[16]Interval extra03―コイワズライ 前編
午後三時過ぎ――第七学区。
『♪~~』
駅前から続く坂道。上り坂をテクテクと歩いていた姫神秋沙の学生鞄から緩やかなメロディが流れた。
「ん?」
「電話?」
「電話だねぇ」
携帯電話の着信音。着信メロディーは誰からかかってきても同じメロディが流れる様に設定してある。
だから誰からかはまだ判らない。
でも、その電子音は姫神の心臓のリズムを少しだけ早くした。
メゾピアノからメゾフォルテへ。アダージョからアンダンテへ。トクン、トクンとときめく乙女心の旋律は頬を容易く赤色に染め
あげる。
(明日の約束とか?いや、もしかしてこれから会えないか?とか)
真っ先に浮かぶのは一人の少年。上条当麻。
自然に足が止まった。
(時間差攻撃。君も女の子の扱いが上手くなったね。そこだけなんかムカつかなくも無い)
少し先に不思議そうな顔をした吹寄と越川の顔が並んでいる。突然姫神が立ち止まったから何かあったのかと思うのも当然だろう。
「姫神さん?」
「ひめちゃーん、彼氏からの電話?」
「なっ!?彼氏!?姫神さんいつの間に……。いやもしかして……あぁいやいやそれは無い、それは無い……はず」
「ふーちゃん何ブツブツ言ってんの?姫ちゃんってば結構人気あるんだよ。てかそれはふーちゃんだって一緒っしょ?」
「知らないわよッ!?私はああいう軟派な連中は嫌いなの!」
「んじゃ本命は上条君?彼も結構人気あるみたいだよ。前途多難だよねぇ"お互い"」
「なっ!?なんでそこで上条当麻の名前が出てくるのよッ!」
「図星か、にやり」
「待ちなさいッ」
「待ちませんッ」
とりあえず姫神は歩道の真ん中でぐるぐるとコントしてる彼女達に「先に行ってて」と右手を振って先を促す事にした。
どうせ目的地は分かっている。一端はぐれた所で問題は無い。それに電話の内容いかんではこのまま別行動になる可能性すらある。
あるかも知れない。無いとは言い切れない。むしろあって欲しい。あの少年には是非自分を選んで欲しい。姫神秋沙はそう思った。
どうしても期待してしまう。それがどんなに可能性の低い事なのか理解していても。
学生鞄と白いトートバックを持つ手に力がこもった。
携帯電話はまだ取らない。着信音が途切れた。がすぐにまたかかってきた。
「ん、そう?じゃあ先に行ってるわね姫神さん」
「姫ちゃん、その、いろいろとがんばってね」
「わかった。できるだけ早く行く」
着信音は鳴り続ける。これで着信は四回目。つまり、よっぽど大事な用件という事だ。
クラスメイト二名の姿が坂の向こうに消えたのを確認してから、姫神は大きく深呼吸をして鞄を開けた。
(願わくば"彼"からでありますように……)
淡い幻想を胸に。胸の早鐘はどんどんと勢いを増す。それは決して悪い感覚では無かった。
だが少女の淡い幻想はその直後、無残に砕け散る事となる。
鞄から取り出した携帯電話の液晶に表示されるのは姫神が居候している家主の名前、彼女の担任でもある月詠小萌。
「小萌。紛らわしい」
あからさまな落胆の吐息を吐き出して、姫神の幸せ指数がみっつぐらい下がった。
思わず携帯電話を握る手に力が籠もる。握ったぐらいで壊れる程最近の携帯電話はやわではないが何故か携帯電話はミシミシと音
を立てていた。
携帯電話の通話ボタンを押し、耳に当てる。
『もしもし……』
流れ出たのは聞き慣れた声。
(この人には。声変わりという時期が無かったのだろうか?)
