふふふふふ」
壁に直撃され、明らかな致命傷を受けながら、彼女は愉快そうに声をあげて笑う。
アックアは不審そうに眉を顰めると、手にしたメイスを構え直した。
「いやあ、すごいわあ。アナタ、噂の『聖人』ってやつね? ここまで爽快に瞬殺されると、なんかもう感動しかできないわあ」
心の底から愉快そうな笑み。それが一転、嗜虐に満ちた表情に変わる。
「でも、そんなアナタでもあの兄妹は助けられない。アタシを殺したところで、呪いは既にアタシの手を離れているから。
かなり繊細な術式だから、いまから解析してたら間に合わない。くふ、くふふふふははははあはははははははは!!!」
狂笑する女に、アックアは「何だそんなことか」とでも言わんばかりのつまらなそうな視線を向けると、
「そちらも何とかなっている頃であるな。さて、時間が惜しい。悪いが終わらせてもらう」
アックアは再びメイスを振り上げると、耳障りな笑い声の発生源に向かって勢いよく振り下ろした。
薙ぎ払われたメイスが、まるでハエ叩きを直撃されたハエのように、彼女を軽々と真横へ吹き飛ばしていたからだ。
「……くふ? くふふふふふ」
壁に直撃され、明らかな致命傷を受けながら、彼女は愉快そうに声をあげて笑う。
アックアは不審そうに眉を顰めると、手にしたメイスを構え直した。
「いやあ、すごいわあ。アナタ、噂の『聖人』ってやつね? ここまで爽快に瞬殺されると、なんかもう感動しかできないわあ」
心の底から愉快そうな笑み。それが一転、嗜虐に満ちた表情に変わる。
「でも、そんなアナタでもあの兄妹は助けられない。アタシを殺したところで、呪いは既にアタシの手を離れているから。
かなり繊細な術式だから、いまから解析してたら間に合わない。くふ、くふふふふははははあはははははははは!!!」
狂笑する女に、アックアは「何だそんなことか」とでも言わんばかりのつまらなそうな視線を向けると、
「そちらも何とかなっている頃であるな。さて、時間が惜しい。悪いが終わらせてもらう」
アックアは再びメイスを振り上げると、耳障りな笑い声の発生源に向かって勢いよく振り下ろした。
同時刻、三戸浦時人の病室。
看護婦や他の患者に気付かれることもなく、時人を見下ろすひとつの影があった。
「まったく、アックアも人使いが荒いですねー。こんな極東の地に呼びつけるなんて、埋め合わせはきちんとしてもらわないと割に合いません」
言いながら、意識の戻らない時人の首筋にかけられたネックレスに視線を落とす。
「まあ、この国には珍しいローマ正教の信徒だってことですし。術式の『調整』にはこういう珍しい事例が非常に助かりますから、別にいいですけどね」
言うまでもなく、時人はローマ正教徒ではない。
だが、かつて学園都市で"運び屋"オリアナ=トムソンが誤って姫神(みんかんじん)を攻撃したように。
あるいは修道女オルソラ=アクィナスが「身元引受」の証として十字架を受け取ったように。
特定のアイテムさえあれば、立場を変える、あるいは誤認させることは比較的造作もない。
「さて、仕事も溜まっていますし、さっさと片付けてバチカンに戻りましょうか」
男は気だるげに呟くと、彼の得意かつ唯一の術式を起動させた。
「まったく、アックアも人使いが荒いですねー。こんな極東の地に呼びつけるなんて、埋め合わせはきちんとしてもらわないと割に合いません」
言いながら、意識の戻らない時人の首筋にかけられたネックレスに視線を落とす。
「まあ、この国には珍しいローマ正教の信徒だってことですし。術式の『調整』にはこういう珍しい事例が非常に助かりますから、別にいいですけどね」
言うまでもなく、時人はローマ正教徒ではない。
だが、かつて学園都市で"運び屋"オリアナ=トムソンが誤って姫神(みんかんじん)を攻撃したように。
あるいは修道女オルソラ=アクィナスが「身元引受」の証として十字架を受け取ったように。
特定のアイテムさえあれば、立場を変える、あるいは誤認させることは比較的造作もない。
