ひどい倒れ方だった。糸を断ち切られた操り人形よりも力無かった。彼女は水溜まりに
沈み、俺は地上171㎝に取り残された。
「あ?」
俺の水晶体を、ただ一つの光景を映す光子が通過し続ける。うつ伏せになったままピク
リとも動かないミサカ。雨水に濡れ、手術衣を身体にへばりつかせても何の反応も示さな
いミサカ。肩までの栗色の髪に隠れて、どんな表情をしているのか教えようとしないミサカ。
俺の顔には、今の今まで浮かべていた笑みが貼り付いたままだった。それは、なかなか
直らなかった。まるで、そうやってさえいれば、この悪魔はそこから溶け散るのだとでも
言うかのように。
そうだ、そうだよ、これはコイツの分かり難くてあまりパッとしない未熟なジョークな
んだ、(薄汚い水)ほら、あまりにも受けが無かったら、しくじった方もなんとか挽回しよ
うとして無理矢理な一芝居うったりするだろ、ゴルフプレーヤーのモノマネが滑ってしま
ったけど何をしたらいいのか分からずにテンパって、スイングポーズの後ひたすらボール
の行方を追い続けたりさ、(投げ出された細い手足)そこはやっぱりヘラヘラと笑って迎え
るしかないよな、芸に対してと言うより、オマエは頑張ったよ、ドンマイドンマイ、って
感じでさ、そうすればしくじっちまった奴も、いやー、やっちゃったよ、あぁ恥ずかしい、
ってさ、やっと元に戻ってくれるよな、(靴が脱げた裸足の右足)なぁ、戻るよな、だから
ミサカ、ほら、もういいから、俺はもともと笑いのツボが深いしさ、そんなうまいリアク
ションもとれないけど、だからって笑わせられなかった奴を馬鹿にしたりしないからさ、
(泥水を吸い続ける布に包まれた華奢な身体)もういいんだぞ、オマエが冗談を吐いたっ
てだけでも俺にとっては十分嬉しいんだよ、(同じように水を吸う毛髪)だからさ、ほら、
立てよ、(濡れそぼる首)そんな苦しいロスタイムなんて(肩)やらないで(背中)いいか
ら、(腰)その顔を(膝)今すぐあげて(脛)みせろ、(爪先)見せるんだ、こ れ は た
だ の ジ ョ ー ク な ん だ よ ――と、
思えるわけがなかった。
ミサカは今、確実に苦しんでいた。
首筋が血の抜けたようにみるみる真っ青に変わっていくだけでも、それを知るには十分
だった。
その姿を背景に、ある夜の記憶が浮かび上がる。闇に横たわる重病患者棟に吸い込まれ
てゆく、小さな背中。それは、今ここで濡れ汚れているのと同じものだった。
俺はようやく悟った。彼女の病が、発作を起こしたのだ。
「ミサカ!!!」
ビニール傘が、ボス、と間抜けな音を立てて地面に転がった。
俺は非常な恐怖に襲われ、冷静とは程遠い対応しかできなかった。倒れこむようにして
覆いかぶさり、彼女の名前を連呼しながら背中を叩く。揺さ振る。水溜まりに突っ伏して
いる事に気付き、肩を掴んで仰向けにさせる。
沈み、俺は地上171㎝に取り残された。
「あ?」
俺の水晶体を、ただ一つの光景を映す光子が通過し続ける。うつ伏せになったままピク
リとも動かないミサカ。雨水に濡れ、手術衣を身体にへばりつかせても何の反応も示さな
いミサカ。肩までの栗色の髪に隠れて、どんな表情をしているのか教えようとしないミサカ。
俺の顔には、今の今まで浮かべていた笑みが貼り付いたままだった。それは、なかなか
直らなかった。まるで、そうやってさえいれば、この悪魔はそこから溶け散るのだとでも
言うかのように。
そうだ、そうだよ、これはコイツの分かり難くてあまりパッとしない未熟なジョークな
んだ、(薄汚い水)ほら、あまりにも受けが無かったら、しくじった方もなんとか挽回しよ
うとして無理矢理な一芝居うったりするだろ、ゴルフプレーヤーのモノマネが滑ってしま
ったけど何をしたらいいのか分からずにテンパって、スイングポーズの後ひたすらボール
の行方を追い続けたりさ、(投げ出された細い手足)そこはやっぱりヘラヘラと笑って迎え
るしかないよな、芸に対してと言うより、オマエは頑張ったよ、ドンマイドンマイ、って
感じでさ、そうすればしくじっちまった奴も、いやー、やっちゃったよ、あぁ恥ずかしい、
ってさ、やっと元に戻ってくれるよな、(靴が脱げた裸足の右足)なぁ、戻るよな、だから
ミサカ、ほら、もういいから、俺はもともと笑いのツボが深いしさ、そんなうまいリアク
ションもとれないけど、だからって笑わせられなかった奴を馬鹿にしたりしないからさ、
(泥水を吸い続ける布に包まれた華奢な身体)もういいんだぞ、オマエが冗談を吐いたっ
てだけでも俺にとっては十分嬉しいんだよ、(同じように水を吸う毛髪)だからさ、ほら、
立てよ、(濡れそぼる首)そんな苦しいロスタイムなんて(肩)やらないで(背中)いいか
ら、(腰)その顔を(膝)今すぐあげて(脛)みせろ、(爪先)見せるんだ、こ れ は た
だ の ジ ョ ー ク な ん だ よ ――と、
思えるわけがなかった。
ミサカは今、確実に苦しんでいた。
首筋が血の抜けたようにみるみる真っ青に変わっていくだけでも、それを知るには十分
だった。
その姿を背景に、ある夜の記憶が浮かび上がる。闇に横たわる重病患者棟に吸い込まれ
てゆく、小さな背中。それは、今ここで濡れ汚れているのと同じものだった。
俺はようやく悟った。彼女の病が、発作を起こしたのだ。