とえらく失礼な感想が頭に浮かぶ。
それでも学園都市の七不思議の一つに数えられるちびっ子先生だからと説明されれば、納得できるのが凄いといえば確かに凄い。
知らない人が聞いたら、きっと簡単に信じ込んでしまう事だろう。
『もしもーし』
「もしもし」
『姫神ちゃんですかー?なかなか出てくれないから困ってたところですよー』
「小萌。携帯電話で相手の確認は不要だと思う」
ちびっこ先生は自分の部屋にいるんだろうか?フローリングの床を歩く音が聞こえる。
『一応の礼儀なのですよー。そりゃ姫神ちゃんの携帯電話に掛けてるのだから姫神ちゃんが出なかったら先生は激しく
ビックリしちゃうのですけれどね。そんな事より姫神ちゃん、今外ですか?』
「今外。吹寄さんと越川さんと一緒に地下街に行く所」
今度は扉が閉まる音。少し遅れて鍵が掛かる音。
おそらく部屋を出たのだろう。途端に雑音が多くなり声が聞き取りづらくなった。
『ありゃ、上条ちゃんと一緒じゃ無かったんですか。先生はてっきり姫神ちゃんは上条ちゃんと遊びに行ってると思ってたんですが』
「ぁぅ」
何気に姫神の乙女回路へとグサリと突き刺さる恩師の言葉。これで狙ってやってる訳で無いのだから余計にたちが悪い。
が、痛む胸を押さえ姫神は冷ややかな口調で切って返す。
「小萌。切っていい?」
既に細い指は通話終了ボタンにリーチをかけてある。後は押し込むだけ。それでこの拷問(かいわ)は終わる。
『わーわー!姫神ちゃんってばいつからそんな悪い子になったのですかぁ!?』
「小萌。そろそろ用件を言って欲しい」
『う~、姫神ちゃんは先生の事を馬鹿にしてるのですね?先生は……先生は……』
「小萌先生。用件」
先生とつけただけだが向こうのちいさい人はそれで満足するようで機嫌を直してくれた。
(小萌。単純)
『実はですねー黄泉川先生から部屋に遊びに来ないかと誘われてまして、これからお邪魔しに行くところなのですよー』
(体育の黄泉川先生。小萌の同僚)
「小萌。お酒はほどほどに」
『なっ!?姫神ちゃんは先生を大酒飲みだと思ってるのですかー!?』
「うん。あとヘビースモーカー」
『うぁぁぁああああああ!教え子がいじめるんですよぉぉぉぉ』
「小萌。うるさい」
『♪~~』
駅前から続く坂道。上り坂をテクテクと歩いていた姫神秋沙の学生鞄から緩やかなメロディが流れた。
「ん?」
「電話?」
「電話だねぇ」
携帯電話の着信音。着信メロディーは誰からかかってきても同じメロディが流れる様に設定してある。
だから誰からかはまだ判らない。
でも、その電子音は姫神の心臓のリズムを少しだけ早くした。
メゾピアノからメゾフォルテへ。アダージョからアンダンテへ。トクン、トクンとときめく乙女心の旋律は頬を容易く赤色に染め
あげる。
(明日の約束とか?いや、もしかしてこれから会えないか?とか)
真っ先に浮かぶのは一人の少年。上条当麻。
自然に足が止まった。
(時間差攻撃。君も女の子の扱いが上手くなったね。そこだけなんかムカつかなくも無い)
少し先に不思議そうな顔をした吹寄と越川の顔が並んでいる。突然姫神が立ち止まったから何かあったのかと思うのも当然だろう。
「姫神さん?」
「ひめちゃーん、彼氏からの電話?」
「なっ!?彼氏!?姫神さんいつの間に……。いやもしかして……あぁいやいやそれは無い、それは無い……はず」
「ふーちゃん何ブツブツ言ってんの?姫ちゃんってば結構人気あるんだよ。てかそれはふーちゃんだって一緒っしょ?」
「知らないわよッ!?私はああいう軟派な連中は嫌いなの!」
「んじゃ本命は上条君?彼も結構人気あるみたいだよ。前途多難だよねぇ"お互い"」
「なっ!?なんでそこで上条当麻の名前が出てくるのよッ!」
「図星か、にやり」
