驚くべきことに、上条の意識は再び浮上した。
――奇跡、というわけではないのだろう。そんなものはとうにこの右腕に殺し尽くされている。
ステイル・マグナスがうまくやったのか、或いは――
上条は近くも遠くもない距離に立っている人物を意識した。
この場で唯一、平常時の呼吸を保った彼女――食い倒れ巫女こと姫神秋沙のおかげ、なのだろうか。
この状況で、それでも動じている様子はない。感情が枯死しているのだろうか。そんな危惧を抱いた上条の耳朶を、姫神の声が震わせた。
――奇跡、というわけではないのだろう。そんなものはとうにこの右腕に殺し尽くされている。
ステイル・マグナスがうまくやったのか、或いは――
上条は近くも遠くもない距離に立っている人物を意識した。
この場で唯一、平常時の呼吸を保った彼女――食い倒れ巫女こと姫神秋沙のおかげ、なのだろうか。
この状況で、それでも動じている様子はない。感情が枯死しているのだろうか。そんな危惧を抱いた上条の耳朶を、姫神の声が震わせた。
「――どうして」
動揺の意を孕んだ――一般的な感覚からすれば無感情極まりないのだろうが、それでも少しだけ、揺れていることを感じさせられる声で、疑問を投げかけられた。
辺りの血まみれの塾生を――顧みもせず。
ただ姫神秋沙は、上条当麻にだけ、言葉を投げかけた。
「どうして。きみが。ここにいるの?」
そこまでボロボロになって。そんなニュアンスを含んだ言葉に、違和感を覚えつつも上条は思う。
どうしてだろうか。たかが一回、ファストフード店で相席しただけの人物を助けるために、何故自分はここまで必死になってしまっているのだろうか。
噎せ返るほどの血の臭いの中、上条は思う。
インデックスと引き離されないようにするため? それもあるだろう。姫神秋沙を救出することができなければ、今の生活は終わる。『記憶を失った上条当麻』の原点たる、インデックスを悲しませたくない、という思いも、破れてしまう。――だが。
だが、それだけの理由か、と問われれば上条当麻は、上条当麻という名を持った一人の記憶喪失者は、首を横に振るだろう。かといって、突入前に抱いた、漠然とした『助けたい』という思いも、理由としては薄い。
上条が――そう、上条当麻がしたかったことは。
「姫神。手を、出してくれ」
絶えるのではないかとさえ思える呼吸をどうにか繋ぎながら、上条はポケットの中を探る。横たわりながら行うその作業は、目当ての物に指が届くその瞬間まで、上条に酷くもどかしい思いをさせた。
そんな上条を不審に思いつつも、姫神は上条の言葉に従う。躊躇い、そして覚悟を決めたかのように揺らぎなく、ゆっくりと白い手が伸ばされた。
その、伸ばされた手を見て、上条は純粋に、美しい、と感じた。
そして、その手の平に、上条はそれを握った右手を伸ばした。
辺りの血まみれの塾生を――顧みもせず。
ただ姫神秋沙は、上条当麻にだけ、言葉を投げかけた。
「どうして。きみが。ここにいるの?」
そこまでボロボロになって。そんなニュアンスを含んだ言葉に、違和感を覚えつつも上条は思う。
どうしてだろうか。たかが一回、ファストフード店で相席しただけの人物を助けるために、何故自分はここまで必死になってしまっているのだろうか。
噎せ返るほどの血の臭いの中、上条は思う。
インデックスと引き離されないようにするため? それもあるだろう。姫神秋沙を救出することができなければ、今の生活は終わる。『記憶を失った上条当麻』の原点たる、インデックスを悲しませたくない、という思いも、破れてしまう。――だが。
だが、それだけの理由か、と問われれば上条当麻は、上条当麻という名を持った一人の記憶喪失者は、首を横に振るだろう。かといって、突入前に抱いた、漠然とした『助けたい』という思いも、理由としては薄い。
上条が――そう、上条当麻がしたかったことは。
「姫神。手を、出してくれ」
絶えるのではないかとさえ思える呼吸をどうにか繋ぎながら、上条はポケットの中を探る。横たわりながら行うその作業は、目当ての物に指が届くその瞬間まで、上条に酷くもどかしい思いをさせた。
そんな上条を不審に思いつつも、姫神は上条の言葉に従う。躊躇い、そして覚悟を決めたかのように揺らぎなく、ゆっくりと白い手が伸ばされた。
その、伸ばされた手を見て、上条は純粋に、美しい、と感じた。
そして、その手の平に、上条はそれを握った右手を伸ばした。
戦闘を終えたステイルは、いつものように煙草に火をつけた。タールとニコチンのない世界を地獄と言う、などといつも口にしているステイルにしては珍しく、気の乗らない一本だった。
煙草を覚えたのはいつのことだったか。覚えてはいなかった。ただ、そのきっかけだけは覚えている。
――この煙はな、死者への手向けなんだ。
それは、かつて共に仕事をした、中年の魔術師が言った言葉だった。彼が何を思ってそんなことを口にしたのかは覚えていない。今にして思えば、彼が十字教の信徒だったかどうかすら、怪しいものだ。――しかし。