「ミサカ!!!」
ビニール傘が、ボス、と間抜けな音を立てて地面に転がった。
俺は非常な恐怖に襲われ、冷静とは程遠い対応しかできなかった。倒れこむようにして
覆いかぶさり、彼女の名前を連呼しながら背中を叩く。揺さ振る。水溜まりに突っ伏して
いる事に気付き、肩を掴んで仰向けにさせる。
首ががくがくと震えているのは、俺の腕のせいだった。抑えようとしても抑えきれないものにおびえるうでを、俺は心の底から恨んだ。
「ミサカ!大丈夫か、ミサカ!?」
あらわれた彼女の顔は、酷い程に青白かった。さっきまでの生気は欠けらも無い。
しかし驚いた事に、その面持ちはとても落ち着いたものだった。まるで、こうなること
はとうに予期していたかのような、そして、その後すべき事を実行する覚悟をした顔だっ
た。
「問題ありません、よくあることです。ミサカの部屋へ運んでいただければ、それで大丈
夫です、とミサカはあなたに足の代わりをお頼みします」
静謐の瞳にあてられた俺は、いくらかの平静を取り戻していた。わかった、と回復しか
けの頭で精一杯の一言を返し、肩と膝裏に手を通す。
特別に力が要らない運び方をするまでも無かった。
俗に言うお姫さま抱っこを傾けて、腕に座っているような姿勢。
俺は軽々と一人の肉体を抱え上げ、一直線に病院を目指した。
熱を持たないミサカの体は、俺にされるがままだった。
また、その重みは人間を抱えているのだとは思えない程にあっけなく腕の中へ納まって
いた。その軽さが、悲しかった。
「ミサカ!大丈夫か、ミサカ!?」
あらわれた彼女の顔は、酷い程に青白かった。さっきまでの生気は欠けらも無い。
しかし驚いた事に、その面持ちはとても落ち着いたものだった。まるで、こうなること
はとうに予期していたかのような、そして、その後すべき事を実行する覚悟をした顔だっ
た。
「問題ありません、よくあることです。ミサカの部屋へ運んでいただければ、それで大丈
夫です、とミサカはあなたに足の代わりをお頼みします」
静謐の瞳にあてられた俺は、いくらかの平静を取り戻していた。わかった、と回復しか
けの頭で精一杯の一言を返し、肩と膝裏に手を通す。
特別に力が要らない運び方をするまでも無かった。
俗に言うお姫さま抱っこを傾けて、腕に座っているような姿勢。
俺は軽々と一人の肉体を抱え上げ、一直線に病院を目指した。
熱を持たないミサカの体は、俺にされるがままだった。
また、その重みは人間を抱えているのだとは思えない程にあっけなく腕の中へ納まって
いた。その軽さが、悲しかった。
俺は世界一の馬鹿だ。
いつの間にか、ミサカの病気は人とのコミュニケーションがうまくとれない事だと勘違
いしていたのだ。
あの日カエル先生は彼女を頼むと言った。彼女にとっての俺は他とは違うのだと。俺は
その事を受けて、彼女を正常にできるのは自分だけなのだと思うようになっていた。
どうしようもなく馬鹿だった。
よくある事です、だってさ。あれがよくある事なんだってさ。突然に全身の力が抜けて、
そのままピクリとも動かず、脈があるのかすらも疑わしく、ほとんど死体になるような発
作が、よくある事なんだってさ。
どれだけ重病なんだよ。
ミサカの対人能力の欠陥は、俺に何とかできるようなレベルを遥かに超えたものだった。
俺にできることなど、何一つして無かった。
そして今なら、カエル先生の言葉の意味が分かった。
俺はミサカの病室で、衝撃の事実を明かされた。
いつの間にか、ミサカの病気は人とのコミュニケーションがうまくとれない事だと勘違
いしていたのだ。
あの日カエル先生は彼女を頼むと言った。彼女にとっての俺は他とは違うのだと。俺は
その事を受けて、彼女を正常にできるのは自分だけなのだと思うようになっていた。
どうしようもなく馬鹿だった。
よくある事です、だってさ。あれがよくある事なんだってさ。突然に全身の力が抜けて、
そのままピクリとも動かず、脈があるのかすらも疑わしく、ほとんど死体になるような発
作が、よくある事なんだってさ。
どれだけ重病なんだよ。
ミサカの対人能力の欠陥は、俺に何とかできるようなレベルを遥かに超えたものだった。
俺にできることなど、何一つして無かった。
そして今なら、カエル先生の言葉の意味が分かった。
俺はミサカの病室で、衝撃の事実を明かされた。
開け放たれたままの窓から飛び込んだ部屋の一角を占めていたのは、SF映画に出てくる
ような、バカでかいガラスの円柱だった。
その隣に並べられたベッドにとりあえず横にされたミサカは何も言わず、入院患者の個
室とは思えない設備に呆気にとられる俺を見つめた。
「これ、培養器……だよな」
厚さ5センチ程で、その中に薄く色付いた液体の満たされているガラスの柱は、まさに
その形だった。
「しかも、ちょうど人間が入れるようなサイズだ」
「……全て説明しましょう、とミサカは居住まいを正します」
上体を起こそうとしたので手伝おうと手を伸ばしたが、彼女はいくらか回復していたら
しい。自力で長座の姿勢をとる。
そして、告白は始まった。
「耳にした事ぐらいはあるのではないでしょうか。超能力者のクローンをつくり、大きな
力を持つ兵士を量産する軍事企画があるという噂を」
しかしそれは、本当に行われていたことなのです、とミサカは淡々と語った。