「待ちなさいッ」
「待ちませんッ」
とりあえず姫神は歩道の真ん中でぐるぐるとコントしてる彼女達に「先に行ってて」と右手を振って先を促す事にした。
どうせ目的地は分かっている。一端はぐれた所で問題は無い。それに電話の内容いかんではこのまま別行動になる可能性すらある。
あるかも知れない。無いとは言い切れない。むしろあって欲しい。あの少年には是非自分を選んで欲しい。姫神秋沙はそう思った。
どうしても期待してしまう。それがどんなに可能性の低い事なのか理解していても。
学生鞄と白いトートバックを持つ手に力がこもった。
携帯電話はまだ取らない。着信音が途切れた。がすぐにまたかかってきた。
「ん、そう?じゃあ先に行ってるわね姫神さん」
「姫ちゃん、その、いろいろとがんばってね」
「わかった。できるだけ早く行く」
着信音は鳴り続ける。これで着信は四回目。つまり、よっぽど大事な用件という事だ。
クラスメイト二名の姿が坂の向こうに消えたのを確認してから、姫神は大きく深呼吸をして鞄を開けた。
(願わくば"彼"からでありますように……)
淡い幻想を胸に。胸の早鐘はどんどんと勢いを増す。それは決して悪い感覚では無かった。
だが少女の淡い幻想はその直後、無残に砕け散る事となる。
鞄から取り出した携帯電話の液晶に表示されるのは姫神が居候している家主の名前、彼女の担任でもある月詠小萌。
「小萌。紛らわしい」
あからさまな落胆の吐息を吐き出して、姫神の幸せ指数がみっつぐらい下がった。
思わず携帯電話を握る手に力が籠もる。握ったぐらいで壊れる程最近の携帯電話はやわではないが何故か携帯電話はミシミシと音
を立てていた。
携帯電話の通話ボタンを押し、耳に当てる。
『もしもし……』
流れ出たのは聞き慣れた声。
(この人には。声変わりという時期が無かったのだろうか?)
とえらく失礼な感想が頭に浮かぶ。
それでも学園都市の七不思議の一つに数えられるちびっ子先生だからと説明されれば、納得できるのが凄いといえば確かに凄い。
知らない人が聞いたら、きっと簡単に信じ込んでしまう事だろう。
『もしもーし』
「もしもし」
『姫神ちゃんですかー?なかなか出てくれないから困ってたところですよー』
「小萌。携帯電話で相手の確認は不要だと思う」
ちびっこ先生は自分の部屋にいるんだろうか?フローリングの床を歩く音が聞こえる。
『一応の礼儀なのですよー。そりゃ姫神ちゃんの携帯電話に掛けてるのだから姫神ちゃんが出なかったら先生は激しく
ビックリしちゃうのですけれどね。そんな事より姫神ちゃん、今外ですか?』
「今外。吹寄さんと越川さんと一緒に地下街に行く所」
今度は扉が閉まる音。少し遅れて鍵が掛かる音。
おそらく部屋を出たのだろう。途端に雑音が多くなり声が聞き取りづらくなった。
『ありゃ、上条ちゃんと一緒じゃ無かったんですか。先生はてっきり姫神ちゃんは上条ちゃんと遊びに行ってると思ってたんですが』
「ぁぅ」
何気に姫神の乙女回路へとグサリと突き刺さる恩師の言葉。これで狙ってやってる訳で無いのだから余計にたちが悪い。
が、痛む胸を押さえ姫神は冷ややかな口調で切って返す。
「小萌。切っていい?」
既に細い指は通話終了ボタンにリーチをかけてある。後は押し込むだけ。それでこの拷問(かいわ)は終わる。
『わーわー!姫神ちゃんってばいつからそんな悪い子になったのですかぁ!?』
「小萌。そろそろ用件を言って欲しい」
『う~、姫神ちゃんは先生の事を馬鹿にしてるのですね?先生は……先生は……』
「小萌先生。用件」
先生とつけただけだが向こうのちいさい人はそれで満足するようで機嫌を直してくれた。
(小萌。単純)