「さて、仕事も溜まっていますし、さっさと片付けてバチカンに戻りましょうか」
男は気だるげに呟くと、彼の得意かつ唯一の術式を起動させた。
「優先する。人体を上に、呪力を下に!」
術者の部屋から逃げ出そうとしていた男も始末し、一息ついたアックアは周囲に人払いの結界を張ると、
「いるのだろう? 前方のヴェント」
周囲に響き渡る――実際は結界のおかげで聞こえても意識できないが――大声でその名を呼んだ。
「そんな大声出さなくても、ちゃんと聞こえてる」
呆れたような声とともに、物陰から全身黄色のワンピースに身を包んだ女が姿を現す。
前方のヴェント。アックアと同じく『神の右席』に属するローマ正教屈指の魔術師である。
「気づいてたみたいね。さすが聖人、ってところかしら」
茶化すように笑い、不意に表情を厳しいものに切り替えるヴェント。
「私はこれから学園都市を攻める」
「……そうか」
「上条当麻ってのブッ殺して、さっさとバチカンへ帰るよ。ここの食い物はどうも口に合わない」
イタリアなめてんのか、と毒づくヴェント。
「ひとつ聞きたいことがある」
「ん?」
「なぜ、手を貸した」
詰問とも取れるアックアの言葉に、ヴェントはとりあえずとぼけてみせる。
「何のこと?」
「ゴルフの件である。私が打ったボールが何度か、不自然な軌道を辿った。まるで"風に運ばれている"ように」
ヴェントの属性は『風』。空気の流れを操ることなど造作もないだろう。
「……ほんの気まぐれ、かしらね」
ぽつり、と彼女はこぼした。
「兄妹で幸せに暮らせるなら、と思っただけよ」
呟くと同時、背を向けてそのまま歩み去っていくヴェント。その心中はいかなるものだったろうか。
彼女の背を見送りながら、アックアは心のどこかでヴェントに敗北してほしいと願っている自分に気付いた。
後戻りできなくなる前に。誰かが引き戻せるうちに。
「幸せに……か」
そして願わくば、上条当麻も普通の生活に戻したい。
たとえ右腕を失うことになろうと、彼を大切に想う者たちが冷たい涙を流すことのないように。
「そんな大声出さなくても、ちゃんと聞こえてる」
呆れたような声とともに、物陰から全身黄色のワンピースに身を包んだ女が姿を現す。
前方のヴェント。アックアと同じく『神の右席』に属するローマ正教屈指の魔術師である。
「気づいてたみたいね。さすが聖人、ってところかしら」
茶化すように笑い、不意に表情を厳しいものに切り替えるヴェント。
「私はこれから学園都市を攻める」
「……そうか」
「上条当麻ってのブッ殺して、さっさとバチカンへ帰るよ。ここの食い物はどうも口に合わない」
イタリアなめてんのか、と毒づくヴェント。
「ひとつ聞きたいことがある」
「ん?」
「なぜ、手を貸した」
詰問とも取れるアックアの言葉に、ヴェントはとりあえずとぼけてみせる。
「何のこと?」
「ゴルフの件である。私が打ったボールが何度か、不自然な軌道を辿った。まるで"風に運ばれている"ように」
ヴェントの属性は『風』。空気の流れを操ることなど造作もないだろう。
「……ほんの気まぐれ、かしらね」
ぽつり、と彼女はこぼした。
「兄妹で幸せに暮らせるなら、と思っただけよ」
呟くと同時、背を向けてそのまま歩み去っていくヴェント。その心中はいかなるものだったろうか。
彼女の背を見送りながら、アックアは心のどこかでヴェントに敗北してほしいと願っている自分に気付いた。
後戻りできなくなる前に。誰かが引き戻せるうちに。
「幸せに……か」
そして願わくば、上条当麻も普通の生活に戻したい。
たとえ右腕を失うことになろうと、彼を大切に想う者たちが冷たい涙を流すことのないように。
「行くか、学園都市へ」
既に後ろ姿の見えなくなったヴェントの足跡をたどるように、彼もまた戦場へと歩を進めていく。
空はまるで水面のように曇りない青を湛えながらも、遠くから近づく雨雲の気配を匂わせていた。
空はまるで水面のように曇りない青を湛えながらも、遠くから近づく雨雲の気配を匂わせていた。
了