彼女の話はあまりにも突拍子の無いものだった。しかしまたそれは、ここ最近、この街
の治安を監視する風紀委員の任務中に見つかった疑問を解決するものだった。
その軍用クローンは実際に製造されていた。が、結局失敗したらしい。
その軍用クローンは実際に製造されていた。が、結局失敗したらしい。超能力者のコピ
ーであるはずのクローンの能力は、レベル3にも満たなかったのだという。
だが、頓挫したこの計画は別の企てによって拾い上げられることになった。
絶対能力進化実験。
それは、一人の超能力者を実戦において開発し、まだ見ぬ世界を切り開かんとする計画。
そしてその実戦戦闘の標的として選ばれたのが量産軍用クローン、その数実に二万体だっ
た。
実戦での能力使用とは、その相手役二万人を全て殺害する事だった。
「……………………」
俺は沈黙以外に言葉を持たなかった。
ミサカは俺から全く目を逸らさない。
「学園都市はこの実験を黙認していました。クローンも自分達が殺害されることに特別な
感情を持ちませんでした。しかし、そんなことなど構いもせずに実験を阻止しようとする
人間がいました。クローンのオリジナルである超能力者と、その友人の、不思議な右手を
持つ少年です」
そして八月二十一日、ついに実験は破綻した。貧弱なレベル0の少年が、最強の超能力
者であるはずの実験の要を打ち倒した。
「その後、生き残った残りのクローンたちは、事後の処置を受けるために世界各国の学園
都市系の病院へ引き取られました」
「――――――」
地面がぐらり、と揺れた気がした。
ような、バカでかいガラスの円柱だった。
その隣に並べられたベッドにとりあえず横にされたミサカは何も言わず、入院患者の個
室とは思えない設備に呆気にとられる俺を見つめた。
「これ、培養器……だよな」
厚さ5センチ程で、その中に薄く色付いた液体の満たされているガラスの柱は、まさに
その形だった。
「しかも、ちょうど人間が入れるようなサイズだ」
「……全て説明しましょう、とミサカは居住まいを正します」
上体を起こそうとしたので手伝おうと手を伸ばしたが、彼女はいくらか回復していたら
しい。自力で長座の姿勢をとる。
そして、告白は始まった。
「耳にした事ぐらいはあるのではないでしょうか。超能力者のクローンをつくり、大きな
力を持つ兵士を量産する軍事企画があるという噂を」
しかしそれは、本当に行われていたことなのです、とミサカは淡々と語った。
彼女の話はあまりにも突拍子の無いものだった。しかしまたそれは、ここ最近、この街
の治安を監視する風紀委員の任務中に見つかった疑問を解決するものだった。
その軍用クローンは実際に製造されていた。が、結局失敗したらしい。
その軍用クローンは実際に製造されていた。が、結局失敗したらしい。超能力者のコピ
ーであるはずのクローンの能力は、レベル3にも満たなかったのだという。
だが、頓挫したこの計画は別の企てによって拾い上げられることになった。
絶対能力進化実験。
それは、一人の超能力者を実戦において開発し、まだ見ぬ世界を切り開かんとする計画。
そしてその実戦戦闘の標的として選ばれたのが量産軍用クローン、その数実に二万体だっ
た。
実戦での能力使用とは、その相手役二万人を全て殺害する事だった。
「……………………」
俺は沈黙以外に言葉を持たなかった。
ミサカは俺から全く目を逸らさない。
「学園都市はこの実験を黙認していました。クローンも自分達が殺害されることに特別な
感情を持ちませんでした。しかし、そんなことなど構いもせずに実験を阻止しようとする
人間がいました。クローンのオリジナルである超能力者と、その友人の、不思議な右手を
持つ少年です」
そして八月二十一日、ついに実験は破綻した。貧弱なレベル0の少年が、最強の超能力
者であるはずの実験の要を打ち倒した。
「その後、生き残った残りのクローンたちは、事後の処置を受けるために世界各国の学園
都市系の病院へ引き取られました」
「――――――」
地面がぐらり、と揺れた気がした。
「もう推察できますね?とミサカはもったいぶります」
そのよろめきは、表の世界には決して知られることのない、学園都市の裏を垣間見たせ
いではない。
八月二十一日の騒動の真相に驚いたわけでも、やはりあの男が関わっていたことに呆れ
たからでもない。
「ミサカは――」
それは諦観と絶望と落胆と、そして無意味な逃避の試みが入り交じったものだった。呼
び出されて連れてこられた生徒指導室。テスト結果が帰ってきた晩の食卓。それらの怖い
ところは、事がやってくるまでの首をじわじわと絞められるような時間だ。
しかし俺は悟った。
この後に待っているものは、生易しく終わりをむかえたりはしない。
「ミサカは、その二万人のクローン――妹達のうちの一固体なのです」
今度は、地面が消えた。
膝にかかる重さが、地球の重力のそれではなかった。
そして逆に、床が消えた事で、今まで目に入らなかったものがいきなりむこうから飛び
込んできた。
四角い白のシンプルなドア。
水垢の一つも無い流し。
小型の冷蔵庫。
生けるものがない花瓶。
そして人を入れるガラス容器と、その隣に並ぶベッドに腰掛けるミサカ。
ミサカは俺を全く動きの無い瞳で見ていた。
ぐらり、とよろめく。