『実はですねー黄泉川先生から部屋に遊びに来ないかと誘われてまして、これからお邪魔しに行くところなのですよー』
(体育の黄泉川先生。小萌の同僚)
「小萌。お酒はほどほどに」
『なっ!?姫神ちゃんは先生を大酒飲みだと思ってるのですかー!?』
「うん。あとヘビースモーカー」
『うぁぁぁああああああ!教え子がいじめるんですよぉぉぉぉ』
「小萌。うるさい」
時折姫神の後ろを車が通り過ぎる。この街は学生が人口の八割を占めるので道路を走っているのはほとんどが学バスだ。
小萌先生が落ち着くまでに要した時間は数分――。その間姫神は坂道の中腹辺りでガードレールに腰を掛けて待つ事になっていた。
小萌先生が落ち着くまでに要した時間は数分――。その間姫神は坂道の中腹辺りでガードレールに腰を掛けて待つ事になっていた。
『えぐえぐ、ですから夕食は外で済ますか何かして欲しいんですよー』
結局の所、肝心の用件自体は数分もしない内に終わった。
要は小萌先生はこれから同僚の部屋に遊びに行って夜まで帰ってこないから、夕食は適当に済まして来て欲しいと言う事だ。
メールでも済む所を律儀に電話してくれるのは責任感故か。
『というわけで、姫神ちゃん、すみませんがよろしくお願いしますね』
「わかった。小萌も気をつけて」
『それでは行ってきますねー』
パタン、と二つ折りに携帯電話を畳んで姫神は軽く嘆息した。
視線は左手に持つ携帯電話に落とされる。
細い指で小さなボタンを押し込んで姫神はアドレス帳を呼び出した。
登録件数は少ない。三十件程度。二学期からのクラスメイト達がそのほとんどだ。
だから目的の番号はすぐに見つかる。探して数秒で即ヒット。見つかるように整理もしてある。"特別"な分類にも分けてある。
「上条。当麻」
姫神秋沙にとってその名前は特別な意味を持つ。
ただ口から出しただけで顔の温度は上がる。思い浮かべれば胸が苦しくなる。吐き出す吐息は熱を帯びる。
典型的な恋の病。
胸に秘めた思いが成就するその時まで決して完治する事の無い不治の病。
学園都市屈指の名医であるあの医者ですら、姫神の難病を治療する事は出来ないだろう。なにせ手ごわい恋敵(ライバル)は例の少年が
無自覚の内に発揮するフラグ体質のせいで現在進行形にて増殖中だ。正直いい加減にして欲しいと思う時もある。
「はぁ……。虚しい」
丁度坂道の頂上に差し掛かった頃だった。後ろの方からけたたましい排気音。接近する騒音に気づいた姫神が振り返った。
(歩道なんだけど……。スクーター!?)
「きゃっ!?」
姫神の手から携帯電話が落下しカツンと音をたてた。
掠めるように通過した黄色いスクーターに驚いて姫神はアスファルトの地面に尻餅をつく。
「いたたたた。なんて乱暴な運転」
悪態をつき、ゆっくりと立ち上がる。スカートの汚れを手で払い。地面に落ちた携帯を拾った。そして鞄へと手を伸ばす。
手は何も掴まなかった。
「……あれ?」
黒い瞳をパチクリ。ぐるりと周囲を見渡す。一気に血の気が引いた様な気がした。
(鞄が。無い)
姫神は慌てて走り去るスクーターを見た。
赤いフルフェイスヘルメットを被った運転手の手に握られているのは"姫神の学生鞄と白いトートバック"。
それを表す言葉が姫神の頭に浮かんだ。ひったくり。普通はもっとお金になりそうな物を狙う。
(よりによってアレを……)
この時、姫神秋沙は自分の準備の良さを呪った。まさかこんな事になるとは思っても見なかったのだ。
「返してっ!」
姫神秋沙の思考はただ一つの目的の為に動いた。
彼我の距離を確認。続いて自分の速度を確認。最後に相手の速度を確認。
(走って追いつくのは無理)
相手はまがりなりにもバイクだ。姫神が仮にオリンピック選手級の運動能力を持っていたとしてもまともに競争しては勝負の結果が