しかし、いつの間にかステイルは煙草を吸うようになっていた。戦闘という区切りを終えた後に、一本。勿論それ以外のときも煙草を吸うのだが、ステイルにとって、戦闘後の一本は特別だった。愛煙家に感化された。言ってしまえばそれだけなのだろう。だが、ステイルはそれでも、喫煙という習慣を続けている。
ちょうど、煙草の箱が空になった。目の前の黄金に背を向けると、自動販売機が見えたので追加で買っておこうと思った。タールとニコチンのない世界は地獄だ。彼も言っていたその台詞を呟きながら財布を取り出す。当然のように十字を施されている財布から硬貨を取り出そうとして、ステイルは舌打ちした。
足らなかった。ステイルの所持金は決して少なくはなかったが、それらの多くは一万円札だ。滞在時の経費として支給されたのだから不思議はない。しかし、ステイルは予め煙草代の分の小銭を用意していた。だというのに――足りない。ステイルは、記憶を辿った。そして、思い出す。
自らの疑問に納得のいく回答を出したステイルは、財布を仕舞い、歩き出す。そもそも、学習塾の自動販売機で、煙草は売っていないだろう。そんなことにも、思い至りながら。
ステイルは加えていた最後の一本を、半ばまで吸った後で先端の火を揉み消した。
――ステイルに煙草を教えた中年の魔術師は、その仕事の際に死んでいた。
煙草を覚えたのはいつのことだったか。覚えてはいなかった。ただ、そのきっかけだけは覚えている。
――この煙はな、死者への手向けなんだ。
それは、かつて共に仕事をした、中年の魔術師が言った言葉だった。彼が何を思ってそんなことを口にしたのかは覚えていない。今にして思えば、彼が十字教の信徒だったかどうかすら、怪しいものだ。――しかし。
しかし、いつの間にかステイルは煙草を吸うようになっていた。戦闘という区切りを終えた後に、一本。勿論それ以外のときも煙草を吸うのだが、ステイルにとって、戦闘後の一本は特別だった。愛煙家に感化された。言ってしまえばそれだけなのだろう。だが、ステイルはそれでも、喫煙という習慣を続けている。
ちょうど、煙草の箱が空になった。目の前の黄金に背を向けると、自動販売機が見えたので追加で買っておこうと思った。タールとニコチンのない世界は地獄だ。彼も言っていたその台詞を呟きながら財布を取り出す。当然のように十字を施されている財布から硬貨を取り出そうとして、ステイルは舌打ちした。
足らなかった。ステイルの所持金は決して少なくはなかったが、それらの多くは一万円札だ。滞在時の経費として支給されたのだから不思議はない。しかし、ステイルは予め煙草代の分の小銭を用意していた。だというのに――足りない。ステイルは、記憶を辿った。そして、思い出す。
自らの疑問に納得のいく回答を出したステイルは、財布を仕舞い、歩き出す。そもそも、学習塾の自動販売機で、煙草は売っていないだろう。そんなことにも、思い至りながら。
ステイルは加えていた最後の一本を、半ばまで吸った後で先端の火を揉み消した。
――ステイルに煙草を教えた中年の魔術師は、その仕事の際に死んでいた。
上条は、姫神の手に自らのそれを重ね――ずに、その手の平に、ある物をのせた。
――百円の、硬貨だった。
「貸してくれ、と言っていただろう?」
意図してか否か、上条は本来被るべき『上条当麻』という人格を模倣することもせずに、静かに笑ってそう言った。
そう、上条はこのために、姫神に百円を貸すために、三沢塾へとやってきたのだ。
そのために、ここへくる途中にステイルから百円を借り、今ここで血まみれになっている。
上条は今、そう言い切ることができた。
姫神はそんなことが理由であると考えもしなかったのだろう。呆然としている。
そんな姫神を見ながら、上条はここに至るまでを思い出して笑う。
家に帰ったときに取ってくればいいものを、ちょうど百円の硬貨がなかった、というだけで諦めたり。
それでもどうしても必要だからと、道中でステイルに頼み込んで百円を借りたり。
百円硬貨のために、どれだけ苦労をしているというんだろう、自分は。
自身に対する呆れを感じながら、それでも『記憶を失った上条当麻』は満足だった。
意図してか否か、上条は本来被るべき『上条当麻』という人格を模倣することもせずに、静かに笑ってそう言った。
そう、上条はこのために、姫神に百円を貸すために、三沢塾へとやってきたのだ。
そのために、ここへくる途中にステイルから百円を借り、今ここで血まみれになっている。
上条は今、そう言い切ることができた。
姫神はそんなことが理由であると考えもしなかったのだろう。呆然としている。
そんな姫神を見ながら、上条はここに至るまでを思い出して笑う。
家に帰ったときに取ってくればいいものを、ちょうど百円の硬貨がなかった、というだけで諦めたり。
それでもどうしても必要だからと、道中でステイルに頼み込んで百円を借りたり。
百円硬貨のために、どれだけ苦労をしているというんだろう、自分は。
自身に対する呆れを感じながら、それでも『記憶を失った上条当麻』は満足だった。
――何故なら、姫神が傍から見てそれと分かるほど、表情を変えていたのだから。