そのまま倒れなかったのは、背後にあった窓のおかげだった。
「……ミサカ。一つだけ聞かせてくれ」
俺はただ一つの事が気掛かりだった。
問い掛けに、彼女は無言で応えた。
「病院での処置ってのは、……お前の細胞年齢についてか」
首は、縦に頷いた。
「はい、妹達の元になった体細胞はお姉さま(オリジナル)の毛髪細胞、その細胞年齢は
5年です。ミサカ達は実験の都合上から、短期間でオリジナルのスペックと同等になるこ
とを求められたため、十四日の間に十四歳相当の容姿を得るよう、投薬によって成長を促
進させられました、とミサカは述べます」
そして、最も恐れていた言葉が、告げられた。
「そのため、ミサカたちの寿命は通常の七十分の一、一年強しかないのです、とミサカは
核心を突きます」
俺はもう、耐えられなかった
「だからミサカたちはそれぞれの病院で――」
「もういい」
背中を窓枠で支え、爪先を見つめながら遮る。
「もう、やめろよ」
そんな事を話すミサカなど、俺は見たくなかった。彼女の目は、いつか見たような、全
くの虚無しか映さない人形のようなそれに変化していた。
「そんな目、するんじゃねぇよ」
少しの間の後に返ってきた言葉に、俺はハッとした。
「あなたも、変な目してますよ」
そうか。
俺も、変な目をしているのか。
「ごめん。散歩行ってくるよ」
どうしても駄目だった。
これ以上、この場所に居るのは耐えられなかった。
俺は背後の窓枠を後ろ手に掴んで体を釣り上げ、一息に外ヘ放り出した。
地上三階の高さを、降りしきる雨粒を貫きながら落下する。
最後の視界にあったミサカのガラスの瞳は、いかなる非難も訴えてはいなかった。
そのよろめきは、表の世界には決して知られることのない、学園都市の裏を垣間見たせ
いではない。
八月二十一日の騒動の真相に驚いたわけでも、やはりあの男が関わっていたことに呆れ
たからでもない。
「ミサカは――」
それは諦観と絶望と落胆と、そして無意味な逃避の試みが入り交じったものだった。呼
び出されて連れてこられた生徒指導室。テスト結果が帰ってきた晩の食卓。それらの怖い
ところは、事がやってくるまでの首をじわじわと絞められるような時間だ。
しかし俺は悟った。
この後に待っているものは、生易しく終わりをむかえたりはしない。
「ミサカは、その二万人のクローン――妹達のうちの一固体なのです」
今度は、地面が消えた。
膝にかかる重さが、地球の重力のそれではなかった。
そして逆に、床が消えた事で、今まで目に入らなかったものがいきなりむこうから飛び
込んできた。
四角い白のシンプルなドア。
水垢の一つも無い流し。
小型の冷蔵庫。
生けるものがない花瓶。
そして人を入れるガラス容器と、その隣に並ぶベッドに腰掛けるミサカ。
ミサカは俺を全く動きの無い瞳で見ていた。
ぐらり、とよろめく。
そのまま倒れなかったのは、背後にあった窓のおかげだった。
「……ミサカ。一つだけ聞かせてくれ」
俺はただ一つの事が気掛かりだった。
問い掛けに、彼女は無言で応えた。
「病院での処置ってのは、……お前の細胞年齢についてか」
首は、縦に頷いた。
「はい、妹達の元になった体細胞はお姉さま(オリジナル)の毛髪細胞、その細胞年齢は
5年です。ミサカ達は実験の都合上から、短期間でオリジナルのスペックと同等になるこ
とを求められたため、十四日の間に十四歳相当の容姿を得るよう、投薬によって成長を促
進させられました、とミサカは述べます」
そして、最も恐れていた言葉が、告げられた。
「そのため、ミサカたちの寿命は通常の七十分の一、一年強しかないのです、とミサカは
核心を突きます」
俺はもう、耐えられなかった
「だからミサカたちはそれぞれの病院で――」
「もういい」
背中を窓枠で支え、爪先を見つめながら遮る。
「もう、やめろよ」
そんな事を話すミサカなど、俺は見たくなかった。彼女の目は、いつか見たような、全
くの虚無しか映さない人形のようなそれに変化していた。
「そんな目、するんじゃねぇよ」
少しの間の後に返ってきた言葉に、俺はハッとした。
「あなたも、変な目してますよ」
そうか。
俺も、変な目をしているのか。
「ごめん。散歩行ってくるよ」
どうしても駄目だった。
これ以上、この場所に居るのは耐えられなかった。
俺は背後の窓枠を後ろ手に掴んで体を釣り上げ、一息に外ヘ放り出した。
地上三階の高さを、降りしきる雨粒を貫きながら落下する。
最後の視界にあったミサカのガラスの瞳は、いかなる非難も訴えてはいなかった。
目の前には一面の闇が広がっていて、その光源の無い宇宙空間を進む俺の頬には、通り
過ぎる小さな星達がぶつかっては消えていく。
ここは何処なのか。
首を巡らせようとして、自分は地面に仰向けに寝ていることに気付いた。
背中には、ざらついたコンクリートのへばりつく感触。
目の端に、枯れた植物の転がる花壇。
向こう側に、傷んだ落下防止用の手すり。
そしてその更に向こうには、何も無い。
気が付くと、空は黒かった。
どうやら俺は、寂れたビルの屋上の空中庭園で何時間も無意味な天体観測をしていたら
しい。自然体験行事ではお決まりのプログラムだが、雨に打たれながらやったりなんかし
たら風邪をひいてしまうだろうな。