見えている。まるで兎と亀。そもそも競う事自体が間違ってるような絶望的な状況だ。兎が昼寝しない限り、亀は絶対に勝てない。
だけど諦めるわけにはいかなかった。
(せっかく。せっかく"編みきった"のにっ)
懸命に手を振って。脚を急かして。追いかけた。
だけど距離は縮まらない。むしろ開く。
下り坂を降りきった所で、引ったくり犯のスクーターが二十メーター程先の角を右に曲がったのが見えた。
遠い。おそらく姫神が角を曲がる頃には更に差は開いてるだろう。
「はぁ。はぁ」
荒い息がひっきりなしに吐き出される。悲鳴をあげる心臓と弱音を吐く脚の筋肉。いくら若いとは言っても準備運動も無しに全力疾走
すれば当然だった。筋肉がボイコットを開始し、体を倦怠感が襲う。脳からは休息の指示が出る。
だけど全部無視する。
「ま、負けるか。他の何でもいいけどアレは駄目」
悩んだり、迷ったりしてる暇は無い。
見失ったらアレは二度と姫神の手には戻らないだろう。もしかしたら犯人の手によってボロボロに切り裂かれてしまうかも知れない。
何せ相手は金目の物でも入ってるかと思って姫神の鞄を盗ったのだろうから。その辺りが少し疑問ではあるが。
性根が曲がっていれば腹いせにそれぐらいの事はやりかねない。
実際の所、別に鞄自体はどうでもいい。戻ってこなくてもいい。アレ以外の中身もどうでもいい。ボロボロに壊されても破かれても、
今は興味も愛着も沸かない。アレ以外は。
だけどアレは駄目だ。代わりが無い。
普通なら、ここで諦めて警備員なり警察なりに駆け込むところだった。そう"普通”なら。
(こっちも。はい、そうですかって諦められない)
悔しそうに握り締める右手。生憎、姫神秋沙の事情は"普通"ではなかった。いうなればそれは"特別"。
明日はクリスマス・イブなのだから。その為に一ヶ月も前から準備をした。
あのやたらと情報通な茶髪ポニテからは購買のチョココロネ十個と引き換えにあの少年の胸囲だとかその他もろもろのデータを教え
てもらった。暇を見つけては少しづつ編んだ。
だというのにこれではあんまりでは無いか。これは姫神では彼に相応しくないと意地悪な神様が与えた試練なのだろうか?
「そんな神様なんて要らない。そんな結末なんて認めない。そんな結果なんて――絶対に従わない!」
走りながら目尻に涙を滲ませて吼える。バッドエンドのヒロインになるのは嫌だった。
(犯人が逃げたのは一本道……)
考える。姫神秋沙は考える。考えなければいけない。
取り戻す為に。明日の為に。一ヶ月の努力の為に。そしてあの少年の為に。何よりも自分の為に。
思い浮かぶのは切欠。追憶の一ページ。
『今年の冬は寒くなるからな、俺なんて去年まで着てたセーター縮ませちゃってさ。新しく調達しなけりゃならないのに上条家の家計
簿は火の車ですよ、もう赤ペン先生もびっくりだ』
『ふぅん。それは大変』
『大変だと思ってねぇだろ姫神』
『そんな事は無い。私も大変だから』
『んだよ、それ?』
『来月になればわかるかも知れない。それまでセーターは買わないほうがいいよ』
『わけわかんねぇぞ姫神、何かの謎掛けか?』
『それは秘密。とにかく言うとおりにしてみて』
丁度ひと月前の教室。些細な出来事。ただの世間話。友人同士の他愛の無い会話。
だけど姫神の知る限り、それからあの少年が学生服の下にセーターらしき物を着てきた事は無かった。
もしかしたら本当に買う余裕が無いだけだったかも知れない。
でも姫神は違うと思っていた。彼はわがままを聞いてくれているのだ。優しいから。誰も対しても優しいから。
だったら誰がその優しさを裏切る事なんて出来るだろうか?誰にだって出来やしない。少なくても姫神秋沙には出来ない。
(あきらめない。絶対に取り戻す)
"あの先には何があった?あの先には誰がいた?自分はどこに向かう途中だった?"思い至り額の汗を拭う。
黒真珠の瞳には活力が戻り、汗だくの手が制服のスカートのポケットを探る。固い感触が指先に当たった。乱暴に引っつかんで手首
のスナップで開き、アドレス帳から目当ての番号を探し当てる。
「あっち。あっちには彼女達が――いる!」
[12月23日―PM15:12]
結局の所、肝心の用件自体は数分もしない内に終わった。
要は小萌先生はこれから同僚の部屋に遊びに行って夜まで帰ってこないから、夕食は適当に済まして来て欲しいと言う事だ。
メールでも済む所を律儀に電話してくれるのは責任感故か。
『というわけで、姫神ちゃん、すみませんがよろしくお願いしますね』
「わかった。小萌も気をつけて」
『それでは行ってきますねー』
パタン、と二つ折りに携帯電話を畳んで姫神は軽く嘆息した。
視線は左手に持つ携帯電話に落とされる。
細い指で小さなボタンを押し込んで姫神はアドレス帳を呼び出した。
登録件数は少ない。三十件程度。二学期からのクラスメイト達がそのほとんどだ。
だから目的の番号はすぐに見つかる。探して数秒で即ヒット。見つかるように整理もしてある。"特別"な分類にも分けてある。
「上条。当麻」
姫神秋沙にとってその名前は特別な意味を持つ。
ただ口から出しただけで顔の温度は上がる。思い浮かべれば胸が苦しくなる。吐き出す吐息は熱を帯びる。
典型的な恋の病。
胸に秘めた思いが成就するその時まで決して完治する事の無い不治の病。
学園都市屈指の名医であるあの医者ですら、姫神の難病を治療する事は出来ないだろう。なにせ手ごわい恋敵(ライバル)は例の少年が
無自覚の内に発揮するフラグ体質のせいで現在進行形にて増殖中だ。正直いい加減にして欲しいと思う時もある。
「はぁ……。虚しい」
丁度坂道の頂上に差し掛かった頃だった。後ろの方からけたたましい排気音。接近する騒音に気づいた姫神が振り返った。
(歩道なんだけど……。スクーター!?)
「きゃっ!?」
姫神の手から携帯電話が落下しカツンと音をたてた。
掠めるように通過した黄色いスクーターに驚いて姫神はアスファルトの地面に尻餅をつく。
「いたたたた。なんて乱暴な運転」
悪態をつき、ゆっくりと立ち上がる。スカートの汚れを手で払い。地面に落ちた携帯を拾った。そして鞄へと手を伸ばす。
手は何も掴まなかった。
「……あれ?」
黒い瞳をパチクリ。ぐるりと周囲を見渡す。一気に血の気が引いた様な気がした。
(鞄が。無い)
姫神は慌てて走り去るスクーターを見た。
赤いフルフェイスヘルメットを被った運転手の手に握られているのは"姫神の学生鞄と白いトートバック"。
それを表す言葉が姫神の頭に浮かんだ。ひったくり。普通はもっとお金になりそうな物を狙う。
(よりによってアレを……)
この時、姫神秋沙は自分の準備の良さを呪った。まさかこんな事になるとは思っても見なかったのだ。
「返してっ!」
姫神秋沙の思考はただ一つの目的の為に動いた。
彼我の距離を確認。続いて自分の速度を確認。最後に相手の速度を確認。
(走って追いつくのは無理)
相手はまがりなりにもバイクだ。姫神が仮にオリンピック選手級の運動能力を持っていたとしてもまともに競争しては勝負の結果が
見えている。まるで兎と亀。そもそも競う事自体が間違ってるような絶望的な状況だ。兎が昼寝しない限り、亀は絶対に勝てない。
だけど諦めるわけにはいかなかった。
(せっかく。せっかく"編みきった"のにっ)
懸命に手を振って。脚を急かして。追いかけた。
だけど距離は縮まらない。むしろ開く。
下り坂を降りきった所で、引ったくり犯のスクーターが二十メーター程先の角を右に曲がったのが見えた。