見上げていると目の中に雨水が入ってきてしみるので、俺は起き上がろうとした。
しかし、起き上がれない。
いつも何度となくこなしている動作が、うまくできない。
俺は不思議に思ってしばらくの間手足を動かし続けた。膝を曲げ、伸ばす。親指を縮め
て、開く。コンクリートに踵を落とし、肘を突き立て、後頭部を打ち付ける。何となく生
まれたばかりの動物や車に轢かれた直後の小動物を連想して、そうして頭の中に流れた映
像が可笑しくて、少し笑う。
体が全く言うことを聞かないと分かったので、能力を使って立つことにした。別に珍し
い事じゃない。寝起きに頭がフラフラするときなんかにも、眠気ざましとしてよく使う。
『焦点』を、肘と肩甲骨あたりに発生。地面との隙間から赤い光を漏らし、数瞬の後に
爆発する。
しかし、どこかで加減を間違えてらしかった。
俺の体は、自動車に跳ねとばされたような勢いで真横に吹っ飛んだ。
バシャバシャと水溜まりを転がり横切ってガツンと花壇に乗り上げ、泥の上をベチャベ
チャとバウンドしながら回転し、手すりにぶつかった所でようやく止まる。
駄目だこりゃ。どうしらいいんだ。
けれど、泥まみれになった顔を拭いながら手摺りを頼りにしてか立ち上がると、なんと
か歩けるぐらいには体が動き出した。
過ぎる小さな星達がぶつかっては消えていく。
ここは何処なのか。
首を巡らせようとして、自分は地面に仰向けに寝ていることに気付いた。
背中には、ざらついたコンクリートのへばりつく感触。
目の端に、枯れた植物の転がる花壇。
向こう側に、傷んだ落下防止用の手すり。
そしてその更に向こうには、何も無い。
気が付くと、空は黒かった。
どうやら俺は、寂れたビルの屋上の空中庭園で何時間も無意味な天体観測をしていたら
しい。自然体験行事ではお決まりのプログラムだが、雨に打たれながらやったりなんかし
たら風邪をひいてしまうだろうな。
見上げていると目の中に雨水が入ってきてしみるので、俺は起き上がろうとした。
しかし、起き上がれない。
いつも何度となくこなしている動作が、うまくできない。
俺は不思議に思ってしばらくの間手足を動かし続けた。膝を曲げ、伸ばす。親指を縮め
て、開く。コンクリートに踵を落とし、肘を突き立て、後頭部を打ち付ける。何となく生
まれたばかりの動物や車に轢かれた直後の小動物を連想して、そうして頭の中に流れた映
像が可笑しくて、少し笑う。
体が全く言うことを聞かないと分かったので、能力を使って立つことにした。別に珍し
い事じゃない。寝起きに頭がフラフラするときなんかにも、眠気ざましとしてよく使う。
『焦点』を、肘と肩甲骨あたりに発生。地面との隙間から赤い光を漏らし、数瞬の後に
爆発する。
しかし、どこかで加減を間違えてらしかった。
俺の体は、自動車に跳ねとばされたような勢いで真横に吹っ飛んだ。
バシャバシャと水溜まりを転がり横切ってガツンと花壇に乗り上げ、泥の上をベチャベ
チャとバウンドしながら回転し、手すりにぶつかった所でようやく止まる。
駄目だこりゃ。どうしらいいんだ。
けれど、泥まみれになった顔を拭いながら手摺りを頼りにしてか立ち上がると、なんと
か歩けるぐらいには体が動き出した。
屋内ヘ通じるドアは取り外されていて、ただポッカリとした穴が空いているだけだった。
そこを抜けると、更に深い闇に沈む階段が続く。埃まみれで、所々に赤いチョークのよ
うなもので専門用語の指示が書き込まれている。やはりここは無人の廃ビルのようだ。
そのためか、階段には手すりも無くて、まだぎこちない体で下りるのには苦労した。
下りて、滑って、下りて、こけて、下りて、下りて、落ちて。
もう何階まで来たのだろうかという所で、やっと手すりが現れた。
俺は緩慢な動きで、止まり木を見つけた鳥のようにその金属の棒に捕まり――
どうしたものか。
また、動けなくなった。
いや、体のほとんどの部分は普通に動くのだが、手すりを掴んだ右手が、そのまま石に
なったように放せない。
もどかしいので、今度はすぐに能力を使うことにした。
肩から先、爪の端までを赤い光に包み、適当に爆破。
しかし、自分が思ったような結果は得られなかった。右手は爆発の衝撃を加えられても
手すりを放さなかった。そのため、逆に手すりの方がへし曲がって進路を変更しようとす
る芋虫のようになっている。
面倒臭い。そのまま爆破し続ける。
腕は何かを振り払うだだっ子のように激しく暴れた。それでも右手は放さない。そのう
ちに、手すりは壁につながる辺りが千切れ、はぎ取れて、結果、俺は十数メートル程の金
属棒をぶら下げることになった。
当然重くて邪魔なので、更に爆破する。壁に、天井に、踊り場に、段差の角にぶち当て、
ぐしゃぐしゃにし、やっとどこかへ吹き飛ばす。それでも右手には十センチほど残ってい
た。
手すりを失った俺はまた自分の足だけで下りることになったが、今度はあまり苦労しな
かった。
地上一階までたどり着く。
やはりドアが無く、ただの穴でしかない出入口から外に出て、相変わらず止まない雨を
見上げる。
声をかけられたのは、目的地も決めずに歩きだそうとした時だった。
「こんな夜中に何処をほっつき歩いてんじゃん、少年」
そこを抜けると、更に深い闇に沈む階段が続く。埃まみれで、所々に赤いチョークのよ
うなもので専門用語の指示が書き込まれている。やはりここは無人の廃ビルのようだ。
そのためか、階段には手すりも無くて、まだぎこちない体で下りるのには苦労した。
下りて、滑って、下りて、こけて、下りて、下りて、落ちて。
もう何階まで来たのだろうかという所で、やっと手すりが現れた。
俺は緩慢な動きで、止まり木を見つけた鳥のようにその金属の棒に捕まり――
どうしたものか。
また、動けなくなった。
いや、体のほとんどの部分は普通に動くのだが、手すりを掴んだ右手が、そのまま石に
なったように放せない。
もどかしいので、今度はすぐに能力を使うことにした。
肩から先、爪の端までを赤い光に包み、適当に爆破。
しかし、自分が思ったような結果は得られなかった。右手は爆発の衝撃を加えられても
手すりを放さなかった。そのため、逆に手すりの方がへし曲がって進路を変更しようとす
る芋虫のようになっている。
面倒臭い。そのまま爆破し続ける。
腕は何かを振り払うだだっ子のように激しく暴れた。それでも右手は放さない。そのう
ちに、手すりは壁につながる辺りが千切れ、はぎ取れて、結果、俺は十数メートル程の金
属棒をぶら下げることになった。
当然重くて邪魔なので、更に爆破する。壁に、天井に、踊り場に、段差の角にぶち当て、
ぐしゃぐしゃにし、やっとどこかへ吹き飛ばす。それでも右手には十センチほど残ってい
た。
手すりを失った俺はまた自分の足だけで下りることになったが、今度はあまり苦労しな
かった。
地上一階までたどり着く。
やはりドアが無く、ただの穴でしかない出入口から外に出て、相変わらず止まない雨を
見上げる。
声をかけられたのは、目的地も決めずに歩きだそうとした時だった。
「こんな夜中に何処をほっつき歩いてんじゃん、少年」
▼
俺が所属する風紀支部隊の顧問警備員、黄泉川愛穂は仁王立ちで湯気の立つカップを差
出した。
「全く、どうしてあんな所に……いくらまだ暑さは残っていても、雨にさらされてちゃ風
邪引くじゃん?」
車に乗せられ、引きずられるようにして連れて来られたのは、第一九九支部室だった。
「最近はめっきりおとなしくなったと思ったのに。これじゃ昔の二の舞じゃん。バカなこ
とは考えるんじゃないよ」
昔、か。
そんなこともあっただろうか。
「私はまだ仕事があるけど、もう少しで終わるから。寮まで送ってってやるじゃん。それ
まで暖かくして待ってな」
そう言い置いて、彼女は三重の鍵がついた扉を閉めた。
沈黙に満たされる室内。
今ではすっかりお馴染みの、風紀委員としての活動拠点だ。音波乱暴女長谷の勘違いに
よって色々と引っ張り回され、連行されて来たのが初めての入室。その後は個性的な先輩
二人に従ってそれなりに充実した治安維持活動を行ってきた。そこの壁にかかってるのは
新入生に扮した外のスパイの発見、捕獲の功績を讃えた楯。この机の上に置かれているの
は定期に行われる合同訓練合宿で優秀な成績を収めているとして贈呈された多機能ラック。
そしてあの窓が新しいのは……この間はずみでぶっ壊れてしまったからだ。トードーさん
が窓枠ごと交換してくれたので助かった。
「……」
俺は目の動きだけで室内を見回す。
体は、また動かなくなっていた。
全身の筋肉は運動神経根こそぎを引き抜かれたかのように反応を示さず、くたびれきっ
たゴムチューブのごとく弛緩している。
その劣化は脳まで届いているのか、自らの肉体の異常にもさして思うことはなかった。
「……」
ただ、今の自分がおかれている状況だけは理解していた。
この部屋は今、俺を閉じ込めている事。
そして、自分はこのままでは確実に壊れてしまう事。
「……」
黄泉川愛穂は、三重のロックのうち二つを外側からしか解錠できないようにして行った。
目的は他でもない、俺を閉じ込めるためだろう。
そして俺は、このまま閉じ込められていては助からない。
穴だらけの思考は、やっと一つの結論を出した。
ここから、逃げる。
出した。
「全く、どうしてあんな所に……いくらまだ暑さは残っていても、雨にさらされてちゃ風
邪引くじゃん?」
車に乗せられ、引きずられるようにして連れて来られたのは、第一九九支部室だった。
「最近はめっきりおとなしくなったと思ったのに。これじゃ昔の二の舞じゃん。バカなこ
とは考えるんじゃないよ」
昔、か。
そんなこともあっただろうか。
「私はまだ仕事があるけど、もう少しで終わるから。寮まで送ってってやるじゃん。それ
まで暖かくして待ってな」
そう言い置いて、彼女は三重の鍵がついた扉を閉めた。
沈黙に満たされる室内。
今ではすっかりお馴染みの、風紀委員としての活動拠点だ。音波乱暴女長谷の勘違いに
よって色々と引っ張り回され、連行されて来たのが初めての入室。その後は個性的な先輩
二人に従ってそれなりに充実した治安維持活動を行ってきた。そこの壁にかかってるのは
新入生に扮した外のスパイの発見、捕獲の功績を讃えた楯。この机の上に置かれているの
は定期に行われる合同訓練合宿で優秀な成績を収めているとして贈呈された多機能ラック。
そしてあの窓が新しいのは……この間はずみでぶっ壊れてしまったからだ。トードーさん
が窓枠ごと交換してくれたので助かった。
「……」
俺は目の動きだけで室内を見回す。
体は、また動かなくなっていた。