遠い。おそらく姫神が角を曲がる頃には更に差は開いてるだろう。
「はぁ。はぁ」
荒い息がひっきりなしに吐き出される。悲鳴をあげる心臓と弱音を吐く脚の筋肉。いくら若いとは言っても準備運動も無しに全力疾走
すれば当然だった。筋肉がボイコットを開始し、体を倦怠感が襲う。脳からは休息の指示が出る。
だけど全部無視する。
「ま、負けるか。他の何でもいいけどアレは駄目」
悩んだり、迷ったりしてる暇は無い。
見失ったらアレは二度と姫神の手には戻らないだろう。もしかしたら犯人の手によってボロボロに切り裂かれてしまうかも知れない。
何せ相手は金目の物でも入ってるかと思って姫神の鞄を盗ったのだろうから。その辺りが少し疑問ではあるが。
性根が曲がっていれば腹いせにそれぐらいの事はやりかねない。
実際の所、別に鞄自体はどうでもいい。戻ってこなくてもいい。アレ以外の中身もどうでもいい。ボロボロに壊されても破かれても、
今は興味も愛着も沸かない。アレ以外は。
だけどアレは駄目だ。代わりが無い。
普通なら、ここで諦めて警備員なり警察なりに駆け込むところだった。そう"普通”なら。
(こっちも。はい、そうですかって諦められない)
悔しそうに握り締める右手。生憎、姫神秋沙の事情は"普通"ではなかった。いうなればそれは"特別"。
明日はクリスマス・イブなのだから。その為に一ヶ月も前から準備をした。
あのやたらと情報通な茶髪ポニテからは購買のチョココロネ十個と引き換えにあの少年の胸囲だとかその他もろもろのデータを教え
てもらった。暇を見つけては少しづつ編んだ。
だというのにこれではあんまりでは無いか。これは姫神では彼に相応しくないと意地悪な神様が与えた試練なのだろうか?
「そんな神様なんて要らない。そんな結末なんて認めない。そんな結果なんて――絶対に従わない!」
走りながら目尻に涙を滲ませて吼える。バッドエンドのヒロインになるのは嫌だった。
(犯人が逃げたのは一本道……)
考える。姫神秋沙は考える。考えなければいけない。
取り戻す為に。明日の為に。一ヶ月の努力の為に。そしてあの少年の為に。何よりも自分の為に。
思い浮かぶのは切欠。追憶の一ページ。
『今年の冬は寒くなるからな、俺なんて去年まで着てたセーター縮ませちゃってさ。新しく調達しなけりゃならないのに上条家の家計
簿は火の車ですよ、もう赤ペン先生もびっくりだ』
『ふぅん。それは大変』
『大変だと思ってねぇだろ姫神』
『そんな事は無い。私も大変だから』
『んだよ、それ?』
『来月になればわかるかも知れない。それまでセーターは買わないほうがいいよ』
『わけわかんねぇぞ姫神、何かの謎掛けか?』
『それは秘密。とにかく言うとおりにしてみて』
丁度ひと月前の教室。些細な出来事。ただの世間話。友人同士の他愛の無い会話。
だけど姫神の知る限り、それからあの少年が学生服の下にセーターらしき物を着てきた事は無かった。
もしかしたら本当に買う余裕が無いだけだったかも知れない。
でも姫神は違うと思っていた。彼はわがままを聞いてくれているのだ。優しいから。誰も対しても優しいから。
だったら誰がその優しさを裏切る事なんて出来るだろうか?誰にだって出来やしない。少なくても姫神秋沙には出来ない。
(あきらめない。絶対に取り戻す)
"あの先には何があった?あの先には誰がいた?自分はどこに向かう途中だった?"思い至り額の汗を拭う。
黒真珠の瞳には活力が戻り、汗だくの手が制服のスカートのポケットを探る。固い感触が指先に当たった。乱暴に引っつかんで手首
のスナップで開き、アドレス帳から目当ての番号を探し当てる。
「あっち。あっちには彼女達が――いる!」
[12月23日―PM15:12]