全身の筋肉は運動神経根こそぎを引き抜かれたかのように反応を示さず、くたびれきっ
たゴムチューブのごとく弛緩している。
その劣化は脳まで届いているのか、自らの肉体の異常にもさして思うことはなかった。
「……」
ただ、今の自分がおかれている状況だけは理解していた。
この部屋は今、俺を閉じ込めている事。
そして、自分はこのままでは確実に壊れてしまう事。
「……」
黄泉川愛穂は、三重のロックのうち二つを外側からしか解錠できないようにして行った。
目的は他でもない、俺を閉じ込めるためだろう。
そして俺は、このまま閉じ込められていては助からない。
穴だらけの思考は、やっと一つの結論を出した。
ここから、逃げる。
その思考が頭の中で直結した瞬間、何かが急速に体を満たしていった。そうだ、この感
触だけが、俺を救う事ができる。
逃げ出して、その後はどうするのか。
その答えは簡単。
散歩だ。
そもそも、俺はそのためにあの病室から逃げてきたのだから。
触だけが、俺を救う事ができる。
逃げ出して、その後はどうするのか。
その答えは簡単。
散歩だ。
そもそも、俺はそのためにあの病室から逃げてきたのだから。
▼
危険だ。
私は外側から施錠したドアに背を預けて思い悩んだ。
三十分前、黒山大助が不審な行動をしていると知らされた。雨がざあざあと降る中、ビ
ルの屋上で横になったまま動かない。普通なら『バカなことを言ってんじゃない』とそれ
こそバカにして信じないか、相手にしないかのどちらかだ。学生のそんな奇行にいちいち
付き合っていられるほど暇じゃない。
だが、私は何かを察知した。かすかな、きな臭い、それは暗い危惧だった。
私は知らせの通りの場所にむかっていた。
彼とは五年前――編入直後から始まり、その半年後に風紀委員になったときからは治安
維持機関の先輩として、その更に数ヵ月後に風紀機動隊ヘ入部してからは部下と上司とし
て付き合って来た。その関係は良好で、彼からは『黄泉川姉ちゃん』と呼ばれるほど。自
分の方もそれを悪くは思っていなかった。
私の知る少年は、そんな意味不明の奇行に走るような人間ではなかった。
五年前の、とある一時期を除いて。
愛車であの廃ビルに駆け付けて彼を見付けた時、私は不安が的中してしまった事を悟っ
た。
危険な状態だった。
彼は、五年前のあの時の状態に逆戻りしていた。
背後の部屋の中を思いながら、重い溜め息。
閉じ込めてしまったのは悪い判断ではなかったと思う。
私には、あの状態のあの少年を止めるすべが無い。
だが、ずっとこのままにしておく訳にもいかないだろう。
どうしようか。今の所麻酔弾を使って眠らせる正当で合法な理由など無い。それに、起
きてからはどうすればいいのか。だがしかしこのままではいけないのだから、あのカップ
に睡眠薬でも入れておけば良かったのか。
その時、気付いた。
出口の無い思考に沈んでいた自分を、静寂が取り囲んでいることに。
あの音が聞こえないことに。
慌てふためきながら振り返り、スチールの扉に耳を押し当てる。
何も聞こえないなんて、そんなはずはないのだ。黒山大助の体は、私の車に乗せられて
数分経ったあたりから断続的な爆発を起こしていた。バシュンバシュンと、なかなか止ま
らないしゃっくりのように鳴り止まないそれは、支部室のパイプ椅子に身を沈めてからも
彼の体をピクピクと動かしていて、その振動でガタガタと音を立てるビジネスデスクとパ
イプ椅子椅子が騒がしかった。
ドア越しにも耳に続いていたそれが聞こえないという事は、つまり――
急いでロックを解錠し、ドアを押し開く。
その先にあったのは、馴染みの支部室。いつもと同じくたたずむ備品。
デスクの上には中身のこぼれたカップと、その横に転がる鉄の棒……何に使われていた
のか、真新しい断面で千切れている。
そして、部屋の中を通り抜ける風。
嵌め殺しのはずの防弾窓ガラスが枠ごととるはずされ、床に打ち棄てられていた。
そこにあったのは、それだけだった。
そこにいたはずの少年の姿は、何処にも無かった。
私は外側から施錠したドアに背を預けて思い悩んだ。
三十分前、黒山大助が不審な行動をしていると知らされた。雨がざあざあと降る中、ビ
ルの屋上で横になったまま動かない。普通なら『バカなことを言ってんじゃない』とそれ
こそバカにして信じないか、相手にしないかのどちらかだ。学生のそんな奇行にいちいち
付き合っていられるほど暇じゃない。
だが、私は何かを察知した。かすかな、きな臭い、それは暗い危惧だった。
私は知らせの通りの場所にむかっていた。
彼とは五年前――編入直後から始まり、その半年後に風紀委員になったときからは治安
維持機関の先輩として、その更に数ヵ月後に風紀機動隊ヘ入部してからは部下と上司とし
て付き合って来た。その関係は良好で、彼からは『黄泉川姉ちゃん』と呼ばれるほど。自
分の方もそれを悪くは思っていなかった。
私の知る少年は、そんな意味不明の奇行に走るような人間ではなかった。
五年前の、とある一時期を除いて。
愛車であの廃ビルに駆け付けて彼を見付けた時、私は不安が的中してしまった事を悟っ
た。
危険な状態だった。
彼は、五年前のあの時の状態に逆戻りしていた。
背後の部屋の中を思いながら、重い溜め息。
閉じ込めてしまったのは悪い判断ではなかったと思う。
私には、あの状態のあの少年を止めるすべが無い。
だが、ずっとこのままにしておく訳にもいかないだろう。
どうしようか。今の所麻酔弾を使って眠らせる正当で合法な理由など無い。それに、起
きてからはどうすればいいのか。だがしかしこのままではいけないのだから、あのカップ
に睡眠薬でも入れておけば良かったのか。
その時、気付いた。
出口の無い思考に沈んでいた自分を、静寂が取り囲んでいることに。
あの音が聞こえないことに。
慌てふためきながら振り返り、スチールの扉に耳を押し当てる。
何も聞こえないなんて、そんなはずはないのだ。黒山大助の体は、私の車に乗せられて
数分経ったあたりから断続的な爆発を起こしていた。バシュンバシュンと、なかなか止ま
らないしゃっくりのように鳴り止まないそれは、支部室のパイプ椅子に身を沈めてからも
彼の体をピクピクと動かしていて、その振動でガタガタと音を立てるビジネスデスクとパ
イプ椅子椅子が騒がしかった。
ドア越しにも耳に続いていたそれが聞こえないという事は、つまり――
急いでロックを解錠し、ドアを押し開く。
その先にあったのは、馴染みの支部室。いつもと同じくたたずむ備品。
デスクの上には中身のこぼれたカップと、その横に転がる鉄の棒……何に使われていた
のか、真新しい断面で千切れている。
そして、部屋の中を通り抜ける風。
嵌め殺しのはずの防弾窓ガラスが枠ごととるはずされ、床に打ち棄てられていた。
そこにあったのは、それだけだった。
そこにいたはずの少年の姿は、何処にも無かった。
▼
「YOーYOー、黒チャンドコ行くんだYO」
校門を抜けようとした所に掛けられた声の主は、学校名の彫られた看板の張り付いてい
る分厚いコンクリートの壁の上に座り込む赤髪マスク、紫条玲花だった。
「支部当番サボってたら黄泉川センセから電話かかって来たんだよNEー。そしたらその
時キミがなんか変な事してるのを見付けてさー。それをポロって電話にこぼしたら、セン
セーも妙に怖い声で居場所聞いてくんの。一体何やってたのー?一応心配してたんだZ
O?」
その割にはその口調はあまり深刻そうなものではなく、むしろ俺の状態を見て楽しんで
いる事がありありと見て取れる。
「でも――」
彼女はひょいと俺のすぐそばヘ飛び降りると、
「安心したよ」
いつ何時も外される事の無かったマスク人差し指で下に引っ張りずらし、鼻同士が触れ
合いそうな程の至近距離から俺の顔を覗き込んだ。
初めて見る上級生の素顔は、意外にも、極めて和風的な顔立ちをしていた。
狐のように細められた目、線の浮き出ないなだらかな鼻筋、窄まったような小振りの唇。
「うんうん、これなら大丈夫だね。今さっきのキミはけっこう危なっかしかったけれど、
これなら大丈夫だ」
そして、とびきりの笑顔。
「ほんっと、イイ目をしているよ」
そりゃどうも。
俺は何事も無かったように先輩の目の前を通り過ぎていく。
彼女の方も気を悪くした風はなく、満足そうに背を向けて帰りはじめた。
今の俺にとって必要な物、興味のある事はここには無かった。
廃ビルの屋上にいた俺の姿をサボっていた途中で見付ける、傘を差してもいないのに水
滴一つ濡れていない女風紀委員も、今の俺にとってはたいして重要なことではなかった。
確かな足取りで歩を進める俺を阻むものは何も無い。
ふと、額を叩く目障りな感触が消えたことに気付く。あれほど降り続いていた雨は、い
つの間にか止んでいた。
校門を抜けようとした所に掛けられた声の主は、学校名の彫られた看板の張り付いてい
る分厚いコンクリートの壁の上に座り込む赤髪マスク、紫条玲花だった。
「支部当番サボってたら黄泉川センセから電話かかって来たんだよNEー。そしたらその
時キミがなんか変な事してるのを見付けてさー。それをポロって電話にこぼしたら、セン
セーも妙に怖い声で居場所聞いてくんの。一体何やってたのー?一応心配してたんだZ
O?」
その割にはその口調はあまり深刻そうなものではなく、むしろ俺の状態を見て楽しんで
いる事がありありと見て取れる。
「でも――」
彼女はひょいと俺のすぐそばヘ飛び降りると、
「安心したよ」
いつ何時も外される事の無かったマスク人差し指で下に引っ張りずらし、鼻同士が触れ
合いそうな程の至近距離から俺の顔を覗き込んだ。
初めて見る上級生の素顔は、意外にも、極めて和風的な顔立ちをしていた。
狐のように細められた目、線の浮き出ないなだらかな鼻筋、窄まったような小振りの唇。
「うんうん、これなら大丈夫だね。今さっきのキミはけっこう危なっかしかったけれど、
これなら大丈夫だ」
そして、とびきりの笑顔。
「ほんっと、イイ目をしているよ」
そりゃどうも。
俺は何事も無かったように先輩の目の前を通り過ぎていく。
彼女の方も気を悪くした風はなく、満足そうに背を向けて帰りはじめた。
今の俺にとって必要な物、興味のある事はここには無かった。
廃ビルの屋上にいた俺の姿をサボっていた途中で見付ける、傘を差してもいないのに水
滴一つ濡れていない女風紀委員も、今の俺にとってはたいして重要なことではなかった。
確かな足取りで歩を進める俺を阻むものは何も無い。
ふと、額を叩く目障りな感触が消えたことに気付く。あれほど降り続いていた雨は、い
つの間にか止んでいた。